ずず、と紅茶を啜る音
小鳥の囀り。
「…ん…」
ぼんやりと目を覚ましたサヤは、顔を伏せていた机に散らばる資料を見て溜息をついた。
昨日の資料を作成している間に寝てしまったらしい。すっかり乾いた羽筆の先を指で擦りながらあくびをする。と、肩から何か温かいものが滑り落ちた。
「毛布…?」
誰が掛けてくれたのだろうか。だんだんと醒めてきた頭で昨日の事を思い出す。確か…提出資料を完成させる為に前回の担当をしていたナナバに声をかけ、図書室で手伝ってもらったのだった。しかし今周りにはぎっしりとした本棚が並ぶばかりで、彼の姿はどこにもない。きっとこれをサヤに掛けて自室へ戻ったのだろう。
サヤは視線を戻して紙を束ね始めた。大方昨日のおかげで片付いた為、後はエルヴィンに許可と印を貰うだけ――。
(はぁ…)
だがサヤの心は最高に重い。もう一度つきそうな溜息を振り払うように椅子から立ち上がれば、目の前にある人影に思わず声を上げそうになった。
「ナナバさん、」
「やあ、おはよう。ごめんね驚かせたみたいで」
苦笑いを浮かべて手を上げるナナバは、少しやつれている。
「…昨日はありがとうございました、ナナバさんも忙しいのに。よく眠れましたか?」
「どうって事ないよ、ろくに引き継ぎをしてやれなかった私が悪いんだ。それで?今からエルヴィンの所かい」
「はい。その後すぐに外出します」
「キース教官には久々に会うことになるね」
「そうですね…」
勧誘式の資料は各訓練兵養成所に渡しに行かなければならないのだ。その為自分が配属された訓練所にも赴く事になる。目を見開き怒鳴る教官の姿を思い出して、サヤは無意識に肩を竦めた。
そんな姿を面白がるように笑う表情さえ、ナナバの場合は朗らかで恨みようがない。
「じゃあ、私はこれで。ナナバさんは図書室に用事でもあったんですか」
「うん、遅刻しそうな君を起こしにさ」
「え?」
「エルヴィンとリヴァイ、今日は朝から内地に向かうんだ。大事な会議があるみたいで。だから早く証印貰わないと間に合わなくなる」
「…そんな大事なこともっと早く言ってください」
恨みがましく呟いたサヤは、またクスクスと笑うナナバの横を通って出口へと急いだ。部下で可愛いからとからかうのは良いが、場合によっては憎たらしい。まぁ、今回は知らせに来てくれただけ有難い。
扉まで辿りつきドアノブを握ったサヤは、思い出したように後ろを振り返った。
「あと、その毛布ありがとうございました」
そう言ってドアを閉める。
団長室へ急ぐサヤには、何の事?と首を傾げるナナバの姿は見えなかった。
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軽く走って部屋の扉の前で立ち止まる。この一枚壁の向こうにエルヴィンがいるのだと思うとやはり嫌な汗が首を滲ませた。と言っても今は急いでいるので足踏みしている余裕はない。
「失礼します。サヤ・アンドレアです。資料の検印をいただきに来ました――」
どくん、ドアの隙間から見えた光景に胸が怯む。
そこには中央の机に腰掛けるエルヴィンと、冷たい視線でサヤを突き刺すリヴァイの姿があった。実際本人に睨んでいる自覚があるのかは分からないが。
「…すみません、お二人が朝から出掛けると聞いたもので。急ぎ確認をお願いします」
「やあ、サヤ。丁度出ようとしていた所だったんだ。入ってきたまえ」
それを合図に扉を閉じてカツカツとエルヴィンの元へ向かう。暖炉の横のソファで紅茶を飲むリヴァイは静かにその姿を見つめていた。視線には気付いていても、サヤは知らないふりをする。
机に資料を広げた。無言で内容を流し見るエルヴィンを邪魔しないように、口を閉じる。ずず、とリヴァイが紅茶を啜る音。それ以外にしたい仕事上の会話も世話話もない。ただ早く退室したいと望むサヤへ、やっとエルヴィンが顔を上げた。
「問題は無さそうだな」
引き出しから印鑑とペンを取り出して確認の欄にサインする。これで資料は完成した。後は今日中に各訓練所に配布するだけ。
「では、失礼します」
そう言ってドアノブに手を伸ばしかけたところで、エルヴィンがサヤを呼んだ。
「ところで、巨人の生捕り作戦は順調か?」
そう尋ねられる。最近は忙しいためか滅多に二人に会わないらしい、愚痴っていたハンジを思い出して苦笑いをした。
「ソニーとビーンの事ですか…」
「そんな名前になったのか」
ハンジらしい行動にエルヴィンの頬が緩んだ。サヤは毎回ハンジの実験に付き合わされている為、泣きながら名前を叫ぶ彼女のせいで嫌でも覚えてしまっている。
「順調ではありますが、既知の結果しか得られていません。新しい情報はまだ…」
「いや、いいんだ。焦ることはないからな。元気そうで何よりだ」
「せいぜいアイツが死に急ぐのを見守っておけ」
「……」
リヴァイが仏頂面で吐き捨てる。それにも優しさがある気がして、サヤはただ何も言えずに頷いた。
(ハンジさん、想われてるんだな)
外で稽古をする兵士達を眺めながら廊下を進む。
どれくらい長い付き合いなのかは分からないが、彼らに信頼関係があるのは一目瞭然で、そこには他の人間が入りこめるような場所はないと皆が悟っていた。地位が高いからではなく、彼らは信頼で成り立っているのだ。特にエルヴィンとリヴァイの間の関係は、並の兵士には考え及ぶことさえできない、そんな信頼関係があるのだろう。
なんて…ずっと昔に同じような事を考えた気がする。
「はぁ、なんせ今日は頑張らないと」
サヤは束ねた厚い資料を抱えて深呼吸をした。
今日は長い一日になるはずだ。