穏やかな一日の終わりに


思い出せるのだろうか。

しょっぱい海水の味や、高層ビルに反射する日光、土の芳しい匂いに電線に区切られた遠い空。暑い砂浜を歩いて眺めた地平線を、思い出すことが出来るのだろうか。

きっといつだって思い出せる。
だってこの世界は残酷で、美しくて、悲しい。

私はそんな世界で海の光景を知っている分幸せなのかもしれない。

ただ、ひとつだけ。
いつかそれに触れることは―――。




::::

暖かで疲弊する一日の終わりに、その声達は賑やかに響いてきた。

「だーかーら!あんなタイミングで突っ込まれたら連携が取れないの!!独りよがりな訓練だったじゃない!いい加減にしてよっ、聞いてるのオルオ!」
「フッ…俺に説教とは随分と成長したなペトラ。だが今日の活躍はまあまあと言ったところか…」
「お前のせいで誰一人連携が取れなかったんだよ」
「単独行動は命取りになるぞ」

ぞろぞろと食堂へ入ってくる彼らを認めて、サヤは作業中だった資料の整理を切り上げる。
気付いた部下の四人は気まずそうに姿勢を正し、苦笑いをしながらこちらへ向かってきた。

「お疲れ様、みんな。今日の訓練は何かあったみたいね」
「そうなんですっ聞いてくださいよ班長!オルオが事前に打ち合わせした連携を無視するせいで全く訓練にならなかったんです」
「殆どダミー壊してたもんな。試験じゃあるまいし…」
「お前らがちんたらしてるからだろうが」
「作戦だって言ってるでしょ!?」

眉を寄せながら席についた彼女はペトラ・ラル。二年前に調査兵団に入団した兵士で、亜麻色の髪に可愛げのある整った顔立ちとは裏腹に、驚くほどの戦闘能力がある。
彼女の怒りの矛先はオルオ・ボザド、老け顔だが十代後半の兵士に向けられていた。

どうやら連携を取ろうとしないらしい。それに怒っているペトラの隣に座った同期のエルド・ジン、グンタ・シュルツも呆れ顔で二人を見守っている。

「そういえば、資料作りは終わったんですか?」

サヤはエルドの問いに緩く首を降った。

「まだなの。直接団長にも聞かないといけないところがあって…でも、そろそろ終わらせなきゃね」
「あ、そういえば先日104期生の解散式があったんでしたっけ?」

解散式があれば当然新兵の勧誘式が行われる。それに向けての資料作りを忙しいエルヴィンや幹部の代わりにしなければならなかったのだ。
おかげで部下の指導には手が回らず、人がいない時だけは静かな食堂で休まず働いていた。

下を向きすぎて凝った首を叩く。
周りを見れば他の兵士達も夕飯を食べに集まってきていた。

「おーい、サヤ!」
「ハンジさん」

満面の笑みで研究室から戻って来たらしい、ボサボサの髪に印象的な眼鏡で両手を広げた彼女が走ってくる。
ハンジは抱き上げんばかりにサヤを抱きしめた。少し埃臭い。

「資料は捗ったかい?エルヴィンが勧誘式の補佐にサヤを指名したってナナバから聞いたよ」
「あとちょっとですかね…。意外と大変なんですね。忙しいナナバさんに引き継ぎ頼むのも気が引けるし」
「彼ならいつでもアドバイスしてくれるよ。丁度担当していた班も解散したところだし。また昔みたいに顔を合わせられるんじゃないかな……エルヴィンがまた雑用を押し付けるようにならなければ」

ナナバがサヤを指導していた時期が懐かしい。

彼は誰よりも褒めて調査兵の立体機動技術を伸ばすのが上手く、その柔らかな雰囲気からみんなに慕われていた。
もちろんサヤも例外ではないが教えてもらった日数は圧倒的に少ない。当時は人員不足を極めていたのだ。幹部は手分けして地方へ赴き、経費の交渉や企画会議などに参加していた。
そのシワ寄せが今年サヤにも来たのだ。

「まぁ無理はしないこと!」

その一言でハンジは抱きついていた手を放した。配られた夕食を食べ始める。
席についていた皆も一斉にフォークを掴んだ。ならってサヤも食べ始める。
いつもと変わらないお決まりの献立…とも言い難い食料。質素なそれにはすっかり慣れてしまったが、貴族の生活をしていた頃と比べるとかなりの差があるのは明らかだ。豪華な食器がずらりと並ぶその光景の先に浮かぶのは。

―――ハンス…。

手は止まり、綺麗な兄の姿を思い描いた。血は繋がっていないけれど、今でも家族として大事な存在に変わりはない。
あの夜の出来事から暫く経った日から、彼の顔が忘れられず思い立ったように手紙を送り出したが、数日しても返事が返ってくる気配はなかった。アンドレア家の名を背負い忙しい日々を送っているのだろうか。貴族としての仕事が面倒なことは、父を見ているサヤも知っている。
けれどもいつか返事が来ればと、とりとめのない内容を息を吹き込むように綴るのだ。訓練に明け暮れ離れていようと、サヤはいつも兄を案じて、想っている。

一方のエルヴィンはあの日を忘れてしまったかのように、恐ろしいほど普通に、サヤに接していた。泣き疲れて目を覚ましたサヤを迎えたのは微弱な朝日と変わらない日常だった。
エルヴィンとリヴァイは前日の出来事に触れない。社交界はどうだったかと尋ねてきたハンジにはだから曖昧にしか答えられなかった。バラされたくないのは此方の方なのだ。

それから何事もなく時日だけが流れ、組織としてそれなりの立場になり、ペトラやオルオ達と出会い、今日の空気を吸っている。
壁外調査で何度も命を危険に晒してきたが、それ以外は平穏な日常と平凡がサヤの剥き出しになった警戒心を埋もれさせていった。

ハンジや部下であるペトラ達といるのは楽しいのだ。いくらリヴァイやエルヴィンを疑っていても。それにここ以外に居場所はない。

「班長?どうかしたんですか?」
「んー…考え事」
「よくあるよね、サヤが抜け殻になるの」
「ないですよそんなに」

ハンジに誂われ口を尖らせて食事を再開するサヤに、皆はからからと笑った。



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