化け物


 早朝、瀬亜が対処した低級呪霊と今回の討伐対象は不一致だったとの報告が高専の元に下された。
 先に職員室に呼び出され、夜蛾からその知らせを聞いた瀬亜は特段驚いた様子をみせず、潜入調査を続行すべく制服を着替えて高専を後にした。

「瀬亜…!大丈夫だったの」
「うん、心配かけてごめんね」
「ホントよ!生きてるか死んでるかくらい返信しなさいよね」

 青褪めた顔で瀬亜へ飛び掛かかるリコに、夏油へ連絡してくれたことの礼を言う。そんなのどうでもいいわと一蹴された。昨日はあのまま大量の着信や未読メッセージを放置したものだから、リコの反応は御尤もだ。が、疲れていたので許して欲しい。

「落ち着けバカ、安否確認できたんだから良いだろ」

 肩を乱暴に揺さぶるリコを、ミヅキが手荒に引き剥がす。

「ていうか大丈夫なのかよ、昨日の今日で。無理してないの」
「平気だよ。なんていうか…早く、二人の顔が見たくて」

 ぽつりと呟いた言葉は、出席簿を手に教室へ入る教師の号令に掻き消される。瀬亜は賑やかだった生徒がぞろぞろと席につく光景をぼんやりと眺めた。
 いつもの風景。仮初の日常。
 昨日色々なことがあったとは思えないほどに、今の瀬亜の心は静かだ。いつもの空腹感が殆どないから、最強の男の血を無慈悲に吸い上げたせいだろうか。…それともただ悲観しているだけか。

 ガラスの破片で怪我した指がチリリと痛む。
 昨日から五条悟の血とはまた別の、不穏な気配が体内にいるのを感じていた。背後に居座り冷ややかに刺してくるような、肌を掻きむしりたくなるような視線が“有る”。その不快感は結局、放課後になっても収まることを知らず、瀬亜の身体を蝕んでいった。

「今日さ、また開拓したいレストランがあるんだけど行かない?」

 靴箱を抜け踵を整えていると、いつもの調子でリコがそう言った。ミヅキが瀬亜を気遣い止めに入ろうとしたのは一瞬で、伺うようにこちらを見てくる。二人とも昨日のことで聞きたいことが沢山ある、と言いたげな顔だった。

「…ごめん。今日は」

 沈んだ返事に、二人の肩が竦められる。そうだよな、と相槌が返ってくるなり、リコ達はそのまま帰路を歩き出した。

「? ……どうしたんだよ、突っ立って」

 やがて瀬亜が付いてきていないことに気づいたミヅキが振り向いてそう言った。喉の浅いところで言葉が詰まるような感覚。やっとの思いで出てきた嘘は、不自然に明るいトーンで上塗りする。

「また忘れ物しちゃったみたい。電車まで時間ないから、先帰っててくれない?」
「またぁ?」
「お前、忘れ物多くね」

 呆れたように顔を歪める二人組に苦笑いがこぼれる。しかし、すんなり受け入れてくれると思った申し出は「だめ」と素気無く却下された。

「瀬亜、今日なんだか様子おかしかったぞ」
「うんうん。具合悪いなら尚更ウチら送るし。ちゃちゃっと取ってきな」

 払うように手を振るリコに、瀬亜の顔が強張る。

「いや……あ。あの今日、夏油さ…傑達が迎えに来る予定で」
「…あぁ、なるほど。あの人達なら立派なボディーガードだもんね」
「そんな用事があったんなら最初から言えよ。歯切れ悪すぎ」

 苦し紛れに絞り出した言葉に彼らが納得したように頷くのを、瀬亜はホッとして眺めた。じゃあな、とまばらに手を振り解散していく後ろ姿を目で追いかける。程なくして踵を返そうとした瀬亜はしかし、再び歩みを止めて振り返った二人に首を傾げた。

「どうしたの? 二人とも」
「…いや、本当に大丈夫なんだな」

 不服そうに唇を突き出すそれに驚いたのは一瞬で、瀬亜は困ったように笑顔をみせる。手を振れば、渋々と道を下っていった。昨日と同じ光景。後ろ姿。思わず呟きそうになる言葉を飲み込んで「またね」と零してみる。寂しげに響いたそれは、諦めにも似た何かだった。



 通学鞄の携帯が忙しなく震えている。
 知らない道を無心に歩き続け、気付けば辺りはすっかり暗くなっていた。ぽつぽつと横切る通行人は瀬亜に見向きもせずに家路を急いでいる。

 一旦止んだバイブレーションが再び鳴り出した。取り出して、待ち受け画面をぎっしりと埋める通知を確認すれば、やはり硝子達だ。

 ―――お前、今どこ。

 着信履歴の合間に見えたその一言。動きが静止したのも一瞬で、瀬亜はスマホの電源を切り鞄へ乱雑に押し込んだ。
 視界が狭くなるような焦燥感に息を吐けば、街灯の向こうに小さな公園が見える。

 決着をつけなければならない。

 瀬亜は苦しさに喘ぎながら思った。このままじゃ、思考に寄生されてしまうのも時間の問題だ。

 瀬亜は誘われるように風音ひとつしない公園に足を踏み入れた。なんとも噂の一つや二つはありそうな雰囲気を醸し出す錆びた遊具が見てとれるが、呪霊の気配は無さそうだ。
 それらを一瞥して、迷わず公衆トイレに立ち入った。特有の湿った空気のなかに、ローファーシューズの靴底が鳴る。

「呪霊。あなたと話がしたい」

 静かに発したその言葉は、数回反響して消えた。黙ったまま更に足を進めれば、二つ目の個室に近づいたところで手洗い場から笑い声がする。

『――どうして皆の所に帰らないの?』

 心底愉快そうな声だった。
 振り返れば、自分と全く同じ姿をした少女が、鏡の中で口角を上げている。ただその細められた瞳には、一切の光を湛えていなかった。

「昨晩、気分の悪い幻覚を見せたのはあなたですか」

 問いかけに、それは幼い表情を作って首を傾げて見せる。

『何言ってるの。全部あなたの本性でしょうに』
「……本性? あんな化け物紛いの感情が、私の本性ですって」
『自覚があるからこんな所に逃げ込んでいるんでしょう? 帰れないものね、極上の餌がウロウロしてると』
「ッ…! あなた、本当に、黙って…」

 胸を抉られるような嫌悪感に声を荒げれば、鏡の中の自分は満足そうにカラカラと嗤った。握り締めた拳をぐっと開いて、思考を鈍らせまいと浅く呼吸する。対峙して判った。瀬亜が高専の命で追っていた呪霊は、コレで間違いない。


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