鏡の中の自分


「あなたを祓う」

 淡々と宣言した瀬亜に、ソレは瞬く間に不自然な笑顔をやめてこちらを見据えた。無表情を貼り付け睨まれれば、身体が首筋から氷のように凍てついていく。

「……一連の生徒の自殺事件、あなたの仕業ですよね。マーキングした人間の内側に寄生する呪いで、発動条件は…恐らく鏡が割れること」

 古来から鏡には霊的な伝承が多く、特に割れた鏡は不吉の象徴とされる一方で、禍や身内の死などの不幸から身代わりになった証だと伝えられてきた。

「ーーあなたは後者。魔除けの効力を失った鏡を媒体に人を呪っているんでしょう」
『それが?』

 静かに問い詰める少女の声に、嘲笑を孕んだ同声が被せられた。呪霊は先程の冷気を引っ込めてクスクスと肩を震わせる。
 その、感情を逆撫でするような響きに背筋が泡立って、瀬亜は思わず眉を顰めた。

「今までの呪霊が見えない被呪者たちは、昨晩と…さっきのように自己嫌悪や心の弱みを煽動して自害に誘い込んだんですよね。その間接的な手口から察するに、あなた自身の呪霊としての力はとても弱いとみえる」

 挑発するように声を張って、鏡の中のそれを睨みつけた。
 本当は“弱い”だなんて大嘘だ。人間と同等の言葉を操る時点で、呪霊の階級は特急に匹敵している。とっくの昔に今に撤退して教師の指示を仰ぐべきだったのだ。分かっている。そんなことは分かっているのに、沸騰した思考がそれを許さない。

 沈黙。
 瀬亜は冷ややかに刺される視線を受け止めた。この呪霊が少しでも取り乱してくれれば、隙くらい見つかるかも知れない。

 ―――アハハハハハ…!

「っ」

 そう呪力を右手に引き出そうとしたところで、突然呪いが奇声を上げた。

「なにが可笑しいの」

 呪力を纏った掌を強張らせながら問う瀬亜を他所に、それは悦に浸った表情で天井を仰いでいる。

『――私のせいにしたいんでしょう? 私を否定したくて堪らないのよね? あんな醜い感情が自分の本性だなんて信じたくない…だから早く身体から私を追い出したくて一日中うずうずしてた』
「は……?」
『あら違う? 図星だからお家に帰れないんじゃなくて? 腐敗した呪霊の血なんかと違って、アノ人の味は我を忘れて吸い尽くしたくなるほど美味しいものね?』
「ァ……嫌、やめて」

 毒霧のように漂ってきた、心当たりのある香りにビクリと肩を震わせる。
 幻覚だ。惑わされてはいけない。気が触れたら捕り込まれる。頭では判っているのに、口を覆う手からは唾液が滴り落ちる。

「そんなの、まるで、化け物じゃない」

 胸を締め上げるような、今にも泣きそうな声だった。震える右手で鏡に手を付いた瀬亜は、譫言のように呪文を唱え始める。

『私を倒せばその衝動から解放されるとでも思ってるの?』
「煩い」
『言ったでしょう。それはあなたの本性で、一生逃げる事は出来ないのよ』
「煩い…!!」

 バリン、と鏡の破片が頬を無数に刺した。
 一気に呪力を放出した反動で眩暈がする瀬亜の視界に、罅だらけに歪んだ自分の顔が写る。
 それでも消えない。理性を焦がす匂いが。内側の感覚が。嘲笑う声が。

 “もう分かったでしょ?お前は私に勝てないよ。大切な人を、自らの手で干涸びるまで嬲るの。ほら……美味しそうな餌が来たよ…”

「―――瀬亜」
「っ!?」

 その声に、瀬亜は血だらけの手を引いて振り向いた。月光に立つその男の影が、足元まで長く続いている。

「五条さん…、どうして此処に」

 “美味しい餌”
 耳を犯す残響に思わず硬直する。そうだ、これは幻覚だ。騙されてはいけないと、瀬亜は近づく五条を遮るように右手を翳した。

「オイ家出女、何の真似だよ」
「近づかないで下さい…」
「ハァ? 何の為に探し回ったと思ってンだ。さっさと帰んぞ、硝子達が心配してる」
「やだ、来ないで下さい。もう消えて…消えてよ!!」

 お願いだから、じゃないと、頭がおかしくなってしまう。
 再び呪力を振り絞って攻撃しようとした瀬亜の両手を、いつの間にか五条が拘束していた。手首を掴む感触が現実だと認識した途端、膝から力が抜けて崩れ落ちる。大きく目を見開いたそれを、碧眼が覗くように観察した。そこに居んのな、と呟いた気がした。

「馬鹿、落ち着け。お前の身体は呪力を使い切ったら死ぬんだろうが。ソイツの思う壺なんだよ」

 優しい手つきで瀬亜の頬を包んで血を拭ってやると、小刻みに震えるそれが拒絶するように胸を押し返す。

「駄目、なんです、五条さん…帰れない…」
「なんで?」
「私じゃ、勝てません…。人の血なんか吸いたくないのに、止められない…。飲めば飲むほど渇いて、死にたくなるくせに…っ」

 ポロポロ零れる大粒の涙が頬をなぞり、血が滲んで床に落ちた。衰弱した呼吸と痛々しい右手の怪我を認めて、五条は辺りを見回す。

「いつものペンダントは? 何処にある」
「……ないです。昨日荷物を返してもらってから、部屋に置いたまま」

 そのくぐもった返事に、五条の眉が吊り上がるのがわかった。

「俺、アンタのそういうところめっちゃ嫌いだわ。高専戻るぞ。医務室に連れてく」
「や、だ」

 抵抗する手首を痛いほどに掴んで、床から引き剥がすように瀬亜を引っ張る。力も残っていないくせに嫌がるそれが腹立たしくて、五条は思わず語気を荒げた。

「まだ心のどっかで死んでもいいと思ってたんだろ。ふざけんなよ。これ以上駄々捏ねるんなら、この場で俺の血飲ませるからな」
「っ…わ、分かってない、五条さんは」
「ア? 分かるかよお偉い倫理観なんて」
「傷付けたくない…理性を失ったら何をするか……。鏡の中の自分は正直なんです。貴方からはいつも抗えない甘い匂いがするんです。他の人には無い――」

 殺したくなるような。
 絶望したようにそう呟く瀬亜に、五条は動きを止めた。しかし口を開こうとした男の声は、駆け寄ってくる男女の声に遮られる。

「瀬亜…ッ!!」
「え……?」

 瀬亜は呆然とした。
 どうして…。どうして二人がこの場に居るのか、理解が追いつかなかった。

「お前ら、呪霊がいたら面倒だから入ってくんなっつっただろ」
「リコ…? ミヅキ…? どうして、何して」
「コイツらも一緒に探すって聞かなかったんだよ。傑がお前の行方に心当たりないか連絡しちまったから、隠すのも厳しくなって」
「そんな、じゃあ、さっきのも全部聞いて…」

 みるみる真っ青になっていく瀬亜を、抱きついていたリコが顔を上げて静かに見つめる。隣に立ち尽くすミヅキは、今までに見せたことのない、複雑な顔で俯いていた。

「瀬亜…ウチ、腹が立ってる」
「ァ…っごめんなさい、嘘付いてて。ほ、本当は私、呪いを見つける為に二人に近づいて」
「そうじゃない。そうじゃなくて、大事な友達を引き止めなかったことに、凄く腹が立ってるの…!」

 そう言うなり、リコは化粧も構わず顔を歪めて泣き喚いた。悲痛な嗚咽を零すそれを呆然と見つめていると、横にいたミヅキが瀬亜の頭をゆっくりと撫でる。

「…後悔してんだよ、俺ら。昨日も今日も、嫌な予感してたのに何も言わなかったし、聞かなかったんだ。瀬亜達の世界?っていうのは説明されてもよく分かんなかったけど、お前からちゃんと話聞いて、本音で話し合うことは出来たと思うんだ」
「そんな…隠してたのは、私なのに」
「だとしても、悩んでる奴がいたら側にいるのが友達だろ」
「友達…?」
「そ、だから二人で迎えに来た」

 血が滲む涙を拭ったそれが、手首を掴み力強く瀬亜を立ち上がらせる。

「術師とか呪いとか、説明は取り敢えずいいからお前の居場所に帰れ。そんで、落ち着いたら絶対連絡しろよ。自然消滅とかされてやる気ないからな」
「っ」

 そう言って、ミヅキはふらつく瀬亜の身体を五条に押し付けた。驚いて動けない間にその長い腕が優しく肩に回されれば、急激に眠気が襲ってくる。

「帰るぞ、瀬亜」

 耳元で溶ける低い声に、思考は深い黒へと沈んだ。


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