罅割れた鏡


 意識を手放し完全に脱力する瀬亜の身体を抱いて、五条は悶々とした顔で寮の廊下を突き進んでいた。

「瀬亜…!」

 足音を聞きつけた家入と夏油が、共用スペースにある椅子から立ち上がり此方へ走ってくる。

「無事だったのね…」
「傑、犯人は」
「警察から連絡があった。悟が送ってきたビジネスホテルの住所周辺で不審な男を捕まえたらしい。顔が酷く腫れていたと」
「ソイツ」
「判った。私は瀬亜の友人にも報告をしてくるよ。今頃とても心配しているだろうから」

 そう言って携帯を片手に別の部屋へ入る夏油を見送っていれば、腕の中の少女が無防備に唸った。

(このやろ……)

 別に瀬亜が悪い訳では無い。けれど身体の火照りを解放する機会を失い、強制終了させられた一室での場面が蘇っては瀬亜を憎たらしく思えてしまうのだ。
 あの後、自分がどんな気持ちで服を着せてやったと思っているのか…。

「どうした悟。何故この子を睨んでる」
「生殺しに、されました」
「はぁ?」

 訳がわからず残念な男を見るような目を向けてくる硝子。その視線を無視した五条は、瀬亜を安静にさせるべく女子寮へと歩み出した。


::::::

 視界がぼやけている。
 水面のように、二重になる世界がようやく輪郭を帯びた頃、瀬亜は眩しげに目を細めた。

「具合はどう?」

 寮の自室の天井と共に、短く揺れる黒髪が視界に入る。硝子の声に反応して、瀬亜は不思議そうに顔を傾けた。

「どうして、私の部屋…」
「悟が運んでくれたんだ。お姫様抱っこでな」

 その名前と同時に、自分が知らない男に連れ去られたことを思い出して上体を起こす。

「五条さんは?」
「アイツなら自室に戻ったんじゃないか。もう遅いし。……というか、様子が変だったな。何かキリキリしてたと言うか、ギラギラしてたと言うか」
「きり…ぎら…?」

 的を得ない説明に眉を顰めた瀬亜はしかし、硝子の「悟と何かあった?」という質問に身体を硬直させた。

 もたれる程に甘い血の香り。
 意識が混濁してはっきりとは覚えていないが、五条から無情に血を吸い上げた匂いと感覚だけは脳に焼き付いている。

「…」

 気が付けば自分の唇に触れていた。
 いつも傲岸不遜に吊り上げられている男の薄い唇は、自分のそれと交わった時だけは戸惑いに震えていた。

 けれどそんなのは一瞬で、何がそうさせたのか瀬亜を押し倒した五条は貪るように口付けを深くしていったのだ。あらぬ所を弄られた記憶もある。

「ちょっと、顔赤いけど」

 そんな硝子の声に我に返った瀬亜は、素早く手を膝の上で握り込んだ。
 そう言えば、と口を開いた幼馴染へ誤魔化すように顔を向ける。

「瀬亜を襲った男、例のストーカーで間違い無かったらしいよ。傑がリコちゃん…?に確認取ったって」
「そう…そっか、良かった」

 これで彼女が通学に怯えることもないだろう。そう安堵し笑う瀬亜を優しく見つめていた硝子は、徐にベッドの側の椅子から腰を上げる。

「じゃあ私は部屋に戻るから、今日はもう休め。…あと、“そっち”の友達に明日にでも連絡入れてやって。瀬亜が行方不明になって相当心配してたから」
「…うん」

 リコとミヅキにも心配を掛けてしまっていたのか。
 眉を下げて素直に返事をする瀬亜に頷いて、硝子はドアへと向かっていく。

「硝子」

 しかし気付けばその背中を呼び止めていた。顔だけ振り返るそれに、「あのさ…」と頼りない声で繋ぎ止めることしか出来ない。

「……ごめん、何でもない」
「あそ」

 終に何も言わず首を振ったそれを暫く見つめていた硝子は、気にした様子もなく部屋を出ていった。

 静寂と二人きり。
 すっかり夜の帳が下りた窓の景色を眺めて、深い溜息を吐き出す。
 長い一日だった。結局、あの低級に相当する呪霊が本命だったのかも分からない。明日になれば調査結果が上から回ってくるだろうか。もし結果が本当に今回の標的だったのならば、リコ達とはお別れになる。

(突然だからまた心配かけるかな…)

 そこまで考えて首を振った。任務を受けるにあたり予め、遂行時には“両親の急な転勤”という形で転校扱いにされると夜蛾から言われていたことを思い出したのだ。
 寂しいという感情は抱いても意味がない。瀬亜の体質では、住む世界を選ぶことはないから。

「ん……」

 ゆらゆらと巡る思考も、やがて睡魔に包まれていく。

 長い一日だった。そんな感想をもう一度夢心地で呟いた瀬亜は、沈むように意識を手放そうとした。

――“オイシイ…美味シ、ィ…”

「ッ!?」

 突然、不快な声色が脳内に再生される。
 まるで黒板を爪で引っ掻いたような不気味な声に勢いよく立ち上がった瀬亜は、探るように部屋を見渡した。

「誰」

 疲れで鈍る感覚を無理に研ぎ澄ませば、不意にドア付近の洗面器から笑い声が飛んでくる。
 カラカラと響く音に大股で近づいた瀬亜はその瞬間、鏡に映る何かに蒼然とした。

“足リナイ…喉ガ渇クノ…”

 そこには紛れもない自分が、目を見開いた表情でこちらを見ているのだ。
 驚きのあまり声が出ない瀬亜を他所に、鏡の中の自分は尚も脳内をぐちゃぐちゃに掻き回す。

“呪霊ノ血ナンテ、モウ懲リ懲り……本当は術師の血が飲みたいのよ…”

 低く苦しそうに絞り出す声の主から、一筋の涙が溢れる。…違う、血だ。もっと真っ黒な、血液だった。

(やめて…)

 吐き気を催し口を押さえた瀬亜は、自らの喉から込み上げた液体を洗面器に吐瀉する。

 真っ赤な血。

 しかし無味のそれから幻覚だとすぐに悟って、気を確かに保とうと必死に歯を食い縛る。呑まれてはいけない。なのに思考が易々とガラスの中へ絡め取られていくのが判った。

“そウだ…殺そう。アノ人…食べよう……”

 ――刹那、暗転した鏡に映ったのは一人の男。

「やめて!!」

 気が付けば酷くしゃがれた悲鳴を上げていた。

「っはぁ…ハァ……ッ」

 息も絶え絶えに握り込む洗面器にはもう、吐き出した血など残っていない。その代わりに頬を伝う大量の汗が、次から次へと滴っていた。

(なにこれ…。どうして、幻覚なんか…)

 肩を大きく揺らす瀬亜が、汗を洗い流そうと蛇口を捻る。

「痛っ」

 何かの破片が掌を傷付けた。

 眉頭を突き合わせて手を開くと、小さな欠片の中に覗き込む自分の姿がある。

「――まさか」

 嫌な予感に弾かれて顔を上げれば、蜘蛛の巣のように罅割れた鏡が、絶句する瀬亜を暗鬱と写し出していた。


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