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気まぐれな肯定

三者面談が終わってから、不機嫌な表情の親を「部活の追い出し会の準備があるから」とうそをついて、先に帰らせた。

薄暗い教室。暖房も何も入らない、冷え切った片隅の席。堅くて冷たい椅子のうえにじっとすわって、勉強しているふりをする。
いよいよ、この、大波二中ともお別れの日が近づいている。

それなりに部活にも励み、委員会では委員長もつとめた。内申はそこそこみられるものではあるだろう。
クラスでは上位に入る、地味な優等生ぶってきたけれど、
いざ本命受験を目の前にして、成績は見事にのびなやんでいる。5本の指からはすでにおちて、ぎりぎりの範囲内をたよりなくさまようわたしの成績。

努力とそれに見合った結果を常に求める私の親は、いらいらと怒り散らしたまま帰ってしまった。

教室には、三者面談の順番待ちをしている、さほど仲良くもない生徒が、4,5人。
だらだらとしゃべりながら、あるいは突っ伏して眠りながら。
冷え冷えとした放課後の、ゆううつな時間をつぶしている。

そこに、口笛を吹きながら入ってきた男の子がいる。
ギャル女子二人組と気軽にあいさつして、
おとなしい男の子はぴくりと肩がうごいたが、気が付かないふりで突っ伏したまま。

あの子は、みんなに「カズ」と呼ばれている。

提出物の収集だの事務的な用事以外で、口をきいたこともなければ、目もあわせたこともない。
いわゆる、不良と呼ばれる男の子。
でも、どこか、フレンドリーで。修学旅行で、一人あぶれた生徒を、同じグループにいれてあげてたのもこの、「カズ」と呼ばれる男の子だった。
体育祭でもリレーや徒競走で活躍して。
授業中も、いい加減な受け答えをして、みんなを笑わせる。
ムードメーカーのようなヤンキー男子。
それでも、制服からただようたばこの臭い。自分とは棲む場所が違うような、見えない壁。
身体の輪郭が激しくいかってみえるような、隠すことのできていない、暴力のかおり。
フレンドリーな子かもしれないけど、やっぱり怖かった。
女の先生に暴言を吐いたり、ふつうの子たちをいじめたり、威嚇したりするわけじゃないけど。
それでも、彼は、「不良の男の子」だった。
私は、当然「カズ」だなんて呼べない。呼ぶ必要のあるときは、今川くんと呼んでいる。
今川くんは、私のことなんて認識もしていないだろう。

何をおもったか、前の席に、今川くんが座った。ギャルコンビがこちらをちらりと見たが、どうでもよさそうにすぐに向き直ったっぽい。

今川くんは、椅子に横向きにすわり、私の机にひじを置く。
たばこくさい。
私は、少しだけ椅子をさげた。
私の挙動不審なんて意に介さず、
今川くんは、
英語の問題集を解くふりをして、ぼんやり考え込んでいた、いや、さぼっていた私の手元を、じっとのぞきこむ。

おそるおそる顔をあげると、今川くんと目が合った。スクエアフレームの小さなメガネが顔のまんなかにひっかかっている。
へらっと笑った彼は、
「杉浦サンは、どこ受けんの?」
片手で机のうえを叩きながら、軽い口調でたずねてくる。

地味な私のみょうじをしっているなんて、思いもしなかった。これ以上目を合わせていられなくて、私は、英語の問題にとりかかりながら、高校からの募集定員が少ない、女子校のなまえをあげる。
「乙女の坂!」
今川くんは、その近隣の通称をあげて、何が楽しいのか、ヒャヒャヒャと笑い飛ばした。

シャーペンがポキっと折れたので、私の手は、あっさりとまった。
そして、思いもよらぬ言葉が口からぽろっと出た。
「でも、無理かも」
今川くんの顔は見られなかった。

うん、うん、って頷いている声が聞こえる。
「おれぁばかだからよー、よくわかんねーけどよー……」
見上げると、今川くんは、椅子を前後に揺らしながら、前髪をいじっている。

「杉浦サンが受かると思って受ければ、受かるんじゃねーの?」
息をのんだ。なんて簡単でなんて無責任で、なんてシンプルな言葉だろう。
とてもさわやかな肯定をもらった気がした。
眼の下をはしる、英文の羅列がいきいきと飛び跳ねて見える。

今川くん、と、むしょうに話しかけたくなったとき。

廊下から「今川!」という、怒号に近い声。生活指導の教師が、今川くんを呼んでいる。
その時、私に向けていた、軽い微笑みが一変し、まるで般若のような目つきに変わった。
おもわずうつむいたとき、今川くんはもう、私の前にいなかった。




私は、無事、志望校に合格した。それは、あっけないほど。
あの時今川くんにもらった言葉は、あっさりと私の背中をおし、
彼の言葉は、いともかんたんに現実になった。

あなたの言葉には、越えられそうで越えられない壁を、あっさりと壊す力がある。
伝えたかったけど、次の日から今川くんは、学校に来なくなった。

卒業式も、今川くんはこなかった。
あらゆる意味で有名な、私立高校に入学するようだ。


すっかり高校にも慣れて、三学期の終わりをむかえようとしていたころ。
部活の帰りに使った関内駅の構内、向かいのホームで、今川くんを見かけた。
小雨がだらだらと続き、とても冷える最近。
電車を待つ、やたら、しんとした時間。
ホームの対角。
あのヒャヒャヒャという、無責任で、明るくて、意外とよくとおって、ひとりぼっちのひとを必ず救うことのできる声は、かわっていなかった。
今川くんの隣には、小さな男の子がいた。身長は私くらいの、本当に小さな男の子。顔もちらっと見たけれど、とても優しそうな。
あの悪名高い高校で生きていけるのか、心配になるような。
でも、大丈夫なのだろう。

きっと、あの子も、今川くんに救われたことがあったのだ。
なんとなくわかる。

どんな場所でも、今川くんはああして、だれかに、ささやかな肯定をあたえてまわるのだろう。
どこにいっても、私も、今川くんも、きっと大丈夫だ。
そんな極端な自信が内側にみなぎってきて、あの冷たい教室のこともおもいだす。

今なら、ありがとうと言えると思った。
向かい側のホームをいく階段をおりようとしたとき、
車両がすべりこんできた。一旦とまったあと、すぐに轟音をたててはしりだす。
振り返って、彼らがいた場所をもう一度確認した。
今川くんはもう、私の前にはいなかった。

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