Novel
涙が乾くまえに
(こ、こういうことって、マジであんの・・・・・・?)
横須賀学院前。ドブ板にもほど近いけれど、のどかな住宅街、基地、そしてショッピングモールにも隣接した、至って平和な地帯だ。いつだってあすかのまえで自然体でふるまう土屋のおかげで、あすかもいつだって自然体。
暴走族構成員の恋人だからといって、周囲に警戒をはらうことはない。
現に一度だって絡まれたこともない。ひごろのあすかは、いたって警戒心なく、平穏さにあまえて生きている。
車や周囲に注意など払わない。汐入の駅へ行くための道も、少し薄暗い近道を選んだとしても今まで一度だって何も起こったことがない。自意識なんて過剰にもつより、過小なくらいがちょうどいい。
そんなあすかの油断につけこみ、彼女のそばにいきなり寄せてきたクルマのとびらがあいた。
あすかの痩せた腰に、太い腕が一本巻き付いただけで、軽いからだは簡単に浮き上がる。
きゃっという小さな悲鳴すらあがらない。
真に恐怖に陥ったとき、声なんてあがるはずがないのだ。
あすかの体はあっさりとクルマのなかに引きずり込まれてしまった。
大きな音で扉が閉まり、あすかはあっさりとさらわれてしまう。
バンの後部座席に簡単に連れ込まれ、猫のように釣った瞳を白黒させたあすかがようやく大声で助けを求めようとすると、口をおもいきりふさがれる。
あすかが助けをよぶ声は、たばこくさい手のなかにすいこまれていく。
きれいにファンデーションをぬった肌を、汚い手が犯してゆく。
「土屋のオンナだろ?」
「あすかちゃんだよな」
声が出せない。
鞄が手元にないなんて、現実的な心配が頭を去来した。
近道とはいえ、大型バンがぎりぎりすれ違える通りで、夕方の帰宅時間だ。通行人だって多かった。
大きなブレーキ音に驚いた人もいたはずだ。
あっというまにさらわれてしまったあすかの姿をみていた人もいるはず。
大きな手が、あすかのほっそりとしたあごをつかんだ。ヒッという短い悲鳴が、あすかののどからとびだす。
「んーー!」
口に、まるめたハンカチのようなものを詰め込まれた。
「んっ・・・・・・むぅ・・・・・・」
「んっとだ、このコだけ今までの土屋のオンナとちげーじゃん」
「今までの拉致ってもしょーがねーからよ」
とっかえひっかえしてたしよ。
口に詰め込まれた布で言葉を封じ込まれたあすかは、妙にのんきな歓談に耳を傾けることとなる。
身をよじろうとすれば、背後から押さえつけられる。
きゃしゃな腕を後ろ手にとられてひねりあげられてしまえば、あすかが、あまりの傷みに表情をゆがませた。
「んっ・・・・・・」
あすかの細い体は、とびきり巨体の男に押さえ込まれ、抱え込まれる。とかく品のない連中に囲まれて、あすかの体が大仰にふるえあがり、収まりがつかなくなる。大げさな演技すんじゃねえよとバカにされればされるほど、後ろ手に押さえつけられて口をふさがれたあすかのからだの震えが止まらなくなる。
悲鳴は詰め込まれた布にすいこまれていく。
「まだやらねえよ。土屋のまえでやってやるからおとなしくしてろ」
「くんのかなー土屋」
「やっちまったらよ、上にもいえねーだろ」
ロクサーヌぁどうでもいいんだよ。おれらぁ土屋にうらみがあんだけだ。
あすかの脳裏に、土屋の名前ばかり去来していた。なぜこうなったのか、こんなことが何故起こったのか。この事実の理由を追及するより、なにより、いつだって頼れて、いつだってあすかのことを想って支えてくれる、土屋の名前ばかり、あすかは求めていた。
大型バンの後ろがあいて、あすかの体が一気にかつがれる。車のなかで、あすかの細い手首は後ろ手に縛り付けられていた。細い縄があすかの手首に食い込んで、すでに青黒くはれあがっている。はずみで、あすかの口のなかから詰め込まれていた猿ぐつわが落っこちた。でも、大声で叫んだり、土屋のなまえをことさら呼んだり、悪態をつくことなんてできない。
巨体の男の肩にかつがれて、縛られたまま運ばれながら、あすかが真っ青な顔のまま押し黙っていると、そのおとなしい様を揶揄された。
横須賀のかたすみの倉庫街。
待っていた連中が、ここにさらわれてきて、かつがれて運ばれるあすかの体を懐中電灯でてらしあげた。
PHSか携帯電話か、何度も、土屋のたまり場に電話をかけているようだ。場所は知っているけれど、あすかはそこをのぞくことはない。繰り返されるチームの名前だって知っているけれど、土屋は夜の世界の話をひとつもきかせない。あすかも、知りたがらない。あすかが踏み込んではならない領域であることは痛いほど理解しているからだ。そのかわり、土屋とは、昼間の世界を一緒にあるく。あすかの知っていること、土屋の知っていること、すべてをわけあって、土屋のそばにいるといつだって笑っていられる。
段ボールのきれはしをいくつもつなげて、コンクリートとのあいだに一応、敷物がしかれている。そのうえに、あすかの痩せた体が乱暴に投げ出された。痛いと叫ぶ間もなく、四方からのびてきた手に、手足を押さえつけられる。
「いやっ・・・・・・!!」
やめて!!
さすがの恐怖に、ようやく頼りない声をあげられたとき。ふたたび、待ての号令がかかった。あすかの制服のシャツがまくり上げられようとしていたそのとき、やわらかくて真っ白のお腹の上でとまった。
乱暴にからだを起こされた。からだには、これ以上手を出されなかった。
二人がかりで引き起こされた体は、この倉庫の奥にさらに連れてゆかれる。気の強そうな容姿に反して、あすかの根っこは、こんな恐怖にあっさり負けてしまういたって普通の性根だ。それがおもしろくないのか、張り合いもないのか、周囲の空気はおおよそ冷え切り、あすかは玩具というより、まるで、モノ扱いだ。それでも、どさくさにまぎれて体に触れる手をいやがる仕草をみせれば、はやし立てる声があすかのプライドを削いでゆく。
古ぼけたパイプ椅子に座ることを命じられる。固持していれば、二人に両脇を抱えられて無理におしつけられた。
「やっ・・・・・・」
白い布があすかの口元を覆った。白い縄があすかの痩せた体にかけられて、あすかはあえなく、土屋をおびきだす人質となる。
体をしばりつける白い縄の拘束力はゆるく、次第にあすかの胸の上から、おなかのうえまで落ちていく。
手は、後ろ手にしばりつけられている。こちらの拘束はきびしいままで、うっ血した手首の痛みがあすかの意識をここにひきつけてやまない。おまけに、パイプ椅子の脚に、両足を縛り付けられてしまった。
片足ずつ縛り付けられたあすかの足は、自然パイプ椅子のサイズのまま、まるで誘うようにひらかれて、ひざたけのスカートがめくれあがる。
下半身に視線があつまっている。いやがって身をよじれば、スカートがあがって細い太ももが露わになっていく。
「んーっ・・・・・・むぅ・・・・・・」
生け贄のように捕らえられ、逃げられないように縛られたあすかにあつまる視線から逃げたくて、くぐもった声をあげたあすかは、ととのった顔をそむける。猿轡にまきこまれた赤毛が彼女のほおをくすぐる。
縛られた体をよじれば、下品な笑い声、はやしたてるような声があがった。
「オマエのおんなさらったぞ」
「声ききてぇ?むり!口塞いじゃってるから!」
幾度もコールをくりかえしていた携帯電話が、マーカスにつながったようだ。
倉庫の場所をしめす声。猿轡ごしにくぐもった声をあげてみても、電話のむこうにいるだろう土屋には届かない。
「人数あつめてきてもいーけどよ、ヒザキになさけねーとこしられてもいーんか?」
オンナん手ぇだすぞ。
土屋の声が聞こえてこないか、電話に耳をそばだてていたあすかのもとに、薄汚い金髪の男がちかよった。ひときわ目が死んでいて、ひときわ目がにごっていて、だれよりもおぞましいオーラをもつ男。
口をふさいでいた布を乱暴にさげられる。にごった目でなければ、整った顔なのかもしれない。その激しい殺気となまなましい欲の臭いを間近で味わったあすかが、ここ一番の悲鳴をあげようにも、声がでない
いすにしばりつけたままのあすかの胸をつかんだ。
「やっ!!」
清潔なシャツのえりをつかみあげて、真横に思い切り引きさいた。ブルーのブラジャーがのぞき、あすかの痩せ細った胸元が露わになる。
「きゃぁぁぁ!」
「おれの味見のあとな。」
きつい香水が漂う。たばこくさい唇が、あすかの肌をたどろうとした。
縛られた体はびくともしない。
のしかかられているパイプ椅子ごと暴れようとしても、しっかりおさえこまれた。
「や、や、いやっ!!」
うるせえと、もう一度口を乱暴にふさがれかける。
土屋くん、助けて。そう叫びたいのに、悲鳴しかあげられない。
助けてとさけびたくなるときは、たとえば授業のプレゼンのまえ。慣れないバイトで苦手なお客さんがきたとき。
そんなとき。
土屋に守ってやるだなんていわれても、一体何から守るのとちゃかしたこともあった。あの日の自分がうらめしい。
まさかこんなことが起こるなんて。
本当に助けを求めることになるなんて。
そのとき。
暗い倉庫の、重たい鉄扉が、とびきりの音をたてて開いた。
「あすかちゃん」
後ろ手に縛られたロープがほどかれていく。
あすかの足をしばりつけていたロープは、ナイフですっぱりきりおとした。あすかの体が自由になっていく。でも、いまだ緊張は止まない。
「あ、あいが君・・・・・・」
「デージョブ?なんもされてな・・・・・・い?」
相賀なりの精一杯で土屋の彼女をいたわると、あすかが気丈に頷いた。
「大丈夫、されそーなとこに、きてくれて・・・・・・」
「あいつらよえーから」
土屋ひとりで、ばったばったとなぎ倒されていく。そんな暴力の様相を、今のあすかが直視することはかなわない。あすかの救出をうけおった相賀が、彼女をずっと拘束していた手首にのこる傷に気がついた。
「うわっオンナにんなこと・・・・・・。いてーだろ?」
「ううん、ごめん・・・・・・相賀くんにも迷惑かけたね」
乱暴にあばかれた胸元。とんでしまったボタン。破かれたシャツをひきよせていれば、相賀が、その華奢な鎖骨、胸元から、視線をそらした。
「あすか!」
あすかの愛するテノール。
敵を一気に片付けた土屋のその声は、あすかをあたたかくつつみこみ、堪えてきた涙が一気にこぼれてきた。
「こういうことって、マジであんだね・・・・・・」
土屋のスーツがあすかの肩をそっと覆い、あすかの華奢な体を守っている。
両脇を男ふたりに守られるようにはさまれて、三人が並んで倉庫から出てきた。
気丈に涙をとめたあすかが、少しでも空気を和らげるために、つとめてさばけた声音で語った。
土屋のそばにいれば、あすかに落ち着きももどってくる一方、土屋は、整った顔立ちをしかめて、黙りこくったままだ。
「いや、実際あんまきかねえぞ。横須賀でも、ハマでもよ・・・・・・」
「なんか、Vシネとか、マンガの世界みたい」
「わざわざ拉致るほどまじめにつきあってるオンナがいねーからな、うちの連中は」
「そ、そっか、そういう理屈・・・・・・」
クルマのなかでの会話をおもいだす。
しばらくのあいだ、おおきなワゴン車をみるだけで、この記憶がフラッシュバックするだろう。
「あすかちゃんと土屋だけだぜ」
相賀がこたえる。そのからりとした声が、むなしく響いた。
気丈に会話をつづけるあすか。
そのハスキーな声を、土屋は、いまだ黙りこくって聞いている。
「ちゃんとつきあってる人もいると思うよ。そういう人たちの彼女が被害にあったことないのは、よかったよね」
あたしだけ・・・・・・。
あすかが、ちいさくつぶやいてうつむいた。相賀がその心の機微を察することはない。
傷ついたあすかのひときわ細い肩を、土屋が抱き寄せた。その胸に、あすかは素直に体をあずける。ずっとこうしていたい。
「大丈夫か?」
土屋の声に、あすかはぐったりとうなずいた。相賀の目なんて、もうどうでもいい。土屋にずっとこうして抱かれていたい。駆けつけたバイクのそばで、三人がしばし立ち尽くす。土屋に抱き寄せられたあすか。その背中を、土屋が何度も撫でている。
「美麗の一色ん彼女はレディースなんだとよ。バックが太いオンナぁ、こーゆーこと、 ねえよなあ?」
「事情によるだろ。あすこぁな・・・・・・。ってもよ、横須賀んゾクぁ、カタギのコに手はださねぇんだけどな・・・・・・ふつーぁよ」
「そ、そーなんだ・・・・・・」
こんな会話は、あすかが逃げていたところかもしれない。
土屋としても、巧妙に避けていたつもりであった。
それであすかのことを守ったつもりだったのだ。
「ヒザキさんぁよ、こーゆーんがあっからよ、特定のオンナつくんねーらしーぜ」
土屋が、相賀のその薄っぺらい推測をあいまいににごす。
幾度か相まみえたことのある緋咲のことを、あすかは思い返してみる。あんな人と寄り添える女の人だから、きっとおとなっぽくて。美人で、或いはうんと年上だったり。あの人が守る女性はどんな人だろう。きっと、あすかなんかよりずっと美人で、強く戦ってしまえる女性かも。あすかみたいにあっさりさらわれて、悲劇のヒロイン気取りで恋人に迷惑かけたりしなくて。
「じゃあな!」
先にバイクにまたがった相賀は、気をきかせたつもりで、去ってゆく。
廃倉庫の手前に二人で立ち尽くして、土屋のスーツにつつまれたままのあすかが、あらためて礼を伝えた。
「つ、つちやくん、助けてくれてありがとう」
「みせて」
「う、うん」
土屋のがさついた手が、あすかの細い手首をそっと覆ってくれた。強く縛られた縄のあとがのこっている。母親にはばれないようにしなければ。土屋がこうして触れてくれているだけで、あすかにのこった怖さがみるみるうちに癒えてゆくようだ。今のあすかには、土屋が必要なのだ。
「お願い、ずっとこうしてて」
「こんなんでいいの?オレなんかで、」
「別れるとかいわないで、土屋くんがいないと、あたしひとりで立ち直れったって、ムリだよ」
ひごろのあすかは、感情より冷静さや論理が先にくるタチだ。そんな性格が土屋ともうまくむすびつく。それでも今は、あすかのたかぶるきもちが、ひとりでに言葉にかわってゆく。
こんなことになるなら、もうカタギの少女をそばにはおけないかもしれない。そんな土屋の懸念を打ち砕くように、あすかがこぼした正直な言葉ごと、土屋は、大切な彼女を抱き寄せる。
「ほんとに、なにもなかったの。土屋くんがきてくれたからなの、つちやくんに守られてばっかなんだよ」
「守れてねーじゃん」
「守られてるよ、つ、土屋くん、こなかったら、あ、あたし」
ふさがれた口の感触。
しばられた手。
こわい人たちにずっと囲まれたこと。
いすに足をしばりつけられるとき、さわられたこと。
怖さ、情けなさ、はずかしさ。
彼女のそのすべてをこれからどうやって守ればいいのか。
土屋から、ありきたりで不器用な文言しか出てこない。
「もー二度とこんなことおきねーよーにすっから」
「あ、あたしも気をつける。一人でくらいとことおんないとか、あたりまえだよね。あたしになんかそんなことおこるわけないっておもってて」
「なんかってゆーな」
「う、うん・・・・・・。あの・・・・・・縛られたとき、さわられた・・・・・・」
土屋の憤怒が体温でつたわる。
「お、おこんないで・・・!!もう仕返しとかいいの、警察にもいわない、でも、怖くて、怖くてね、」
「だいじょうぶ?」
「く、くるまのなかでも、さわられて・・・・・・。でも、それ以上はされなかった・・・・・・」
怒りを、今すぐ連中を八つ裂きにしたい思いをおさえこんで、その力すべてで、土屋は彼女を渾身の力で、守り抜く。
「だ、だから、一緒にいて、ずっと、あたしと、一緒にいて・・・・・・」
後日、緋咲に言い渡されたのは、当面の間のチーム勘当という処罰であった。
特攻隊長解任はまぬがれたが、しばらくのあいだ集会にも顔をだすなという命令であった。
緋咲から与えられた時間を、あすかのために存分につかうこと。
あすかの傷をおまえの力で癒やしてみせろ。
彼女の負った心の傷が完全に癒えたときに、ロクサーヌに戻ってこい。
彼女の心と体の傷が治るまで、ロクサーヌにおまえの居場所はない。ロクサーヌに戻る資格はない。
あすかのために何をすればいいかてめえのクソなドタマで考えて、てめえであのコを守って見せろ。
それが守るっつーことだろ。
土屋の顎を一発殴ったあと、うなだれる土屋に、緋咲が訥々と言って聞かせた言葉であった。その言葉に、怒り以外の何かがこもっている。
ああ、このひともきっと、守るものがいるのだと。悔やんでいることが、あるのだろうと。
痛いほど理解した土屋は、その教えどおり、あすかのケアを手厚く行っている。サバサバした風情にみせかけて心は実に傷つきやすく、素直に甘えることのないあすかは、土屋がいればことさらほっとした顔をみせる。
拳はしばし、封印した。
そのかわり、土屋は、守るすべを学ぶ。
すべての力で、あすかを、守り抜く。