Novel
君みたいに

夜の22時もすぎたころ、ようやく自宅に着いた。
委員会だと嘘をついて、うすっぺらい関係の友達と、だらだらとファストフード店でしゃべっていたら、こんな時間。
本当は早く帰って、宿題やって、予習もやって、ついでに家の手伝いでもしたいという気持ちがあった。
でも、どうでもいい誘いなのに、毅然と断りきれず。道徳心や倫理感も、すっかりだらけていて。
すべてをなげだして道をそれるほどの勇気もないけど、
現状を一新させるための清新な努力を踏み出せるほどの気力もなく。

ただいまのひとこともいわず家の鍵をあけると、母親の怒鳴り声がとんできた。

中途半端なレベルの高校に入って、三学期をむかえた。
とくに勉強しなくてもそこそこ上位を維持できていた中学時代とはちがって、
最高順位からは、20番以上下がってしまった成績。

この一年のあらゆる失敗を親にむしかえされて、気づけば家をとびだしていた。
気づくと横須賀中央駅の近く。
昼間とはまったくちがう殺気と、まるで違う町のような見知らぬ雰囲気がたちこめていて、あすかは一気に不安におそわれる。

品のない笑い声にびくりとおびえる。前方からくるのは、制服姿ではでな髪色で、群なしてうろついている、近隣の学校のこわそうな不良やらぎらぎらした女の子やら。
きびすをかえして、あすかは足早に立ち去ろうとした。

そのとき、視界を、見たことある顔がかすめた。

「!土屋くん!」
何にも考えず驚きの声をあげたあと、数歩あとずさってしまった。

中学3年で、同じクラスだった男の子。
ひいてしまうほどの金髪に、どんなセットしてるんだという髪型。それらは無惨なほど、ぼろぼろになっている。
同い年とは思えない私服。スーツだろうか。幼稚な自分の姿とちがって、年齢も、自分より4、5つは上に見える。
ただでさえあか抜けていた土屋が、異様におとなびてみえた。

それはともかく、髪がぼさぼさで、顔面が血まみれ、目元はハデに腫れ上がり、口元から流れた血液の痕。シャツの襟元はやぶれ、土とほこりと、とにかく、土屋はハデに傷ついているのだ。

眉間にきつくしわをよせた攻撃的な表情で一瞬ガンを飛ばされた。

やばい。
本能的に危険を感じたあすかはさらにあとずさり、何も考えずに、言葉を口から飛び出させてしまった、自分自身の短慮とあさはかさを、心の底から後悔した。

そのとき、
「あーー、杉浦さん?」
思い出した!

土屋は陽気な声をあげた。
土屋の傷だらけの顔が、みるみるうちに、軟らかい表情へとほぐれていく。
「何やってんのよ、こんな時間に」
覚えていてくれたのか。
中学時代のあすかは中途半端な上位グループに属していたから、それなりに、ヤンキー男子と関わることもあった。
土屋はひときわめだっていた。すらりと背が高く、あか抜けていて。
わるびれなく、だれにも媚びず。でも、意外と女子には親切で。
もうひとり、童顔で、短髪。生活指導の怖い先生やいかつい先輩にも、ひるまない態度でかみついていく男の子がいつも土屋のそばにいた。相賀といっただろうか。ふたりとも、卒業式に、いかにもヤンキーらしい服装であらわれて、騒ぎを起こしていた気がする。

「いや、わたしなんかどーでもいいじゃん。んなことより、なにそのけが……」
制服ででてきてしまったあすかのポケットには、ハンカチが常備してある。
味気ないブルーのハンカチをさしだすと、土屋は、大きな右手で、要らないといわんばかりに、すっととめた。ゆきばがなくなったあすかの右手は、だらりとさがる。

「カタギの女の子は帰んなくちゃだめだよ」
「……」
体をかたくしてうつむくあすか。

「土屋くんはなにしてるの?」
あすかは、せいいっぱい気を張った声をだす。
そんなあすかをよそに、土屋は、ビルの間の階段にすわりこんで、
「ちっとケンカしただけ」
こともなげに話した。

「ケンカ・・・」
杉浦さんもすわったら?
土屋がいい加減にうながすと、その言葉どおり、あすかは土屋のとなりにすわりこんだ。
無視して帰るだろうと思っていた土屋は、ややおどろく。
ポケットからたばこを引っ張りだして、ライターの火をつける仕草を、あすかは興味深く眺めた。またも土屋はいい加減に
「杉浦さんも吸う?」
と問いかける。やけくそでうなずくあすかに苦笑を返し、土屋はけむりを肺にいれる。

「ちょうだいよ」
「だーめだよ」

どーしたの?杉浦さんってこんな人だっけ?土屋はぞんざいに話し始める。
「あたしもケンカしたの」
「は?」
「…おかーさんと」

あー。
相槌をうち、肺におくりこんだあと、土屋はけむりをはきだした。

「杉浦さんって何高だっけ」
覚えてもらっていないことに、やや落胆しながら、あすかは、愛校心も愛着もなんにもない、通っている高校名を答える。
「すげーじゃん」
偏差値60前後の、中レベルの高校だ。すごいはずはない。事実、土屋はとくに理系科目の成績がよかったはず。出席日数や内申さえたりていれば、あすかの高校ごとき、簡単に合格したはずだ。

「土屋くんは誰とケンカしたの?」
「あー?ハマのもんとMP」
「えむぴー!?」
わけのわからないことを言って。からかわれてるのかなとあすかはため息をついた。
「やっぱりつかってよ」
ハンカチをだし、土屋に乱暴におしつけた。

「はは、優しいね杉浦さん」
いって、まだいてーわ。くっそ、真嶋のやろー。あっ、このハンカチいいにおいする。柔軟剤?
ぼそぼそと独り言をつぶやきながら、あすかのハンカチで、ぼろぼろにかたまった血をぬぐったあと、口元をおさえた。
「使い終わったら返してね」
あすかが土屋の手からハンカチをひったくる。
「杉浦さんこんなキャラだっけ」
吸い殻を地面にすて、土屋がふみつぶした。

「土屋くんは今なにやってるの?」
「族」
短い言葉をかえして、たばこに火をつけた土屋。あすかはそれ以上なにも聞けなかった。

「でも、友達もいて、慕ってる人とかもいるでしょ?」
自分で言っておいて「でも」ってなんだよ、と思いながら、あすかは続ける。
「はー、あたしなんか何にもないよ。もーガッコやめたい」
ぽろっとでた、いいかげんな本音。
甘えんなとか、
バカじゃねーのとか、
こっちは命かけてんだよとか、叱咤されるだろうか。キレられるだろうか。
いや、冷静な土屋のことだから、正論で一刀両断されるかも。
気づけば、さほど親密でもなかった男の子にたいして、ぶしつけな態度ばかりとっている。
謝らなきゃ。
そうおもっても、シンプルなことばは、口からなかなかでてこない。
当たり前のことを伝えるって、こんなにむずかしかったのか。
あたしは毎日毎日、なにを学んでいるんだろう。

自分自身なんかよりずっとと、おのれの足で堂々と立っている印象のある土屋のそばで、なんだか自らが情けなくなってきた。
涙もでやしない。

「かえろ杉浦さん」
土屋が立ち上がった。たばこのすいがらを、ふたたび足で踏み消している。
「家までおくってってやるよ?」
「ありがと…」
ひさしく、他人にたいして言ってなかった言葉が、おどろくほどスムーズに、口からでてきた。
歩き出す土屋を、あすかは追いかける。
「おれみてーな悪い男に家バレたらやべーぞぉ」
少し体を堅くしたあすかを見て、ごめんなからかって、と、土屋はすぐに謝る。

土屋が車道側に自然と立つ。高校に入ってすぐできてすぐ別れた彼氏に、杉浦って俺を車道側に押し出すよなーー!と、陰険な目つき・陰湿な口調で指摘されたことをふと思い出した。顔をあげて、土屋をちらりと見ると、どちら側をだれが歩こうがさほど気に掛けるふうもなく、ふらふらと隣を歩いてくれている。
ガラのよろしくない男たちとすれ違うが、だれもが、土屋の顔をみて、あわてて避けていくので、自然と歩きやすくなる。彼らは一様に、よくわからない英語名をささやきながら逃げていく。それが、「族」とやらの名前なのかな?とあすかは思う。

「こんな時間によー、杉浦さん一人だったら、あんなのにとってくわれてポイだぜ?」
「くわれないよ!あたしなんか地味だし!」
杉浦さんはかわいーよー?
本当にそう思ってるのかどうかしらないが、軟派なことを言いながら、背の高い土屋は、これまた中途半端に身長のあるあすかの頭をぽふぽふと叩いた。

「おれみてーになっちゃだめだよ。せっかくがんばって高校入ったんだから」
土屋を、おもわずみあげる。真剣な声色が、あすかの芯に、しっかりと響いた気がした。あすかの気持ちから、はりつめた力が抜けていくのがわかった。

「杉浦さんなら大丈夫でしょ。ほら、国語とか得意だったじゃん」
「理系なんですけど…」
そーだっけ?
そういえば、かつて、こんないい加減な会話をかわしたこともあった。そんなに親しくもなかったけれど。今よりそれなりに楽しかったころ、あすかの時間に、少しだけ、土屋もいたことはあった。
なつかしくおもいだす。

ふと
「今何時かな?」
とあすかがつぶやくと、土屋があすかに体を寄せて、袖をめくり、腕をさしだす。目立つ傷がはいった高そうな腕時計は、23時半をまわっていた。
「あたしんち、あそこ」
曲がり角の手前からみえる一軒家を、あすかはゆびさす。
「じゃ、ここまで」
土屋は立ち止まった。
「え?」
「親、たぶん待ちかまえてんぜ?俺みたいなのが一緒だとよけいこじれんだろ」
土屋が、あすかの頭を、先ほどみたいに、ぽふぽふとたたいた。
「大丈夫。杉浦さんならできるよー」
のらりくらりとした口調で、土屋はもうすでに離れ始めている。
「あの、土屋くん!あ、ありがとう!!」
大きな声で。近所の迷惑もかんがえず。
でも、あすかは心から叫んだ。
土屋は片手をあげて挨拶した。
もう二度と、振り向くことはなかった。

ひどいけがの土屋。あたしの話ばかり聞いてくれて。もっと、大丈夫?って言ってあげればよかった。後悔が襲い掛かる。

土屋とあすかでは、生活サイクルも、棲んでいる領域も違う。物理的にも、精神的にも。
しばらく、彼と会うことはないだろう。
中途半端な自分自身は、これからも、そんなに劇的にかわることはないだろう。
それでも、少しずつできることを増やしていけば、何かがちょっとずつかわるのかも。
今までいえなかった、あたりまえのことばを、あたりまえにいうことができれば。

いつか土屋にふたたびあったとき、また伝えたい。そして、もうひとつのことばも。

これからなにかあるたびに、この夜のことを思い出すかもしれない。

とりあえず、母親に伝える言葉は、それを伝える勇気は、もう準備してある。

あすかは、一歩を踏み出した。

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