Novel
青の上で春が白む 前

江ノ島電鉄 藤沢駅。

二両連結のコンパクトな車両から勢いよくはじき出されてきた観光客。
連休最終日。遊び足りなかった人々が満足して鎌倉あるいは江の島をあとにし、東海道線に乗り換える様子。あるいはバスへ向かう様子。
そんな観光客の群れの最後尾から、あすかがふらつきながらついて歩いてきた。彼女の蒼白な顔色に気づく乗客はいない。あすかの頼りなくやせた体は残酷に黙殺され、次の発車を待つ客のあいまをぬってとぼとぼと歩くあすかは、運良くあいていたベンチに息も絶え絶えたどりついた。

そばには公衆電話。木製のベンチに腰をおろして、あすかはようやく、深くしずかな呼吸にありついた。
ちいさなバッグをひざの上におき、ちからなくうつむく。か弱くはかないあすかの、彼女にしかわからない苦しみに気づくものはだれもいない。連休最終日のせわしなさにより、駅員も彼女にかまう手間はない。これから鎌倉方面へ向かう観光客が、降りたあすかのかわりに江ノ電に大量に詰め込まれてゆく。人の渦のなかで、あすかはなんとか平静をとりもどすために、性急に呼吸を重ねる。ぜんそく持ちのあすかかばんのなかには、いつも小さな呼吸器をしのばせてある。それを持ち出す羽目になるまえに、こころを落ち着かせようとあらゆる手段をこころみるが、最低限パニックにおちいらぬペースを取り戻せたものの、あすかの心には焦りと動揺と不安がよぎってやまない。
特に何が起こったわけではない。ただ、大勢の人にのまれ、疲弊し、プレッシャーを感じ、苦しみと焦りと、正体のわからない恐怖にのまれただけ。

葉山に越してきた夏の終わり以降、藤沢から向こう側へ訪れたことはなかった。数少ない友達に誘われて出かける七里ヶ浜や極楽寺が関の山。
育った町、そして事件が起きた町に近づけば近づくほど、あすかの身体は強い不安に襲われ、動悸が激しくなり、まともな神経ではいられない。
その不安はあすかの体をむしばみ、ひどいときには数日間寝込んでしまうほど体調が崩れ、心が壊れかける。

でも、あの人がそばにいてくれた一年をすごし、少しの自信がついた自分なら。
この世の中に、自分の過去に、自分のうけた傷に、自分の弱さに、立ち向かっていけるかもしれない。
普通の人が当たり前にできることに苦痛を感じるあすかは、自分ひとりだけの力で、今まで行けなかった場所へ行ってみようと思いついたのだ。
その結果がこのザマ。
いまだ、まともに立ち上がることがかなわない。喘息の発作があらわれないだけ良いといえるだろうか。


あすかが腰掛けているベンチのそばには、黄緑色の公衆電話がぽつりとたたずむ。近寄る人はいないようだ。

あすかが覚えている携帯電話番号。
こんなせわしない休日だ。あの人はきっと、あすかの慕い続ける八尋はきっと、忙しい日々を送っているだろう。

この番号に電話するのは、これで3回目。いつでもかけてこいと快く受け入れてくれたのに、甘える勇気も湧かなかった。

結局すがりついてしまうのは、こうして切羽詰まったとき。
自分の弱さに負けてしまったときに、頼るばかりだ。

あすかのバッグのなかにおさまるピンク色の財布。そこから、一枚のテレホンカードをとりだしたあすかが、電話につかまりようやく立ち上がったところで、そっとさしこんだ。



すがるように繰り返されるコールは、ほんのわずかな時間でぷつりと途切れた。

あすかの電話に応えてくれた声は、いたって落ち着いていて、穏やかだった。

「はい」
「……あ、あの、あすか、です…」
「ああ、あすかか。よぉ、どうした。元気してっか?」
「……こ、こんにちは……」
「あすか、外か?周りざわついてるな」
「あ、あの……」

喉の奥が詰まる気配がある。
ほっとすると思ったはずのこの声は、あすかをますます追い詰めた。
あすかがひとりで抱え込みひとりで作り上げた不安をなすりつけることが申し訳なかった。
そんな思いと反面に、あすかの心はひとりでに言葉をつくりあげた。
それは、あすかの、どうしようもないほどの、本音だった。


「渉先輩……」


助けて、ください……





そのままそこで待っていろと告げられて、20分。
あすかがぽろりとこぼした本音は、時間をおけばひとりでに解決してしまうものだという過信はやはりあくまで過信にすぎなくて、八尋を待っている間、あすかはひとりぼっちで消えてしまいそうなほどの心細さに襲われた。じっとうつむいておとなしく江ノ電の駅構内で待っているあすかに構う人などいないけれど、独りでいたい心、独りでいられない心はあすかのなかで激しい反発を起こして、つぶれてしまいそうなほど不安だった。

そうしてうつむいていたあすかの狭い視界に、落ち着いた足取りで、よく見知ったブーツが近づいてきた。

その力強い足取りに気づいたあすかが、生真面目な調子で頭をあげようとしたとき。

ベンチに座っているあすかのもとで、背の高い精悍な身体が、そっと膝をついた。

「……先輩、ごめんなさい……」
「大丈夫か」

芯がぐらぐらと揺れて、安堵と申し訳なさで壊れてしまいそうなあすかの瞳を、ひざをつき、彼女と同じ目線まで体をたたんだ八尋が、まっすぐに見つめた。

八尋が労わってくれる声に、あすかが静かにうなずいた。
あたたかく、少し乾燥した八尋の手が、あすかのちいさな頬を覆う。彼女の体温に問題はない。あすかが口を開く前に、八尋はそのまま、彼女のそばに腰かけた。

「ヘーキか?」

あすかが力なくうなずく。

「電車でなんかこえーことあったか?」
「そ、そんなことは、ないんです……」
「誰かに何かされたんじゃねーんだな?」
「何もなくて……ただ、その……」

もう何も言わなくてかまわない。
そんな言葉を込めた手で、八尋はあすかの弱り切った体をそっと抱き寄せる。

「休みん時の江ノ電ぁよー、むちゃくちゃだよなあ……」
オレでもダリーぜ……。

八尋が、あすかの細い肩をそっと抱き寄せて、やわらかな髪の毛を何度も撫でた。

「よくがんばったな」

何を思って彼女がここにいるのか。
どうして彼女が苦しんでいるのか。
彼女のくるしみのすべてを痛いほど理解している八尋には必要のない説明ではあるのだが、あすかが懸命に語り始める。八尋は、その懸命な声に、誠実に耳を傾ける。


つまり、あすかは、自分ひとりだけの力で頑張りたかったのだ。


「少し強くなれたかもって、思って……」

懸命に吐露する声。しぼりだすようなその声を、穏やかな表情をにじませた八尋が、静かにうなずきがら、しっかりと受け止めてやる。

「でも……」
「あのな、あすか」

あすかの言葉をさえぎった八尋の、持ち前の落ち着いた声に、さらなる落ち着きが宿った。
ぴくりと肩をすくませたあすかは、八尋の言葉に気丈に返事をしたつもりだが、その声はかすれきってしまう。

「強くなるっつーのぁよ、自分をイジメることじゃねーんだぞ」
「……」
「オレもよ、それがわかったのは、ちっと前だけどな……」

自分を責め続けるあすかのこころを、八尋が、穏やかな声で鎮めてゆく。
おまえの選んでいる道は、何一つ間違いなんかじゃないと。

「んでよ、誰かに頼んのぁよ、つぇーヤツにしかできねーことなんだぜ?」

ちいさなバッグの持ち手をぎゅっと握りしめたあすかは、うつむいたまま、静かにうなずいている。

「電話。三回目かよ」

あすかの肩を抱いていた八尋のあたたかい手。
広く分厚く獰猛な手が、あすかのちいさな頭を、やさしくぽふぽふと撫でた。

「よく頼れたな」
「……」
「強くなってるよ、あすかは」

こんな自分が、八尋のそばにいてもかまわないのだろうか。
ここにいても、かまわないのだろうか。

「……ありがとう、ございます……」

そんな究極の問いすらあたたかく溶かして、八尋は、あすかのことを心地よく認めた。
八尋の声はそのまま朗らかに解けて、年相応に弾みはじめた。

「……にしてもよ……すっげぇ人だな……」

あまりにも申し訳なくなったあすかが、うつむいてしまう。
そのやせ細った肩を抱いた八尋が、もちっと待つかよと提案するので、あすかはもう一度、力なくうなずいた。
八尋の容貌は、外国のサッカー選手のようにユニークに作り上げられた髪型に、強靭な上半身をアピールするトップスに、派手な改造ボトム。それでも、真冬にくらべればシンプルな装いだ。シンプルなワンピース姿のあすかとは不釣り合いだが、そんなふたりをぶしつけに観察するものはすくない。知らない町からこの町へ訪れてきた観光客がほとんどであるからだ。八尋の正体を知る者は、このローカル電鉄の駅にはいない。

待ち続けていると、エアポケットのように人があいた。このまま所定の列に並んでしまえば、せめてあすかには席を与えることができるだろう。

「今いけるぞ、立てっか」
「は、はい……」
「江ノ電なんか乗らねーからよー……」
切符。

八尋が切符を持っている姿。それはなんだか、ミスマッチで微笑ましさもある。
あすかの青白い顔にほっとしたような笑顔が生まれたことを確かめた八尋が、穏やかに破顔した。あすかは、一日券を持っている。それは、あすかの手のなかでくしゃくしゃにつぶれかけていた。
すべりこんできた緑色の車両から、人が一気に吐き出される。人波をうまく読めないあすかの替わりに、八尋が彼女をみちびき、いちはやく車両に侵入する。

「ここ、すわれ」

この混雑では、あすかももたもたとまごつくことはできない。素直にうなずき、お礼をつぶやきながら、あすかがシートにそっと腰掛けた。

座席のかたすみにあすかを器用に導き、八尋があすかの前に立つ。

つり革をつかんだ八尋が、自身の身体ひとつであっさり隠し守れてしまうあすかのことを見おろして、整った口元をほんの少しだけ優しくゆがめた。
健気に見上げてくるあすかの頭をやさしく撫でて、つとめてリラックスさせてやる。
そんな気遣いに気づいたあすかは、申し訳なさそうに肩をすくめるばかりだ。
車内がどれほど混もうと、八尋の身体はびくともしない。あすかのそばには小柄な女性がすわるから、あすかの気持ちが圧迫される心配はない。
のろのろと動き出した江ノ電にも、体幹が鍛えられた八尋の身体が揺らぐことはない。

「江ノ電のるの、ひさしぶりだったんだろ?」
「はい……渉先輩は…?」
「…………オレか……………?まてよ、中坊んトキ以来か……?引っ越したときよ、千冬んち行くとき乗ってたんだよ。そっから乗ってねーや……」
「そんなに!!」
「かわんねえよな、江ノ電も」

その言葉に同じ意を抱いたあすかがちいさくうなずいた。それにしても、向って左側の窓を背にしたあすかからは、海が見えない。それに気づいた八尋は、海が見える席をあすかに用意してやろうにももうかなわぬ車内を見渡して、ささいなミスを恥じた。
八尋のそんな後悔に気づかぬあすかが、八尋のことを気遣い始める。

「渉先輩、今日は……ご予定、あったのでは……?」
「実家の用事でよ、たまたま藤沢にな。アシもアパートにおいてきてる」
親父の車でな……。

あすかが、それ以上尋ねられないまま、質問にこたえてくれたことに、何度もうなずいてみせた。

江の島駅でどっと客が減るかわりに、その分詰め込まれる。八尋にかこまれ守られて座ることがかなっているあすかは、何も変化のないままだ。申し訳なさそうに謝るあすかを、八尋はそのたび誠実にたしなめつづける。

お客の歓声が聞こえてくれば、そこに海があらわれたことがわかる。
八尋も眩しそうに眼をほそめて、あすかもちらりと振り向いて、天気に恵まれた五月の昼下がりの健やかな海を、ほんの少しだけ楽しんでみた。

海の見える駅で降りてゆく客も多い。
江ノ電は、車がつくる渋滞と並走し、のんびりとすすんでゆく。八尋のまとう、海のかおりの香水が、あすかにはとてもここちよい。


あすかが八尋のことをふと見上げたそのとき、八尋の穏やかな瞳から、より穏やかな光がこぼれ、冷たいまでに整った顔に、安らいだ笑顔がうかんだ。
あすかが知るかぎり、八尋がそんな顔をみせるときに、そばに、あの人がいる。
それはあすかではなくて、あの、美しいひと。
八尋の、古い友人だ。
見慣れた表情に首をかしげるあすかのことに気づいた八尋が、あごで車窓越しの海辺の渋滞をさした。

「……?」
「千冬の彼女のクルマがよ」
「……」

愉快そうに笑っている八尋のことばにわけもわからずうなずいたあすかがくるりと振り向いてみれば、青い絨毯のようにひろがる海原。そのそば、R134には、車間をあけずに連なる車が、無数につながってゆく。連休の鎌倉特有の現象だ。振り向いてみても、その無数の車のなかから八尋の友人と恋人が乗っている車を見つけることは、あすかにはかなわない。

「……千冬さんも…?おふたりで乗ってらっしゃったんですか?」
「ああ。あすかよりおねえさんだよ。今度乗せてもらうか?」
「い、いえ…そんな……」

にしてもよー。
つり革につかまったままの八尋が、精悍な首をかしげて頭を悩ませる。

「どこいくよ……。鎌倉ぁどこも混んでんべ……」

無軌道にでてきてしまったことが、いまさらはずかしい。
日頃葉山でしずかに暮らし、鎌倉の女学校帰りにめったに寄り道もしないあすかは、これといった行き先が思い浮かばない。ねだろうにもねだりようがなくて、ただまごつくばかりだ。

「あのおねえさんの店もいいけどよ、大人の行く店だからな……。材木座なんだけどよ」
つか、閉めてんか…車で出てきてんだからなぁ……。

海のそばの町。見知らぬものたちでごったがえす、海辺の春の、喧騒に満ちた昼下がり。果てのない相模湾の青色を楽しもうにも、適当な場所が見つからない。

「うち、くるか」
「……」
「夕方には帰すからよ」
「…あ、アパート……?先輩、の……」

穏やかに笑った八尋がうなずいたとき、社内アナウンスが由比ヶ浜とつげる。

八尋が、あすかの細い手をとる。
あすかが、八尋にみちびかれるまま立ち上がった。

のんびりと走る江ノ電が、ぴたりと止まる。
手をひかれるまま、あすかは、八尋の精悍な背中を追いかけてゆく。

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続くかも?しれません

title;「flip」様

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