Novel
青の上で春が白む 後

分厚くごわついた八尋の手は、うっすらと汗ばんでいる。

骨太な指。その先端の鋼のような爪の先は、やすりで丁寧に整えられて清潔にとがっている。こうしたこまやかさが、八尋の清潔さを生むのだろう。血と暴力にまみれるイメージなどほど遠く感じられてしまうほと、あすかをそっと包んでくれた八尋の手は、うつくしい。あすかのやわらかく頼りない手、幼く整えられた爪は、八尋の手にそっとつつまれる。八尋には、女のそれとは違う、硬質な美意識がある。
八尋は端々から清潔な香りをたやさない。指先、靴先、持ち物、ふるまい。すべてが、育ちのよさと誇り高さに貫かれている。

あすかを守ってくれる手が血やほこりや土にまみれているさまをあすかの目で確かめたのは、あの日が最後だ。あかぬけておとなびた指先。それは、あすかの切なくほそくそして不器用な手を壊さぬように、そっと覆ってくれている。

あすかは生来、汗をかきにくい性分だ。あすかの真っ白な手は、この陽気のなかで乾ききっている。

あすかに伝わってくる、みずみずしさをひめた熱は、確かに、この広い手の持ち主のものだ。
あすかを先導してくれるその広い背中。エクステンションが硬質な背中のうえであそび、この背中が自信なくまるまっているところなんて、みたことがない。鍛え抜かれた体を包むTシャツは、きっと、選び抜かれたものだろう。ネイビーとホワイトがまざりあって、この春の空、あすかの見知ったあのバイクの単車の青にも近くなる。


由比ヶ浜のホームから踏切におりたったところで、その手と手は一度、厳かに離れた。離れているほうが、あすかはほっとするかもしれない。

横断歩道の信号が点滅する。八尋の誘導により、無理に小走りになることなくあすかは渡りおえた。

ゆるやかな坂道になっている。
坂道からふりかえれば、高級住宅、そして横断歩道の向こう側に、美しい水平線が見える。

初夏の陽気だ。車や単車が行き交うR134をこえてひろがる海をちらりと見やった八尋が、やはり自宅へ戻ることをえらんだ。


幾人もの観光客とすれちがいながら、八尋にみちびかれるまま。
八尋との沈黙は心地よいけれど、こうしてためらいなくこの人がそばにいてくれるようになった今も、時折あすかに懸念がよぎる。
そう思っているのは自分だけではないだろうか。

人混みを得意としない、あすかの繊細な心。やせた体と脆い精神をまるごと守るように、八尋につつみこまれている。彼女のやせた体をそっと守るように江ノ電からつれだした八尋の分厚い腕と手は、いつしかもう一度あすかの手をつつんでいる。


由比ヶ浜方面へ。
あるいは、長谷へ。
狭いホームからほうりだされてゆく人々は、ゆっくりとばらけはじめて、あすかにプレッシャーを与える人混みは、いつしか立ちきえていた。

八尋に手をひかれてついてくるあすかの顔色は、元に戻っている。青白い顔、その頬に、少しずつ生気がもどっているようだ。自分のそばで彼女がいつもこうして元気をとりもどすこと。その顔色を信じてもかまわないこと。

あすかが、無意識に、八尋の頼れる手をぎゅっとにぎった。


それにしても、由比ヶ浜を歩くのはずいぶんひさしぶりだ。


あすかはの少し前を歩いてくれていた八尋は、いつしか肩を並べて歩いてくれている。

あすかはの手をぎゅっと握ってくれたまま。

あすかはの手は、ふつうの女の子にくらべて少しだけ大きい。そして、おれてしまいそうなほど細い。すんなりとのびた指は、それでも、それ以上に大きな八尋の手に、大切につつみこまれている。

ずいぶん久方ぶりにあじわう、江ノ電沿線の心地よい空気。そんなものを素直に楽しんでいるあすかに気づいた八尋は、穏やかな瞳で見守り続けている。

「あっ!」
「どうした」
「え、えっと、あのパン屋さん、有名で・・・・・・」

けなげなすがたで八尋をみあげて語るあすかが、あいた手でパン屋を指さす。天然酵母のパン屋は、すぐに売り切れてしまうとして有名だ。葉山にもいっぱいあんだろ?と、食べ物に関心のない八尋がなにげなく応酬する。


「い、行ったことありますか?」
「・・・・・・ヤロー一人であすこかよ。千冬がよ、くわしーぞ、あーいうの」
「あ、はい、千冬さん、いっぱいいろんなとこ知ってて、そーなんです、ここも、教えてもらいました」
「・・・・・・千冬にかよ」

意外と会ってんのか?

八尋の内心に、複雑なおもいがゆききする。
この不器用で内気で他人となかなか打ち解けることのないあすかが、なぜかすんなりと心を開く千冬。そしてその人当たりのむずかしさ、不器用さは千冬も同等だ。あのむずかしい気性。性別をもてあそんでみせる態度。このふたりは、八尋のもっていない瞳で、この世界を真摯にみつめている気がしてならない。

ともあれ、あすかが心を開ける人間は一人でも多いほうがいい。そのほうがこの後の人生を彼女も生きやすいだろう。八尋の精神の成熟は、エゴに満ちた複雑さより、あすかがこれから健やかに生きていくための方法を確立させることを優先させるのだ。


そして、八尋がくらすアパートは、パン屋をまがったところにある。

海が見えない、日当たりの悪いマンション。

やせた体をみおろしてひとつ微笑をのこせば、あすかが正直な戸惑いをみせた。
そしてそこには、かわいらしい好奇心、興味本位の心もある。賢いこの子は、生来、知性ある好奇心ももっているのだ。新しい場所、未知のことを、本当はおそれない子だ。


「二階」

手はつながれたまま。すこし入り組んだ路地にとまる軽トラックをさけて、不動産会社の看板のそばに、合板にきざまれたマンション名をつたえたあと、二階の角部屋をゆびさした。


屋外シャワー。
たてかけられているサーフボード。
見慣れたバイク。
バイクはたった一台だけ。

こくりとうなずいたあすかを、階段にみちびく。
短い階段をしずしずとあがって、人の気配のない廊下を歩けば、表札もなにもない八尋の部屋にすぐにたどりついた。

ポケットから鍵をとりだし、シリンダーにさしこむ。金属のドアを手前にひいた八尋が、ドアを背中でおさえて、あすかのことを紳士的に玄関へみちびいた。

「おじゃまします・・・・・・!」

かしこまって挨拶をするあすかに、いますぐ触れたいのをこらえて。
習慣としてきちんと靴をそろえたあすかが、清潔な部屋をひとつみわたした。申し訳程度の1Kだ。家には寝に帰るだけ。寝るにはさまざまな意味がはらんでいたが、今は本当に眠りに還るだけ。簡潔な用途の部屋は、質のいいマットレスがおりたたまれている。ソファは実家から運び入れたもの。千冬が気に入っていつもそこにころがっているから、彼の香水のかおりがしみついている。嗅覚にすぐれたあすかが、千冬さんの香水とつぶやいたことに、一抹の複雑さこそよぎれど、八尋がひとつ微笑んでうなずいた。

カーテンをあけると、弱々しいひざしだけがしのびこんだ。


「海、みえねーだろ」
「こういう景色が、みえてたんですね」

この部屋でいつも八尋は、あすかの話を聴いてくれた。あすかが甘えたのはほんのわずかだと八尋は思っている。あすかは、これまでずっと甘え続けてきたと思っている。



「見えなくても、きれいですね」
「ああ、由比ヶ浜ぁよ、静かでよ」

なんせ、海向きではなく山向きのマンションだ。
あすかが暮らす葉山町。八尋がくらす鎌倉。
観光客もここまでは入ってこない。たてもの、マンション、木々にかくれて何も見えないけれど、鎌倉のかたすみの風景は、ふたりにとって静かで心地よい。


「まってろ、ってもよーー何もねーんだよな」
「大丈夫です!」
「あすかんちいくとよ、ケーキだろ、クッキーによ、なんだあの菓子、なんかやわらけーの・・・」
「どれだろ、フィナンシェですかね・・・?」

すわれとゆびさすと、あすかが、ラグのうえにぺたりとすわりこもうとする。ラグは、サーフショップrで安くかったもの。
遠慮しがちなその細い体をだきよせて、ソファに連れ込む。
ちいさい悲鳴をあげたあすかをすわらせて肩をそっと抱きながら、八尋も、慣れ親しんだソファに腰をおろした。ほうりだしていたリモコンをとりあげれば、スポーツチャンネルからサーフィン番組がながれてくる。目を白黒させて落ち着きをとりもどすばかりのあすかをよそに、八尋は、テレビよりも、うすい窓越しにこぼれてくるしずかな鎌倉の音をたのしむこととした。


「なんもねーだろ?オマエん部屋ぁ女らしいよなあ」
「先輩に似合ってるとおもいます」
「何もねーのが?」
「あ、あの、八尋先輩は、」
「名前っつっただろ」
「・・・わたる先輩は、飾らなくても・・・」
「前の部屋ぁサッカーんポスター飾ってたけどよ」
「あ、はい、実家の・・・いっぱいありましたね」
「サッカーぁもういいんだよ。あのカレンダーぁな、サーフショップでよ」
「海っぽいのいろいろ・・・。あの時計もかわいいです」

少しずつ八尋の部屋になれてきたあすかが、愛らしいしぐさで、よくみれば部屋のあちこちにかざられている海やサーフスタイルのモチーフをゆびさしてみせる。オーナメントに、時計、小物、フレグランス。

正しい姿勢をくずさずにちょこんとソファに腰掛けたあすかが、八尋の部屋のようすをきょときょとと眺め回すさまがいとおしく、そしてかわいらしくて、八尋は、あすかの頬に、そっとくちびるをすべらせる。

少し切れてしまったくちびる。


「先輩、くちびる・・・・・・」


八尋のくちびる、壊れ物にふれるようなぬくもりを存外正直にうけいれたあすか。彼女のしなやかな指さきが、自分を愛してくれたくちびるに、そっとふれた。乾ききったくちびるには、やや深いキズがのこる。


「どーした?」
「な、なんでもないです・・・・・・」


自分の行為にわれにかえったあすかが、スカート越しの腿のうえで、両手をぎゅっとにぎった。


「つづけていいんだぜ」
「い、いたそうで・・・・・・大丈夫ですか・・・・・・」
「ああ、こいつか、慣れたもんだぜ」

八尋のまぶしさ、八尋の清潔さ、八尋の圧倒的なオーラをいつもまっすぐに直視できなくて。
八尋がきずついていることにあすかが気づくのは、いつだってずっと後だ。
あすかのキズをずっと守って、癒してくれた八尋が負っているキズに、気づかないままここまできた。
それを恥じるばかり。自分の弱い優しさを、あすかはいつも恥じている。
八尋のような優しさを手に入れられる日はいつのことだろう。


「しばらくしみるけどよ、コーヒーとかな」
「そのまま、薬もぬらないんですか?」
「ぬるわけねーだろ、デージョブだよ」

八尋のキズが心配だけれど、八尋の大丈夫ということばを、あすかはいつもそのまま信じる。
彼が大丈夫といったことは、いつだって本当に、大丈夫だったから。


「オマエに指一本ふれねーっつったのにな」
「・・・・・・」

そして、いつだって八尋は、最後には、あすかのことをその熱い腕で、熱い指で、熱い瞳で、熱いからだで。


守り抜いてくれる。


肩をそっと抱いてくれた熱い手、熱い腕に素直にあすかが体を正直にあずけた。


八尋の清潔な衣服の下にねむる、深い深い傷。
あすかの体のなかにしずかに封印されている。深い傷。

キズをかかえたふたりが、ちいさな部屋で、静かに寄り添う。

山陰からこぼれてくる光も悪くないのだが。
八尋があすかの家をこまめに訪れ続けたのは、この子に通すスジ、あすかを守る義務があること、それにくわえて、あの海の見えるきれいな部屋が、ただシンプルにうらやましかったのだ。

マンションと山。あまり湘南らしい風情をうまない気色をみやった八尋が、かるいため息をついた。


「海見える部屋、引っ越すか・・・」
「あ、あの、塩害すごく大変ですよ!これくらいがちょうどいいと思います」
「まじかよ、塩害がよー、今もあんだけどよ、もっとひどくなんのか?」

あの町に住んでいたころは、海から少し離れていた。
もっとも、母親がすべての世話をしていたころだ。
金持ちのひとり暮らしごっこではない。
八尋なりのカネの稼ぎかたでなかばまともな自立をしてから、暮らすこと、生活すること、その困難さを八尋はきっちりと知った。あすかを傷つけそうになったあの夏、八尋も自立した。あすかとともに、八尋も育っていたのだろう。八尋はあらかじめ強かった。自分が迷惑かけてばかりだった。そう思い込みきっているあすかはまだ知らない、八尋の大人じゃなかった部分だ。

「洗濯物ほせるのは、午前中だけですし、家政婦さん、洗車もすごく大変そうです・・・・・・」
自転車は錆びるから、持ってないですし、バイクのお世話、大変かもしれないです」

バイクをまるで人のように扱う感性を、八尋はもちあわせていない。あくまでマシンはマシンだ。あすかのその感受性は、やはり千冬に近いところがある。自分では補えない部分を、千冬や千冬の恋人が補ってくれるだろうか。材木座海岸のそばにくらす千冬も、ハーレーのメンテナンスにはほとほと手をやきつつ、その口調は充実感にみちていることを八尋が思い出す。


「千冬もブーたれてんなあ」
「大きいバイクですし
ね・・・」
「ああ、そーいや千冬がよ、おまえに会った話してたぞ」
「このまえ、紀伊国屋の前で・・・ちょっとすれ違っただけですよ、目があったら、ちょっとだけ挨拶してくれました」

で、千冬さん・・・・・・。

あすかが、すこし笑顔をにじませて、思い出したことを語る。


「ナ、ナンパ、されてて・・・・・・」

八尋が、めずらしく大笑いしてみせる。
千冬は、みずからのジェンダーを傷つけられることに敏感だ。千冬がほんものの苦しみのなかにいるとき、八尋は、相棒を傷つけたもののためにたちあがる。しかし、日常で起こる雑多なトラブルは、ともに笑い飛ばしてしまう。千冬がそうしてほしいことを八尋はよく理解し知っているからだ。


「すごかったです、一人ことわっても・・・またすぐ・・・・・・」
「・・・・・・殴ってなかったか・・・・・・?」
「それはないんですけど、すぐ千冬さん、私のとこにきて・・・・・・それで、こういうときは、これから、私がお兄ちゃん!って言って助けにはいるっていう約束、しました」
「守れよ、約束だからな」
「む、むりです・・・・・・!!」
お兄ちゃん・・・・・・。

む、無理です・・・でも・・・・・・と生真面目にすがってみせるあすかの誠実な優しさをあたたかく受け容れながら、八尋は長い足を組み直して、窓の外をながめる。

ちいさな約束に逡巡していたあすかが、静かにこの時間にひたる八尋のことを見上げた。ゆりの花のかおりと、海のかおり。ふたつのかおりがまざりあって、穏やかにあすかをつつむ。八尋のあたたかなまなじりがあすかをかすめて、わらった。そのぬくもりある笑みを受け止めきれなかったかつてとはちがって、あすかは、懸命にうけとめて、微笑をかえす。

あの日から、不安を隠してわらうことしか知らなかったあすか。
あの日から、暴力のためにわらうことしか知らなかった八尋。

少しの弱さを乗り越えられたこの日、ふたりの時間を、あたらしい笑顔がつつんでいく。


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