Novel
春の歌

桜が、もうすぐ終わってしまう。

本鵠沼駅から徒歩数分。あすかとジュンジ、那智、そして徹に奈良原。皆が過ごした小学校への通学路に、一本だけまだ咲き続けている桜がある。
ここからさらに歩けば長久保公園緑地でそれは豊かな桜が楽しめるけれど、あすかは、湘南新道沿いのこの桜の下で、脚をとめた。

バッグを細い肩にかけて、冬の生地のままのブレザーをまとったあすかは、明るい緑色がまざり、薄紅色をうしないつつある桜からこぼれる光を、一身に浴び続けている。

そして、あすかのそばから漂うのは、焦げ付くような、焼けつくような特徴的なかおり。
そのかおりにつづいて、春真っ只中の澄んだ大気のなかにくゆる、灰色の煙がただよいはじめる。紫煙はあすかにぶつかりかけて、桜の花びらのなかへ消えてゆく

あすかが桜から視線をおとせば、桜より濃い色のバイクがあすかの瞳をかすめた。

通学バッグの肩ひもを、細い肩でしっかり支え直したあすかは、そばの男に、まっすぐ向き直った。


「私、どーして那智くんと花見してんの?」
「ここに桜があっただけだろ……」

あすかのそばにいるのは、柾那智。
素肌に、華美なカラーのスーツ一枚。胸元から、いかめしく割れた胸襟がのぞく。はがねのような体を単車にあずけた那智が、あすかの隣で、たばこと、すこしの桜を楽しんでいるのだ。

藤沢の町はそろそろ夕暮れを迎える。
平日の3時すぎ。真昼間からスーツ姿の無職の少年は、あすかが小学校の頃からの古い友だちのひとりだ。

「まいっかーキレーだし」
「……」

あすかの実にマイペースなことばに、品のない舌打ちをかますわけにもゆかず、唾をはきすてるわけにもゆかず。

那智は、先ほどから、だまってあすかのそばにいる。

ここはかつて、慣れ親しんだ通学路だ。
家にかえればいまだランドセルが捨てられることなくころがっているだろう。那智の母親はものをすてられない性分だ。
そういえば、中学生のころ、遊びに訪れたジュンジの家にもまだ、ぼろぼろになったランドセルがころがっていたことをおもいだす。

長い付き合いのあすかが、今はジュンジの恋人であることを、那智も重々承知しているのだ。徹が教えてくれたあと、那智がてっきり知らないものだと早合点していた奈良原も教えてくれた。
仲間のなかで、あすかに恋をしていたものはジュンジだけ。
年齢相応の成長をとげて、ひごとすっきりと容姿はあか抜け、それでいて性分はのびやか。そんなあすかは、鵠沼で生きてきた皆にとって、昼の世界にみずからをつないでくれる、この桜のような子であった。好きになったことはないが、あすかは、皆にとって、大事な女の子であった。

あすかの立場があの頃とかわり、それぞれが己の進む道、己の信じるものを見つけた今、この町で、あの頃と同じ平穏さでこの少女と過ごしていてかまわぬものだろうか。
素っカタギの彼女に、面倒なおもいをさせるわけにもいかない。

那智が、重たい口を開き、不器用な言葉をつむぎはじめた。

桜に向き直っていたあすかが、那智をもう一度見つめる。

「ジュンジとよ……」
「ん?」
「……オマエ巻き込む話じゃねーな……」
「ジュンジくんと仲良くしたいけど、立場上むりってこと?」
「……」
「違うか、私のことが、那智くんと何か勘違いされちゃうかもってこと?」

なにもしらぬようなつらを提げているあすかが、桜の下でしれっといってのけた。

「…………」

那智が表現しきれぬ言葉を一方的な調子でくりだすあすかに、一発すごんでやりたいが、そうもいかない。
このオンナのまえでは、那智はどうもやりづらい。それは奈良原も徹も同じで、ジュンジもきっと、そうであろう。あすかの独特のものさしに、みんな毒気や気合を抜かれてしまうのだ。
このオンナ独特の悪びれない人あたりのせいだ。

「私は、何の立場もないから、那智くんとも友達のままだし」

通学カバンのファスナーをあけたあすかが、グミキャンディをとりだす。
パウチごと那智にさしだすが、那智は視線ひとつであすかのさそいを断った。
キウイのグミをえらび、その爽やかさと酸味をこらえるように顔をしかめたあすかが、澄んだ声で伝えてのけた。

「ジュンジくんの、彼女!」

ここに来たのは、江ノ電で帰宅していたあすかが乗っていた車両に、那智も乗り合わせていたからだ。那智を見つけたあすかが、ひとつの遠慮もなく彼にかけよった。そして一方的に予定を聞きだした。鵠沼で降りて、バイクショップにあずけていた単車を引き取りにいく。そんな情報を那智から引きずり出したあすかは、ともに鵠沼でおり、そのままバイクとともに、本鵠沼までふたりして移動してきたのだ。鵠沼駅のすぐそばで徹に会った。何かを悟った徹は、スーツのポケットから携帯電話をさぐりあてたあと、花見スポットを教えてくれた。あの頃みんながくぐっていた桜。そこに行けば、懐かしい桜を見られると。

「徹くんもみてけばよかったのにね」
「んなヒマじゃねーんだろ……」
「那智くんは、ひまなの?」

いちいち反応することもめんどうだ。
時間があるのはいいことだよ。意味の分からないフォローをみせるあすかの言葉を、那智は聞き流す。

「ジュンジの彼女がよ おれといっとよ……」
「ねらわれるの?」

生来瞳に暗い光を湛えている那智が、しれっと不用意なことを言ってのけた彼女を一瞥する。
暗い瞳のなかの熱を充分知っているあすかは、そんな一瞥にびくともしない。

「……ねーな」
「ないでしょー!どうせ、私なんか中の中だよ」
「カタギだっつーことだよ」

そうしていじけてみせるあすかの言葉に、ねじれも湿度もない。
自分をうそぶくようなことを言ってのけたあと、あすかはきっと、そうではないことを自分で知り、ジュンジにまっすぐな愛を与えてもらうのだろう。
だから那智が、どうにかする必要などないのだ。

あすかが、ジュンジとひかれあったのは自然なことだろう。

一本目のたばこを地面に落としてふみけす。そして、スーツのポケットからたばこをとりだす。あらたに生まれた煙。たばこをくわえ、腕をくみ、単車にもたれてみせる那智を支えるチェリーピンクのバイクを、あすかがおもむろにゆびさした。

「それ、ジュンジくんのバイクとおそろいなんでしょ?」
「ジュンジの……と……おそろい……?」
「私、まだ乗せてもらってないんだー……」

桜を見上げる首は、さみしそうに地面の方へかたむく。
正直に寂寥をみせるあすかに、那智が低い声で伝えた。

「……あぶねーだけだゾ?」
あいつぁ……どーせ、ヘタだろ……

たばこをがしがしと噛みながら、おせーしよ…と那智がつぶやく。  
首をかしげたあすかは、那智の言葉に食いついた。
あすかにはまだまだわからないことが沢山ある。
この冬にあったことの断片しかあすかは知らない。
ジュンジは、那智のバイクに乗ったことがあるようだ。
その逆はあるのだろうか。

「ヘタなの?うまいとかヘタとか、あんの?」
那智くんは、うまいの?


那智はてっきり、ジュンジはそうじゃないなどとあすかが抗議をみせると想定していたのだ。あすかは単車のことを、事実だけを素直にたずねてくる。

調子がくるう。

このチェリーピンクの単車に、オンナを乗せたことが一度もないわけではない。慈統の恋人を何度か乗せたことがある。かつてはジュンジも乗せた単車。
彼女が乗り心地をためしてみたいなら、乗せてやってもかまわないが。


そんな世迷言を思い浮かべていると、那智が追い求めてきたものと、同じ排気音が聴こえてきた。
ジュンジと那智がかわした約束など何ひとつ知らないであろうあすかも、この音はしっかりききわけるようだ。

葉がめだちはじめた桜が零す夕暮れのひかりをあびたあすかが、ネコのように鋭敏に振り向く。


CBX。
もうこの町を去った男が、那智と同じバイクで帰ってきた。



「ジュンジくん、帰省?」

声音に歓びこそこもっているものも、あすかはまず、行動の理由をしりたがるようだ。
すべりこんだきた単車にひとつの驚愕もみせぬかわりに、ジュンジに、的をはずした質問をぶつけている。髪型をずいぶん乱したジュンジは、単車を器用にあやつり、頭をフル回転させて最短ルートを選び抜いた疲労から、サイドスタンドをだしたのちべったりと単車の上でうなだれ、何度も肩を上下させて返事をした。

「徹ちゃんがよ……あすかが那智と浮気してるっつーからよ」


ジュンジがとりだしたのは、この春に祖父から買い与えられたという携帯電話。
学ランのポケットからすこしのぞかせて、すぐにしまいこむ。
扱いには慣れていないようで、あすかがいつ電話してもつながらないことが多い携帯電話。気の利く徹がそれに連絡をいれて、ジュンジのことを、鵠沼まで呼び寄せてくれたようだ。


「藤沢までバイクでくるじゃん、そのとき、お金とか要るの?」
「いろいろあんだよ、ルートがよ」

ジュンジは、まだ息があがったままだ。スタミナ不足をわらいとばした那智が、久しぶりにジュンジと過ごせる時間を味わいながら悪態をつく。

「だーれがあすかと浮気すっかよ…」
「わたしも那智くんとはしない!」
「……徹とぁすんのか?」
「顔が濃すぎる人ともしない」
「……ジュンジも濃いぞ?」

んだと那智!

まるで、あの日の続きのように軽妙なやりとりをかわすふたりをみたあすかが笑いころげる。

「この桜、小学校のときからあるよね」
「あ?ああ?そーだっけ?覚えてんか?那智」
「ああ……」

かっこつけやがってよ!!
何が桜だよ!

幼児のような悪態をつくジュンジに、あすかのそばでしぶく体裁をととのえていた那智も年相応のおさなさをとりもどして、すごみあう。

「今だけ、いいじゃん」

あすかがうながした。
事情をしってか、しらずか。
あすかの言葉が、あのころのようにじゃれあって、あのころの仲の良さを取り戻して、それでも心から楽しみ切れないふたりを、うららかにひとまとめしてしまう。

「鵠沼のときに戻ったことにして」

こんな桜の下ならかまわないだろう。
それは、あすかがきめたこと。

「三人で、みようよ」

那智が、ためいきとともに煙をはきだして、しぶくつぶやいた。

「オレぁ、ジャマだろ?」
「ああ、ジャマだ!!」
「ジャマじゃないよー」

ジュンジが、バイクを背にしゃがみこむ。
那智もつられてしゃがみこみ、冗談っぽくにらみあった。

あすかの真っ白な足。スカートからすんなりとのびるそれをジュンジはちらちらとみる。
とうのあすかはそんなこと気にとめぬ素振りだ。

「はらへった…」
「コンビニのモン、かうか…」
「手作りじゃないとおいしくないよ」
「え、あすかなんかもってんの?」
「もってない…グミしかない……」
私、気ーきかないね……。

そ、そーゆーんじゃなくてよ!
わざとらしくいじけてみせたあすかのご機嫌をけんめいにとるジュンジを、変わらぬ表情の下に心底あきれをしのばせて、那智が見守る。

みたかもしれない桜。
気付かなかったかもしれない桜。
この桜が、おさないころから皆のそばにいつづけたこと。それは、あすかにも那智にもジュンジにも、明確な記憶はない。

16年生き抜く時間を、みまもっていてくれたかもしれない。
この桜は、そしらぬ顔でここにいたのかもしれない。

そろそろ、桜が夜のとばりに消えてゆくころだ。
緑色の入り交ざった桜が輝くのも、あともうすこし。
足元で飛び交うくだらない悪態におもいきり笑ったあすかは、精一杯生き続ける桜を、もう一度見上げた。

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