Novel
花びら舟

「……ごめん、ください……」

引き戸に手をかけてみると、油のきちんとさされた溝にそって扉はするすると真横にすべり、コンクリート造りの店内にこもる海の匂いが秋生の鼻先をくすぐった。

腰越。鎌倉と藤沢の境目にある町。
海まで、徒歩20秒。

ここは、秋生の従姉妹、あすかの家だ。

あすかの父は漁師。叔父や母親も漁をサポートしている。しらす漁は解禁されたばかりで、がらんとした様子からずいぶん多忙なことがうかがえる。彼女の自宅は直営店を兼ねているものの、本格的な営業はまだ随分先であるようで店はもぬけのからだ。

新しいパーツを導入した単車を走らせて、日曜日の昼さがり、秋生は朝比奈をまわって134号線に乗った。
すると、秋生の愛するマシンが、悲鳴をあげはじめる。
もしものときの道具は日ごろから一式持ち歩いている秋生だ。そうしたマシントラブル対応自体は、すみやかに行える。
そしてマシンを歩道にでも寄せて、手際よく作業をすませてしまえばいい。

異変を感じたのは七里ガ浜を左手に走っていたときだった。

そして、あと少し走れば腰越。

小動神社の向こう側の漁船の群れのなかに、見知った船を一隻だけ見つけたときだった。



季節限定で開店するしらす直営店を兼ねたあすかの家の階下から聞こえた、低く渋いテノール。

父親は、船に乗って仕事に出ている。母親もサポートに出かけて、あすかは独り留守番だ。テレビもラジカセもスイッチをいれず、開け放した窓からの海の音だけをBGMに、筋トレに励んでいたところであった。

まだ4月なのに、汗ばむほどの陽気だ。べたつく海風を和室に迎えながら、ショートパンツからのびる長い脚をまるだしにして筋トレに黙々と打ち込んでいたあすかは、その聞きなれた声を、波の声と海風のなかに、確かにとらえた。

「……?」

畳に手をつき、意味もなく左右をみわたしてみる。
通気性のいいウェアを纏っているとはいえ、汗はしっかりかいている。
だが、構うことはない。胸元の生地をつかみ、ぱたぱたと前後させて風をとりこみ、乱れた前髪だけ手櫛でととのえたあすかは、きれいにリノベーションされた階段を軽やかにかけおりた。

直営店を兼ねた自宅の玄関のあかりは、薄暗い。
この時期、まだ店は開いていないからだ。鍵は、父親と叔父と母が今朝仕事に出かけたときのまま、開け放しであったようだ。

そして、やはり、声のぬしは、あすかが心から親愛している、あの声であった。


「アッちゃん!」

父親の使っているぞうりにつまさきをつっこんだあすかが、店先で所在なさげに立っている秋生のもとへぺたぺたとかけよった。

「よぉ……あすか……」

迷彩パンツと、早くも半袖のシャツ。
ポケットに手をつっこんだ秋生が、あすかから露骨に目をそらして、短いあいさつを告げた。勝手に照れている秋生にかまわないあすかが、同い年の従兄弟の元へかけよった。

「どしたの、珍しい!あ、バイクだー」

あすかから目をそらし、リーゼントのすきまから地肌をぽりぽりとかきつつ何か訴えたげな秋生の分厚い肩越しに、あすかは、秋生の愛車を見初めた。
わざとらしく秋生の手前で立ち止まってみせて、へらりとわらって秋生を見上げる。

「久しぶりだよねー、遊びにきたの?」
「あー……、の、よ……」

切れ長の眼をみひらいたあすかが、ぱちぱちと瞼を瞬かせて秋生の言葉を待っている。
秋生の手元には、オイルにまみれた巾着。そのなかにはごつごつとした工具や部品が詰まっていることを、秋生とともにすごした時間を長く貯めているあすかはすぐに分かった。

「?それ使って何かするの?」
「……場所だけかしてくんねーか」
アイツがよ…ちっと、拗ねちまって……。

秋生が指さしたさきには、黙って主人を待っている愛機。
すべてを理解しておおげさにうなずいたあすかが、中途半端に開いていた扉をぱしんと開け放ち、秋生の単車を、家の中にまねきいれようとした。バイクひとつおさまる広さはある。何より、十数メートル走れば海にとびこめる場所に建つ家だ。秋生が大切にしているマシンを容赦なく叩くであろう潮風が心配だ。

店のかたすみにころがっていた軍手をつかむ。魚をさばくときに使うものだが、これはまだおろしたてで、真新しい。
軍手を秋生に手渡したあすかが、質問する。

「いいよー?中でやる?」
「いや、そこでかまわねー」
「潮風ふくよ?」
「すぐ終わらせんからよ、わりぃな?あすか」

そっか!と納得したあすかが、店先にある丸椅子をふたつ、外に出した。遠慮した秋生が顔の前で手をふると、ふたつの椅子をそのままに、あすかが丸椅子に腰掛ける。

「今日暑かったね、なんか飲む?」
「いいよ、すぐ終わんからよ…」

この切れ長の瞳に素直に見つめられ見守られることも十年来のこと。
照れ臭さもないけれど、誇らしさもない。やりづらさもないが、あすかのことを空気も同然とわりきり、完全なるマイペースを保てるわけでもない。
作業の準備をはじめながら、こどもじみた葛藤を心の奥底にくすぶらせはじめていた秋生をよそに、あすかは、ショートパンツのポケットから何かをとりだして、秋生のなまえを呼んだ。

「アッちゃんアッちゃん」
「何だよ」

チョコレート!

そう述べたあすかの手にのっているのは、金色の包装紙につつまれた物体。

男子の親指ほどの太さのそれは、どうみても、チョコレートとしてのかたちがくずれ、どろりと溶け始めている。

「……?」
「グアムのお土産だよ。ずっと渡せなくてごめんね」
「あ、ああ……」

丸椅子から、あすかが身軽にとびおりた。
秋生のそばにしゃがみこみ、トレーニングあけのあすかの体温でどろどろにとけてしまったチョコレートの包装をむしりとる。げっ!とけてるー!そんな言葉をよそに、あすかは、秋生の情けなくぽかんと開いた口元に、ぐいと押し込んだ。

すると情けなく呻いた秋生のことを、あすかが悪びれないさまで笑い飛ばす。秋生の口もとからとびだしたチョコレート。中身はアーモンドバーのそれを半分ぽきりとおって、自分の口にもほうりこんだ。アーモンドをコーティングしたべたつくチョコレートはまたたくまに舌でとけつくし、ごつごつとした舌ざわりの固形物があらわれる。

そのとき、あすかがさりげなくしゃがみこむ場所を変えた。あすかは、遠慮なく吹き付ける潮風から、秋生の愛車を守って見せた。

器用に作業をはじめた秋生が、ぶかぶかのぞうりをはいて、長い脚をたたみ、単車のそばにしゃがみこんだあすかをちらりとかすめとる。

そして、ずっと気がかりだったことをたずねた。

「合宿、だったかよ」
「うん、もうだいぶ前のことだなあ」
「はえーやつ、いっぱいいたか?」
「んーー……」

チョコレートをかみくだいたあすかが、小さな声で唸った。秋生の口の中をあばれていたチョコレートも同時にとけてゆく。どろりとあまったるいが、なかのアーモンドは本格的な味で美味かった。がりがりとかみくだきながら、さっそく作業を始めつつ、秋生は、あすかの言葉を待ってやる。

当のあすかは、秋生の問いかけに、そうとも言い切れないし、うなずくことだってできる。

あすかの頭とあすかの言葉ではまとめきれない自分の現状をこたえあぐねて、あすかはかわりに、汗の匂いがやや目立ち始めたトレーニングウェアをぺろりとはぐってみせた。

「腰、ちょっと痛いね」
「……行ってからか?」
「行ったこと、後悔はしてないけどね。やりすぎなのかー、やんないほうがいいのか、わかんなくなったまま帰ってきた」

秋生の手元がぴたりと止まる。
正月に自宅に泊まりにきたとき、腰が痛いと正直にぼやいていたのはよくおぼえている。

新しい年を迎えて、あっという間に秋生と夏生のまえから飛び出してしまったあすかのたどり着いた先は、けしてシンプルなものではなかったようだ。
このあっさりとした性格の従姉妹のことだから、そんな事実すら、こざっぱりと処理してしまえるのだと思っていた。
しかし、そうではないようだ。

今、あすかは、苦しんでいるのか。
それとも、吹っ切れているのか。
どちらの答えも見えない秋生が、あすかひとりでは海風から守れない単車のそばで、言葉を失う。

当のあすかは、言葉だけすっきりとした調子で続ける。

「今日はね、スイミングはおやすみ。陸トレだけしてきた」
「コルセットか?そいつ」
リョーがやってたかよ……。

事故に遭ったクラスメイトが、退院後もしばらく装着していたものにも似ている。
もう一度服をぺらっとめくったあすかが、ぼやいた。

「クセになってるみたいでねー。はやくなおらないかな」

ああ……と短く答えた秋生の手元。動きこそ器用だが、仕事のさばきかたは緩慢だ。容赦なく浴びせかけられる潮風を心配したあすかが、秋生をせかした。

「アッちゃん、潮風!やっぱ中でやっちゃう?入るよ?」
「あ、ああ、デージョブだ、すぐおわるよ」

秋生の手元を見守りながら、腰の違和感に少し顔をしかめたあすかは、丸椅子の上に戻る。
バレンタインにいくつチョコレートをもらったか。そんなこともたずねたかった。
この冬、どんなことがあったか。あすかが立ち止まっていた冬、秋生はきっと強くなったはずだ。そんなことも尋ねたいけれど。

今は、こうして、秋生を見守ることがここちよい。
長い脚を丸椅子の足に器用にひっかけたあすかが、秋生に語り掛ける。

「今日はツーリングだったの?」
「ああ。流してたんだよ」
「お友達は?」
「湘南くるっつてたっけどよ、ビリヤードだかいっちまったわ……」
「アッちゃんは流す方選んだんだね」
いーねー、そーゆーの!

工具を布の中にしまいこんだ秋生がまゆをひそめる。
あすかにわたされた軍手を丁重にはぎとりながら、あすかの謎の褒め言葉に首をかしげた。

「友達だけど、べたべたしないとこ!」

そう伝えたあすかが、思い切りのびをした。こうしていれば幾分腰はラクだ。
作業はすでに終わっていた秋生が、しゃがみこんだまま、入念に機械の調子をたしかめる。

あすかは、椅子に腰かけたまま所在なさげに足を前後させ、うつむいている。
何も言葉をかわさぬしずかな時間。そんな時間をあすかは楽しめれど、根が気遣いにたけた秋生は、いきなり静寂をえらびはじめたあすかのことが多少心配でもある。真里のように、女の気持ちをあっさり解せる技術はもたない。兄のように、短く的確な言葉で女の心をわかってやれない。

ポケットのたばこに手がのびかけた秋生は、ひとつ鼻から息を吐く。

そして、この町に出向くまで、まみえたりまみえなかったりした、この時期特有の風景について話を切り出した。

「あすかん家、桜みえねーよな?」

そもそも桜とは海辺に咲くものなのか。134沿いにこれといった桜景色は見当たらなかった。鶴ヶ丘八幡は満開であったようだけれど。
秋生の不器用な言葉に、ぱっと顔をあげたあすかが、そういえば、といった調子で相槌をうつ。

「そうだねー、まあ、ここからはとくに……」
この辺だと、龍口寺のあたりかな!

腰越から江の島へ向かうあたり。
江ノ電の線路と桜がうまく交錯する風景がある。
朝江ノ電で登校していると、その絶妙なカットを狙うアマチュアカメラマンの姿をしょっちゅう見かけるようになった。

もう春だ。
そういえば、あすかは、桜を楽しもうとする心など、ひとつも起こらなかったかもしれない。

秋生の不器用な語り口に、あすかの心のなかに、桜のような静かな風がふく。
長い腕をひろげて潮風から単車を守るジェスチャーをみせたあすかが、一転さわやかな声で秋生に提案した。

「あとでそのあたりいく?江ノ島もいけるよ」
「休みの江の島かよ!?混んでんべ……」
「アッちゃん、人ごみにがて?まぁそーだよね…どこも混んでるだろうなー」
「……あれからアニキとどっか行ったんか?」
「ナッちゃんと?うーーん……」
「花見とかよ、予定あんのか」
「あるようなないような…」

あすかはこうして、兄のこととなると言葉をにごすことが増えた。
この家にひさしぶりに訪れた己とちがって、兄は、時折ここに訪れているのかもしれない。

あすかを見守ることは、兄に任せたほうがいいだろうか。
それとも。

そして、秋生は、くねくねと悩むことは苦手な性分だ。
しゃがみこんでいた体勢から、すっくと立ちあがった秋生が、椅子にすわるあすかを見下ろして伝えた。

「行くか?」

キレよく伝えたその三文字に、あすかが細い瞳をきょとんと留まらせている。
幼いころからの阿吽の呼吸は、発動しなかったようだ。

めんどうくさそうに頭をかいた秋生が、ボソリと続けた。

「花見……」
コイツでよ。

秋生が、息をふきかえしたマシンを指さした。
軍手を秋生からひったくったあすかがいすからとびあがるように立ち上がる。

「行く!着替えてくる!」
「着替えてもかわんねーだろ」

くちがすべった。
勝手知ったるあすかの前では、一周回って不器用になる気遣いは結局余計なことで、言いたいことをはっきりと伝えてしまうしかない。

秋生の指摘をうけたあすかが、ウェアの裾をぐいとひっぱり、切れ長の瞳でまじまじとみつめる。
そして秋生も、小さなころから付き合いが深いあすかとはいえ、女子に対してさすがに失礼であったことは自覚した。謝罪の言葉を切り出そうとしたとき、あすかのハスキーな声がそれをさえぎる。

「かわんないね!これでいっか」

オイルまみれの軍手を、玄関を兼ねた店先のかたすみにほうりなげ、かわりに鍵をとりだす。椅子をしまいこんだ秋生が、戸締りはしたのかとあすかに尋ねる。ぶんぶんとうなずいたあすかが、扉中部と下部にある鍵をしっかりと施錠した。

「玄関しめとけよ、オンナ一人だろ…」
「そうだね、気をつけるー!前はね、ナッちゃんがずっといてくれたんだよー。今日はアッちゃんきてくれてよかったな」
「アニキ……?」
「ねえ、それ、いつももちあるくの?」
「ドーグか?ああ、そーだな…あとチェーンとかよ」

用意がいいなあーとつぶやいたあすかがとりだしたのは、メットだ。
さきほど、玄関のかたすみからとりだしていたらしい。
どうみてもそれは、秋生と夏生の守る店、真嶋商会からもちだしたもの。
おおよそ、夏生がここへ持ち込んだのだろう。

そこには触れない。
夏生のやりかたであすかを支え、あすかのやりかたで夏生を支えているのだろう。

そして、夏生がふれられなかった部分を、秋生なら聞いてやれるかもしれない。

秋生はメットをかぶらない。
毛先が緑色のリーゼントはすっかり潮風でべたつききり、精悍な腕にも塩気が感じられる。
この町でバイクを維持するのは一苦労だろう。

「もしここ住んでんとよ、大変だろーな」
「ああ、錆とか?洗濯物、外にほしたことないよー。車大丈夫なのかな」
「あすかんちの軽トラぁ、点検しても問題ねーみてーだぜ?」
「中はわかんないけど、外はべたべたになるよ。おじさんが洗車してる」

タンデムの要領をすっかりつかんでいるあすかが、秋生の背中にしっかり陣取る。

「アッちゃん、付き合ってくれてうれしい!」
「オレもよ、わりーな、軍手と場所」
「いいの、桜きれいなとこ、行こ!」
「ちったー元気になったか?」
「もっと元気になりたい」

気勢があがりはじめたあすかがぶんぶんと首をふると、ヘルメットが秋生の後頭部にヒットした。あすかがごめん!!と謝っているうちに、エンジンをかける。腰デージョブか?といたわる秋生の言葉にもう一度ぶんぶんとうなずいたあすかの頭を今度は華麗によけた秋生が、どこで咲くのかわからぬ桜のもとへ、この子に確かに元気を与えてくれるそれのもとへ、愛機とともに、駆け出した。

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