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春が沈んでいく夜に

つけ慣れぬ帳簿との格闘を終えたあすかが、分厚い紙の束とノートをぱたんと重ねてカウンターに肘をつき、女にしては大きな手にすっぴんの頬をのせて深いため息をついた。

疲れたと言葉にしてしまうのは簡単だが、なけなしの意地やプライドが愚痴めいた言語化を止める。

そんなとき、あすかはキャスター付きのいすを、下半身で器用にあやつり、振り返ってみるのだ。

あすかの背中に、いつもついていてくれるもの。
あすかのそばに、いつも自身を鼓舞してくれるもの。

千冬が、あすかの店を守るために与えてくれた特攻服が、漆喰の壁に打たれた釘にハンガーごと吊るされている。

事務いすにもたれて、純白の特攻服を見上げてみる。その胸元に、八尋がつかさどるチームのロゴが縫われている。

いすから立ち上がったあすかが、おもむろにハンガーから特攻服を剥ぎ取った。
この服がここにやってきて以来、ずっとハンガーにおさまったままであった。
事務作業で少し疲れた腕、血が溜まってだるくなった足。
そんな疲労のたまった体が、どうしようもなくこの服を求めた。

香水のかおりはとっくの昔にとれて、無味乾燥だ。洗剤の香りひとつただよわない。
埃はこまめにはらっているから、真っ白のままだ。
そういえば、蛍光灯の光や、真横の窓から差し込む光で焼けてしまうこともあったかもしれない。これからは、そうした自然や人口の光からも守らなければならない。

なんせこれは、夜にしか着られない服だから。

あすかと千冬の身長差は、わずか5センチ程度。
千冬の体はけして華奢ではないが、精悍に削がれていて、スレンダーだ。
中肉中背のあすかよりずっとつくりこまれた体。

そんな千冬のしなやかな体に沿っているサイズとは思えない。
この特攻服は、少しサイズが大きい気もする。これが千冬のためにしつらえられたのは、いつのことなのだろう。これからもそれを尋ねることは、ないのかもしれないし、いつか向き合うことなのかもしれない。

繕ったあともわずかにあれど、丁寧に使われてきたことがわかる。
千冬はラフで乱暴なところもあれど、雑な人間じゃない。

そのとき、あすかの頭のなかに、ひとつの思いつきがうかぶ。


あすかが着ているのはマリンボーダーのTシャツに、薄手のカーディガン。
服のうえから、特攻服をばさりと羽織れてしまう。

これがあすかを覆うとすると、どれくらいのサイズ感になるのか。
千冬があすかを抱きしめてくれるときのあの匂いは、ここにかすかに残っているだろうか。

ばさりと羽織ってみると、大きな特攻服は、あすかの指先までまるごと覆ってしまう。肩や背中もぶかぶかで、あすかの腿あたりまでおおった。中性的な体つきの千冬のことも、そのラインごと覆い隠してしまうだろう。

「わー……」

この特攻服に、どんな歴史がきざまれているのか。
千冬が傷ついてきたこと、千冬が流した血。平然と白いこの服に、そんな夜が残っているのか。
あすかの知らぬ夜に想いをはせて、えりもとをたててみたとき。


「似合ってるよ、あすか」
「……!!」

カウンターをへだてて、濃いシャドウにいろどられた瞳があすかのことを愉快そうに観察している。
いつの間にか、店のなかに千冬が訪れてくれていた。背伸びをして自動ドアの外を確かめてみると、ハーレーも停まっている。自分の想いにふけりすぎたとき、こうして音が聴こえなくなること、すべての気配を忘れてしまうこと、あすかにとってそれは一度や二度ではない。

「何びってんだよ」
「ご、ごめん」
い、いらっしゃいませ。

あすかのふざけた行為をとがめることもなく、その温度の低い瞳は、あすかにだけわかるあたたかさで、あすかのことを見守ってくれている。

「あすか身長あるからな、似合ってるよ」
あすかが着んとよ、可愛いよな。

そそくさとぬぎ、丁重な仕草でハンガーにかけ、元のエリアに戻した。ふたたび壁におさまった特攻服は、しずけさを放ち始める。

カウンターから中にまわりこみ、いいんだぜ?とつぶやく千冬が、誰もいない店内であすかの背中にぎゅっと抱きつく。

ドアの向こう側と千冬をみくらべて、あすかの体を自在に這おうとする千冬の手をおしとどめようとする。統計上、この時間から店に客がくることは極めてすくない。それもわかって、千冬はこうしてあすかにじゃれているのだ。

そしてあすかは、すこしの違いにも気づく。
千冬に気づかなかった理由だ。

「香水、つけてない」

掛け時計を見ると、あと数分で閉店だ。

千冬に身をまかせたあすかがたずねる。

「千冬さん」
「ん?」
「これ、ここにおいといたままでいいの?」
「ん、不都合あった?」
「あたしのほうは、ないよ。でも千冬さんに都合悪いことは、ないの?」
ほら、洗濯中のときとか  

あすかの黒髪をかきわけて首筋をはみながら、

「クリーニングにだすんだぜ?」

千冬がしれっとそう伝える。ますますあすかに強く抱きつく千冬が、耳元にくちびるをはわせた。

「スペア作ったんだよ、コイツここに持ってきた後にな」
「へえ、何枚かもってるんだ」
「オレんちに二着、あと一着は、渉のマンション」
「いっぱいあるね?あたしの制服より多い」
「そーなんだよ、一個でいーっつったんだぜ?でもよー渉がなー…」

言葉をきった千冬が、あすかの首筋を強く吸い上げ、唾液にまみれた赤いあとを残した。

閉店時間だ。
千冬の腕を丁寧にほどいたあすかが、首元をおさえたままぱたぱたと自動ドアの方へ小走りにかけより、下部の錠をまわし、スイッチを切り替えてセンサーをきる。
ブラインドをおろせば、店はとざされる。

そばに寄ってきてくれた千冬のほうを振り向いたとき、そのまま正面から一気に抱きしめられた。

めずらしくごっそりと売れたお酒。がらんとあいているテーブルの上にとっさにすわると、千冬のあでやかな顔が目のまえにあらわれる。
ボルドーのルージュにふちどられたくちびるに、じっくりとたどられ始めた。  



しめたらさっさと帰ってきなさいと母親に叱られたのは、昨日の8時ごろだ。
千冬は、あすかの母親のごはんのさそいをことわって、そのまま帰ってしまった。さみしがっていたのはあすかより母親の方だった。

店の中で、ぎりぎりのところまで、行う。

そんな行為が背徳的で、いくら仕事後とはいえ、この店をのこしてくれた父に失礼ではないだろうか。時折そんなことを思うあすかが煩悩をふりきるようにむやみやたらに細かい掃除を施す姿。そんな奇妙な姿を見た母親が首をかしげている。

そうこうしていれば、昨日とほぼ同じ時間を迎える。
特攻服はしずかに吊るされたままだ。
今日は母親も店に入っている。

そろそろ閉店か。
あすかが、自動ドアをしめにむかおうとしたとき、聞きなれたエンジン音がおどろおどろしくひびいた。

その音を確かかんじたあすかが、その名前を呼ぼうとしたとき。

「わりー!あすか!」

店にとびこんできた千冬が、ぐしゃぐしゃにまるめた分厚い布をあすかにわたした。

黒いコートを纏ってそのまま店の奥までかけこんだ千冬が、つるしていた特攻服をひったくる。
完璧に整えられたウェーブがひらりとひるがえり、金髪の下から、翼をもつ女の刺繍と、曼珠沙華という感じがのぞいた。

「そいつ、かけとけよ!」

あすかにおしつけた布を指さした千冬がそのまま店から飛び出した。

「ち、千冬さん!!」

すれちがいざま、あすかの肩にかるくふれてくれた。
あすかの店を守り続ける特攻服をつかんだ千冬は、あっというまにハーレーごと消えてしまった。

一連の風のような時間を見守った母親が、きょとんとした調子で、それ何?とあすかにたずねる。
母親にうながされ、千冬に手渡された分厚い布を一気に広げてみる。

それは、あすかの店を守り続けたそれと全く同じデザインの、血塗れの特攻服であった。



手洗いよりクリーニングがいいだろうと母親は語った。
仕事の速いクリーニング店にあずけたそれは、もう洗浄を終えたようだ。仕上がったと報告する電話がかかってきたので、翌々日の閉店後、あすかは江ノ電に乗って長谷へ引き取りに向かった。

一昨日、そして昨晩、千冬の家に電話をかけてみたものの、あきれ声の千冬の母親が、まだ帰ってきていないのよと教えてくれた。たぶん、渉くんのマンションね。渉くんもはぐらかすのよー。だなんて言ってのける千冬の母親の声音は軽やかだが、その奥に不安と懸念が潜んでいることは、あすかにもわかるようになった。

長谷のクリーニング店で、紙袋につまった特攻服を回収したあすかは、ちょうど訪れた江ノ電に、遅くまで観光を続けて帰宅する僅かな数の観光客とともに乗り込んだ。特攻服に守られていなかった二日間、とくに店に異変はなかった。それでも、そこにあるものがないということは、欠落したような不安があるものだ。

シートに座らず立つことを選んだあすかは、きれいにたたまれて紙袋のなかにおさまるそれを、視線を落とす。
これは、あすかの店にずっと棲んでいた特攻服とは違うものだ。
千冬の残してくれた言葉どおり、これをかけていてもいいものか。
それともこれが千冬の本体といえるのだろうか。
デザインは全く同一。
曼珠沙華。彼岸花の名前が縫い抜かれている。
千冬は先日、だまし絵のような刺繍がはいった黒いコートを着ていた。
翼。炎、女の体。

あすかのそばにいてくれる千冬と、別の顔。
先日。あすかの店にかけこんできた千冬のメイクは、いつもとちがっていた。
あすかにきかせてくれる言葉とは、ちがう言葉を話す千冬。
無味乾燥の特攻服。あれが守る千冬が、傷ついてはいないだろうか。

紙袋をぎゅっと抱きしめて、気のおもむくまま和田塚駅で降りたとき、あすかは、知らなかった。
江ノ電からなんとなく降りて、海沿いを歩いて帰ることを選んだこと。

由比ヶ浜の駐車場。


土曜日の夕暮れのこの時間から、AJSの集会はすでにはじまっていたことを。



「うっ……」

ちいさな声で低い驚声をあげたあすかは、暴力的な歩行者天国と化した道路のまえで立ち止まる。一般車がそそくさととおりすぎるなか、あすかもあわててR134を海側へ渡った。

なんせ、規模の大きな集会。
そして意外にも、鵠沼のお嬢様学校の制服や逗子の公立高校、はては厚木の高校まで。なぜか、カタギまるだしの女の子たちも入り乱れているのだ。あるいは、ゴージャスな装いの女性たち。特攻服を着ていない少年も多数群れていて、祭りのように和気あいあいとして見える。しかし、どうにも暴力の匂いはけせない。

あすかはいたって地味な装い。特攻服の男の子たちはおおよそあすかのことは歯牙にもかけぬだろう。

それにしても、どこまでもつづく暴走族の群れ。
聞きなれたコール音。
このなかに千冬や八尋もいるのだろうけど、探しあるく意味は、ただ今ないはずだ。そしてきっと、近づくなと叱られるだろう。

人の波をそそくさとよけながら、由比ヶ浜と材木座海岸のさかいめにさしかかり、あすかが胸をなでおろしたとき、あすかの痩せた肩に、太い腕がからみつく。

えっと声をあげるまもなく、たばこと薬物くさい息があすかをむしばみはじめた。

ろれつのまわらない声。口元にたまった泡。
あすかはスキでもあるのかなめられやすいのか、ろくに異性に声などかけられぬものの、今にも人間をやめようとしているこうしたタイプのオトコにからまれることはあるのだ。

そしてこうしたタイプは、受け流そうとすると逆上する。相手が抱く不快感や嫌悪感に、異様に敏感だ。
そこに、さらに数人。
こうしたオトコ一人を相手にしたことはあれど、集団はない。
特攻服に縫いぬかれている刺繍は千冬や八尋のそれではないけれど、あまりに当て字にすぎて、まともに解読できやしない。

やめてという言葉は逆効果かもしれないが、はっきりと言葉を尽くすしかない。
千冬と出会うまえなら押し黙ってガマンしていただけであっただろう。
千冬と出会ってから、あすかは、自分の言葉で自分の気持ちをはっきりと口にすることを学んだ。

とはいえ、話が通じるものだろうか。
とにかく、首元にからみついた質の悪い生地ごしの腕をどうにかしたい。

あすかが、なるべく強めの語気を意識して、口を開こうとしたとき。


「そのオンナ、こっちよこせ」

ききなれた声。
あじわいなれた香り。
その声の持ち主が一人の背中を背後からおもいきり蹴ると、男がどさりと真正面にたおれた。

人がひとり情けなく倒れていくさまを見やったあすかは、そのなまえを、心の中で呼ぶだけだった。

あすかを救い出したその精悍な腕が、あすかの肩を抱き込み、群の中をきりさく。

「千冬さん……」
「待ってろ、もーすこし」

由比ヶ浜は美しく暮れ行く時間だ。春先のとろけるような昼が夜にかわってゆく時分。
そんな夕日を楽しむ余裕もなく、あすかは千冬に抱かれて、彼のペースについて歩き続ける。

「ここでいいか」

気付けば、集会の喧騒からはずれた場所。
千冬は、材木座海岸に降りる階段まであすかを連れてきた。

「びっくりした……」
「大丈夫か?何もされなかった?」
「平気。千冬さん、あたしが迷い込んじゃったの、怒ってないの?」
「だっからここで集会やんのやめろっっつったんだよ、オレぁよ……」
「いろんな子、まぎれこんでたもんねえ……」

ちらちらと背後をふりむく千冬は、あすかのことを体で隠してくれているようだ。
見慣れた特攻服。
胸元に、獅子頭のペーパータトゥ。
ひときわきまったウェーブをかきあげた千冬。

特攻服は見慣れていても、特攻服姿は、あまり見慣れない。

「しゅーかい、だよね?」
「そーだよ。再編成したばっかだからよー、まだまとまりねんだよ」

あすかにくっついて座ってくれている千冬が、土曜の夕方から外に出ているあすかのことを尋ねる。めずらしそうに夕陽をみつめるあすかが、千冬の問いに首をかしげた。

「あすか、何やってんの?店は?」
「お店はお母さんがやってて、今日はね、これをね、とりにいってたの」

紙袋をあけたあすかが、千冬に中を見せる。
そういえば、こんなものを守るように抱えていることがバレたらどうなっていただろうか。
無遠慮に腕をつっこみ、紙袋のなかをあさった千冬が、その慣れた生地にふれてようやく悟った。

「クリーニングかよ、わりーな……。ひさびさにこれ着っとよ、パリパリになってたぜ」
「ずっとかけてたからねー、やっぱ着ないといけないのかな」
「クリーニング代、お袋ん店の請求書につけといてよ」
「いいよ、これくらい大丈夫」

そのとき、紙袋をのぞきこんで語り合うふたりの背後で、地下足袋が砂を踏む音が響いた。

あすかが振り向くと、見慣れた顔がまたもあらわれた。
その畏怖に満ちた表情は、あすかのことを穏やかに見守ってくれているようだ。

「どーしたあすかちゃん、うちぁレディースねえぞ」
「八尋さん、こんばんは」

階段にすわりこむ千冬とあすかのそばに、八尋も腰をおろした。
怒られるか或いは早く帰れとしずかにせかされるかと案じていたが、なぜかあすかは歓迎されているようだ。

だからやめろっつったろ!あすか巻き込んじまったぞ!と愚痴をこぼす千冬に、無事だったんだからよかっただろとかえす八尋は、あすかをはさんで討議を続けている。そもそも、千冬は集会からあすかを連れ出すためにここまできてくれたのだ。このまま三人でのんびりと語りこんでしまってかまわないものなのだろうか。そう思案していると、千冬がまるで茶化すように続けた。

「あすか、トップク一枚もってんぜ」
「クリーニングしただけだよ。も、もう帰るから……」
「タッパ似たよーなもんだよな、二人。あすかちゃんも着れるだろ」
「着ないからね、着ないよ」
「すっぴんで着んのもいいけどよ、かざんのもいーもんだぜ?」

そううそぶく千冬を、あらためてじっくりと観察してみる。
アイシャドウの色も、ハイライトのいれかたも、口紅は一緒だけれど、ほどこすメイクの趣が、あすかのそばにいるときと少しずつ違っているのだ。
パーツごとの違いが重なって、今の千冬はやはり、あすかのしらぬ夜を生きる千冬だ。

そんな夜をさとったあすかは、そろそろ場違いだということをいい加減伝えなければと決心する。

「あ、あたし、そろそろ」
「次ぁ店にこいつ飾りな」
「あすかちゃん、歩きか」
「そうです」
「じゃ、暴走れねーな、あすか」
「はしんないから!」
「あすかもメイクして走っていいよ?」
「走らないよ……軽と原付しかないしさ……」

紙袋をぎゅっと抱えたあすかが立ち上がろうとしたとき。
のんびりとたばこに火をともした八尋が、千冬同様、落ち着いた声にからかいをこめて会話を続けた。

「あすかちゃん、化粧向かねーツラだろ?」
「は、はっきりいうね八尋さん……そのとおりなんだけどさ」

いやみでもなければ、挑発でもない、まっすぐな言葉をあびたあすかは、むしろかえってきもちがいいのだ。
八尋のことばには、本音しかないからだ。いつだって正直だ。
八尋と初めて会ったときから、この青年はあすかと、率直にそして誠実に接してくれていた。脅しも畏怖もひとつもなくて、あすかのことをひとりの人間として扱ってくれた。

そしてあの冬を越えて新しい春をむかえた八尋は、明確に何かが変わったようだ。
きっと八尋は、あの冬まで知らなかった何かを知り、そこから学び、ひとまわり大きな男に育ったのだ。そんな八尋に、千冬は、かわらぬ美しさで寄り添いつづけるのだろう。

ともあれ、八尋の指摘どおり、あすかはパーツがくっきりとしているが輪郭や口元がととのわず、頬骨も目立ち、メイクでかざりにくい顔であることを重々自覚している。

「オレぁダチにぁよ、オンナでもはっきりいうんだよ」
「そっか、八尋さん友達かあー」
「元がイイっつーことだよ」
「はぁーー???」
八尋さん、何ゆってんの??

そこまでくるとまるで冗談にしかきこえないことを真顔で述べる八尋のことをゆびさし、あすかはあきれかえって千冬にたずねる。

「渉とんなやりとりするオンナ、あすかだけだぜ……」

海へ続く階段に座り直したあすかのそばに相変わらずぴたりとくっついている千冬も、あきれ果てる。

「もとがハッキリしてんからな」
「あすかに似合う化粧あるよ?オレがおしえてやる」
「おしえてくれるの?あたしも大学生になったらメイクするから、千冬さんにならう」

ぎゃあぎゃあとやりとりがつづくなか、千冬は、ちらちらと、すぐそこまで広がり始めた集会の変化をたしかめる。陽がすっかりくれて、制服姿の女の子たちが要領よくかえされはじめたとき、八尋の声色がかわった。

「そろそろか」
「あぶねーから行け」
「ん、うん、帰るね!」

立ち上がったあすかを、千冬がかばうように守る。
そして八尋に冗談めいた口調でせかした。

「渉ん車でおくってやってよ」
「大事になるぞ」
それによ、勘違いされんだろ。

大丈夫だよ。

紙袋をぎゅっとだきしめたあすかが、砂浜の向こうを指さす。
このまま砂浜をあるき、犬の散歩をしている住民やビーチコーミングをしているグループにまぎれて、トンネルをくぐって材木座の町に消えるつもりだ。

「あっちから帰るから」
たぶん、あすこまででたらもう大丈夫だよね。

「ペンもってない?」

千冬の言葉にこたえたあすかが、ちいさな鞄のなかからボールペンをとりだした。

受け取った千冬が、特攻服がおさめられた紙袋にさらさらと数字をしるす。

「ここに電話しろ」
「携帯電話?」
「渉の。無事家ついたら電話して。すぐ帰れよ、ぜってーだぜ?」
「あすかちゃん、気をつけて」
「ありがとう!」

あすかはもう振り向くことはない。
八尋と千冬も同様だろう。

ぬれた砂浜にスニーカーのつまさきをとられながらぺたぺたと歩くあすかは、急速に夜に向かう暗さを味わって、突如我に返る。

今の時間は何だったのだろうか。
紙袋を胸の前でかかえたままのあすかには、彼らに流れる時間、彼らにおこる変化が、いまだわからない。

よく知っている顔、よく知っている声、あすかを大事にしてくれる声。

紙袋の電話番号は、夢ではないはずだ。
振り向くことのないままあすかは、材木座海岸から左にそれて、青白い町のなかへ小走りに消えてゆく。



紙袋に書かれた数字どおり、自宅の電話のダイヤルをおして、電話の先を呼び出す。
3コール目でこたえてくれた声は、あすかのしらぬ夜をむかえ、あすかのしらぬ夜に暴走りだし、あすかのしらぬ夜からあすかを守ってくれる、愛する人の声だった。

title;約30の嘘さま

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