Novel
ラキスト

髪の毛にスプレーしたあとドライヤーでかわかせば、この黒髪がたちまち茶髪に変貌するという、ヘアスタイリング剤。寝るまえに、まんべんなくふきかけたあと、ドライヤーを雑に当てる。
一晩たち、気怠い目覚めを迎えてみても、情けなくねぐせのついたあすかの髪の色は、さほど変わっているとはいえない。しかし、ただでさえ美しいわけでもない黒髪がいつもよりパサついている気はする。ブラシをとおすと、髪の毛にひっかかるのは、いつもどおりだ。

夏の残りの重たい暑さが、ゆっくりと癒えてゆき、秋の静かさ、深さに変わってゆく季節。文化祭を間近に控えた学校は、どことなく、風とおしのいいムードに満ちている。行事前の昼休みの喧噪からのがれてこの港洛中のなかの隠れ家のような中庭に、自然と足は向かっていた。

それなりの賑わいをみせている中庭だけれど、今日はひとけがない。ここに集う不良少年少女たちも、行事の準備か、はたまた運動場で球技に耽っているのか。
あすかは、静かな中庭のかたすみ、花壇の石塀に腰を下ろした。

そして、制服のスカートのポケットから、堅く小さなハコをとりだしてみる。

ラッキーストライク。

パキっとした気持ちいい感触のハコ。上下に赤いラインがひかれている。そして、ハコの中央に、黒い円、カーキ色、白ときて、真っ赤に塗り込められたサークルのなかに、黒字でラッキーストライク。
なんだか、わけもわからず、かっこいい。

親のスーツの内ポケットから、あわただしい朝、こっそり抜き出してみたのだ。
ついでに持ち出してきた、やすっぽいライター。液体の色は蛍光グリーン。

このふたつを持参してみたものの、さて、どうすべきか。

今日はめずらしく静かな中庭。食欲もわかない昼休み。あすかたったひとり。

港洛中の中庭は、日ごろ、はぐれものたちがたむろする場所となっている。しかし、果たしてここは、「あすかの場所」といえるのだろうか。あすかは、日ごろここにいるものたちを見下しているつもりもなかれば、ここに属しているつもりもない。群れるのはニガテだ。だからあすかはヤンキーではない。ではあすかはふつうの人間なのだろうか。顔立ちからか、年齢より少しだけ上に見られることも多い。一方的に遠巻きにされることもあるけれど、なめられることもあまりなく、ふわふわ浮かんだ、味気ないけれど苦痛でもない、そこそこの中学生活をおくっている。勉強も体育も、その他総合的ないわゆる中学生らしい・中学生的活動も、突出もせず低迷もせず、そこそこやれている。そう考えてみると、人より多少大人っぽい顔だちで、一人で校内をふらつき、一人になれる場所をもとめてこんな場所へやってきて、ポケットにしのばせたたばこを思わせぶりに手にしてみても、結局あすかも、ふつうの人間なのだろう。

ここで、港洛中のこどもたちが、たばこをこっそりすうことは、いたって普通のことだ。教師にも黙認されているようなものだ。
そう言い聞かせ、すでに封をきられているたばこのハードケースから、一本だけ、引き抜いてみる。そのとき、

「あれー、あすかちゃんだ」

澄み切ったアルトが、静かな校舎裏にひびいた。
それは、待ち望んでいた声だった。ここへ来れば会えるかもしれない人の声だった。
華奢な体。異様に整った顔。すべすべの肌。160センチとすこし、あすかとあまり変わらない身長。音をたてて流れていくような、栗色のさらさらの髪の毛。
隣のクラスの、鮎川真里。

真里とは、1,2年生時に同じクラスだったのだけれど、3年生に進級した際、離れてしまった。思春期を、閉じこめられた教室のなかの、すこし離れた距離で一緒に過ごしたから、この少年の声変わりのタイミングも、こっそり楽しんだ。席替えでときどき近くの席にもなったし、下の名前に敬称をつけて呼び合う、そこそこの距離の顔見知りになれている。

たばこを指に挟んだまま、真里に手を振ってみる。この格好、それなりにきまっているだろうか。

「あれー、真里くんだ」

あの美少女の同級生のように、マー坊とよんでみたいけれど、とうていよべない。

真里のさらさらの髪の毛が、真昼のひざしをうけて、天使みたいにきらめいている。栗色の髪の毛。地毛なのだろうか。脱色や染髪で、この髪の艶はありえないだろう。ややぱさついたままの自分の髪の毛に、手ぐしをとおしてみた。

「オンナノコのようにかわいい」男の子なんて、生まれてこのかた、あすかは、真里しか見たことがない。これをうっかり吐いてしまった男子が、血だるまにされているのを見てからあすかの胸の中で、懸命に沈めている所感でもある。

真里がポケットから、くしゃくしゃになったたばこのケースをひっぱりだし、一本だけ引き抜いた。何の銘柄だろう。よく見えないし、見たところですぐに判別はできない。
真里はそのまま、高い水飲み場に、ひょいと腰掛けた。そこは、水道が枯れてしまっているようで、水がでなくなっている。水分はかけらも付着していなくて、確かに座るにはちょうどよさそうだ。でも、あっさりと腰掛けるには、高すぎる場所にある。
そんな場所に、真里は、ひょいととびあがり、バネの力だけであっさりと腰掛けた。真里の身軽さは、体育の授業や体育大会でしかと目にしたから、よく知っている。サッカー部やバスケット部、陸上部にも、大きな大会前には助っ人参加を打診されてるみたいだ。でも、すべて断っているらしい。

「あすかちゃんも吸うんだ?」
「ん?う、うん」

本当は、たばこの吸い方もしらない。

ひとまず口にくわえて、みよう見まねで火をつけてみた。
では、ここからどうすればいいのか。
とりあえずすいこんでみたあと、思い切って口から吐き出してみる。

まあ、悪くない。

口のなかでもくもくと煙が充満したあと、ただ単に、それが出ていくだけだ。
たばこを吸うとは、この程度のことなのだろうか。
よくわからないまま、吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返す。

真里をちらりと見ると、高い水飲み場にこしかけたまま、楽しくもなさそうな、つまらなくもなさそうな、きょとんとした真顔で、淡々とたばこを吸っている。

自分も、そんな風に見えているだろうか。あんなふうに、あたりまえにたばこを吸えているだろうか。
かっこだけはついているかもしれない。
この行為のなにがいいのか、なにがわるいのかもわからないまま、すっていたたばこは、いつのまにか、短くなった。

不良少女・不良少年たちがここにいたという証のような吸い殻が、そこらじゅうにおちている。そこに投げ捨てようと思ったけれど、なぜだか、それはできなかった。ティッシュペーパーにつつめばいいのか。携帯灰皿なんて持っていない。よくわからないまま、完全に火が消えたことを確認して、たばこのハコのなかに、みじかくなったそれを戻した。

どことなく口の中が苦みをおび、刺激をおびた辛さもみちてくる。

軽い音をたてて、真里が、高い場所から地面に降り立った。

そのまま、真里があすかの隣に座った。


少し、背が伸びたかな?


あすかは、自分の隣に座った真里の身長を、己の肩と比較して、こっそり確認してみる。

「ラキストじゃん!」
一本いい?

「いいよ」
あすかはおぼつかない手つきで、ハコからたばこを抜き、真里にさしだした。

真里が、こなれた手つきでライターを点火させて、たばこに火をつけた。よく見てみると、手にしているのは、横浜ベイスターズのライターだ。好きなのか、其処ら辺にあったものを適当に使っているのか。真里はいたってフレンドリーだけど、あまり踏み込んでゆくのは、怖い。
じりじりと燃えてゆく、真里の目と鼻のさきにある、灰とだいだい色の先端を、あすかは横目でちらりと見やる。

あすかは、それとなく、共通の知人となるだろう女の子の話題を切り出し始めた。

「晶ちゃん、このまえ、文化祭の装飾の手伝いにきてくれて」
「晶がー?マジぃ?」
「晶ちゃん、手際もいいね。もっと怖いのかと思っちゃった」
晶ちゃんって呼んでいいよって言ってくれた。

「もっとはやく友達になれたらよかったな」

いつも三人で一緒にいる子たち。こう思えたのが、致命的な妬みが生まれる前でよかった。となりに座っている男の子が大切にしている女の子は、そういう子だったことを知ることができた。

「晶は頭いいかんねー」

いつも行動をともにしている、幼馴染のエピソードを、真里は気軽に語り聞かせてくれる。
真里の言葉をききながら、あすかの手のなかであそぶ、安物のライター。このまえ映画でみた女の人は、シガレットケースにたばこをつめて、マッチで火をつけて吸っていた。

「あすかちゃんもせっかく頭いいのに、こんなもん吸ってたらバカになるよ?」

あすかが、気取って咥えているラッキーストライク。

そう忠告した真里の指が、あすかの眼前にのびてきた。
あすかはややうろたえ、すこしだけ後方に身をひく。

やたらほっそりとした、きれいな手だ。
そして、こどもっぽい手だ。

その手が、あすかのくわえているたばこを、やおら抓んだ。

あすかの、爛れたような、ぷっくりとした口から、たばこがそっと引き抜かれた。

そのたばこは、真里の口元へうつる。真里の細い指によって、さきほどまであすかが咥えていたたばこは、真里の口元へ移動した。

あすかの、やや厚い唇は、たばこの大きさに、ぽかんと開いたままだ。

そのかわり、真里が今まさに吸おうとしていた、新しいたばこが、あすかの口に、すっとさしこまれた。

真里が咥えたばかりのたばこ。それを、そっと咥えさせられたので、あすかはあわてて、指でうけとめ、咥えなおす。狼狽していること、動揺していること、バレてしまっただろうか。あすかのもともとさほど変化しない表情が、あからさまにうろたえてしまったこと。バレてしまっただろうか。

今の自分は、たばこをくわえたまま、さぞ間抜けな顔をしているだろう。

「こっちのほうが、きつくねーんだぜ?オンナノコは緩いのにしなよ」

真里がライターをともし、あらためてラッキーストライクに火をともす。その先が、あすかのたばこの先にふれる。

先端にともった、だいだい色の光。

「ま、無理して吸うことないんじゃん?」

あすかは、虚を突かれたような面持で、隣にすわった真里を見つめる。

「どーしても吸いてーなら、そのやりかたのまま吸ってなよ?」
せっかくー、肌もキレーなんだしー?

真里の繊細な指が、あすかの頬を、滑らかに辿ったあと、悪戯っぽく離れた。


バレていた。
たばこの吸い方も、わからないこと。


晶ちゃんと付き合ってるの?
私も、マー坊くんって呼んでもいい?

そう質問する勇気がないことも、バレているのかもしれない。


「んじゃ、俺いくわ!」

あすかの肩をぽんとたたいて、真里は去ってゆく。ラッキーストライクを咥えたまま。さすがに中庭から出てゆくときは、たばこは捨てたほうがいいんじゃないだろうか。そう声をかける隙もあたえず、風のようにかけだしていく。

「じゃーね!あすかチャン!」

栗色の髪の毛が、昼下がりの淡い自然光の下で、さらりと光った。明日になればあすかのぱさついた髪の毛は、彼のように、美しい栗色になっているだろうか。



あすか、あすかと呼ぶ声がする。あわてて、たばこを口から抜いて、石塀にこすりつけて火をけした。真里にあたえられたそのたばこを、乱雑にハコにつめこんだあと、スカートのポケットにラッキーストライクのハードケースをつっこんだ。
本当に一人でいたいなら、本当に群れにたよらず生きていたいなら、こんなに狼狽してたばこをかくすこともないだろうに。
誰の前だろうが、堂々と吸ってしまえばいい。
いつもなんとなく一緒にいる子たち。あの子たちに、このにおいでバレてしまうだろうか。

いや、ここは港洛中だ。こんなかおり、どうってことない。どうってことないかわりに、真里の言う通り、やはりこれは、親のスーツにこっそり戻しておこう。
手際よく手伝ってくれた晶のように、ひとりの時間も、仲間とともにすごす時間も大切にする真里のように、自分以上に大切にする誰かをもっている、この子たちのように。己も、このたばこのかおり漂う中学校で、もう少し頑張ってみてもいいかもしれない。
気づけばやや空腹だ。購買に残っているパンでも買って、とりあえず一緒に過ごしてた子と、こんなところへわざわざさがしにきてくれる、あすかの名前を呼んだ子たちと一緒に、食べてみようか。
あすかは、声のする方へ歩いていく。そして、群れの姿をみつけて、大きく、手を振った。

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