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どうかあなたの終わるとき 後

物騒な刺繍入りのこの特攻服は、衣服としての体を失いかけている。
沁み込んだ血液を水洗いで最低限吸い取った後、土よごれや靴の足跡も、手洗いで丁寧にぬぐいさっていく。

乾ききったところで、特攻服を一気に広げて、傷ついた箇所を確認する。
あの男の子の身体だけではなくこの服も同時に負ってしまった傷口を入念に確かめてゆく。

さほど手強い仕事ではないことを確信したあすかの母親は、針をなめらかにすすめはじめた。

娘は、わんぱくな子には育たなかった。
真面目な性格。ほどほどに明るくほどほどにおとなしく、ほどほどに後ろを向いてしまうこともある、どこにでもいる普通の子どもに育った。

従って、ここまで派手な繕い仕事を経験することもは、一度もなかった。

一人っ子の娘があの子をつれてきてから、男の子の面倒をみる、そんな新鮮な体験もさせてもらっている。あの少年の母親は、いつであったか、女の子もほしかった、そう打ち明けてくれた。そしてそれは、慎には言わないでくれとも。あすかの母親は、とりたててそんなことを考えたことはなかった。とはいえ、あの男の子をまるで息子のように世話をすることも増えた。着飾ったすがたの奥のあの少年の、無邪気さ。娘が傷つくことと同様にあの男の子が傷つけば、自分の胸も痛んでいることに気づいた。

今日がそうだ。

障子から、澄んだ朝日がさしてくる。
もう朝を迎えている。
今日はなかなか店を開けられないだろう。

娘が気丈に守り続ける店にも、同じものが吊ってある。
意外に生地は頼りない。
幾度も裏返し、縫い目の確認をかさねて衣服としての体を取り戻させるためにつくろいつづけながら、あすかの母親は、ほんの数時間前のこと、今日の深夜のことを思い出していた。

小さな少女のようにわんわん泣きながら、気を失った血だらけの少年をかるがる担いで帰ってきた娘。
片腕だけで鉄の塊をひっぱってくるすがた。
真夜中、何かにとりつかれるようにでていってしまったあすかを待っていると、その数時間後、おもいがけぬものと、慣れ親しんだ子を、泣きながら持ち帰ってきた。

なぜ緊急車両を呼ばないのか。
娘をそう叱った瞬間、この男の子と時間をともにしているかぎりそれはかなわぬことを、娘の背中でぐったりと眠り込んでいる少年のありさまを見てまたたくまに理解した。

あすかが千冬に出会うまえから、あすかの母親は千冬のことを知っていた。容貌は、あの素直でかわいらしい性格の親の顔をみていれば容易に想像できるモノであったから、たいした驚きはない。
慎む、という漢字を名前にもつ子。
その飾りようや素行より、年若い母親を、不躾に、そしてけなげにささえるすがたに、慎み深いいじらしさをみた。
意外にすぐになついてくれたこの男の子。人付き合いを得意にしているわけでもない娘がこれほど心を開き、頼り、そしてあの子に頼られる関係になるとは。あすかの亡くなった父親は、繕い、畳み終えたこの特攻服など、いっさい無縁である人。嘘をつかないことだけが取り柄の不器用な人だった。
その性格を受け継いだのか、まじめだけが取り柄のあすかが、あんなに自由な心の子とひかれあうとは。
なんでも型にはめてしまう世の中で、解き放たれることをのぞんでいる男の子。

そして、同じ年齢、似通った身長、深くつながりあっている二人は、この家の二階で、ひとまず、やすんでいるようだ。


あすかが昨夜着ていたざっくりとしたセーターは部屋のかたすみに畳んで置いておいた。
スクエアネックのブラウンのセーターに着替えて、ジーンズは昨夜のまま。
シャワーはあびたが、あすかの部屋のなかでしずかに守られている千冬が心配で、ものの数分で出てきてしまった。

ベッドによこたわる千冬のそばから離れないあすかは、こどものように泣きじゃくってしまった昨夜のことを思い出す。

千冬は、こんこんと眠り続けている。
あすかは結局、一睡もできなかった。24時間以上眠っていないのではないだろうか。

鉄の塊を敷地内にとめて、さほど身長の変わらない千冬を背負い、千冬さんが死んじゃう死んじゃうとだけうつろにくりかえすあすかが担いで帰ってきた千冬は、致命傷となるけがはなかった。

鍛えられた体の千冬をあっさりと二階まで運びあげて、母子二人で手当をほどこした。
ひえきり、疲労がかさなっていたことは本当だ。
それでも、千冬の血はおおむね返り血ばかり。
ただし打撲や捻挫にちかいケガはおっていて、片目もはれあがっている。今日一日は安静にしておくべきだろう。傷口からもつ熱が見当たらないことが救いだ。

緊急車両を呼べと母親にしかられながら、千冬の衣服を一気に剥いて、あすかの部屋着をきせた。

さっぱりとした服につつまれた千冬。メイクもすっかりはがれおち、雪のような真っ白な肌があらわになっている。切れ長の目元は何も飾らなくても美しい。
18歳の少年らしい幼い顔で、千冬はすやすやとやすみつづける。
片目のまぶたの腫れだけ、痛々しいけれど。

ひらいたカーテン。
そこから差し込む、冬の朝の澄み切った光。
ベッドに寄り添って、あすかは千冬のことを見守る。

ぺたりとカーペットの上にすわりこみ、千冬のそばに突っ伏して、眠気にひきこまれそうになったとき。

「あすか」

自分を呼ぶ、やさしい声に気づく。
はっと顔をあげたあすかは、妖しく優しい切れ長の瞳が、いとしく一瞥してくれたことに気づいた。

「な、死んでねーだろ?」
「千冬さん……」

涙はかれきった。
めざめてくれたいとしい恋人。
左瞼はいたいたしく腫れている。
雪のように白い千冬の頬に、あすかはそっとキスを落とした。



スレンダーだけれど筋肉と骨の重量感はある千冬を、自分の部屋まで平気で運んでしまったあすか。
せっぱつまってしまうと、これほどのパワーがあふれることがあるのだ。
日頃は、1800mlの瓶が6本つまったプラスチック箱をもちあげることもあれど、それをけして難なく容易にこなすわけではない。相応の徒労は、いつも感じているうえ、重量のある荷物を運ぶとき、千冬に手伝ってもらうこともままあることだ。

あすかに助けられた当の千冬は、電気毛布を敷かれたあすかのベッドの上で、毛布と掛け布団にぬくぬくとくるまっている。

「なあ、この包帯とっていい?」
「いいわけないよ!!千冬さんのばか!」
「ばかはねーだろ、ばかは」

あすかは知らない、横浜のあぶらくさい海のそばでの、鮮烈な夜。
あの夜をのりこえて、今、千冬はあすかのそばにいる。

「千冬さんが死ななかった……」

千冬がむりやり剥ぎ取ろうとする、そのしなやかな腕にまかれた包帯。
それを入念に確かめたあすかがつぶやいた。

「もう、なんでもいいから」

包帯越しの千冬の指が、ベッドのそばに寄り添い続けるあすかの前髪を撫でた。

「生きててよ……」

涙なんか枯れてしまったのだ。
気まぐれな千冬が、今日だけは、あすかの懇願をしずかに受け止め続けてくれている。

「会いたいよ、千冬さん」
「寂しい思いさせただろ」
またどっかいっちゃうんだよね?たぶん」
「あと少しだけなんだよ。我慢できっか」
「できるよ、大人だからね、あたし……」

それにしても、千冬は昨夜から何も食べていないはずだ。
あすかが気づかわし気に声をかける。

「おなかすかない?」
「すかねー、アレちょうだい」

テーブルの上におかれたペットボトルを千冬が指さす。
あすかが手渡した水を、ベッドによこたわったまま器用にあおった。体をすこしおこすときれいな顔がゆがむ。包帯越しに、傷ついた腕を何度もなでてやると、力をぬいてわらった千冬があすかに尋ねる。

「あすかは?」
「すかない。千冬さんの隣にずっといたい」
「オレはうごけねーよ。無理しねーでよ、食えよ」
「いらない。千冬さん、どこもいたくない?」
「ねてりゃなんとかなるよ」
「一人になりたかったりする?」
「ん?今はデージョブだよ?」

ヌードカラーの口元は、飾らなくても艶やかだ。
あれほど無茶な性格をくりかえしてもダメージ一つ受けない肌。
金髪は、すこしぱさついているかもしれない。

そして、傷ついた目元。

そうだ。
そうつぶやいたあすかが、テーブルの下に置いていた自分のバッグをごそごそとあさりはじめる。
そして、とりだしたポーチのファスナーを開ける。

「千冬さん、目薬さしてあげるよ、これ効くの。あたしもものもらいできたときにね…」
「いらねぇよ」
「いいから、そっちの目、ばいきんとかはいってるかもしれない」
「うるっせーな、いらねーっつってんだろ」

抗菌の目薬をつかんだまませまってくるあすか。
千冬が、その手を軽くはたいた。
はずみで、掛け布団の上を目薬が点々ところがってゆく。
それより、あすかの手は傷つかなかっただろうか。

こうした軽い衝撃すら、千冬はあすかに与えたことがない。
いたずらがばれた小学生のような表情で、千冬は、あすかの顔色を窺った。

「わ、わりー」
「……へー、千冬さんはそーゆー態度とるんだね……」
「?あすか?」
「それなら、こっちだってやりかたがあるから」

目薬をひろいあげたあすかが、掛け布団を一気に剥いだ。
電気毛布もぺらりと剥ぎとると、かわいらしい部屋着につつまれた千冬のスレンダーな体があらわれる。

スレンダーだ。
しなやかだ。
あまりに美しく、あまりになまめかしい。
どう考えても、中肉中背のあすかより、恵まれた体をしている。

それはすべて千冬の鍛錬のたまものであろうとも。

もやもやというのか、むらむらというのか。
不可解な感情におそわれたあすかが、ベッドによじのぼった。

そして、自由に動かせない千冬の身体の上に、一気にまたがった。
こうして組み敷き眺めまわしても、無駄な肉一つない顔は整ったまま。

千冬は、またもパワーをみなぎらせ始めたあすかにのしかかられながら、千冬らしくなくあわてた声で、動けないからだでいっぱいに抵抗を始めた。

「な、なにやってんだよあすか」
「目薬さすの」
「あ?あ、ああ、わかったぜ、あすか寝てねーからこんなことになってんだろ、前もあったよな、んなこと。なあ、あすかも休めよ、一緒にねよーぜ?」

あすかの気を分散させようと、痛む関節をこらえて、己を支配する彼女のからだをだきよせようとした千冬。
あすかは、千冬ののほっそりとした両手首をつかみあげ、片手ひとつで千冬の頭上におさえこんだ。

ぎりぎりとしめあげられた千冬が、喉の奥からあえぎ声をしぼりだし、整った顔をせつなくゆがめた。傷ついた腕。どれほど動かしても、あすかの力にはかなわない。

「あ……っ」
「なにエロい声だしてんの?両手おさえとくからね、おとなしくしててね」
「いっ……あっ……あすかっ……やめ……」
「しみないやつだよこれ、ちょっと薬品っぽいだけ。大丈夫だからね、千冬さん」
他んとこヘーキだったでしょ、これくらい我慢してね。

ベッドの上でじゃれあう二人。
逆転した立場。
いつだって笑って千冬の言うことを受け容れるあすかが、千冬を襲っていること。

そして、いつのまにか、あすかの部屋の扉が開いていたこと。
あすかの母親が、その人を家に招き入れていたこと。

じゃれ合って数十秒、千冬がようやく、かすむ視界にその青年のすがたをとらえた。

「……」
「……あっ」
「わ、渉!!」

扉のそばに、真顔でもたれ、仲睦まじいふたりを見守っているのは、八尋だった。

精悍な額を覆う包帯。
腕はきっと、吊るしていたのではないだろうか。千冬に劣らぬほどの包帯で覆われている。
この人も、千冬同様、この夜、ひどく傷ついたのだろう。

「じゃましちまったかよ?」
「八尋さん、あのね今千冬さんに目薬さしてるんですよ」
「……外、出っからよ、続けていいぜ?」
「渉!たすけろ!目薬いやだ……目薬……」

しなやかな体を何度よじろうとも、あすかの支配からは逃れられない。
女と間違えられやすい千冬は、幾度か薄気味悪い男どもにこうして、襲われかけ、組み敷かれたこともある。
そんなときは、激しい抵抗は小出しにしてゆく。ぎりぎりまで煽っておいて、一気に反撃をくらわせるのだ。

しかしあすかにそうはいかない。
そして、あすかの力は、千冬を支配しようとしてきた男どもよりよっぽど上質にみなぎっている。

ドアにもたれた八尋が、妙に穏やかな瞳でそのさまを観察している。
あすかと八尋。千冬がこころから信じているふたり。
その二人に見守られ、千冬が抵抗をくりかえす。

「い、いやだ、」
「そんなエロい声だしたって知らないから」
大丈夫っつってんでしょ?

千冬の腫れ上がった瞳に、目薬が一滴おちる。

はれあがったまぶたからのぞく、美しい瞳。

何度か瞬きをくりかえせば、薬品くさい液体が目元にしみこんでいった。

いくらでも残忍な笑みをうかべてしまえる千冬が、妙に素直な表情であっけにとられている。

「ね、大丈夫だよね?」
「しみねーじゃん、さっさといえよ」
「言ったじゃない……」

こすらないでね!そういい残したあすかが、またがっていた千冬の体の上から降りる。そして華麗にベッドからとびおりた。

騒動を見守り終えた八尋が、ばつがわるそうに口をひらく

「あのな、あすかちゃん」
「?はい」
「言いにくいんだけどよ……どーも、湘南じゅう噂になってるみてーでな……」
「……?」
「……背の高い女が、千冬んことハーレーごとさらっちまったって言われてんだよ……」
「!!」
「……千冬んこと右肩にかついでよー……ハーレーは左肩にかついでたっつー、噂がよ……」

そもそも、千冬を背中に背負っていただけだ。
だいたいあんな熱をもったものをかつげば、腕一面にやけどでも負うであろう。
どこのクマがそんなことをできるのか。
そして、今の状態のあすかでは、あのハーレーは動かせないだろう。

千冬が、力ない声で笑っている。
大声で笑い飛ばしていると、けがにひびくからだ。

しかし、あすかはあすかで疲労もたまっている。
八尋が聞かせてくれたそんなデマにつきあっていられない。

「はぁ……いいよべつにあたしが千冬さん拉致したってことで……実際あたしがつれてかえってるし!」

愉快そうに起きあがろうとした千冬を押しとどめて、あすかはその痩せた体に布団をかぶせなおしてやる。

「噂してる人みつけたら、あたしん家んこと宣伝しといてくださいね……」
お礼参りうけつけるけどー、そんかーし買い物もしてね・・・・・・。

ばたりと扉しめてみせるふりをして、あすかは、気をきかせて階下へおりてゆく。

あすかの部屋で、きっと、血なまぐさい話が繰り広げられはじめたのだろう。

彼らがこれから選ぶ道を、あすかがどうすることもできない。

見守ればいいのだろうか。それすらわからない。
あすかにできることは、何があっても、千冬が選んだ道を信じることだ。


母親が、あすかの特攻服をきれいに繕ってくれたようだ。そして、八尋くんはあの昭和の名画に出ている俳優の息子に似ているだの、わけのわからないことを話しかけてくる。
母親に、千冬の面倒をみてくれたことへのお礼を伝えながらお湯をわかしていると、階段がきしむ音がした。

八尋が、この家をあとにするようだ。

「言うの忘れてたな、あすかちゃん、合格おめでとう」
「ありがとうございます。面接の練習のときはお世話になりました。もう帰られるの?」

八尋が階段からしずかにおりてくる。
まだあちこちいたむのだろう。落ち着きを保った風体のなかに、確かに無理が忍んでいる。
いつだって傷一つないすごみある顔にも、痛々しいあとばかり。

「いい家だな、ここぁ。千冬が居着くわけだ」
「八尋さんは、大丈夫ですか?」
「ああ、どってことねえよ。千冬ぁさらわれたっつーことにしとくからよ……」
「……でも千冬さんも、もう帰っちゃうんですよね……?」
「今すぐには帰らないよ。……すぐアイツが必要になるけどな」

八尋が、あすかをしずかに見据える。
この人が、この家、この店、そして普段の千冬とあすかの前ではない場所で、どう変わってしまうのか、あすかは知らない。

この人もきっと、誰かのそばで、守られてきたところなのかもしれない。

「三日で終わらせるからよ。明日には千冬んこと、返してくれるか」
「千冬さん、きっと自分からそうします」

きしむからだで玄関にすわりこんだ八尋が、ブーツを身に着けている。
その精悍な背中に、あすかが尋ねた。

「でも……何がどうなって、ふたりしてこんなことに?」
「知りたい?」
「……知ったとこで、きっとわからないよね……八尋さんはそれ、病院行かなくてもいいんですか?」
「医者よかよ、よっぽどクスリになるヤツによ、看てもらったからな」
「……そのひとも、あたしと同じこと言った?」
「ああ。そうだな。j、今日は千冬やすませてくれ」
「明日かえせばいいんですね。そうする」

八尋が、かるく手をあげた。
閉じられていた錠をぱちんと回す。

「八尋さんも、気をつけて」
千冬さんは、今日はうちで預かるから。

この家を出れば、八尋は、数千もの人々を率いる、あの八尋に変わるのだろう。
しずかに残してくれた笑みは、確かに穏やかなものだった。


真新しいスポーツドリンクのペットボトルをつかんだあすかが、階段をのぼって自室に戻る。
かすかに開いた扉のすきまから、快適にきかされた暖房が逃げている。
扉をきっちり閉ざしたあすかが、恋人の名前を呼んだ。

「千冬さん」

髪の毛をかきあげた千冬。
その金髪は、つやをとりもどしはじめている。

「あすか、オレ生きてるよ」
「うん」

乾燥した大気。
窓から見える、ぬけるようなブルーの空。
真冬の昼の、まっしろなひかり。

確かに生きている証拠である傷をこらえながら、千冬が伝えてくれた。

スポーツドリンクをテーブルに置き、ベッドのそばに手をついて、あすかは千冬の手をとる。
しなやかな手があすかの手をぎゅっとにぎりかえした。

「いつでも、あたしのこと呼んで」

今日だけ、このやさしい手は頼りない。
どんなときだってあすかのことを支えてくれた手。

「いつだって助けにいくから」

何もできない自分だけれど。
何ももっていない自分だけれど。
何者でもない自分だけれど。
千冬を守ることは、きっとできる。
大好きな人を支えることは、必ずできる。

「千冬さんのこと、ずっと、守る」
「こんなの今回かぎりだよ」
「どんなことがあっても、大丈夫ってこと」

端麗に整えられた爪。
エレガントに伸びる指先。
傷が癒えつつある千冬の手の甲に、あすかは何度もキスを落とす。

「今まで、千冬さんにずっと守ってもらってたもん。あたしだってたまには」
「あすかんこと、好きでよかったよ」
「そんなの、あたしがだよ……」

千冬の手を覆っていたあすかの手。
そのとき、千冬の指に急に力が入る。
あすかのことを、ぐいぐいと引っ張ろうとしている。
きっとこれは、あすかをベッドにひきずりこもうとこころみているのだろう。

あすかはつとめて穏やかな声で、千冬を諭そうとした。

「千冬さん、その体じゃむりだよ」

千冬の肘まで力が入ったところで、千冬の体がわかりやすくきしんだ。
整った顔がゆがみ、のどの奥から傷ついた声が漏れる。

「ね、これじゃ大変だから……寝てて?」
「ああ、きつい。オレうごけねー。あすかがやってよ」

その短い言葉に込められたいくつもの願いを悟ったあすかが、一気に顔をあからめる。
さきほどまでの強さはどこへいったのか。
すっかりいつもの、千冬のことをそっと支え続けるあすかに戻っている。

「……いいよ、やる」

あすかが、穏やかに体を横たえる千冬の頬に、そっとくちびるをすべらせる。
目薬は瞬く間に効果を発揮して、千冬の端正な顔を元に戻し始めている。

「エロい声きかせてね?」
「簡単にはださねーよ?」

あすかは、千冬の真っ白のくちもとに、真っ赤なあとを咲かせる。
千冬がそうしてくれたように。
千冬が愛してくれたように。
千冬が、ずっとそばにいてくれたように。

あすかは、千冬のことを、真新しく愛し始める。

title;「エナメル」様


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