Novel
君という華

少し遅く起きた朝、パジャマは胸元から首筋にかけて随分あせばみ、湿りけを帯びている。
毛布を剥がしてみれば、部屋の大気はずいぶんなまぬるかった。
普段であればこのままくせのように点ける暖房のリモコンに、今日は意識が向かわない。

いつもなら見れない時間帯の情報番組で男性キャスターがつたえる天気予報。
そこでは、日中の気温は、20度まであがるとかたっていた。


予告どおり、ブレザーを脱ぎたくなるほどの陽気だった。髪の毛にまとわりつく羽虫。春から通う高校への通学路に、同じ虫はいるだろうか。中身がほとんど入っていないサブバッグを抱えたあすかは、自宅まで迎えにきてくれた友達と一緒に、港洛中へ向かっている。こうして一緒に学校へ行くのも最後だね、なんて、感傷にみちた言葉に、あすかもしんみりとした顔で、うなずいてみせる。


今日は、卒業式。
港洛中との、別れの日だ。


高校の制服の採寸も終えて、文房具やノートもあたらしくそろえた。
新しいかばんに、ハイソックス。髪の毛をまとめるゴムも何色でもかまわないし、そもそもあすかの長い髪の毛をまとめよと強制する校則も存在しないようだ。自由のかわりに、責任と決断力が求められる新しい生活は、およそ10日後か。

きまじめな制服に身をつつんだあすかは、強制される校則に、最後まで、ひそやかに、挑戦的に、おさまってみせた。

感傷にくれる友人とは違ってあすかの内心はずいぶん落ち着いていて、この日をむかえられることは、なぜだか、ぜいたくに思えた。



式の前にもらった卒業アルバムのほとんどは、あすかが撮影したものだ。たいしてうまくもないし愛情がこめられたものでもないけれど、やけにあざやかに印刷された写真の数々を褒めてくれるクラスメイトと、名残惜しく会話をかわした。
卒業アルバムの、中ほど。
青い背景に四角いトリミングでずらりと並んだ顔写真は、プロの手によるものだ。あすかは不器用な表情で、真里は、冷たいほどの真顔だ。生徒指導の教師により真っ黒にそめられてしまった髪の毛は真里の真っ白な肌と美しい目鼻立ちに映えているけれど、不本意なものにきまっている。アルバムのなかで、真里がおさまっているのはこれだけ。意図的に省かれたあの子たちは、あすかは忘れようにも忘れられない。そういえば、かつて教科準備室の入り口で真里に泣きついていた不良少年は、無事定時制に合格したと聞いた。

新聞部の後輩がつけてくれた花が、あすかの制服の胸元で揺れている。あすかがつかっていたカメラは後輩にとっくに受け継がれて、昨年あすかが担った卒業式の撮影をいう仕事を後輩がうけおっている。

作りこまれた厳粛さで始まった卒業式。答辞を読むのは、学年で一番頭のいい男の子だ。

すでに泣き出してしまった子もいるが、あすかの心はびくともしない。
あたたかいと感じていたはずの大気。空気が上へ抜けてゆく体育館のなかで、使い古した上履きをはいた足元が、今になって冷えてきた。


そして、真里。

あの子は、今、この体育館のなかにいない。
いや、あの子たちというべきか。
不良は行事が大好きであるのが通説だとあすかは踏んでいたが、卒業式に限っては違うのか。昨年は、先輩の卒業式で大騒ぎしていたけれど。

生真面目に合唱をしてみせて、校長の長いお話を聞き流していればやがて、卒業証書授与の時間であった。ただし、各クラスの代表生徒が受け取りに行くだけで、あすかには関係のない時間だ。
男女一名ずつ名前が呼ばれ、妙に機械的な動きで壇上までのぼってゆく。そんなすがたを目で追いながら、あすかが視線をうつすのは、通路を隔てて男女でわけられた席。苗字があ行のあすかは、すぐ左をむけば男子生徒の群れを確認できる。

あすかがちらりと学ランの群れを観察してみせたとき。


体育館にずらりとならぶ生徒たち。

体育館最後尾の席から、悲鳴のような声と、稲穂の波のようにうねるざわつきが聞こえた。

そわそわと男子生徒たちを観察していたあすかが、反射的に振り向いた。

卒業生、保護者、下級生。きれいに座席をくぎることでうまれた通路のような空間に、立っている生徒がいる。


栗色の髪の毛は、おとぎ話に出てくる外国の男の子のようだ。

超然と立っている茶髪の少年、鮎川真里に、ひとつの挑戦的な顔もなかった。ただ飄々としているのだ。
彼はいつもどおりだらしのないボンタンで、着古した短ラン。中はきっと半袖のTシャツ一枚。寒くないのだろうか。片腕には、何か、布のようなものを抱えているみたいだ。
丸く愛らしい瞳は、やけにさばさばとしている。その瞳は、壇上を厳しく見据えるわけでもなくて、もちろんあすかをみつけて笑ってくれることなんかなくて、そして、いつもの彼だ。
いつもの彼が、ほんのすこしだけ凶暴だ。

真里が、おもむろに短ランををぬぎすてた。
それをひろいあげたのは、彼のことを輝くような目でみあげる後輩の男の子たちだ。

わきに抱えていた布の正体が明らかになる。
それは、特攻服だったのだ。
肩口をつかんで、マントのようにばさりとそれをまとった真里が、飄々としたあしどりで、体育館にうまれた通路を小走りでかけぬけてゆく。


こんな子、嫌いなはずだった。

不良は苦手であるはずだった。
たかが校則程度守れない。
まっとうな努力以外で目立とうとする。
人に迷惑をかけることをいとわない。

現に、担任教師の魂のぬけかたといったらない。
あすかのクラスの学級委員長はぽかんとたちつくしている。
副担任の女教師は涙にくれて、理科の教師だけがあきれ果てて笑っている。


そして、あすかのそんな考えを打ち砕いたのが真里だった。
真里はいつだってあのままだった。
あすかに何を強いたこともなかった。
それでも、真里がいつもあすかに語り掛けた。
自分の本当の声と向き合うことを。
自分を自分で決めてしまわぬことを。
自分以外の子を、心の底から認めることを。
正直に生きていることが、何より美しいことを。

でもやっぱり、こんなの、何ひとつかっこよくなんかないはずなのに。

気づけば、あすかは両手をひかえめに打ち付けて、軽い音にすぎないけれど、拍手をしていた。

その拍手に追随するものもいれば、ひややかに見守るものもいる。
なんにせよ、女子に愛される真里のことだ。
どちらの感情も、黄色い声がかきけしてしまった。

「オレのとー、アッちゃんのと、晶のどれ??」

壇上にたどりついた真里は、学級委員長がまとめて受け取るはずの卒業証書の山に遠慮なく手をつっこみ、三枚分を引きずりだした。
ぐしゃぐしゃにつかみとったそれを抱えた真里が、ステージから身軽に飛び降りる。後輩たち、卒業生たちから野太い歓声がおこった。

あすかが身をのりだして体育館の後方をたしかめてみると、真嶋と半村晶も、体育館の後方から、真里を見守っていたようだ。
彼らが真里にたくしたものは何なのか。あすかには、想像もつかない。

晶とは、目をあわせることしかできなかった。
その、いまだしずんだひとみが、遠くからあすかのことを見つけてかすかにわらってくれたことは、忘れられない。


騒々しい卒業式が終わり、不良少年のひとりが打ちひしがれる担任の肩をたたいて、まるで他人事といった調子で慰めている。
他のクラスより一足先に打ち出された。もちろん、ここに、あの三人はいない。どうも校庭ですでに後輩たちと別れを行っているようだ。

あすかのクラスの生徒たちがうちだされて数分後、他のクラスの生徒たちも一気に教室をとびだしてきた。

生徒の波をかきわけてかけよったあすかが、理科の教師にお礼をいうと、何もしていないと謙遜された。生徒に人気のある教師だ。さしで挨拶をかわせたのは数秒で、あっという間に華やかな女子生徒たちが理科の教師をとりかこんだ。そして、教師は、彼女たちのすきをぬって、あすかに、真里がいる場所をさししめしてくれる。

鮎川が一線をこえようとしたとき、意外ととめれんのはあすかみてーなタイプかもしれねーぞ?そう伝えてくれた理科の教師の言葉の意味を、あすかは、いまだつかみかねている。

それにしても、真里の居場所を教えてもらったはいいが、後輩にもみくちゃにされてとても近寄れたものではない。囲んでいる下級生の不良たちの迫力といったらないからだ。

しかたがない。
またあの駄菓子やへいけばいいかもしれない。

諦めてしまうのも簡単で、粘ってしまうのも簡単だ。
でも、どうしてか、今日のあすかは、ひどく落ち着いているのだ。

またきっと、真里には、会える。そもそも家も知っているし真里がよく遊んでいる場所も知っている。


新設の総合高校に進学する仲のよい友達と数日後一緒にボウリングへいく約束をとりつけて、歩道橋のすぐ手前で別れた。


歩道橋から学校のそばの歩道を見下ろすと、じゃれあう男女グループのすがたが見える。マイペースに歩道橋をわたり帰宅してゆく女子生徒たち。
欄干に手をおいたあすかは、ふうとひとつためいきをつき、もう二度と足を踏み入れることはないだろう中学校の、古い校舎を眺めた。

そのとき、歩道橋が勢い良く揺れ始める。
乱暴な足取りで歩道橋をのぼるとき、こうして揺れることもあるのだ。
真下には、行き交う車。
欄干に手をかけたまま、あすかは、階段を駆け上る、この足音の気配に、心地よさそうに耳をそばだてた。


「あすか!!」

あすかの名前を呼んでくれるメゾソプラノ。
声変わりを迎えても、これほど澄んだ声なのだ。

歩道橋をかけのぼってきた真里が、軽やかな声であすかを呼んだ。

「短ラン!どうしたの、それ」

あすかが目をとめたのは、ボタンから名札からカラーから学章から、すべてをむしりとられた短ランだ。
予想はしていたけれど、まるでハイエナにくいちらかされた草食動物のようで、どうしてか痛々しさまで帯びているのだ。
そして、壇上で纏ったあの勇ましい装いは、いったいどこへ行ったのだろうか。

「特攻服は?刺繍はいってなかったね?」
「アッちゃんにわたしたー……。刺繍はー、これから頼むんだよ」
「ポケットもひっくりかえってるよ?」
「あすかにあげるもん、ねーや……」

あすかが、まなじりをさげて首をふった。

「いいよ」

今日のあすかは、ひどく落ち着いている。
そして、まるで真里の声のように、ずいぶん澄んだきもちだ。

「いろんなものもらったから」

真里は、何がなんだかわからないといった風体で、あすかの言葉にきょとんと首をかしげた。
そんな仕草が似合う男子中学生なんて、この世で真里だけだ。

「ありがとう、マー坊くん」

卒業アルバムがおさまっているから、あすかのサブバッグは角ばって不格好だ。
真里はきっと受け取っていないのだろう。
バッグを抱え直したあすかが、まっすぐ真里をみすえて、落ち着いた声で伝えた。

「マー坊くんってよばせてくれて、ありがと」

真里の身長は結局伸びなかった。あすかとほとんど変わらない。
首をおもいきりかしげて、また元に戻して、あすかの言葉をきょとんとしたさまで受け止めた真里が、我に返ったようにあすかに尋ねた。

「ガッコ近いんだっけ」
「前、近いって言ったよー?」
「赤いフォアに乗ってんヤツがいたら、オレだと思って?」
「うん、探すよ。どこにいても、マー坊くんのこと、さがす」

この華奢な体で、彼を守るもの何ひとつ身に着けずに、真里はきっと、身一つでそれにまたがってしまう。
疾風のように走る真里がそのときあすかを見つけることはないだろう。
そのかわりあすかが、真里を見つける。

ひっくり返ってしまったポケットをもう一度さぐっている真里が、ぶつぶつとぼやきながら、あすかに尋ねた。書くものねーや…とつぶやいた真里が、うつむいていた顔をあげると、さらさらの茶髪がぴょんと跳ねた。

「あすか、ベルもってねーの?」
「マー坊くんこそ、もってないの?」
「んーー、別にいらねーしー……親もダメっつっててー……」
「うちもだよ。たぶん持たないかな」

ちいさな頭の後ろで手をくんだ真里が、悪びれない様子でニカっと笑った。
この笑み。何度もあすかが探し続けた笑顔。

「まあいいや、なんか、どっかでまた会えそうな気がする!」

うなずいたあすかが、真里を気遣う。
いつだって彼と一緒にいたふたりが、真里を追いかけて歩道橋をかけのぼってくるようすが見られないからだ。

「……ふたりは?」
「晶は、親が迎えにきてー、アッちゃんはー、二年坊に今から焼き肉おごんだって!」
「焼き肉!いかなくていいの?」
「くえねーの、あすかのせーだよ……」
「……わたし探しにきてくれたの?今からでも間に合うかもよ?」
「そーだよ?ちょーどいーや、あすかもいこーぜ!」
「い、いや、わたしはいいよ。マー坊くん、行っておいでよ」
「ま、よかったよ、あすかとしゃべれたし!」

気持ちの切り替えをスムーズにおえた真里は、ためらいなくあすかに背をむけた。
あすかも、背筋をぴんとのばして真里をみおくる。

ここなんかじゃ、おわらない。
この橋を降りても、きっと真里と会える。

揺れる歩道橋。
どれほど揺れても頑強に建ち続ける歩道橋をしっかりと踏みしめて、あすかは、走り去ってゆくちいさな姿をいつまでも見守りつづけた。

タイトル;恋したくなるお題

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