Novel
薄荷少女

風邪をひいた。

もののみごとに、風邪をひいてしまった。

耳に髪の毛をかけることが嫌いだ。だから、なおさら、耳元にかかっている、マスクのゴムが疎ましい。しかし、マスクをあてていないとクラスメイトたちに迷惑をかけ続けてしまうだろう。そんな分別から着用していたガーゼのマスクを、たまらず、あごまで押し下げる。伝染・感染が心配ではあるが、たまにはこうして外の空気を摂取しなければ、呼吸が、まともにかなわない。

保健室にふらふらと寄って体温計を借り、熱をはかると、37,4度。仮病でもなんでもない証拠だ。この症状は、まっとうな風邪と呼べるものであろう。

まっとうな病人といえるのに、あすかはなぜ、古い校舎、古い窓。すきま風だらけの古い教室で、こうしてぼんやりと過ごしているのか。

それは、保健室はベッドが全床うまっていて休むことはかなわないと、この中学の保健医に無慈悲に告げられたからだ。

せめて、暖をとって寒気を抑えるため、休み時間をむかえた際に、首もとにマフラーをぐるぐるとまいて、ぼんやりとまどろんでいた。すると、日頃なれなれしく名前を呼んでくる数学教師が、マフラーをはずせと軽口を叩いたうえ、あすかの頭を軽々しくさわってきたのだ。
たとえば、あの理科教師はべつにかまわないが、この教師になれなれしく呼ばれるのは大変不快である。
この数学教師は、どの女子生徒に対してもこの調子だが、あすかは、よくもわるくも、大人から見ていじりやすいのか、こんなスキンシップが起こることが一度や二度ではない。
しかし、病み患っている今日は、教師のなれなれしい行為に、無駄に反抗してみせる気力もない。

窓際の席に陣取っている不良少年たちはみんな好き勝手な恰好をしているのに、注意を受けることはない。

悪態を内心にかかえたまま、あすかは、けだるく素直な態度をみせて軽くうなずき、マフラーをとった。
そんなやりとりを憎々しく眺めていた友人が、あすかに声をかける。

「保健室だめだったの?」

あすかの前の席にすわる友人が、優しく気を遣ってくれる。
そんな事実に感謝をおくりながら、ぶつぶつとぼやきつつ、冷たい机に突っ伏すあすか。
真っ黒の髪の毛が、机のうえにさらりとひろがっていく。

「うん、満員だった・・・・・・」
「半分がサボりなのにねー・・・・・・」

彼女が、軽く頭をなでてくれた。教師にふれられた箇所がゆっくり浄化していくようだ。

じゃー、提出物だしにいってくんね!
がたんと立ち上がり、律儀にそう告げてくれる友達に、つっぷしたままひらひらと手を振ってみせた。
はずみでせきこむ口元に、タオルハンカチをあてる。

そのとき、あすかのことを、ムスクのようなかおりがつつんだ。

普通の中学生がおいそれと纏えないこのかおり。
あすかの机のそばにしゃなりと立ったのは。

晶だ。

「あすかちゃん、具合わりーんでしょ?」
「……晶ちゃんー……そうなの、わるいの……」
「アタシのお古でわるいんだけどさ」
これ。

改造ブレザーのポケットから晶がひっぱりだしたのは、あたたかいカイロ。
そのまま、あすかの改造ひとつないブレザーにしのばせてくれた。

「ありがとう……!」
「いーの、使って!」

あすかの肩を優しくたたいて、あっさりと晶は去ってしまった。

教科準備室に、提出物をだしにいった友人が、晶とさりげなくすれちがい、その、ひときわめだつ後ろ姿をみおくる。

「半村さんこわいけど、やさしいよね」
「うん、すごくやさしい」

友人がこっそりと愛用しているブランケット。
あすかの肩にそっとかけたまま、友人は、マイペースに教室を出ていってしまった。

あすかの前の席がぽっかりと開いてしまった。

長い昼休み。
鼻よりノドにくるたちで、鼻からの呼吸は問題なく通ることが、せめてものすくいだ。

少しでも枕代わりになるように、体操服をつっこんだサブバッグを机の上においてみる。
3年間で使い古したサブバッグ。あすかは、そこに頭をふせた。

少しだけでも眠りたい。晶にもらったカイロを、ブレザーからスカートのポケットに移動させる。スカートのポケットのなかで、あすかのふとももをぽかぽかとあたためてくれている。

友達がかけてくれたブランケットをぎゅっとたぐりよせて、あすかが、いつしかとろとろとまどろんでいたとき。

「あすか」
「……?」
「あすかーー!!起きてよ」
「……」

澄んだメゾソプラノが、すぐそばで、あすかのなまえを呼んでいる。
つっぷした姿勢のまま、首だけあげてみる。
とがったあごを、かばんの上においた、だらしない体勢。

ピンでとめて流している、あすかの前髪。

その額に、ほんのすこしだけ、指がふれた。

そして、こどもっぽく白い指が、あすかの額にぺったりと何かをはりつけた。

「……え?」
「冷えピタ!」

体を思わずおこしてしまったあすかが、自分の額の変化を確かめる。

あすかの額に、薄荷のにおい。
そして、不穏な熱をもっていた額に、やすらかな冷気が漲りはじめる。

「マー坊くん……?これは?」
「はっときなよ!っつかアチー!」
「……冷えピタ……。持ち歩いてるの?」
「んー?保健室でー、もらってきた!」

頭を打ったのか、ケガなのかケンカなのか。真里は、かわいい額にぺたりと冷えピタを貼って校内をうろうろしていることが多い。てっきり、いつも欠かさず持ち歩いているものだと思っていたが。

「晶がさー、あすかちょーしわるそーだよっつってんからー」

晶がいなければ、あすかの不調のことを気づいてくれなかったかもしれないのか。当たり前の事実だけれど、少しだけ仲良くなれた真里への、一方的な期待。都合のいい願い。それがかすかに折られたあと、晶の親切心に想いを馳せてみる。晶が、あすかの気持ちを察して、気遣ってくれたのだろうか。
彼女と真里の関係は、あすかにも読めないけれど。
真里とこうして親しくなれたと同時に、晶の純粋な性格を知ることとなった。
きっと、素直な好意だ。

「ペンギンのお礼!あれもつめたかったしぃー」
「ああ、そんなこともあったよね」
ありがとね、これ……。

あすかのことをひんやりと冷やす冷却シートを、指でそっとおさえて、感触をたしかめてみる。
そして、あの日のことは、よく覚えているのに、こんな風にうそぶいてみせることしかできない。

「ありがとう、ちょっとラクになった」

そのまま真里は、あっさりと去ってしまうと思ったが。
真里は、あすかの前の席のイスをまたぎ、背もたれの上に腕をのせて、かわいい顔をそのうえにあずけた。

「マー坊くん、ありがと、これ」
「結局さー、あすかと席、近くなんなかったね」

それは、あすかもずっと実感していたことであった。軽くうなずいて、真里の感慨めいたぼやきに同意をおくる。

変わり者の担任教師の意向で、このクラスは、年に3度しか席替えが行われないのだ。
3度めの席替えは、とっくにおわってしまった。このまま卒業まで、この席で過ごすこととなっている。
あすかの席は、窓際後ろから三番目。
真里の席は、最高尾だ。
おかげで退屈な授業中、真里を観察することなんてできやしない。

「そうなんだよね……いつも遠いよね」
「理科とー、技術の時間だけ!」

あすかがいつも意識していたこと。
真里も意識してくれていたのだろうか。

「オレー、いつも席が後ろだっけー、出席番号順で座るときさ、前んほうになんとー、あすかがぜってー同じ机にいんだよね」

そんな傾向、真里は意識しているわけでもなかったのだろう。こうして一年をすごしてきて、今更気づいたのだ。
あすかはずっと、それが幸せだった。

「マー坊くん、いつも後ろのほうだね」
「んー、なんかー、女子が、変えてくれる」

真里のちかくにいたい女の子はたくさんいる。そして、真里に愛され、真里に感謝されたい女の子もたくさんいる。あすかだってそのひとりにすぎない。
こうして真里と向き合って話していても、残念ながらあすかは、真里に恋する同性たちにとって、そもそもライバル対象外なのか、あすかに注視する嫉妬めいた視線は、はっきりいって皆無だ。さばさばしているといわれたこともないけれど、女の敵に思われたこともない。面倒くさくもなく、でもどこかすべてがよそごとの立ち位置。そんなあすかにも、いっぱしの恋心はあった。

わたしもマー坊くんがすきなの。

そんな打ち明け話、親友とだって、かわしたことがないうえ、あすかが自覚している自分自身のキャラクターは、そんな打ち明け話からほど遠い。

「最初の席替えで、マー坊くんと近かったら、もっと早く仲良くなれてたのかな」

思わず口からすべりだしたことば。
これは、熱のせいだ。

あすかの正面を陣取る真里が、あすかのことを、まるくかわいい瞳で、きょとんとみつめている。

「あ、う、ううん、なんでもない。これカゼだからうつるかもよ?おでこの、ありがと」

薄荷のかおりが、鼻をとおったあと、のどにおりていく。思い切り深呼吸をしてみると、老廃物がイガイガとからみついていたのどに、まるで、澄み渡る水がさらさらと流れていくようだ。

ごまかすように、あすかは饒舌になる。

「んーー、オレと仲良くなっちまうと」
「……うん」
「いろいろあんよ?」

そして、あすかがずっと好きだった真里を構成する、ひとつ。

それはこうして時折真里がみせる、丸く輝く瞳が、ひどく落ち着く瞬間だった。

「あすかになんかあんと、やべーっし」
「なんか……?」
「まきこんぢまうとさ、写真のじゃまになっちまう」
「じゃまになるほど、夢中になってたわけじゃ、ないよ」

部活も、勉強も、なにもかも。
あすかは、結局、真里のことをこっそりすきでいただけの、中途半端で平凡な、一生徒にすぎないのだ。

「いーや、あすかはけがせないよ、これでいいんだよ」
「け、けがせないって……そんな、わたしぜんぜんキレーなんかじゃないのに」

真里は、こんなにやさしく、人を突き放せるのか。

「まっ、そつぎょーまで、ガッコで遊んでよーぜぃ」

真里が、俊敏な身のこなしをみせて、またいでいたイスから立ち上がる。
あすかの髪の毛に触れようとした手は、寸前でさらっととまり、ブランケットにつつまれたあすかの肩を二度、叩いた。

「はやくよくなるといいね!」
今、オレにうつったかもしんねーけど。

薄荷のにおいの冷却シートが貼がれ落ちてこないように。
午後をむかえてすこし皮脂がうかびあがってきた額を、あすかは、慎重におさえる。
冷却シートに、あすかの体温がうつりはじめて、少しずつぬるくなっている。

「うん、うつした。明日はマー坊くんが熱だね」
「えーーアッちゃんと走れねーじゃん!」
「そしたら真嶋くんにうつせばいい」
「あ!そーしちまおっと!あすか名案じゃん!?」

すると、そこに、落ち着いたバリトンが落ちてくる。
ぶっきらぼうで、だけれどいつも、真里をいつくしむ声の持ち主。

「カンベンしてくれ…店の手伝いあんだよ……」
あ、そいつよ、保健室の引き出しんなかでよー、とりほうだいらしいぜ?

あすかの額を指さして語る、金髪リーゼント。
真嶋秋生があらわれて、あすかとじゃれている真里の首根っこをつかんだ。

「じゃーねー!!」
「お大事にな」

ブランケットをもう一度ぎゅっと引き寄せながら、あすかは二人に手をふり、気ままに教室を出ていく姿を見送る。

あのペンギンはすてられたが、
この冷却シートは、こっそりとっておこうか。
これがいつかカチカチにかたまって、部屋のかたすみで忘れ去られて、ほこりまみれになって秋が終わり、三学期を迎えて、早い春をむかえてしまえば、それごと真里のことも忘れられるのだろうか。

そんなことがかなうなら、とっくに実行している。
あすかの、数少ない宝物のひとつだ。

さわがしい教室。そろそろ昼休みもおわる。

薄荷の香りの冷却シート。
これをそっと貼り付けてくれたとき、あすかの額にほんのすこしだけふれたこどもっぽい指のことを思い出して。

ほてる頬をごまかすように、あすかはもう一度、バッグの上に、顔をうめた。

title:「サンタナインの街角で」様

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