Novel
どうかあなたの終わるとき 前

コミュニケーション・マーケティング。
制度経営学入門。
ケースで学ぶまちづくり。
中小企業とベンチャー・ビジネス。

積み上げた本のなかから、まずは一冊踏破し、あすかは次の本を開いた。

あすかの店と長い取引を続けている寿司店の職人から合格祝いにもらった、上質な紙質にくわえ堅牢な表紙のノートに、ひとまず理解し難い言葉を書き出してみる。それにしても、大学生という身分を春に控えるにあたって、いまだこんな子供じみたシャープペンを使っていてもいいものだろうか。自分の不格好な手のなかに収まる、てっぺんにキャラクターの模型がくっついたペンを眺めて、あすかは首をかしげてみる。途端、こわばっていた肩の筋がぐっとのびた。シャーペンをつかんだまま、あすかは幼稚なフォルムの勉強イスにぐったりと背中をあずけた。

大学から与えられた課題は、テストの得点をとるための受動的な勉強とは違う。
自分で目的意識をもち、疑問と解決策を探して読まなければ、徒労におわるだけだ。
本物の学問に、曖昧な手応えをさがしながら、気づけば夜も12時だ。

癖のように早寝にはげんできた自分自身が、こんな時間まで起きる人間になるとは。
これも成長のひとつだろうか。それでも、昨夜は9時に休んだし、今日の勉強を終えれば明日は早く休むつもりだ。

暖房のきいた部屋。まだナイトウェアには着替えていない。昼からずっと着ている北欧風のざっくりとあまれたあたたかいセーターは、千冬に選んでもらったものだ。これ一枚で充分にあたたかい。あすかは、椅子をひいて立ち上がる。入浴すらまだだったのだ。夜遅くに入浴すると、母親に小言をいわれるけれど、しかたがない。

もう休んでいるだろう母親に気を遣って、人感センサーの灯りだけをたよりに、階段をおりてゆく。

バスタオルと着替えをかかえて階下にたどりつくと、玄関のかたすみにおかれた千冬のブーツがあすかの視界をかすめた。

結局これは、愛用することはなかった。

一度身に着けてみたまま、なぜだか耐えきれぬ気持ちにおそわれて、丁寧に磨いた後、玄関のかたすみに鎮座させている。

あすかの足に、サイズこそフィットするけれど、あすかにはずっしりと重たすぎるブーツ。
千冬の質量がつまったような靴だった。

あすかのブーツはあれから帰ってきていない。
あの夜、暗闇にとけこんだふたつの美しい姿を送って以来、ぷつりと連絡は途絶えた。


そのとき、玄関のシューズボックスの上に備え付けていた電話が鳴り始めた。
留守番電話の赤いランプが何度も点滅し、この呼び出し音はあと数秒で留守電応答にきりかわるだろう。
千冬ののこしてくれたものに気をとられていたうえ、やや眠気におかされていたあすかは、無意識のまま、その受話器をもちあげる。

「あっ!!」

そうして、自分の行動を自覚する。
こんな真夜中。相手はきっと、遅くまで営業している居酒屋や料理店。いつものちょうしで留守番電話に用件を吹き込んでくれるだろうに。
たゆたう思考のまま電話に出てしまったことを恥じながら、あすかはひとまず受け答えをつづけた。

「す、すみません……はい、杉浦です」
「んだよ、留守電じゃねーじゃん……」

あすかが短く息をのむ。

あすかが、喉から手が出るほど欲しかった声。

かすれきった、つかれきった、やさしいアルト。

「千冬さん!!」
「起きてんのかよ……ねむくねぇの?」
「ち、千冬さん……?どうしたの?」

千冬が、軽く笑う声がする。
そして激しくせき込む。
激しくくりかえす呼吸のなかから、千冬がしぼりだすようにあすかを呼んでいる。

「あすかー……むかえにきて……」
「ち、千冬さん!?え、むかえって、ど、どうしたの」
「あちこちいてーからよ……なぁ、きて」
「い、いくよ!!どこにいるの?」

こんな真夜中に、見境なく大きな声をはりあげてしまう。母親が起きてしまうやもしれないことも、今のあすかには想像の範囲外。抱えていた着替えも、廊下へ取り落としてしまった。

「今よー、滑川の交差点とこいんだよ・・・・・・。もー走れねー……。このままじゃ交番のおまわりにつかまっちまう」
「そ、そこのひと、うちのお客だから大丈夫!!てゆーか、交差点のどこ?公衆電話だよね……?」
「オレ、動けねー、あすかがいねーとどこもいけねー……」

それきり、千冬の声は途絶えた。
まともに戻せなかった受話器はくるくるとのびるコードごと、三和土寸前まで垂れ下がっている。

まよわずスニーカーに足先をつっこんだ。
ざっくりと編まれたセーターとジーンズ一枚。コートも手袋もマフラーもない。

自宅の前の道を直進すれば、鶴岡八幡宮から海に向かってのびる参道に出る。そこから由比ヶ浜に下がっていくより、まず材木座海岸を目指して、それから海岸沿いを走ったほうが早い。

こんな夜だとしても、このセーター一枚で十分だ。

家の鍵を、キーストッカーからひっつかむ。
錠を縦に回し、分厚いドアを蹴り飛ばすように押し開けると、真夜中の冷気があすかの家にしのびこむ。

車の免許をさっさと取得しておけばよかった。
そんな後悔をかかえながら、あすかは、夜の町に飛び出した。

材木座までつっきる道は、真夜中、だれもいない。しずまりかえった町。この周辺を族車が暴走することは実に稀であるが、千冬がダメージをうけてかえれなくなるとは、なにごとだろうか。あの、持ち主をまもってやまない大きなハーレーは、ちゃんと千冬のそばにいるのか。こうしているあいだにも、傷ついた千冬に何か起こっていないか。外敵はもちろん、国家権力からも守り抜けるだろうか。千冬のことを守る力は、暴力だけではない。何の変哲のない世間に溶け込んでいる自分自身こそ、艶やかな千冬を覆い隠す隠れ蓑となることができる。なけなしの自分にある、そんな力だけ信じて、あすかは、材木座海岸にたどり着く。
飲み込まれてしまいそうな海。
体育を放棄して久しい身分には、なかなか厳しい運動であった。それでも、千冬を守るためなら、千冬を救うためなら、こんなことたやすい。こんなとき、あすかには不思議と疲れは生まれない。一旦インターバルをとり、今度は海岸沿いに、由比ガ浜にぶちあたる滑川の交差点をめざす。しずまりかえった材木座の町を法定速度以上のスピードでかけぬける車がゆきかう。族車はひとつもみあたらない。

そして。

材木座から、石橋をへだてて、由比ガ浜海岸にかわる。
滑川としめされた標識。
なぜか、しっとりと濡れた路面。
灯りのついた交番。人は見当たらない。
そこに、パトカーが一台控えている。

そして、横断歩道をわたった、はす向かいの通りだ。
夏の間はサーフショップ。冬の間はしずかに閉ざされている店の前の、公衆電話。

その手前に、ぼんやりとひかる街灯に守られるように、ハーレーに背中をあずけうなだれる、特攻服すがたの男の子。

「千冬さん……!!」

赤く光る信号のことをかまわずに、あすかはかけだす。
ようやくたどり着いた。
ようやく会えた。
守りたい人のことを、ようやく確かめることができた。

ころがるのはタバコの空き箱。
最後の一本だったのか、火のついていないたばこをぽろりとこぼして、ハーレーに背中をあずけたままの千冬が、あすかの姿をみつけて、そのなまめかしい口元がちからなくあがった。

「あすかー、ねみーよ、つれてかえって……」
「千冬さん……大丈夫……?」

息をととのえながら、あすかは千冬のなまえをよぶ。
冷たい夜に走り回ったせいで、火照った体に流れる汗。
その汗は一気に乾き、あすかの身体をひやしてゆく。

あたたかなセーターごしに、あすかが千冬を抱き寄せる。

引き裂かれた特攻服。
もつれきった金髪。
くるくるとウェーブがはしる金髪には、血液の残骸がこびりつく。
青白くはれあがった片目は、まともに開かないようだ。
ざっくりと切れ目がはしった口元。
胸元にうかびあがるあざ。
千冬の身体に、一気に走った鳥肌。
鼓動も落ち着いていない。
傷つききった千冬の身体をだきしめて、何度も、恋人のなまえをよんだ。

「千冬さん……」

千冬のなまえを何度もくりかえしながら、あすかが千冬のことを抱き締める。
腕をだらりと垂らして、あすかにぎゅっと抱かれるまま、あすかのセーターの肩口にあごをのせた千冬が、うつろな調子でつぶやいた。

「渉ともよー……ウチのもんともよ、はぐれっちまった」

海風ですっかりひえきった、凍り付くような体。
あたたかない千冬の体温は、奪われ始めている。

「千冬さんが死んじゃう……」

そんなの大げさだ。
現に千冬は、あすかの目の前にいる。
あすかのことを確かめて、声をあげて言葉をつたえてくれるほどの気力も残している。

「千冬さんが、千冬さんが、死んじゃう……」

あすかの瞳から涙があふれはじめる。
千冬は固辞をつづけていた。
この姿でオマエには会いたくない。
胸元にしのぶ、獅子頭のペーパータトゥはとっくに消え失せていた。
千冬のことをぎゅっと抱きしめながら、涙をぼろぼろとこぼしてあすかが訴える。

「しんじゃう……」
「死なないよ……」
「千冬さん、かえろ……あたしんちかえろ……バイクも持ってくから……」
「渉のがやべーぜ……。アイツぁあの子んちいってんだろーな……」
「あの子……?みんなケガしたの……?みんなこんななってんの……?なにがあったの……?」

このざっくりとしたセーターだけで、千冬の身体はあたたまるだろうか。
こんなに冷える真夜中に、こんな特攻服一枚の千冬。

しゃくりあげるように泣きながら、千冬の体を抱きしめる。
あすかのことをしなやかに守り続けてくれた体。
今日はこのまま消えてしまいそうだ。

あすかの矢継ぎ早な問いかけにひとことも答えぬ千冬は、ただあすかのぬくもりにまかせて、体を預けきっているだけ。

「もーー、なにやってるの……。ブーツも返してくれない……配達行ってもいない……電話かけてもいない……」  
「わるかったなー……明日からずっとあすかん家いるからよ……」
「千冬さん……」

千冬のくちびる。
ざっくりきれたくちびるを、あすかのかわいたくちびるで思い切り覆った。

あすかのあたえる不器用なキス。

千冬は、あすかにすがりついて、ただ与えられるがままだ。

千冬の傷ついた顔。
それでも滑らかな頬。
傷ついた頬を覆って、何度もキスをくりかえす。

「千冬さんが死んじゃう……」

千冬のくちびるを解放したあすかが、しゃくりあげながら繰り返す。

あすかの暖かな胸元にしなだれかかった千冬が、ぽつりとこぼした。

「負けてないだろ?おれ」

涙で頬をごわごわに荒らしてしゃくりあげるあすかが、千冬を力任せに抱き起した。

特攻服ごしの引き締まった腕。
あすかの肩に、しっかりと体を預けさせる。

「負けてない。千冬さんは、千冬さんのままだよ」

涙声で力強く宣言したあすかが、千冬のことを力任せに抱き上げる。

千冬の身体が、かるがると地面から浮いた。
そのままあすかは、少し痩せた肩に、千冬の身体を乗せた。

自分より少し背の低いあすかの背中にあっさりとおぶさった千冬が、少し体をばたつかせて、戸惑った声をあげた。

「ちょ、あすか……単車……どーすんだよ?」
「片手でおす……」
「お、おもいぜ?そいつ」
「重くないもん……」
全然重くないよ……

スタンドを遠慮なくけりあげたあすかが、ハーレーを片手であっさりと支えた。
かすむ視界。
片目しかきかぬ美しい瞳が、困ったようにゆがんだあと、厚いセーター越しのあすかのやわらかな背中に、千冬は、すべての体重を遠慮なくあずけた。

あすかが揺らぐ気配はない。
あすかは、千冬と千冬の愛機、ふたつを力強く支えて歩き始める。

「あすかすっげ、さすがオレの彼女」
「千冬さんが死んじゃう……」
「しなねーっつってんだろ……」
「千冬さん……」

ほどなく、千冬の声がうしなわれる。
体温が少しあがり、千冬の体の重みが一気に高まった。

真夜中。
材木座の海が、密やかな声をあげて寄せては打ち返す。

千冬を担ぎ上げ、ハーレーを押しあるき、路面をたたくようにあゆみをすすめるあすかの足元は、おそろしいほど確かだ。
こんな夜に、己だけは、堅牢でいてみせる。
何者にも負けるつもりなんてない。
千冬を守るためなら、どんなものでも突破してみせる。

くちびるをかたくむすんだあすかは、千冬を守ってくれる家まで、赫赫たる足取りで、歩みを早めた。

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続きます。

title;「エナメル」様

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