Novel
どうせ君は君だけのもの

「……」
「……」
「……」
「……わかんねぇ?」
「……あっ!」

この店はすこし、肌寒い。
デリケートな商品群に、厳しい暖房は毒になるからだ。それに加えて、冷蔵庫からの冷気も漂い続ける店内。
あすかの店の、控え室。お酒が最優先された室温のなか、青い生地の大きなソファにしなやかな体をしずめた千冬の足元を、ごうごうと温風がめぐる温熱機があたためている。

今日は配達が休みの日。そんなスケジュールにつられてか、店頭へ足を運ぶ客の数も少ない。
一足先に進学先を決めたあすかには、自由登校という、時間の猶予まで生まれた。

あすかにはたっぷり猶予があるのに、こうして千冬が会いに来てくれたのは、正月に鶴岡八幡宮へ初詣に行ったあの日以来のことだった。
疲れと畏怖と、血液のにおいをかすかに漂わせた千冬を、あすかはやさしくわらってむかえた。そんなあすかの黒髪を、千冬はいとしくなでた。

青いソファの上には、推薦入学者に与えられた課題図書がころがっている。分厚い学術書は、ひとまずたたまれて、しおりをはさんで控え室のソファの上にほうりだされている。分厚い本のそば。長い足を気だるく組み、ソファに体をしずめて、妖しくきらめく切れ長のふたつの瞳、空前絶後のバランスで配置された完璧な形の瞳のまんなかを、ひとふさの金髪が降りている。

ソファのすぐ手前で、ぼろぼろの事務いすにこしかけたあすかが、キャスターを前後させながら、千冬の整った顔を、くっきりとした瞳でじっとみつめた。

「前髪、分け目がかわってる……?」
「ああ、それだけじゃなくてよ、まだあるよ」

モヘアのショートジャケット。その下は清潔なロングシャツ、今日も、きれいな足をつつんでいるのは革のパンツだ。ただでさえすらりとのびる千冬の足が、ますます映えて見える。

今日の千冬は、性別のあわいを、より曖昧に、より密やかに漂っている。
あすかにとって、千冬がどんな装いであろうと、あすかのことを支えてくれる恋人にかわりはない。

あすかは、千冬にひそむ違和感をさがしつづける。
気づいたのは、いつもよりマットなくちもとだ。

「……口紅!」
「……も、変えたけどよ」
「……あ、そっか、髪の毛、ちょっと短くなってる」
「正解」

そして、あすかの送ったミネラルファンデーションは、千冬の肌をあまりに輝かせすぎたようだ。ぬけるような白肌をさらにぬけさせている。ぬりこめられたクリームファンデーションの上にはたかれたそれは、粉雪のようにきらめいている。

肩胛骨より長かった千冬の艶やかな金髪は、5センチほどざっくりと切り落とされているようだ。

千冬の変化を無事確かめたところで、あすかは、久しぶりに会えた恋人にうきうきと尋ねる。

「千冬さん、今度お店お休みの日、どっかいく?」
「どっか?」
「え、えっと、いまなら江の島のシーキャンドルとか」
「そーだな……まだわかんねーな」
「ん、あ、うん、わかった」

あすかから、無理強いというものを味わったことがない。いつだって物分かりよく引っ込んでしまう彼女。千冬は、あすかのかすかな落胆を和らげてやるように、冬の江の島の寒さを語ってやる。あすかがほっとしたように笑った。

ソファの間近に設置されている古いテーブル。その上に置かれた灰皿にたばこを落とした千冬が、あすかのことを指先で呼んだ。事務いすをからからとひき、より千冬の間近によると、ジャケット越しの腕を一気にひっぱられた。はずみで、キャスターのついた事務いすは、控室の片隅に滑ってゆく。

ちいさく悲鳴をあげたあすかの体は、千冬の腕のなかにおさまる。
これじゃ、重いだろう。慎重相応に体重のあるあすかは、千冬に遠慮なくしなだれかかる寸前でソファに腕をつき、背の高い体を起こして、千冬のそばに、器用に体をしずめた。

「なんだよ、あすかハグすんのひさびさだったのに」
「お、重いから……」
「おもくねーのによ?」

千冬のそばにぴったりとよりそったあすかが、ばつがわるそうにわらった。
アイシャドウのいれかたも、いつもとちがう。切れ長の目元になじむブラウン。
より曖昧にあやしくなった目元の千冬が、あすかをひんやりと一瞥して、その後あたたかくわらってくれた。

装い方がどんなにかわっても、千冬は、あすかのだいすきな千冬であることにかわりない。

それをあらためて確かめたあすかも、安心したようにわらった。

「客こねーな」
「そうなんだよね……前年比割っちゃうなあ、これじゃ……」
「うちもヒマだしよー。デージョブだよ、毎日やってくしかねーだろ」
「そうだね!!」

モヘアのジャケット越しの千冬の腕は、あすかの肩をやさしく抱いてくれている。
長い足をなげだした千冬は、どこか遠くを見つめているようだ。
そのさきをみても、控え室と店を仕切る、アコーディオンカーテンの取っ手しかないのだけれど。

心の深奥を凍らせてゆくような千冬のことを見上げたあすかが、つとめて元気な声で語り始める。

「なんか、冬休み終わって、ガッコも自由登校になってー、いっぱい千冬さんと遊べると思ったんだけど……ひさしぶりだね?」
「ああ」
「……千冬さん?」
「ああ、そうだな。なあ、最近、大丈夫?」
「え、なにが?」
「ヘンな客とかきてない?」
「きてないよ?」
「車も?」
「うん」
「族車もか?」
「そんなこと、一回もないよ」

ひとつも嘘はいっていない。
あの夏以来、千冬がからんだ事件がこの店に起こることなんて、一度もない。
特攻服は、あすかとこの店を守るように、レジの脇でしずかにつるされている。

今日は、ひさしぶりに見守りにきてくれたのだろうか。
あすかはいつだって千冬のことを考えている。
そして、いつだって千冬はあすかのことをささえてくれている。

そこに。

プレハブ仕立てのこの店の壁は頼りない。
安普請の店舗を突き抜けて轟く、甲高い排気音。

千冬の細い肩が、ぴくりとうごいた。

青いソファからあすかが立ち上がる。

「待っててね」

あの音はだれのものか、ようやくわかるようになった。
千冬もあすかに付いてこの音の持ち主を迎えるのかと思ったけれど、軽くうなずいたまま、ソファに身をしずめつづけている。

自動ドアの向こう側から、改造ズボンと改造ジャケットに身を包んだ、背の高い男性。
胸元にはゴールド。
髪の毛はいつも以上にいかめしくたてられ、胸元から分厚い筋肉がのぞく。

畏怖にみちた青年は、出迎えたあすかのすがたを確認して、しずかにすわった目元をやさしくほころばせた。

八尋だ。

「いらっしゃいませ」
「ああ、あすかちゃん久しぶり」
「千冬さん、いますよ」
「いるんか……外に単車なかったからよ」
「今日はね、あたしの原付勝手につかって、うちにきたの」
「そうか、奥、借りてかまわねーか?」
「いいですよ」
「そのまえに、単車なんだけどよ」
「あ、中にいれる?千冬さんも最近、中にいれるの。あのシャッターあけて、そしたらいれるスペースありますよ」

店を出たあすかがシャッターをあける。シャッターのなかと控え室は地続きだ。この美しい単車がここにあることを悟られないようにする気遣いであろうか、単車を仕舞い込んだ八尋が、そのまま控え室に向かう。

あすかは一度外に出て、表側からシャッターをしめた。
体調を軽く崩してしまった母親は、今日は店をあすかにまかせている。
千冬がこの店を訪れてくれたのは昼下がりだった。
冬の陽が落ちるのは、不穏なほどはやい。濃い青が材木座の町をつつみはじめている。

そのまま店にもどったあすかが、ふたりがいる控え室に戻ることはない。

きっと、あすかにはわからない話だ。
そして、あすかが知ってもどうすることもできない話だ。
千冬を、どこかへつれていってしまう話なのだろうか。


その話は、ずいぶん長かった。

店の片隅の棚の上に帳簿をひろげ、慣れぬ経理に励んでいたあすか。

アコーディオンカーテンをあけて、八尋がでてくる。

「ん、千冬さん、一緒に帰るんですか?」
「ああ、千冬も行くよ。単車悪かったな。シャッターあけっちまうぜ?」
「ん、うん、どうぞ」

八尋の背中をみおくったあすかが、控室に戻る。
八尋は自動ドアをあけて寒空の下に出て行ってしまったけれど、千冬はまだ、長い脚をなげだして、ソファにしずみこんだままだ。シャッターががらがらと開く音が響いた。

「千冬さん、八尋さんと一緒に……?」
「ん?ああ、そうだよ。でもよ、ちっと待ってくれるって」
「あとちょっとだけ、あたし、千冬さんといられるの?」

千冬によばれるまえに、千冬のそばに体をしずめる。
千冬が、あすかの肩をぎゅっとだきよせた。

「ね、千冬さん」
「ん?」
「……んー、なんでもない!待ってくれてるんだね、あんま待たせたらわるいね、八尋さん」

あすかが着こんでいるのは、色気一つないカーキ色のジャケット。それでも、この寒い店で働くための防寒にはすぐれている。あすかが、ポケットから何気なくリップクリームをさがしあてた。ジャータイプのそれを、あすかは愛用している。
ひとさしゆびでいっきにすくいとり、すっかり乾いてしまったくちびるにのせていく。

あすかの何気ない行為を見守っていた千冬が語り掛ける。

「リップ?」
「うん」
「オレにもぬってよ」
「口紅……あ、とれかけてるね、いいよ」

小指にとったリップクリーム。
千冬の整った唇に、そっと乗せていく。

かるくひらいた、バラの花のような唇。
たばこの、すえたようなにおい。


そして、こうするよりも、はやい方法がある。

ぺったりとリップクリームの乗ったあすかのくちびる。

千冬のかわいたくちびるに、そっとふれた。

たおやかに瞳をとじた千冬が、あすかのくちづけを、しずかにむかえた。

「千冬さん」

あすかがよぶ声にこたえるかわり、千冬の雪のような手が、あすかの頬を覆った。

「千冬さん、最近、どこでなにしてるの?」

一つの時間を終えて、次のタームへ旅立とうとしている彼女は、こうして、率直で勇気ある言葉をつむぐようになった。
はじめてあすかに出会ったころ。あのころは、あすかのなかに、自信のなさもみえかくれしたけれど。
でももしも、あすかのなかに自信が育っているのであれば。
それは、すべて、千冬がいつだってあすかのことを、みとめてくれたからだ。

「なに、浮気の心配?」
「ちがうよ」

あすかの瞳に、ますます真摯な炎がやどる。
今日は、たからかなユリの香水が、ますます強く降りかけられている。
このまま根をはやして、ここに華のように咲いてくれていればいいのに。
花そのものの強いかおりに耐えて、あすかが続ける。

「さみしいんだ」
「それだけじゃ、ないよ」

さみしいことも、あるよ。
つづけてつぶやいたあすかが、千冬のあたたかい胸のなかにこのまますがりつきたくなることを耐えて、じっとみつめる。

少し変わった千冬。
戦う為に装っている千冬。

「心配?」
「それだけじゃ、ないの」

まっすぐみすえたまま、あすかは千冬を離さない。
気の長い方でもない千冬は、語気にややいらだちをしのばせた。

「じゃあ、なんだよ」

肩をだき、あすかの髪の毛にくちびるをよせる。
ぺったりとはりついたリップクリームに、あすかの黒々とした髪の毛がひとふさすいよせられて、はらりとこぼれてゆく。

「のまれないでね」

千冬が、ぺっとりとグロスに覆われたくちびるをぺろりとなめとる。
唾液がくちびるを覆って、八尋の単車のリアシートに乗っていればぱりぱりに乾燥してしまうだろう。

「千冬さん自身に」
「……」

あすかが、さほどととのってもいない平凡な顔立ちをあたたかく綻ばせて、おどけたようにつづける。

「言ったでしょー?千冬さんが千冬さんじゃなくなりそうになったとき、千冬さんは千冬さんだよってあたしがいうの」

フルメイクで完璧に装われた千冬の表情は、色を喪ったスクリーンのなかに咲く、女優のようだ。
ざんばらに降りている金髪。
少し乱れた金髪が、千冬の美貌をますますひきたてる。

あすかの頬に冷たい手をよせて、千冬がたずねた。

「オレ、そうなってる?」

あすかは答えない。
そのかわり、凛とした声で、千冬に贈る。

「負けないでね」

千冬が、耐えきれないようにあすかのことを抱き寄せた。
しなやかな腕が、あすかの身体をつつむ。
少し痩せたか。
意外に体温の高い千冬。寒い店のなかでも保たれた体温が、あすかのことを温かくつつんだ。

このスレンダーなからだをおせば、千冬はどこにいくのか
それでも。
千冬にきつく抱きしめられながら、あすかが促した。

「八尋さん、待ってるんじゃない?そろそろ」
「ああ」
「引き留めて、ごめんね」

あすかのことをゆるやかに解放した千冬が、立ち上がる。

そして、唐突にゆびさし、つぶやいた。

「あすか、そのブーツかわいい」
「え、そうかな!ボアによごれが……あらってないよ……」
「かして」

あすかが身に着けているのはショートのムートンブーツだ。
足の大きさがコンプレックスのあすか。
そして、男性にしては足のサイズがちいさな千冬。
あすかが仕事で愛用しているブーツは、千冬のあしもとにも合うかもしれない。
女性むけのものも織り交ぜて、華麗に着こなしてしまう千冬だ。
しかし、千冬にむけて、性別を断定する言葉は禁句だ。
千冬は、誰に定められることもない、千冬そのものなのだから。

「これー?いいけど、ホント汚いし……」

脱いでみせる。
千冬が、黒いブーツをぬぎすてた。
分厚いフォルムのショートブーツ。

「コイツやるよ」
「えー!!」
「はいてみな、あすか似合うから」
「じゃあ……てか、やるっていわれても。返すから、あたしのも返してね」

足を忍び込ませてみる。
さきほどまで千冬の足をつつんでいたとは思えないほどつめたいブーツ。
きっと、千冬にあたえたボアのブーツは、あすかの体温で不気味になまぬるくなっているだろう。

「実はねー、まえから、これ、かっこいいと思ってた」
「ほら、似合ってる。コイツかりるぜ」
「丈夫だからね、好きに履いていいよ、汚いけど……」
「丈夫なの?車蹴っても衝撃こない?」
「なにしよーとしてんの……。丈夫だよ、さんざん履いてるけど、ガタはきてないし。汚いだけで」

控室を出て店を横切る千冬の背中を追いかける。
愛用しているブーツより、やはりずっしりと重い。
もたもたと歩いていると、振り返った千冬が、大丈夫?とあすかを案じる声をかけた。

「うん。それ、もう汚れてるから、履き倒してくれていいからね」
「あらってかえすよ」

千冬が店をあとにする。
結局、客はだれもこなかった。
不穏なアイドリング音。寒空の下、八尋がふたりに背中を向けて、待っている。

「じゃあな、時間きたらさっさと閉めろよ」
「うん……行って、らっしゃい……?」
「ああ」

気を遣ってくれているのか、八尋は、単車にまたがり、二人に背中を向けたままだ。
ずいぶん待たせてしまった。あの頑強な体も冷えてしまっているだろう。

千冬があすかを胸元にひきよせた。
あすかの前髪越しに、リップがはがれてしまったくちびるで、千冬はそっとキスをおとす。

「帰ってくるよ」
「ん、うん」
「コイツ、かえしにくる!」

いやに朗らかな声で突き放されて、あすかから千冬がはなれてゆく。
しっかりしたブーツにささえられて、あすかの身体は揺れることはない。
少し薄汚れたボアのブーツにつつまれた千冬の足元。千冬の身体は、闇夜に消えてゆく。

千冬が無言で単車にまたがる。
八尋は、こちらを見ない。

ヨンフォアの甲高い排気音が、材木座の町に響き、二つの弾丸はあっというまに、この冷たい夜に消えた。

title:as far as I knowさま

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