Novel
月影届かぬ夜すら越えて

バスと江ノ電と自転車を駆使して、藤沢本町にある高校から材木座四丁目のあすかの自宅そして自宅そばの店まで超特急で帰宅すれば、どれだけ急いでも時刻は15時36分が限界だ。そこから、制服の上からエプロンをつける。飲食店の開店直前に急遽かかってくる注文にこたえるため、あすかと入れ替わりに車で配達に出かける母親に交代。まずは行き届かない掃除や、歯抜けになってしまった商品補充、そして伝票打ち込み。新入荷商品の勉強とPOPづくり、飛び込みでやってくる蔵元の相手、そのあいだに迷惑電話やうさんくさい訪問販売を撃退し、そして接客。気づけば閉店時間をむかえている。

それにくらべて、日曜日のあすかの店の、ゆとりある時間の流れと言ったら。母が体調を崩してから、この店が日曜日に開店するのは月に2度だけとなった。配達もやすみをとる。もっとも、千冬の店をはじめとする、あすかが原付や自転車で手早く出向いてゆける、家族経営の小さな店は別として。

しかし秋は鎌倉のお祭りの季節だ。ひとつひとつの仕事を納得ゆくまで手間をかけて片づけられる時間こそあれど、この季節この町特有の仕事の依頼は、次から次へ舞い込む。

あすかがたった今手にしているのは、筆ペン。
そして、眼下には、熨斗。
化粧箱につめられた酒に、お祭りの奉納のための熨斗をかける。

鳥獣戯画が軸にデザインされた筆ペンで、

奉納

そんな文字を書き続けて、最後の10枚目。
納という字の最後のとめ。いつもよりもしっかりと紙に筆先をおき、安物の筆ペンをそっともちあげたとき。

「へぇ、キレエじゃん」

先ほどから何度か開いていた自動ドアは、母親が出入りしているものだと思っていた。

たえず傍でききつづけていたいけれど、今日は聞ける予定がないはずのその声。

清潔なアルトのあとにあすかをつつんだ、たからかなユリのかおり。

「……?千冬さん!!??」

レジカウンターの向こう側。
体をかがめ、ひじをついて。
あすかの手元を愉快そうにのぞきこんでいた、その、シャドウとマスカラ、アイラインに彩られた、切れ長の妖しい瞳。
間の抜けたあすかの顔をなめるようにたどった視線が、冷たくひかったあと、やさしくほころぶ。
正面自動ドアからの光を一気にあびて、輝かんばかりのブロンド。毛先までつややかな髪の毛が、あすかが先ほどみがきあげた台のうえをきらりと走った。

「よぉ。な、お十夜いこーぜ!」

冷たい美貌が、あたたかくほころぶ。あすかだけにおくられる特別な笑顔。

あすかの恋人、千冬が、あすかの目の前で、あたたかく笑って、悪びれない声であすかを誘った。

「え!?お十夜??光明寺の?」

今日は、熨斗を10枚ほど書いた。これは、客が九品寺へおさめる酒に張り付けるものだ。学区で絶妙にくぎられた、あすかの家と千冬の家。光明寺は確かに、千冬の近所。千冬の家もそこの檀家だろう。

そして、たしかに。

材木座海岸から少し離れた場所にくらすあすかはすっかり失念していたが、10月の半ばというと、材木座名物、光明寺のお十夜の季節であるのだ。

この子借りてってもいーですか!
控え室から顔をのぞかせて千冬の名前を呼んだあすかの母親に、千冬が澄んだアルトで声をかける。母親と千冬の顔を交互におろおろみつめるあすかをほうっておいて、二人の間で、あすかが光明寺のお十夜に出かける算段が勝手にとりきめられている。

結果、中間の成績もよかった上、店はあと1時間半程で閉店する。だから今日は、千冬と一緒に、好きなだけ出かけてきてかまわないという決定がくだった。あすかの母はとにかく、千冬があすかのそばについてくれているだけで安心であるようだ。

「ちょ、待って、服テキトー……」
「ああ?いーんだよ、オレもテキトーだろ?いこーぜ!」

あすかが纏うのは、深い赤ワインのような色のロングカーディガンに、適当なセーターにワイドパンツ。髪もメイクも素のままのあすかは、申し訳程度に持ってきていた、財布とハンカチとポーチがつめられたミニトートを手に、あっさりと千冬に連れ出されてしまった。そ、それもうできてるから、たぶんもうすぐ取りに来るよ!!ひとまず終えた仕事の後始末を母親に一言のこして、あすかは千冬に連れてゆかれる。

テキトーだなんて言っていたけれど、千冬のしなやかな体をシンプルに包む、シックな装いは、労働で傷んだ服をいい加減にひっかけているあすかと違って、飾らないのに千冬のことを引き立てている。せめてつまさきがすりへったスニーカーをどうにかしたいけれど、あすかの手は千冬につかまれて、脚はもう光明寺へ向かっているのだ。

そういえば。

「あっ!今日、バイクじゃない!」
「勝手に停めっちまってもいーんだけどよ……、今日歩いてっと、材木座おもしれーもん見れるよ」
帰りはあすかんちまで、おくるからよ!

男の子に急にデートにさそわれること。男の子に家までおくってもらうこと。男の子と夜遅くまででかけること。すべて、千冬と出会ってから、あすかが初めて体験したことだ。

出がけに、あすかの自宅の敷地のかたすみに、ちんまりととめられていたあすかの自転車。

「そうか、あたしが金曜日に千冬さんちに置いて帰った自転車できたんだね……」
「そーだよ、空気いれといたぜ。歩いてこーぜ」
「15分くらい?」
「ここからだとね。仕事でよ、疲れてねえ?」
「んーん、あたし体力あるんだよ」
ありがと!

それにしたって、ミニトートのなかの頼りない中身がきにかかる。
千冬は、しなやかなパンツのポケットに、財布や鍵やらをつっこんでいるだけであろう。

「お金たりるかな?」
「あすか食い込みいいかんな……おごってやってもいーけどよ、ほどほどにしろよ……腹ぁこわすんじゃねーの?」
「おごってもらわなくて済む範囲で食べるよ……」

千冬に茶化されつつ、材木座海岸と鎌倉駅のちょうど中間点にあるあすかの家から、材木座の端の光明寺に向かって、二人は歩き始める。
高校3年の秋は、学校行事にも無縁で、勉強ばかり。毎日を淡々と繰り返していたころ、あすかの将来に向かう道に、少しの変化があった。
あすかはそれを千冬に伝える。
何かを伝えてくるあすかのそばを歩く千冬が、髪の毛をかきあげながらあすかのことを見やった。

「千冬さん、あたし、推薦もらえそう」
「すいせん?」
「今までの成績と、面接と小論文だけで、大学いけるの」
「へー。どこ?」
「横国の夜間」
まだ決まってないけどね。

「夜学選ぶの、あたししかいないっぽいから、たぶん、決まり」

ケツポケットにつっこんだたばこに、くせのように手がのびそうになるが、あすかが歩きたばこを好まないことを知っている。
それをガマンしながら、千冬は、あすかの語りに耳をかたむける。

「夏休み、店のことばっかやってて、受験勉強全然しなかったからね」

あすかはそんな状況を、さほど大げさに考えてはいなかった。あすかの通う、湘南随一の公立進学校は、進学状況をよくよく読み解いてみれば浪人生が占めている。長い人生のなかで少し立ち止まることなど、当たり前のこと。現役合格をのがしても、母親の手伝いをしながら受験勉強をつづけて行きたい大学を目指せばいい。そう気楽にとらえていたところに、ちょうどよく国立大学の夜間部への推薦の話が舞い込んだ。大学側が求める成績は充分満たしているうえ、あすかのそういった家庭の事情のことも話せば、面接官は理解をしめしてくれるだろうと、担任と進路指導の教師は語った。

「昼、店で働いて、夜ガッコいくの?」
「そうだよ」
「がんばりすぎじゃねーか?あすか立派にやってんじゃん、いまさら外でわざわざベンキョすることなんかあんの?」
「あたし、外で働いたことないもん。たかが家の手伝いだよ。がんばれてないし、知らないことばっかだよ」

それにね。

声のトーンが落ちたあすかの顔を、少し背の高い千冬がちらりと見遣った。

「最近、何かあったら、千冬さんに甘えちゃうことで解決してるしさあ……」
「そーだったか?」
「そうだよ!」
だから、ベンキョしなきゃ、千冬さんにメーワクかけ続けるだけなんだよ!

つないだ手をぶんぶんとふるあすかに、千冬は、整った口元をゆがめて、力を抜くようにへらりとわらった。

「でもね、夏休み、お店にずっといたから千冬さんに会えたんだし」
「あすかのお父さん生きてて、お母さんも体調よかったら、オレ、あすかに会ってない?」
「……かもしれないね……」

千冬が、ふたりが出会った状況を簡潔に説明してみせた。
あすかは、千冬とめぐりあったタイミングについてあらためて思いを馳せてみる。
うしなったもののかわりに、こんなにかけがえのないひとに出会えたこと。

蒸し暑かった夏。
9月は、千冬にあまり会えなかった。配達に出かけても、バイクごとどこかへ出かけていることが多いかわりに、高校まであすかに会いに来てくれたこともあった。
そして10月。

つまり、8月の終わりに付き合い始めたわけであるから、今で何カ月になるのか。計算が早い方でもないあすかが、厳密な日時を換算していると、千冬があすかの肩をたたく。

「いた」
「何?」
「コイツ見せたかったんだよ」

気付けば、鮮魚店やサーフショップ、かわいい雑貨屋が連なる、材木座海岸手前の商店街。

そこに、雅楽隊の笙の音が響いてくる。
そして、後ろに続く僧侶。
その後に、桃色の装束をまとった、こどもたちが行列を連ねている。
見物客も増えてくる。地元民から観光客まで、不思議な行列を見守っている。
これは、九品寺から光明寺につづく、練行列という恒例行事。見物客にまぎれた千冬が、あすかの耳元でそう説明する。

「か、かわいい……!ちっちゃい子たち……!!」
「オレさー、ジャリのころ、あれやったよ」
「ああ、光明寺の檀家の子がやるの?」
「いや、あすこの幼稚園のガキがよ。6歳くらいまでやったよ」
「衣装かわらないの?」
ちっちゃいころの千冬さんも、きこなしてそーだよね。

頭のが重くてよ……。
千冬が指さす先に視線をおくってみると、不思議な装束をまとったこどもたちの頭上には、なにやら、重みのある鈴のようなもの。歩くたびにリンと鳴るので、笙や笛、鐘の音と相まって、真剣に行進をつづけるこどもたちの行列はずいぶん神秘的な様相を醸し出している。
客も行列の最後尾につづいて歩くことがならわしのようで、千冬とあすかもそれにならった。材木座の町に、千冬はすんなりと馴染む。千冬の妖しい美貌をことさら注視する人も、ことさら忌む人もいない。

「お十夜、ひさしぶりだよ。今日だと、人多いよね」
「渉が昨行ったっつってたけどよ、昨日のがひでーってよ」
「そうなんだ、今日のがマシなんだ。お十夜ってあれだよね、四万六千みたいな」
「ああ、とにかくずっと祈るヤツ」

千冬によるいい加減な説明ではあるものの、端的に言ってしまえばそういうことだ。お十夜の間、日夜修行僧たちによって唱え続けられる念仏。その功徳をいただけば、1000日修行するのと同等の利益がもたらされる。

海沿いをつづく長い行列の後ろについて歩けば、早くもごったがえしている光明寺にたどりついた。中華街から出張してきたと名乗る屋台。中華まんに、やきそば、たこやき、やまいもあげ。やや深く暮れ始めた海辺の寺。さきほどのこどもたちは、本堂に集っている。
これからこどもたちが披露するものは、稚児礼讃舞というようだ。唱え続けられる仏の賛歌にあわせて、こどもたちが神妙に、奉納のために舞い踊るという。

「これもやったよ、振り付け覚えてねーけどよ……」
「えーーー!!あたし、ちっちゃいころあれ見たことあるよ!そっか、知らないうちに千冬さんのこと、みてたのかも」
「あすか、幼稚園ここじゃねーよな?」
「ううん、ちがう。大町のほうだよ」
「渉もいてよ、渉のが踊りうまかったけどよ、ツラがかわいーっつって、オレがむずかしーヤツやらされちまってよ」
「そうなんだ、八尋さんも」
「菓子だけが楽しみでよ……ここ、ビミョーに知り合い多いんだよな……」
ここのボーズがよ、うちの店にくんだぜ……お袋目当てによ……

本堂で経を読み上げる僧侶の背中。千冬は、その背中の裏の顔をいくつも知りあげているようで、あまりにととのった眉を、いまいましそうにゆがめた。

「そ、そうなんだ……。」

苦笑いするあすかが、行き交う人とぶつかりそうになると、千冬がぐっとそばにひきよせる。いくらこうした人ごみにのまれようと、秋の夜長の大気は冷たい。比較的あせばみやすいあすかの手も、千冬の手につつまれたまま、温度は変わらない。
千冬が、あすかの手を力強く握ってくれているおかげで、雑踏のなかでも、あすかと千冬は離れなくてもすむ。

「寒くない?」

少し背中をかがめた千冬が、あすかに、穏やかな声でたずねる。
あすかは、ウールのロングカーディガンをまとっていて、不格好な手を千冬にあたたかくつつんでもらっているのだから、ひとつも寒くない。

「全然寒くないよ。千冬さんは?」

さっぱりとした薄着の千冬が、バカにするなといわんばかりに、妖しい嗤いをうかべて、あすかの前髪越しにそっとキスをおくった。前髪をおさえて戸惑うあすかを流し見して勝ち誇ったように笑いながら、あすかに食べ物を買い与える。あっちで、すわって食えるとこあんぜ。そう伝えた千冬が、ひとまず、食べながら歩けるものをあすかにわたした。
参道に連なる夜店のなか。
中華まんを両手にもち、片手側をまたたくまに食べつくしたあすかに、千冬がぽつりと伝える。その前に、人が増えてきたから、あすかの肩を、見失わないように、抱き寄せて。

「なあ、おれんことわかった?」
「……?千冬さんの、こと?」
「おれ、この町で生きてきたんだよ」
「うん、あたしん家と千冬さん家、絶妙にズレてるんだよねー……」
「ズレてたもんが、やっとハマったのかな」
「かなあー?家は、そんなに遠くないのにね」
「歩くと時間かかんけどな……単車だとよ、5分で着いちまう」
「なのに、あたし、千冬さんに、やっと会えたんだね」

あすかに与えた中華まんを奪うと、あすかが真剣に抗議した。ぶつぶつと千冬を叱りながら、抱えてもちあるけるほどの食べ物を買いつくし、ヘラヘラわらっている千冬を連れ歩いたあすかは、海のそばの休憩所にそれをどさりと置く。法要を黙々と続ける僧侶たち。そのそばで、千冬とあすかは、暗く猥雑な夜のなか、くっついて食事をとりはじめた。海の音と、海をさえぎる暗闇。境内に、波のように広がる法要の声。

「夏からさ」

あっという間にごはんを食べつくしたあすかが、かたちのいい口元にホルモンを運んでいる千冬に、訥々と語り掛けた。

「いろんなことあったね」

タピオカジュースで流し込んだ千冬が、ようやくたばこに火をつけて、軽くうなずき、ウェーブがとれはじめた髪の毛をかきあげる。

「八尋さんとも知り合ったし」
「ああ、渉とオマエが会うんはよ、もちっと後になると思ったけどな」
「千冬さんがうちのガッコいきなりきて、北鎌でごはんたべて……」  
「あの後、なんかいわれてる?」

みんなびっくりして聞いてこないよ……。呆れたようにつぶやいたあすかに、千冬が愉快そうに笑い飛ばした。

「特攻服を着た千冬さんのこと、はじめて見て」
「……」
「……辛いことも、そこそこあって……いっぱい助けてもらって……」

千冬と同じジュースをストローで啜ったあすかが、静かにつぶやいた。

「あたし、千冬さんに、ずっと守ってもらってる……」
「オレがあすかのこと好きなだけだよ」
「千冬さん、ずっといっしょにいてくれたし」
「……そんなに会ってやれてねえだろ?」

煙を大量に吐き出して、自嘲気味に千冬は吐きすてる。思い通りにならないことも多い。そんな鬱屈を煙に乗せて、すててしまうのだ。

「あたし、千冬さんになにもできてないね……」

アルコールを買うのを忘れた。
その事実に気づいた千冬が、忌々しく舌打ちをすると、あすかが千冬のことをのぞきこむ。大丈夫?そんなことを言いたげな肩を、千冬はそっと抱き寄せた。

「千冬さんに、何かできるかなあ……」

素直に千冬に身をまかせたあすかが、小さくつぶやいた。

「これから、ずっと千冬さん一緒にいて、千冬さんに、あたし、ちゃんと返せるかなあ」
「ばかだなあすか」
「うん、ばかだよ。地頭は別に良くないって言ったじゃん」

祈りの声が満ちる。
山門の真上に、きつねいろの満月がおおいかぶさる。
回向柱が見える。帰りに、あの綱をしっかり握っておかなければ。
あの綱に、千冬はあすかのことを。
あすかは千冬のことを、一心に願うのだ。

「おれがよ、生きてることわすれちまいそーになったらよ」
「うん」
「あすかが、たすけてよ」
「うん。助けるよ」

材木座。光明寺。お十夜。祈りの声は、この夜も尽きることがない。
山門の上には、ぽかんとたたずむ月。

きれいにたべつくしたあとの空容器をちまちまと片づけにかかるあすかのことを、千冬は、精悍な胸元にぎゅっと抱き寄せる。Vネックのセーター。真っ白な胸元にはキズあとひとつ、のこっていない。こんな夜だ。きっと、ふたりのことなど誰も見ていない。

千冬が、あすかのあごをそっともちあげる。

「えっ、キスするの?」
「するよ」
「ソースとかタピオカで、口ん中、めちゃくちゃだよ」
「そんなのオレもだよ」
「いいの?」
「いいよ」

千冬のくちびるにひかれたルージュは、あれほど食べてもつやつやと真新しい。
この色のなまえを、まだ聞いていない。
きっと、聞かなくてもわかるときがくる。
千冬と一緒に生きているだけで、千冬のことは、あすかにわかる。あすかが正直でさえいれば。

千冬のやさしいくちびるを、あすかはしずかに待ち受けて。
しのびよる妖しい千冬の舌を、あすかは、しずかに受け容れた。


title: h a z y

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