Novel
彼は誰時
フランスうまれのブランド。緑色に染め抜かれた自転車の、前輪が、ぐらぐらとふらつく。
ペットボトルのお茶が一本だけほうりこまれたカゴも、ずいぶん立てつけが悪いものだから、がしゃんと音をたててぐらついた。はずみで、カゴの中をお茶がゴロゴロころがり続ける。
そんなことに注意を配る余裕も失ったあすかがおそるおそるあやつっているハンドルが、面白いようにがくんと揺れると、車体も一気に波打った。
「おい、マジメにこげよ」
あすかの背後から、清潔な声がとんでくる。その声は、澄んでいて、軽やかで、ほんの少しだけ意地悪で。あすかの腰をぎゅっと抱きすくめ、たよりない運転に注意を促した、その声のもちぬし。
千冬。
千冬のふわふわの金髪が、あすかの自転車の荷台で、夏の名残の風に気持ちよくなびいている。
「マジメにやってます・・・・・・」
あすかの腰に、千冬のしなやかな腕がまわっている。千冬の指摘もはらいのけて。いたってマジメなあすかは、のろのろとしたスピード、あまりにも用心をかさねすぎた運転で、自転車の二人乗りをこなしている。荷台に千冬をのせて。あすかよりは重量のある千冬の身体をぶじに材木座海岸まではこぶため。
非常に真剣な視線で前方だけに注意をはらい、あすかは、ゆっくり、そしてゆっくり、ペダルをがくんがくんとこぎ続けている。
「あすか……2ケツへただな……」
「別にへたでいいよ!」
あすかの細い腰にまわされていた千冬の腕が、下腹部をたどって、恋人のやわらかいお腹をぎゅっとしめつけた。
「千冬さんが、そんなとこさわるから」
「じゃー、どこ持てっつんだよ」
俺落ちんだろ
千冬の真っ白の手は、あすかのわきばらを、美しい書をかくようにたどる。途端、ギャーと悲鳴をあげたあすかが、たまらぬ調子で千冬をとがめた。
「わかったからおとなしくしてて!」
「はいはい」
ふらふらとおぼつかない運転ですすむ自転車。こんなにのろのろ走るより、一気にスピードを出してしまったほうがよいものを。あすかより体重はあれど、己の体は並のオトコに比べればずいぶん華奢なはず。自転車二人乗りをさまたげるような体格ではない。
それでもあすかは、千冬を後ろに乗せて、慎重に自転車をこぐ。
パンクはしてねーか?
後輪の空気を確認しながら、千冬は、あすかの腰にあらためてぎゅっと手をまわした。さほどかわらない身長のあすかの背中に千冬は額をくっつけてみる。やわらかくて、さわやかなかおりが楽しめる。そしてこの季節、やや強めに漂うのは、厳重に塗り込んだ日焼け止めのにおい。まあ、それは己も同じであるけれど。
「だーから、原付にしよーぜっつったのに」
「原付二人乗りなんてよけいだめ!おとなしくのってて」
千冬がますます腕をきつくまきつけるので、声にならない悲鳴をあげて、あすかの運転はいよいよ不安定になる。
運転に限界をむかえたとき。あすかは、弱弱しい声で、前方を生真面目に向いたまま、千冬につぶやいた。
「お、降りてください」
「いやだ」
「こけそうでこわいよ、ね、押して歩こう」
異様に小刻みにふるえはじめた自転車をあやつりながら、あすかが懇願にちかい声をあげる。
「しょーがねーな、とめて?」
「ちょ、ちょっとまってね……」
「早くとめろよ」
やや低くなった千冬の声など相手にしていられない。あすかは、ハンドルをがくがくと左右にゆらしながらブレーキをゆるくかける。
すると、スピードはゆるやかにおちていく。
きゅっとブレーキをにぎりしめ、自転車を停車させると、あすかは安堵からくるためいきを、実にふかくついた。
「自転車、かわって?」
「押して歩こうよ・・・・・・」
跳ねるように自転車から降りた千冬につられ、あすかもようやく二人乗り運転から解放される。千冬はそのままあすかからハンドルをうばいとり、ちゃっかりと自転車にまたがった。千冬の方が足が長いから、サドルは高くした方がいいとおもうのだけれど。そんなことを考えながら、あすかは千冬にされるがままでいる。
「ほら、乗れよ」
「・・・・・・重いよ?」
「俺のが重いだろ?早くしろよ」
荷台に腰掛けて、千冬のひきしまった腰に添えるように手をおくと、千冬に思い切り手をつかまれ、強引に腰に腕を巻き付けられてしまった。
運転者が変わった緑色の自転車は、じつにスムーズにすすみはじめる。
まだ小学一年生くらいの頃。亡くなった祖父の自転車の荷台に乗って、鎌倉駅西口の本屋さんにつれていってもらうことが、あすかの楽しみのひとつだった。
このスムーズな自転車のうごきは、そのころのことをおもいだす。
「このチャリ、俺のと同じ色に塗装しよーぜ」
千冬が、さして真剣味もない声色で、あすかにいい加減な提案をする。
さきほどまでのあすかの運転とはずいぶん違い、快適に進む自転車。夕暮れ。ときおり、強い西日があすかのことをさすので、ぎゅっと瞳をとじて、千冬の背中に頭をあずけてみる。
材木座の静かな住宅街。時刻表からずいぶんおくれたバスが、のんびりと走ってゆく。魚のにおい。閉店準備をしているドーナツ店。浄明寺の幼稚園から母親といっしょに帰ってくる幼稚園児たち。
夕方の材木座ののどかな風景が、ふたりのそばをながれてゆく。
その風景のなか、あすかはあきれた声で、千冬のいい加減な案に答えた。
「何いってるの、このままでいいから・・・・・・」
「どノーマルじゃん」
「自転車にノーマルも何もないよ」
「あるよ、なー、俺のと一緒にしよ?」
「冗談はいいから・・・・・・あ、着くよ」
短い坂を、千冬はブレーキもかけず一気にくだる。お腹の底がふわりと浮いた気分に陥り、あすかは千冬にあらためてぎゅっとしがみついた。
白く短いトンネルをぬけると、そこは海だ。
材木座海岸。
眼前に相模湾がひろがり、だだっぴろい砂浜。
「夜の底が白くなる」感覚などわからなくて。そもそも、まだ夕方。夕日はこれからしずむところだ。
「お、降りるね・・・・・・」
そう頼りなく宣言したあすかは、慎重にとびおりる。なさけなくよろついた瞬間を千冬に見られなかったことに、こっそり胸をなでおろした。
「お店、おかーさんに任せて来ちゃった」
「お母さん、いいって言ってただろ?たまには息抜きしよーぜ」
「千冬さんに甘えてばっかりだよ。息ばっかぬいてる気がする」
「最近甘えられた記憶ねーゾ?」
あるよ・・・・・・
ぼやいていたあすかは潮風に黒髪をあおられて、あわてて前髪をときなおす。
スタンドを蹴りあげて、千冬は緑色の自転車をとめた。かごからペットボトルのお茶をとりだし、あすかにわたした。二人で飲もうと、自動販売機で千冬が買ったお茶。カシャンと鍵をぬき、千冬はポケットにそれをつっこむ。
「自転車乗ったの、ひさしぶり?」
「んー、ショーガクセー以来」
「そんなに!」
「あすか、中免とらねーの?」
「向いてないよ。へただとおもうし」
「あ、さっきの気にしてんの?ま、あぶねーしな」
下手はフォローしてくれないのか。
あすかは内心こっそりと拗ねたあと、細かいメンテナンスを自分で行わなければならないイメージのある大仰な乗り物を、己で所有する責任はもてないと考えた。
バイクとは、動物と似ているのだろうか?
原付こそ所持しているけれど、あれは母とも共有のものであるし。
千冬と同じ乗り物にまたがれば、彼のより深い部分に近づけるのだろうか。もしも千冬に、バイクのことでわかりあえる女性がいたとすれば、自分はきっと、そんな女性に、見事に嫉妬してしまうだろう。そして、千冬には、平気なふりして、うそぶくように隠す。そしてあっさり見抜かれるところまで容易に想像できる。
「腹へったー、帰りどっかで食お」
「そうだね、ここで食べるととんびくるし」
「俺ガキのころパンとられたことあるよ」
「え、怖いね」
「すげー泣いたよ」
この、時折、恐ろしいほど落ち着いた冷たさを魅せる、やさしい人にも、感情のままに泣き叫べるこどものころがあったのか。
そんな当たり前のことを、あすかはときどき忘れそうになる。
「わざわざ夕暮れ見に来たの、はじめて」
「へえ?」
「あ、千冬さんは、はじめてじゃないんだね」
「暴走ってりゃ、海のそばで見ることもあるよ」
それだけなのだろうか。
きっと誰かと来たことがあるんだろうな。
そう思ったときの、つまらなさそうな自分の顔。きっと千冬に見抜かれているだろう。
「オンナと来たわけじゃないよ」
「そ、そうなんだ」
全部ばれている。千冬が一本しか買わなかったペットボトルを、あすかはぎゅっとにぎりしめ、うつむき、ばつのわるそうな顔をした。
「千冬さんのまえでは、何でも見抜かれるね」
「あすかが正直だからだろ」
「正直になろうっておもったんだけどね、でも、イヤなこといいたくなくて、隠しちゃう」
あすかがにぎりしめていたペットボトルをとりあげた千冬が、音をたててキャップを開けた。冷たいお茶をひとくち飲んだあと、開いた飲み口をみせ、あすかにすすめる。キャップごとそれをうけとったあすかもひとくちだけ口をつけて、そのまま栓を閉めた。
「イヤなことー?」
少しゆがんだ声音。ほんのわずか、湿度がにじんだ声で、千冬があすかの言葉の意味を、うかがっている。
「千冬さんが、すてきだから、いろいろおもうの」
「すてき?おれが?」
あすか、昨日おれが何したとおもってんの?
血液のかおりが、鼻先にふとよみがえった。
口だけは立派だったけれど、数発殴ると、あっさりと己の肩に倒れかかってきた肉の塊。小汚い肉の感触もおぞましいうえ、それが吐き出した、吐瀉物まみれの返り血が実にいまいましくて。倒れてからも幾度も蹴った。あれは怨恨が残るかもしれない。やりすぎたことを八尋にとがめられる可能性もでてくるだろう。
まっ、死んではないと思うけどな。
揺れる金髪の、少しいたみはじめた毛先をくるくるとしなやかな指にまきながら、無責任な後味が、千冬の体内に去来する。
あすかのまえでは意識して控えていたたばこを、我慢できずにとりだした。
千冬のそばで、喫煙をとがめもせず、あすかは、ぽかんとした表情で千冬のことを、眺めている。
「今日どーして単車じゃねーかわかんだろ?」
頭いいあすかならさ。
「え、ぜんぜんわからない。どうして?車検??」
千冬が大笑いするので、はずみで、美しいくちもとから、たばこがぽろりと落ちた。腹をかかえて笑う千冬を、あきれてながめたあと、あすかが、こぼれおちたすいがらをひろった。
「あー、おもしれ。おれあすか大好き」
あすかの肩をぎゅっとだきよせ、千冬はやや強引に歩きはじめた。まるでひきずられるように、あすかはつられてあるきはじめる。
千冬は、あすかが律儀にひろったごみをとりあげる。あしもとには、だれかが残した灰皿代わりの空き缶。そこにすいがらをつっこみ、千冬はあすかの肩をきつくだきよせながら歩く。
じゅっと音をたてて香水が香ってくるようだ。
わたしはこんなに汗をかいているのに。
千冬は、汗ひとつかかない。胸元は、パウダーをはたいたように真っ白で、さらさらで。
「頭よくないの、あたしは」
今の話わけわかんないよ・・・・・・。
夏の間、売りに来ていたかきごおりの店も、たこやきの店も、やきそばの店も、もう畳まれてしまった。千冬に抱かれ、少し早い歩調で歩かされながら、あすかは片手につかんでいた緑茶のペットボトルを開栓して、ごくごく飲む。
「あんな高校行っといて」
「やらなくてもできる人が頭いい人なの。あたしはやらなかったら成績落ちるだけだから」
「おれ、あすかの制服姿見たことないよ」
「どーでもいい制服だよ?ただのブレザー」
「共学だろ?」
「そうだよ、男子の方が多いよ」
「へー?あすかモテるの?」
「わ、わかってて言ってるでしょ!?」
バカにしてるー?
中学時代までは男友達が多いタイプだったのだが。高校になると、すっかり相手にもされなくなった。飾ることに興味もなく、放課後も、部活も遊びも関心をむけず、さっさと家に帰り、店の手伝いに励んでいたあすかに、同じ年齢の楽しく遊べる対象としてみなす男子生徒は、気づけば皆無だ。
そんなことを思い、ついむきになった。
裏返ったような高い声に変わり、めずらしく感情的な口調に変貌したあすかのことを、千冬は、いたって素直な顔でのぞきこむ。
「マジメに心配なだけだぜ?」
「あたし、オトコの人とまともにつきあったの、千冬さんがはじめてだから。でも、千冬さんは、そうじゃないよね」
「どーしてそーおもうの」
千冬にさらにきつくだきよせられ、皮膚や髪の毛が密着する。少し暑くなってきたけれど、このかおりにつつまれていることは心地よくて。犬の散歩をさせている老夫婦は、そしらぬ顔ですれちがった。この町にすむ人々は、他人を不躾に観察しない。
「そんなの・・・・・・千冬さんだもの」
「つーか、マトモって、どういう意味?」
「マトモ、というか、たいしたことじゃないよ、そのうち話すよ」
話すようなことなどなにもないのだ。
すこし、背伸びをした。
中学生のとき、一度だけ男の子とつきあったことがある。でも、手もつなげなかった。キスすらもちろんない。一度だけ、大船のゲーセンでデートをした。どのゲームをやろうなんて、どちらも言い出せなくて。ゲーセンでぼーっとつったったまま、時間をすごして、藤沢駅で別れた。
受験のどさくさで、いつのまにかわかれた。
あの子がどの高校に行ったかもしらない。
それだけのこと。
千冬のようなひとに、はなせることなんで、何もない。
甘酸っぱさもなにもない。ろくでもない思い出ですらない。そんな、ささいなことを思い出していると、間近に千冬のつめたい瞳が迫っていることに、気づかなかった。
「あ。ごめん」
何に謝っているかわからないまま、そんなことばをつむいだ瞬間、肩をだかれたまま、前方にまわってきた千冬に、いきなりくちびるをうばわれる。
「ち、千冬さん、こんなところで」
周囲に人はいないけれど。
すぐに離れたくちびるは、荒い息をはきながらいまだあすかの間近にある。今日の千冬はほぼノーメイクだろう。くちびるは、いつもの深紅ではなく、艶めいたヌードカラー。
冷たい目が、どことなくこわくて、いつも難なくまっすぐみられる目を、今はみられない。
「千冬さん、どーしたの?」
「あすか、俺以外のオトコしってるの?」
「し、しるとは、どういう意味の?」
「しってんだろ、俺だけじゃねーのかよ」
「し、しらないよ」
あすかの手から、ペットボトルがすべりおちる。
砂浜に落ち、音はさらさらとした砂に吸収される。
そのまま千冬に手首を一気にひっぱられ、あすかは砂浜に倒れ込んだ。
千冬が一気にあすかのうえにのしかかろうとするので、すんでのところでそれをとめる。砂浜にすわりこんだまま、からみついてくる千冬の胸を押し返して、あすかは懸命に懇願した。
「わかった、一旦すわるから、ちょっとまって」
「何がわかったんだよ」
冷たいと思った千冬の瞳を、こころしてのぞきこんでみると、なんのことはなかった。ただ、揺れているだけだ。
「俺以外のオトコにいっちゃったら、俺何するかわかんねー」
砂浜に片手をつき、腰をおろしたまま千冬の胸元に手をそえているあすか。そのからだの脇に両腕をつき、千冬はぐっと距離をちかづける。
「だから、あたし、男っ気まったくないからね」
ありえないから。
やや体はひいてしまったものの、つとめて冷静に、千冬の瞳をまっすぐみつめて、説得するように、あすかは語りあげる。
真っ赤にそまる千冬が、あすかのくちびるをもう一度のみこんだ。
幾度も角度を変えて、千冬の、あまりにおとなびたキス。
なかば無理やりうばわれる、あまくて濃厚な味わい。
さんざんしゃぶりつくしたあと、千冬は、あすかにしなだれかかる。
もうこらえることはできなくて、あすかは力泣く砂浜に倒れ込んだ。
ああ、海辺の家の人々からか、このありさまが丸見えだろう。たぶんそのなかには、店のお客もいる。頭をかかえたいのを我慢して、おおいかぶさり、あすかのカラダに美しい顔をうめている千冬のことを、そっと抱きしめた。じりじりとてりつける西日が、あすかの肌を灼いている感触がある。千冬の美しい髪の毛がふわりとあすかにふわりとかかる。
「俺、何するかわかんないよ」
「あたし、千冬さんだけがずっと好きだよ」
「俺そいつ殺すよ」
「だ、だから千冬さん以外の人なんて好きにならないから、よくわかんない架空の人物つくらないで」
「あすか、んなことしないよね」
「しないってば・・・・・・」
これは千冬においこまれているのだろうか。千冬のわがままに翻弄されているのだろうか。どうにもわからなくて、夏が終わったばかり、いまだじりじりと暑い夕方の材木座。千冬にからみつかれ、あすかはほとほとまいったまま、降参するように、腕を左右にひろげた。
とたん、千冬があすかの上からおきあがる。
ねころがったあすかのそばにすわりこみ、ころがったペットボトルをひろいあげて、砂をはらいおとした。
水滴とまざった砂はなかなかとれなくて、千冬は己のTシャツで、砂を丁寧にぬぐった。
美しくみがきあげられたペットボトル。ふたをきゅっと開けて、ぬるくなったそれを、ごくごくと飲み干したあと、まだ寝転がり、ほとほと疲れ果ててしどけなく瞳をとじたままのあすかのくちびるに、千冬は己のくちびるをそっとかさねた。
千冬のくちびるから、あすかのくちびるに、とくとくとお茶がそそぎこまれる。
ぬるくて、とろんとした液体を、千冬はあすかにながしこむ。
声にならぬ叫び声をちいさくあげて、あすかは、くちびるのはしからこぼれおちる、千冬の唾液とまざりあったお茶を、指でそっとぬぐった。
「・・・・・・」
ペットボトルを、上気しきっているあすかの頬にそっとあてながら、千冬はけろっと喋る。
「じょーだんにきまってんだろ」
「千冬さんさぁ・・・・・・」
「マジメだな、あすかは」
「それだけが取り柄です・・・・・・」
「俺も、あすかだけだよ」
「うん、信じてるよ?」
西日よりも明るく、昼間のやわらかい月よりもほがらかに、真昼の太陽よりも素直に、あすかはぺかっと笑ったあと、ひとことだけ、千冬に言葉をのこした。
自分でも、もっとひねくれて、そのくせ素直じゃないことばがでてくるだろうと思ったのだ。
でてきたのは、こんなに簡単な言葉だった。
こんなに美しいひと。千冬。
あすかは、それを信じてさえいればいいと、心から思ったのだ。
やや拍子抜けした表情の千冬が、あすかの背中に腕をさしいれて、そっと抱き起こした。
「好きだよ」
「あたしも好きだよ」
千冬が、あすかの頼りない肩に、かなしいほどきれいな顔をうめて、すがりつくように、頭をぐりぐりとおしつける。
「千冬さん」
そのやわらかい感触、そして、骨ばった千冬のからだが、ここちよい。千冬もそう思ってくれているだろうか。
「千冬さん、わたし、中学生のときつきあってる男子がいたけど」
正直に話しておこうと思ったあすかがおもむろにかたりはじめると、千冬が即座にあすかの首筋にくちびるを辿らせはじめた。
「あっ・・・・・・、でも、何もなく、すぐおわったよ、もう、」
千冬のうつくしいくちびるに、浅黒い首筋を、きつくすいあげられた。きっと、あとがのこる。あすかはまだ、千冬のからだに、あとをのこしたことがない。
「なまえも、おもいだせない」
千冬に、吸血鬼のように、くびすじにがぶりとかみつかれる感触が残った。歯型は残るものだろうか。びりびりと痛む。千冬の責めを、あすかは必死で耐えぬく。
「あ、あっ」
短く、そしてわずかに媚態をおびた声をあげたあすかが、千冬の肩をつかむものの、千冬はまだ離れてゆかない。
「千冬さん!」
「なに?」
かみついたまま千冬は答える。
「痛い」
たまらず懇願するあすか。そのくびすじからそっと歯を離し、千冬はあすかの額にキスをおくった。
「ごめん」
あすかが、おもわず、色気もなにもないであろう己のくびすじを髪の毛ごしにおさえると、血冬の唾液だけが指に付着した。その指をつかみあげて、千冬が確認すれど、千冬が考えていたものは、そこにはのこっていない。
「あれ、血でてない?」
「ん、でてないとおもうよ?ヒリヒリしないから」
「そう?俺の勘違いか」
「もう痛くないよ」
あれくらい噛むと、どんなオトコでもオンナでも、血はながれていたのだけれど。
そして、あすかのカラダは、それに耐えてくれる。
潮風と、わずかにのこる夏の熱気にあてられていたのかもしれない。
千冬は、あすかのことをやさしく抱きしめなおしたあと、肩口に顔をおもいきりうめた。
あすかのここが、千冬は大好きだ。肩がとてもやわらかい。ふわりとした胸が心地よく感じられて、きゅっとまわしてくれる腕もいとおしい。
あすかのやわらかさ、あすかのしなやかさ。
あすかのまじめさ。あすかの正直さ。
あすかのつよさ。
千冬は、あすかのことが、大好きだ。
「あすか大好き」
その千冬のこえは、誠実だ。
あすかは自信をもって、そう感じることができた。
「ありがと」
「あすかはおれのこと好き?」
「大好きだよ」
ゆがんだ千冬の唇が、夕日よりも赤く燃えた。あすかの肩口にあごをあずけ、太陽に背をむけ、千冬はへらりと笑った。
ぼんやりしたオレンジ色。
千冬の肩ごしに、せつなくくれてゆく、今日の太陽を、あすかはながめている。あの夕日は、いったい何度で燃えているのだろう。
あすかの右耳のしたから、つつっと血が流れた。
あすかはまだ気づかない。
千冬がそれをしなやかな指でぬぐいとり、ぺろりとなめたあと、もう一度あすかの肩口に、ぎゅっと顔を埋めた。