Novel
きみはぼくのヒーロー

たとえるならば、きたないものをなすりつけられたような。

いや、お客様に向かってそんなこと、思っていいはずがない。
そう自分自身に言い聞かせはじめたのが、そもそものはじまり。

毎度、質の低いアルコール臭をただよわせながらやってくる老人客は、粘着質にあすかにからむ。飲み過ぎた赤ら顔、焦点のさだまらない眼は、脳裏からふりはらいたいのに、あすかの記憶につきまとってやまない。虚言のようなくだをまきながら、あすかの容姿を品評し、ネチネチとした目でみまわす。さらりとかわしてみたり事務的な言葉しか使わないでいれば、質問に答えていないと湿度の高い陰険さをあらわにする。しかし、致命的な痴漢行為や、確定的な性的罵倒をぶつけてくるわけではない。忘れたころにやってきたり、数時間居座ってみたり、ひどいときは日に数度おとずれたり。すれすれのところを行き来するやりとりは、あすかの心を削る。

我慢すべきだ、それはわかっている。
そうはいっても、やりとりをつづけていると、確かにすりへるものがある。

いや、我慢すべきだ。世の中の働く女性は、これくらいだれでも当たり前のように我慢しているはずだ。己一人で店を背負っていくつもりなら、これくらいうまく問題解決しなければ。自分が未熟だからいけないのだ、自分がうまくかわせなかったからこうしてしつこく粘着されているのだ、自分がもっと機転のきく人間であれば、こんなことになっていないのだ。自分にスキがあるから、自分が毅然としていないから、自分が堂々としていないから。
すべて自分のせいなのだ。

お客がいなければ生きていけないのだから。
どんなひとでも、お客様なのだから。

そう言い聞かせても、あすかの中から、どうしたって嫌悪はぬぐえない。

今日も一日に二度あらわれた。
そして、「かわいい」という言葉をかけられたとき。
あすかの胸の大きさについて言及されたとき。
それらをうまくかわせず、動揺をあらわにしたあすかを、下卑た声で嗤い、さらに不気味な愛玩の言葉をかさねたとき。間近で、アルコールのまざった息をはきかけられたとき、店にのこった、質の低いアルコール臭を一気に吸い込んでしまったとき。
さすがに今日は、自分の精神が壊れる音がした。

閉店時間をいつもどおりはやめていればよかった。のろのろと閉店処理をすすめていたから、こんなことになった。
なんだって、こんな自分に。己がろくな容姿でないことくらいわかっている。

己が、たとえば今売れっ子の、あすかと同い年くらいの美少女アイドルくらい可愛ければ。スクリーンの向こう側で見とれてしまう女優のように堂々とした美しさがあれば。

そして、千冬のように、氷のような誇り高さがあれば。

あんな客に、ああしてみさげられることはないのだ。
すべて自分がぱっとしないのがわるい。母親がこういう客のおもちゃになっているところなんてみたことがない。いや、あすかの知らないところで、くるしんでいたのか。父親がいればこんなことにならなかったのか、なぜ父は死んだのか。
とめどない自責、そして、自責が一周まわり、脈絡のない他責思考ばかりが、やみくもにうかびはじめる。

足早に自宅にかえり、鍵を厳重にしめる。

どさりと玄関にすわりこむ。誇りを傷つけられたことによる悔し涙を思い切り流したいのに、それすら素直に流れることはない。夢遊病のようにさまよった腕が、電話機のボタンを押す。もう完璧に暗記している番号。


ベルやPHSはもっていないのかな。
もっと、言葉だけを、簡単に送ったり受け取ったりできるような。
そんな機械があらわれたらいいのに。


そんなことを考え続けるあすかの、すがるような電話にでたのは、あすかよりひとまわり年上の女性の、おだやかでやさしい声。
千冬の母親。

「あ、あの、こんばんわ・・・・・・、杉浦ですけど、えっと、千冬さんはおいでですか」

今はいないけれど、そのうち帰ってくる。
そのやさしい声は、あすかに、とびきり慈愛があふれた声で、そうのべた。連絡をさせるとか、そういった心優しいことばがつむがれた気はするけれど、あすかの都合のいい想像なのかもしれない。

涙はいまだでない。吐き気がするけれど、吐けたことはない。頭が混乱していて、罵倒のことばすらまともにでてきやしない。

千冬に会いたい。

うすぐらい玄関先。どろりと疲弊した心は、これ以上からだを動かすことをゆるしてくれない。

そのうち動けるようになるだろう。

そう思い、どれくらい時間がたったかわからないほど、薄暗い照明のした、呆然とすわりこみつづけていたとき。

地鳴りのような排気音。

その音が消えた数秒後に、チャイム。

「あすか」

ドア越しにきこえる、差し迫った声。

あすかは、這うようにたちあがり、鍵をあける。

会いたかった人が立っている。

完璧にまかれたウェーブ。
鮮やかなルージュ。
この強いコロンのかおりは、すべてを覆い隠してくれるようだ。
この服を着た千冬を見るのは、おぼえている範囲で、二度目だ。
ところどころ、血がとびちっている。

千冬。

「あすか、大丈夫か?お袋に聞いてよ」
「千冬さん」

ごめんね、ありがとう、まずはそう伝えるべきなのに。
あすかの声は、うつろに千冬を呼ぶことしかできない。

ひごろ、どんな時でも、淡々としたたたずまいで千冬を出迎えるあすかが、今日は妙に重たい雰囲気にのまれている。

ぐったりと立ち尽くすあすかの肩にふれようとすると、あすかがかすかに身をひいた。身をひいたことによりできあがった隙間に、千冬は体をすべりこませた。

千冬が、後ろ手で注意深く施錠する。

はずみで、玄関にぐったりとすわりこんだあすかの隣に、千冬も腰をおろした。

「お袋がオメーから電話あったって言っててよ。様子がおかしいっつーから」

千冬がすこし距離をちぢめると、あすかが体をひいた。

憔悴に憔悴をかさねた、まだつきあい始めたばかりの恋人の姿。
あすかの顔に明白な暴力のきずあとは見あたらない。着ている衣服や髪型にも、極端な乱れはない。それを、冷静な視線で確認したあと、千冬は、あきらかな狼狽がみえるあすかに、慎重にたずねる。おごそかにそばに寄り添って、おだやかな声で。

「どーした?」

あすかは首をふるばかり。

「なんかこわいことあった?」
「だいじょうぶ……」

あすかの呼吸があらくなる。感情が決壊する合図だろうか。それを察した千冬の声は、より優しくなる。

「あすか、俺、あすかにさわってもだいじょうぶ?」
「……千冬さん、なら」

その気遣い、そしてためらいを含んだ言葉を受け取った千冬は、まだあすかにふれない。

「一個聞いていいか?またあの連中がきたわけじゃねーよな?」
「そ、それはちがうよ!千冬さんに関係することとかじゃないの、あたしが、情けないから……」

致命的に、カラダが傷つけられたわけでもないのに。
それでも確かにすり減ったあすかの精神は、言葉をうまくつむぐことをさまたげる。

あすかのことばを待ちつづける千冬が、落ち着いた調子で口をひらいた。

「店で、いやなことあった?」

ひとつうなずくと、あすかの瞳からとたんに涙がこぼれてきた。
顔が思い切りゆがみはじめる。口で大きく呼吸をした。しゃくりあげるように泣き始めた。この程度、耐えぬきたかったのに、一人で乗り越えなければならなかったのに。
いつもいつも、同じようなことで、千冬に迷惑をかけて。

「あすか、大丈夫だから。オレしかいねーからよ」

千冬が、あすかの顔をのぞきこむ。

「気持ちわるかったの?」

千冬の穏やかな問いかけに、あすかがさらにつよくうなずいた。

「本当に、オレは平気?」
「大丈夫、千冬さんじゃないといや」

すがるような言葉しかでてこない。そして、それが本音かどうかすらわからないのだ。心と体を切り離してしまいたい。まだ強くもとめられたことのない千冬の体。その頑丈でしなやかで、強い心を秘めた美しい体すら、今のあすかに信用できるか否か、わからなかった。

「いやだったら、絶対我慢するなよ」

血の香りが漂う千冬。いとおしい暴力のにおい。その、厚い生地の特攻服に、つつまれて。あすかは、千冬にやさしく抱かれた。そのしなやかで真っ白な手は、あすかの背中を、二度やさしくたたく。そして、落ち着かせるように上下しはじめた。あすかも、千冬にぎゅっとしがみついた。

「千冬さん・・・・・・」
「大丈夫そう?」
「千冬さん」

うなずくかわりに、返事をかえすかわりに、千冬のなまえを呼んだ。
肩にすがりつくように抱きつくと、千冬の腕が、やさしさをおびた力で強くなる。
なでることも、まさぐることもなく、ただそっと千冬はあすかを覆っている。

その腕のなか、その胸のなかで、あすかの涙はとまらない。
千冬の間近でこうして泣いたこと。それは、つい最近にもあったのに。
あの出来事から、完全に回復していないこともあったのだ。
さらにそこへ、気がかりだったことが大きくなっていて。

「千冬さん、嫌なことがあったの」
「うん」
「もう、千冬さんに頼りすぎちゃだめだっておもったのに」
「いーんだぜ?」

千冬の香水、ユリの花の香りが、まるで降り注ぐように浄化してくれているようだ。

「千冬さんに電話しちゃってた。すごく嫌だったの」
「がんばってきたんだな」
「ぜんぜんなの、ちゃんとやらなきゃいけなかったのに、できてないの」
「ひとりでがんばってたんだろ」

心も顔も身体もすべてがびしょ濡れになってしまった気分だ。みっともないまま、千冬にすがりつづける。

「千冬さん、もー無理かも」
「吐き出しちまえばいーよ」
「すごく情けないの、あたしがわるいの、あたしがもっとちゃんとしてれば」
「あすかはキレーだよ」

さほど変わらない体格のあすかが、今日はずいぶんちいさく思える。その冷たい美貌に、柔和な微笑をうかべ、千冬はあすかをそっと抱きしめ、髪の毛を何度もといた。
あすかの頬にふれる、分厚い生地。千冬の背中をたどると、指先に感じられる刺繍の凹凸。やや落ち着いたあすかは顔をあげて、千冬にたずねる。

「この服・・・・・・?」
「このカッコでおめーに会いたくなかったんだよ。でもよ、着替える暇なくてよ」

特攻服を着た千冬は、ややだぼついた生地に覆われ、どこか華奢に見える。

「あたしはどんな千冬さんにも会いたい」
「簡単にゆーなよ、俺、今血だらけだぜ?あすかにもついたんじゃねぇ?」

美しい金髪に飛び散る血しぶき。血まみれではないけれど、真紅の紅が飛び散ったように、白地を染める、真っ赤な血痕。そして、やや熱をもった千冬の体。

「えっ!!ケガ!?」

顔をあげたあすかが、千冬の体を確認しようとする。自分のことばかりで。こんな姿でとんできてくれた千冬のことを案じることを行わなかったことをあすかはいたく恥じ入る。

「ちげーよ返り血だよ。いっとくけどよ、火の粉はらっただけだぜ」

本当は、そうでもないのだが。己の信奉する者の名誉を傷つける人間をさがしだしては、ヤキをいれる。そうして、一度家に帰ってみると、表情を曇らせた母親からの報せ。

己を恨む何者かの手によってあすかが致命的な目に遭わされたのかと思い、とんできてみると、この状態だ。いつも凛と立ち、すべてを気丈にこらえているあすかが、弱々しく傷ついていた。
体に明確な傷はなくとも、すり減らされてきたものが、ついに決壊したのだろう。
そのいたみは、千冬にもわかる。
どの男でもなく、自分自身だからこそわかることだと自負している。

そう思案する千冬の胸元に抱き寄せられたままのあすかが、玄関のうすぐらい照明のなかで、服越しに、あるものに気づいた。

「あっ・・・・・・」

千冬の胸元にしるされているもの。
写実的な獅子の頭。

はじめて気がついた。ざっくりとあいたシャツやTシャツを着ていた千冬の胸元に、いままで見あたらなかったような気がするのだけれど。

「ああこれ?タトゥシール。たまにいれてんだよ」
「こすったらきえるの?」
「さっき上からこすってきたから、このままきえるよ?こすってみて」

人差し指で、千冬の胸元を掻いてみると、獅子の頭が、まっぷたつにわれた。

「え、えっとこのへんで」
「なんでここで終わるんだよ、全部消せよ」
「もしかして、この服を着るときだけ、いれてるとか?」

千冬の真っ白な胸元をきずつけぬように、あすかは、ひとさしゆびのはらにちからをいれて、こすりあげた。

「消えたよ」
「これが消えたら、曼珠沙華の千冬じゃなくなんだよ」
「千冬さんから、千冬さんになるの?」

ニヤリと音が鳴りそうな微笑をたたえた千冬が、あすかにあらためてといかける。

「さわっていい?」
「大丈夫だよ」

あすかの頬を、片手でそっとつつむ。

「いい?」
「いいよ」

あすかに慎重に承諾をとったあと、重なるだけのキスをおくった。


気が付けばずいぶん時間がたっている。
指であすかの涙のあとをぬぐいつづけていた千冬に、あすかがおもむろに声をかけた。

「千冬さん、お風呂つかう?」
「つかう」

即答する千冬が、あすかを解放し、その場でばさりと特攻服をぬぎすてる。動揺をさとられぬように、靴をぬぎすて、あすかは立ち上がり明るい照明をつけた。途端千冬の真っ白の身体が照らされ始めるが、千冬が別段気にしたようすもない。

「着替え、どーしよ」
「下着はいーんだけどよー、あすかの部屋着かしてよ」

千冬を導くように居間に入り、こぎれいな部屋は照明で照らされる。初めて入ったあすかの家。特攻服を肩にかけたまま、ものめずらしそうに眺める千冬のため、あすかはクローゼットをひっくりかえして、部屋着をえらんだ。極端な身長差はないうえ、千冬はとてもスレンダーな体。とはいえ、しなやかに鍛えられてもいる。レディースの衣服でもまったく問題なく着こなせるだろうけれど、なるべくたっぷりとしたサイズの部屋着をいくつかだしてみた。

「これにする?」
「これがいい」

千冬の選んだ部屋着は、濃いブルーにドットが散らされた、パイル地が気持ちいい部屋着。

「シャワー?それとも沸かそうか」
「熱もっちまうからな、シャワーでいいよ」
「熱?ほんとはケガしてる・・・・・・?」
「し、してねえよ。あすかこそ、どっか痛いとこない?」
「大丈夫だよ。あ、シャンプーも石鹸もつかっていいよ」

バスタオルを遠慮なくうけとり、違和感のない様で浴室に千冬は入ってゆく。
安堵からおとずれたためいきを深くつきながら、あすかは、冷たいお茶がきちんと残っているか冷蔵庫を確認し、昨夜の残りのカレーの分量も確認した。これなら千冬のぶんもあるだろう。

十分もたたないうち、あすかの家のかおりをただよわせて千冬は浴室から出てくる。

あすかが日頃何の飾り気もなくだらりと着ている部屋着を、千冬はさらりと着こなしている。濃いブルーから、まっしろの腕がのぞき、甘い部屋着がどこか引き締まって見えた。

ドライヤーをうけとり、ざっと髪の毛をかわかした千冬は、あすかのシュシュを勝手に使い、長い髪をひとまとめにむすんだ。いつだったか、手入れにこまるといっていたストレートヘア。今日はおとなしくまとまっているようだ。その、その真っ白なうなじにくらくらする。

あすかは、千冬がぬぎすてた特攻服をおそるおそる持ち上げてみた。

「ね、ねえ、これ、洗濯機にいれて洗うの・・・・・・?クリーニング?」
「手あらい」

化粧品を選びながら、千冬がぞんざいに答えた。
世の暴走族構成員は、きちんと丁寧に手あらいしているのだろうか。それとも専門のクリーニング店でもあるのか?首をかしげながら、あすかは、血痕をしげしげとながめる。お湯ではなくて、冷水できちんと落とさなければ。

「オレん家で洗うからよ」
「畳んどくね」
「てきとーでいいよ」

あすかの化粧水を勝手に手にとり、コットンにひたし、丁寧にパッティングをはじめる。

「あすか、ここのつかってんの」
「千冬さんを見習ってスキンケアするよーになったの」
やすいやつだけどね。

ハハっと笑い飛ばしながら、千冬が化粧水のボトルを手に取る。

「千冬さん、どこの使ってるの?」

母親の化粧品を勝手にくすねているというが、千冬がこたえたそれはたいそうリッチなブランドだ。美肌は努力のたまものだろう。
たわいもないことを考えながら、念入りにフェイスクリームまで塗りこんでいる千冬の姿に笑みをのこして、あすかも浴室へ消える。

脱衣所のぼんやりとしたあかりの下で、いまの自分の顔のありさまをよくよく確認してみると、それはそれは、ひどい。泣きすぎたあげく、鼻のあたまは真っ赤に染まりあがっている。鼻の毛穴もひらききっている。目もドロドロに赤く、目尻には、抜けてしまったまつげがくっついている。頬も、涙のあとで、ざらざらだ。前髪もぐちゃぐちゃで、髪の毛もずいぶん荒れている。くちびるはかさついていて。よくもまあ、こんなひどい自分をみた千冬は、なにもいわず、抱きしめてくれたものだ。

こんな己にたったひとこと、「キレー」と言ってくれたこと。
それは、好きな男だからうれしいのだろうか。
大好きな千冬だから、うれしいのだろうか。
そうではない。千冬がいつも、あすかをあすかとして、扱うから。
品評でもジャッジでもなくて、あすかのことを信じるように、伝えてくれるから。
あすかの心を信じてくれた言葉だったからに、ほかならないのだ。

そして、あすかもそう思っている。千冬の美しさは千冬だけのものだ。
あすかのことを、いつも、一人の人として扱ってくれる千冬のことを、あすかもそう向かい合いたい。そんなことは起こりえないだろうけれど、いつか、今日のような日が千冬に訪れたら、あすかも、千冬につたえたい。あなたはあなただから美しいのだと。

傷ついたプライドは、そう簡単に元に戻らない。
シャワーをつよくあびながら、今日、最後に泣いておこうと想った。



浴室から出てくると、居間のソファーにぺたりとへたりこんで、千冬が眠りこけている。

「千冬さん・・・・・・」

このソファは、肘掛けをおり、背もたれをたおせば大きなベッドとなる。この夏ずっとあすかはここで寝ていた。

折りたたみ、床においていた毛布を、千冬にそっとかぶせる。そして、突っ伏して眠っている千冬を、あおむけに寝かせてやる。長い足がソファからはみだしているけれど、肘掛けに、足のさきを乗せてあげて。

「千冬さん、疲れてるのに、ほんっと、ごめんね・・・・・・・」

すやすやと眠っている千冬の横につっぷして、あすかは心のそこからあやまった。こんな短期間に、幾度千冬を頼れば気がすむのだろう。甘えたくないと思えば思うほど、自分の芯がもろくなる。頼ってはいけないとこころがければこころがけるほど、千冬のことが、かけがえがなくなる。まだかすかに湿っている髪の毛を手に取り、そっとキスをおくった。



「んぁ?俺寝てた?」

千冬のそばで、小さな音でニュースを見ていたあすかが振り返った。

「寝てたよ。ごめんね・・・・・・」
「んで謝んだよ。なあ、腹減った」

豊かな髪の毛をかきあげながら、千冬はラフにあすかに甘える。

「ご飯たべよっか?カレー温めるだけなんだけど・・・・・・」
「にんじん入ってる?」
「じゃがいもとたまねぎとお肉だけ」
「イモぬいて」
「それ、美味しいの?肉とたまねぎだけになるよ」
「イモいらね・・・・・」
「じゃあ抜いとくね」

タッパーから鍋に掻きだして、一気にあたためる。テレビのリモコンを、つまらなさそうにいじりまわしている千冬のまえに、グラスに注いだ麦茶を置いた。

そういえば、あすかがつくった食事を千冬に披露するのは、これがはじめてだろうか。カレー程度、料理とすら呼べぬ気もするが。泣き疲れて空腹がおとずれていたあすかも、ケンカ疲れの千冬も、カレーを一気にかきこんだ。

「元気になったな?」
「ほんとだよ、元気になったよ・・・・・・」
「どんなことに落ち込んでたか、具体的なことぁ聞かねーけどよ」

食べ終わった皿のうえにスプーンを投げだしながら、千冬が、そっとつぶやいた。

「オレを頼ってくれてありがとな」
「ほんとに困ったときは頼るって言ったけど、すぐ頼りすぎだよね……」
ああ恥ずかしい。
あまりの照れくささと情けなさに、そそくさと食器を重ね、流しに運ぶあすかの姿に、肘をついて千冬は苦笑した。

手際よく後片付けをするあすかの背後、対面キッチンのリビングで、ソファにころがった千冬は、眠たそうな猫のように、ぺたりと丸まりかけている。

「あー、食ったらねみー・・・・・・」
「ね、千冬さんのお母さんに電話しなくていいの?」
「いーんだよべつに」
「電話つかっていいからね」
「いーっつってんだろ。なあ、あすか、ここで寝てるの?」
「うん、お母さんが入院してから、なんとなく居間で寝てるの」

どうでもいい雑音が流れてくるテレビの電源を落とした千冬が、ころがっていた毛布を手に取り、頭からかぶった。そのまま、やわらかな寝息が聞こえてくる。

すべてのあとしまつを終えたあすかが、リビングに戻った。千冬の平和な寝顔に、あすかはそばにしゃがみこんだあと、髪の毛をそっと梳く。

「千冬さん・・・・・・今日はありがと・・・・・・」

照明を落とそうとしたとき、あすかの手を、千冬がきゅっとつかんだ。

「わっ、起きてた?」
「歯ぁ磨く」
「あ、そうだね、新しいのあったかな」

歯ブラシの包装を引きちぎり、千冬に手渡す。湿った髪の毛には早くも癖がつき、だらりと乱れた髪の毛を、あすかが簡単に梳いてやった。マイペースな猫のように、千冬はあすかに身をあずけている。

「あー、居心地いい・・・・・・俺ここに棲む」
「うちのお母さん退院して帰ってきたら、びっくりするね」
「退院もうすぐ?」
「のびてたんだけどね。もうすぐだよ。てか千冬さんがここに棲んだら、千冬さんのお母さんさみしいよ」
「どーだかな。あ、これ俺のだからな。また使うから」
「じゃ、千冬って書いとく」

シンプルなプラスチックのコップに、青と赤、2本の歯ブラシが立て置かれた。


「千冬さん、ここで寝る?」
「あすかはどこで寝るの」
「えーっ・・・・・・と」
「俺と一緒に決まってんだろ」

ソファをひろげてつくったベッドに、千冬とあすかは、向かい合わせですわっている。香水のかおりが消され、お湯のかおりと、あすかと同じシャンプーのかおりを漂わせる千冬が新鮮だ。

「さわってもいい?」
「うん。千冬さん、今日ずっとそれ聞いてくれるね」

あすかに毛布を思い切りかぶせ、千冬は毛布越しに、頼りない体を抱きしめた。衝撃音に近い悲鳴をあげ、あすかはそのまま、千冬に身をあずける。

「今日だけじゃないほうがいいんだろーけどな」
「千冬さんなら、大丈夫だよ」

そのままソファーベッドに倒れこんだあと、毛布を蹴っぱぐった千冬が、ふたりの身体にかぶせなおした。蛍光灯をけし、うすぐらい電球のもと、あすかを胸におさめ、千冬がかすれた声で語り始める。

「俺もさ、オメーと同じかもしれねーな」
「なにが?」
「本当に苦しいところは、言わない」

千冬が千冬になるまで、どれほどの葛藤があったのだろう。ややきつく抱いてくる千冬の腕の中で、あすかは少しだけ身を動かした。

「自分すら自分のカラダがいやになること、ない?」
「今日はじめて、それがわかった」
「俺で、その傷なおる?」
「・・・・・・わかんない。けど・・・・・・今日、千冬さんがきてくれて、こんなに安心することはないなって思った」
「簡単じゃねーよな」
「結局立ち上がらないといけないのは自分だけど、ひとりだったら、ゴハンも食べられてないし今こーやってわらえてないよ」
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫。全部、千冬さんのおかげ。千冬さんがいてくれたからだよ」
ありがとう。

深く余韻を残すような語気で、千冬に礼をつたえるあすか。そうささやいていると、千冬にぎゅっと抱きすくめられる。

「おめーのカラダは、おめーのもんだよ」
「うん」
「何かあったら、そう思っとけよ」

今にも、涙がこみあげてきそうだ。
それは、千冬が会いにきてくれるまで、流せそうで流せなかった、へどろのような涙ではない。
きっと、すっきりと流せる涙だろう。

「おれのでもねーんだぜ?あすかは、おれのオンナだけど、おめーはおめーのもんなんだから」
「千冬さんは、ずっと前から、そーいうことと戦ってきたの?」
「言っただろ、大事なことは教えねーって」
「千冬さんも、千冬さんのものだもんね」

千冬が、腕だけでジェスチャーをおくる。頭をあげろといっているのだろう。素直にそれに従うと、あすかの頭のしたに、千冬のしなやかな腕が通った。

「あー、よかった、千冬さんを好きになって」
「オレもだよ」
「ありがとう、千冬さん」
「いつでもオレ呼べっつっただろ?おめーの店にはいい客しか、こねーよ」

これ以上お礼を伝えすぎるのもしつこい気がして。千冬のさわやかな言葉に、一気に眠りの底へ引きずり込まれそうになった。それは千冬も同様のようだ。

「おやすみ、あすか」
「おやすみ、千冬さん」

抱き合ったまま、吸い込まれそうに眠りそうになったとき。

「・・・・・・キスだけしていい?」
「いいよ?」

ささやかな口づけだけかわし、ふたりはことりと眠りにおちた。



そして今、千冬が置いて帰った木刀が、店のなかにある。しかしどう使えというのやら。これを振り回して暴れたら、あすかの方が訴えられてしまうだろう。

オレが使い込んだやつだからよ。そう、自信満々で伝えた千冬の姿。
確かに、どす黒さを醸し出す木刀のたたずまいは、妙にたのもしくはある。

そして、とうとうこの店の壁にも、千冬の特攻服が鎮座した。千冬は、あくまでスペアを預けているだけだからこれが必要なときにはとりにいくと語った。母親が帰ってきたとき、腰をぬかすかもしれない。その隣には、千冬と千冬の母親が、鶴岡八幡で手に入れて来てくれた、厄除けの御札。

おめーの店にはいい客しかこねーよ。

千冬のことばは、いつもあすかの心の奥にある。そのことばを、まるでおまじないのように唱えた休日の朝。あすかは勢いよく、店のシャッターカーテンを開けた。

- ナノ -