Novel
うたかた

夏の終わりの夜は、まだずいぶん青白い。
ひとつ大きなため息をつきながら、あすかはシリンダーに鍵をさしこみ、自宅の扉を開いた。店舗から自宅まで、徒歩十秒。わずかな道のりは、今日の仕事を丁寧に反芻する猶予は与えてはくれず、生活感あふれる家へ一気に戻される。

心地よさとだるさがない交ぜとなった、重みのある疲れ。スニーカーをぬぎすてると、靴箱と一体化した姿見が、あすかの、疲労のたまった全身を、リアルにうつしだした。

シンプルなTシャツと、ジーンズ。軽くはたいたパウダーも、汗と埃ですっかりはげ落ち、この夏でまた浅黒さが加速してしまった。

「ただいま」

誰もいない家に、挨拶する。母親の一時退院は、数日後。

売り上げ金の入ったポーチは、ひとまず神棚の下の引き出しにしまいこみ、畳の上に小さなバッグを放りだした。

汗くさいTシャツを脱ぎ捨てながら、テレビをつけた。ケーブルテレビの映画専門チャンネルからは、ざらついた質感の映像が流れてくる。これはたしか、テレビドラマを映画化したものではなかっただろうか。無銭飲食をしたことをきっかけに、寡黙な店主のいる料理店にやとわれた少女。冷たい美貌をもつ女の子が演じている。彼女の秘密をにぎる男が、彼女がつくりあげた、ささやかで愛すべき世界を破壊しようとしたとき、交番に勤める美形の巡査がさっそうとあらわれ、彼女を華麗に救い出した。
現実、そんなにうまくいくわけがない。

少しまえまで、そう思っていた。

あすかも千冬に救われたのだ。
画面のなかの女の子のかざらぬ姿にあやうく感情移入をするところだったけれど、自分の浅黒い肌、ぱっとしない顔立ち、良くも悪くもない平凡なスタイルを振り返り、その浅ましさに、あすかは軽い自己嫌悪に陥った。


千冬と付き合いはじめて、まだ数日しかたっていない。

他人から見れば、どこにでもあること。だけれど、あすかにとっては大きなこと。暮らしていれば、生きていればふりかかることを、たったひとりで、淡々と抱えてきたあすか。
その荷物が、少しだけ軽くなった気もしたが、きっと重さは変わらないのだろう。荷物を一緒に持ってくれているわけではないのだろう。

それでも、あすかは、千冬のそばにいると、おのれの心が、ふと、鎮められるような心持におちいる。
あの、攻撃的な美貌が。あの、芳しい冷たさが。
あすかに、おまえはそのままでいろと懇望しているような気がするのだ。
そしてその嘆願は骨太で、頼もしい。大げさなことはわかっているけれど、あすかの、生きる力の源となる。
千冬は、あすかにとって、まぎれもなく、良心的で、確かな存在なのだ。

あの、甘美な百合の花のようなコロンが、ふと鼻先によみがえる。あすかは、妙に照れくさくなり、長い黒髪をかきあげた。

ジーンズはそのまま、肌着のタンクトップ姿のまま、バスタブを軽く洗ったあと、お湯をはる。バスタブにお湯が満たされるのをまつあいだ、グリルに鯖をほうりこみ、鶏ガラスープのもととキャベツ、卵だけの、簡単なスープをつくった。



風呂あがりに食事をとっていると、電話の電子音が相次いで鳴っている。夜は留守番電話のボタンを押してある。居酒屋や料亭が応答メッセージの後に、ざっくりと用件だけふきこみ、そのまま切れるが、今日は、留守番電話の応答メッセージで一度たちきられた電子音が、あきらめず、何度もなり続けている。
少しだけ不気味に感じながら、あすかは、おそるおそる受話器をもちあげた。


「はい」
「おはよ」
「千冬さん?」

その、けだるく、そして少しだけ甘く、澄んだアルトの向こう側は、喧噪に満ちている。外ではないだろう。こもった室内に響く、大きな音楽や、酔客の心地良さそうな声。

「今お店なの?」
「そーだよ、酔っぱらいの相手がダリーからよぉ」
「お疲れさま・・・・・・」

千冬に気安くからむとは、たいした度胸だと思うものの、あすかのような人間をふわりと受け止め、心の底まで快くつきあってくれるような、懐の深さが千冬にはある。
そこを見抜く客も、いるのかもしれない。
とはいえ、酔っぱらい、見境がなくなっているだけのお客も、多いのかもしれないが。

「だけどよー、あんま長電話してたら、お袋が怒る」
「勤務中だもんね。てか、にぎやかだね、カラオケ?」
「下手くそが、かんべんしてほしーよナ・・・・・・」

心底げんなりした声音でグチを言う千冬に、あすかは按ずる言葉をかける。

「大丈夫?」
「ん?全然。でもヘタすぎ」

ざわつきのなか、ためいき混じりに話す千冬の声が、あすかの耳を心地よく刺激する。

「なんか持ってくものある?」
「あ?今から来てくれんの?」
「ん、また明日の注文とかのつもりで、聞いたんだけど・・・・・・」
「・・・・・・」
「行ってもいい?」



ガシガシと歯を磨いたあと、着ていたナイトウェアを脱ぎ捨てた。
数少ないワードローブのなかでは、比較的こぎれいなサマーニット。オフホワイトのそれにあわせて、カプリパンツを履いた。適当に施した緑色のラメ入りのペディキュアが、サンダルを履いた足下にきらめく。

風呂上がりだけれど、制汗剤をひとふきする。

いつもであれば、仕事を終え、宿題や予習を手早くすませて、22時前には眠ってしまう。
今はまだ21時にもなっていないし、眠気も疲労も、千冬の声をきけばどこかへとんでしまった。

シャッターをあけて、段ボール箱の中から商品をとりだし、かごのなかには、頼まれた焼酎の4合瓶が2本。
自転車に鍵をさしこんだ。
漕ぎ始めると自然とライトがともる。

風呂上がりの肌に夜風があたると、実に乾燥していることがわかる。友達からバースデープレゼントでもらった、化粧したまま眠れるパウダーをはたいてはみたものの、千冬のまえでは、かりそめの拵えなど、意味もなさないだろう。

原付では通れない近道を知っているから、自転車だと十五分。街灯がともっている道をえらべという千冬の命令に従って。

千冬とあすかの家は、学区の境目だ。こうして働くようになって、千冬のことを知り、あすかは、自分の住む世界の小ささを、とくと思い知った。

あすかの住む町は、夜になると忽然と音も光も消える。
その点、千冬の家あたりは、雑然とした音、光、人のにおいが、夜遅くまでうごめいている。

薄暗い路地の奥。表通りから確認できる、淡い光。

その光にもとに、豊かな金髪。あすかより少し背の高い少年。扉の前にもたれたまま、あすかを見つけると、美しい顔が、幾分挑戦的な瞳で嗤った。

「原付じゃねーのかよ」
「夜乗るのこわいもん」

怖いーー?わかんねーなと毒づく千冬をさらりと流しながら、

「はい、これ。ありがとう」
納品書は今度もってくる。

焼酎2本をとりだし、あすかはそれを千冬に渡した。

詫びと礼を述べながら店の扉を少しだけあけた千冬が、その隙間から店のすみにコトリと酒をおいた。途端、厚い扉の隙間から、光、音、そして酔客の大声が漏れ始める。

「呼びつけちまったな?」
「違うよ、あたしが行ってもいい?っていったんだよ」

おもむろに店の扉のノブに手をかけたあすかの手を、千冬は上から覆い、とめる。

「あ、ごめんね」

指であすかをみちびき、あすかは千冬の背中を見ながら、すぐ後ろを、これまでより少しだけ近くに寄り添い、歩いている。

「お店忙しいのに、来ちゃってごめん。お母さん、大丈夫?」
「今日の客はよ、お袋よりオレにからみやがんだよ!音痴だし!」

砕けた口調で、千冬はストレスを噴出させる。

「大丈夫?疲れてるよね?」

正気を失った酔客にからまれることは、あすかも、店頭で経験がある。実に薄気味悪く、ストレスがたまることもよく知っている。気遣わしげな声で千冬を慮ったあすかに、千冬は苦笑いで返した。

「けどよ、タチワリーやつらじゃねーから、デージョブだよ」
気ーつかわなくていーぜ?

あすかのいる方向を振り向き、妖しい目元をやわらかくほころばせながら返す千冬に、あすかはやや安堵した。

こんなに、畏怖をたたえた美貌をもっているのに。
あすかの前で、千冬は、いつもあたたかい。


千冬も、あすかも、家のそばにとめられた、大きなバイクをよけて歩く。にこにこと笑いながら、バイクを眺めて歩くあすかの姿を一瞥した千冬は、妖しい口元に、ゆるく笑みをうかべた。


勝手口の前に、プラスチック箱が逆さにおかれている。堅い底面には、使い古した座布団がしかれていて、その足下には、すいがらが詰まった空き缶。
空き缶をよけたあと、千冬は、そのとなりにもうひとつ同じ箱をおいた。

「座って」
「あ、ありがとう」

座布団が敷いてある箱をあすかにすすめ、千冬も、となりに腰をおろした。

勝手口のとびらは少しだけ開いている。ともされたままの蛍光灯の光、店のなかの喧噪が、わずかに漏れている。
じりじりとやけつくような暑さの、夏の終わり。

「メシくった?」
「魚焼いたよ」
「腹いっぱい?」
「うーん、まあ。千冬さんは?」
「飲んだり、ちまちま食ったりはしてたんだけどよ」

千冬の母親が調理中なのか、勝手口からは、香ばしい油のかおりもただよう。

「オレのつくったの、飲む?」
「いいの!?」

一気に笑顔にかわったあすかが、とびあがるような歓声をあげると、千冬がたちあがり、いったん厨房に消えた。

ほどなく、箸と小さな椀にしじみ汁を満たし、自分用にチューハイを抱えた千冬が戻ってくる。

口の前で両手をあわせ、瞳をきらきらさせながら、あすかがその椀をのぞきこむ。

「もう温まってた。あすかって飲まねーの?」

チューハイのプルタブをあけながら、千冬が問いかけた。
お礼を述べながら、あすかが答える。

「いや未成年だし・・・・・・、たぶんアレルギーっぽくなる」
「マジで?オレがここで飲んでるのはへーき?」
「大丈夫だよ」

湯気のたつ椀に口をつけると、絶妙にダシの利いたつゆが、あすかの体にしみわたった。

「おいしい・・・・・・!」
「つーかよ、暑ぃよな?」

夜風はにぶく吹いているのみ。白い腕に乗っかった蚊を払いのけながら、千冬はあすかに声をかける。

「そんなことないよ、おいしい。外でご飯食べたら、おいしく感じるよね」
「買ったモンだと、まずいよ。自作じゃねーと」
「そうだよね!暑いときに、あったかいもの飲むのっていいね」

ゆっくりと味わいながら、あすかは千冬のそばに寄り添う。

「あれから、変な客とか来ない?」
「来てないよ?ありがとう」

湿度がより上昇する路地裏で、食事にありつくなんて、なんだかネコのようだ。あすかはそう思いながら、小さな椀にひたされたしじみ汁を、ゆっくりと味わった。

「ごちそうさま、おいしかった!ありがとう」
「ああ、置いといて」

椀と箸をアスファルトの上に置く。千冬も、飲み終わった缶を、音をたててそばに置いた。

こうして、千冬のそばにいることをゆるされるまえ。
いきなり会いに来てもかまわなくなったまえ。
千冬と、どう会話していただろう。
思い出せるような、思い出せないような。

のどにひっかかった言葉をさがして、あすかは、少しだけ黙る。

この、高くかおる、花のような香水。毒だと呼ぶ人もいるらしい。この毒は、どうしても、あすかにとって、優しいかおりに思えてならない。


千冬がたばこに火をともす。
その様をちらりと見やると、千冬と目があった。
ばつがわるくなり、口元にあいまいな笑みをうかべたまま、ごまかすようにあすかは笑った。

トントンと灰をおとし、煙をはきながら、千冬が、あすかのなまえをよぶ。

「あすか」
「うん?」

豊かな金髪をかきあげながら、千冬がたずねる。

「あすかは、オレが何モンだか、わかってる?」
「何者・・・・・・」

今こうして、あすかのまえで、あすかの感覚、あすかのテンポにさりげなくあわせ、あすかを気遣ってくれている千冬。
時間のあるときは店に立ち、母親をおもいやる千冬。
そして、もうひとつ。
あの白い特攻服を着て、あのゴージャスなハーレーをあやつる、あすかのまだ知らない千冬のことだろうか。

言葉を選ぼうと思案しているあすかの思考をさえぎるように、千冬がたばこの煙を吐き出しながら、さばさばと言ってのける。

「オトコだかオンナだか、わかんねーやつだってことさ」

さばさばと吐きすてたあと、千冬が、裂けた瞳、裂けた真っ赤な唇で、ニタリと笑った。

美しいひと。

あなたは誰を愛しているのか。
あなたは誰に愛されたいのか。
あなたは誰に愛されてきたのか。
あなたはいったい誰なのか。
あなたの美しさにおそれと敬意をいだく人々が、幾度そう尋ねたがったのだろう。
そして、誰一人、口にできなかったのだろう。

それでも、あすかは。

「千冬さんは、千冬さんだよ」

なんて陳腐な言葉だろう。
陳腐だとしても、あすかは、千冬でしかない千冬を、ずっと好きだった。

「そーゆーと思ったぜ?」
「何にもわかってないかな?あたし」

飾りたてなくても濃厚に揃う千冬のまつげが、ばさりと音をたてたように、あすかは感じる。

いつもの挑戦的なほほえみに、少しだけやさしさをたたえた千冬が、一度たちあがり、椀と空き缶を抱えたあと、厨房へ戻った。

すぐに戻ってきた千冬は、冷えたポカリスエットをあすかにわたした。

「なにからなにまで・・・・・・ありがとう」
「会いにこさせちまったしよ」
今度は、オレがいくよ?

「ありがとう」

隣に腰掛けた千冬が、あすかの肩をそっと抱き寄せる。
あすかの頬に、しなやかな手をそえた。乾燥し、浅黒さが増した肌を、千冬に見られるのがはずかしいけれど、千冬の艶やかな視線に、あすかは耐える。

「また会いに行く」
「楽しみにしてるね」

あすかの耳に千冬がそっと指をはわせると、くすぐったいのか、あすかが身をすくめた。

真紅に燃え上がるくちびるが、あすかを飲み込む直前、千冬が、半開きの唇のまま、たずねる。

「たばこくせえ?」
「ん?千冬さんのは、気にならないよ」

あすかの間近で、千冬の目尻と千冬のくちびるが、ぐにゃりとゆがんだ。
切れ長の瞳が、ほそくゆがむ。あすかは思い出す。いつだったか、東京の片隅。黒白の猫がすみついている、小さな美術館で見た、御簾のあいだからあやしくこちらをのぞく、狐のような女。あれより、千冬はうつくしい。
その紅の唇は、夜風にさらされ乾いたあすかのそれとは違い、とろんと潤っている。
まがまがしくも思えるその妖気が、あすかをつつむとき、とけるように、あたたかくなる。

やわらかいくちびるが一度優しくふれあったあと、あすかの唇が、千冬に食まれる。


これがおわったあと、あたしの唇は、まっかに染まっているのだろうか。


千冬に存分に味わいつくされながら、あすかは、そのくちづけに、懸命に耐え続ける。

音をたててくちびるは離れ、額を触れあわせたまま、千冬が語る。

「ずっと、あそこにいろよ」
「もーすぐで学校だけど、帰ってきてからと、えっと土日は、ずっといるよ」

ロマンチシズムに狂いすぎることなく、ふとしたとき、妙に現実に還るあすかを、千冬はニヤリと笑って眺めた。

「あすかも、あすかだよ」

苦虫をかみつぶしたような顔に変化したあすかが、千冬から顔をそらし、頭を横に振った。申し訳なさそうに、薄く笑ったあと、千冬に肩をだかれたまま、ポカリを握りしめた。
額に手をやったあと、あすかはすこしふらつく。

「酒飲んでキスしたからか?デージョブか?」
「大丈夫だよ、ごめんね」

温度があがりつつあるポカリを、上気した頬にあてながら、あすかが、ひとりごちる。

「あたしは……」

遮るように、千冬がくちづけた。髪の毛をそっとときながら、間近で、あすかの顔を、眺め入る。その妖艶な瞳の奥は、試すような光も、嘗めるような艶もなく、しずかにあすかを見入っている。

「好きだよ」

千冬の言葉に、あすかは、くちびるをかんだ。そのかみしめたくちびるは、千冬によって、すぐにほどかれる。

千冬からもう一度おくられるキスは、あすかにかすかにふれるだけ。

勝手口から漏れてくる音楽は、一気に音量があがったあと、少しずつ小さくなる。街灯には蛾があつまり、押しつぶされるような暑さは、夜がふけてもおさまることはない。

千冬に何度もキスをおくられたあすかは、どこか惚けたような、どこかあっけらかんとした表情で、夜空を眺めている。湘南のはずれ。この薄曇りの町でも、星は、かすかに楽しめる。
千冬に肩をだかれ、頭をあずける。千冬は、2本目のたばこに火をともすことなく、指に挟んだまま、時折あすかの髪を撫でる。

「泊まってけよ」
「ううん、今日は帰る」
「んじゃ、送るよ」
「ありがとう」
「もーちょっとだけここにいる?」
「うん」

どこかの家の風鈴が、安っぽい音をたてる。
千冬の豊かな金髪が、ふわりとあすかの頬を撫でた。
こうしていると、まるで芳しい百合の香りの海に、しずんでゆくようだ。

千冬に体をあずけながら、あすかは眼をとじる。それに気づいた千冬が、あすかの肩を、トントンと規則的にたたいたあと、ゆっくり撫で始めた。
強い香り。この強いコロンの奥には、確かに清潔さがある。
鈍い夜風になぶられながら、千冬の清潔な温度に、あすかは、身を任せ続ける。

まだ、千冬とあすかの歳月は、はじまったばかり。先ほど接ごうとした言葉が、いつかあすかのなかから消える日がくるだろうか。この美しいひとのそばで。美しいひとに、あなたはあなただと与え続けることと同じように、己は己でいられ続けるだろうか。まだ、知らないことがたくさんある。
芳しい花の香りに身をゆだねながら、あすかは、少しだけ笑った。それに気づいた千冬が、目元にそっとキスをおとす。

「たばこ吸っていいよ」
「いーよ、オメーがいんだろ」
「じゃあ……」

離れようとするあすかの肩を千冬が強く抱いた。

「納得いくまで、そーしてな」

あすかは少しだけ目をまるくしたあと、浮かんでくる笑みをかみころした。どうあがこうと、この人には見ぬかれている。それなら、せめて、正直でいようと思った。

「ただで頂いちゃったね、しじみ汁……」
「そんかーし、あすかの飯食わせてよ」
「たいしたもん作れないけど……」
「オレもこれだけだぜ」

まだ去りそうにない夏の終わりに、二人の語らいは、とりとめもなく続く。
ぼんやりと浮かぶ半月が、雲に覆われてゆく。
路地のかたすみに、濃厚な香りと、夏のにおいが、くっきりと、残り続ける。火の灯されていない莨をくわえた千冬の切れ長の瞳がとろみをおびる。何かに満足するように笑った千冬が、恋人の髪を撫で、夜空を見上げた。


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