Novel
美しいひと 2
すっかり配達が遅れた日。夕方の6時をまわっている。
この日、あすかは、千冬が、いつも店に吊られているあの特攻服を着ている姿をはじめて見たのだ。
つややかなウェーブがかかった金髪に、血が飛び散っている。
千冬のすぐ前を歩く、背の高い、着飾った男性。異様に整った顔と、おそろしく静かに据わった目。少しだけ目があったので、首だけでかろうじて会釈をかわすと、その無音の瞳が、ほんのわずか、ものを語った気がした。
当の千冬にも、会釈したけれど、ちらりと一瞥をくれられたあと、すれちがうだけだった。
あすかの間近を無言で通り過ぎ、あの美しいバイクには乗らず、知らない男性とどこかへあるいてゆく千冬に、あすかはひとつの声もかけられなかった。
裏口の扉をたたいて、店のなかにじゃまをすると、当然壁には、いつもかかっているものがなく、千冬似の美しいママはぎこちない笑顔だけ見せて、仕込みをつづけていた。
この日からしばらく千冬に会えなくなった。
電話はママの声。配達に行っても千冬はいないし、どうしているか、元気にしているか、気安く聞くこともできない。壁には、異様に真っ白に洗濯された特攻服が、しずかにつるされていた。
夏休みも終わりに近づいた日。
大げさな排気音のバイクが二台。店の前の駐車場を、まるでふさぐようにとまり、品のない若者が入店してきた。一目で未成年とわかる。こういったタイプの若者がこの店にくることは、初めてのケースだ。ここは、大人の趣味の店であり、子供の冷やかしの対象ではない。
「……いらっしゃいませ」
あすかはつとめて低い声をだし、事務的な挨拶を残した。
じろじろと店を見て回る三人組。お酒に、純粋な好奇心があって訪れたわけではないことは、あきらかだ。
「これ何?」
「未成年には、お売りできなくて」
その、からかいの声。
レジに伝票を打ち込みながら、きわめて冷静な声で、あすかは答える。
「ふーーん。未成年がいる店には、ゴテイネイに持っていくのに?」
「未成年のお客様は、お断りしてます」
「千冬だよ千冬」
男の声が、急に暴力をおびる。恐怖をおさえつけて、あすかは表情をけし、丁寧な言葉で返事をした。
「お取引先のことは、関係ないお客様にはお教えできません」
「あんた、高校、S高だっけ。アタマいいんだね」
「……」
事務的な言葉で、相手の胸元あたりを見ながら、表情のない瞳で。あすかは、恐怖にかられ必死で切り抜けようとする。
カウンターに思い切り身を乗り出して迫ってくる様が、気持ち悪い。居座ったまま、あれこれとからんでくるが、あすかは、目の前にたまっている書類の処理をしながら、聞こえないふりをつづける。
そのとき、大きな音をたてて店の前にトラックが止まり、熊のような見た目の大男の運転手(ただし、声は小さく、気も優しい人だ)が、両手に一升瓶6本入りのケースをさげて、どすどすと入店してきた。その見た目にひるんだのか、三人組は、いたぶりの手をややゆるめた。
「まーいーや。またね」
下品な排気音をたてながら、へたな運転でバイクは去ってゆく。
運転手は、去っていった三人組とあすかをちらりと見比べたあと、ハンコを押された伝票をうけとり、どうでもよさそうにでていった。
店をでてゆくとき、奴らは、並んでいるビンに唾をはきかけていた。
父親と母親が命をかけて契約をむすび、守り続けてきたお酒たちが、下品な人間にけがされてしまった。
実は相当の恐怖だった。
がくがくと震える腕で、あすかは、酒ビンを、ひとつひとつ、丁寧にぬぐった。
店を閉めてすぐ、食事もとらぬまま寝込んだ翌日。
こわごわ店をあけた。いつもは仕事の流れを切られる電話がありがたかった。そのたびすぐに店をしめて、配達にでかける。一週間のあいだ、めずらしく、千冬の店からの注文はなかった。ふらりと自転車で出かけてみても、ばったり会うことはない。とてもではないが、用もないのに電話をできるような仲ではないし。
あの百合の花のような、高く薫るコロン。美しい髪の毛。清潔なアルト、時々雑になる言葉が、なつかしい。
日々の細かい仕事におわれていれば、嫌なお客のことは、ひとまずわすれていられる。母親の病院にも通ううち、暇そうな迷惑客のことは、少しずつ忘れてゆく。記憶から抜け落ちかけつつも、しこりのように嫌なものとしてとれなかった出来事。その三人組が、またあすかの店にやってきた。
「ねー、千冬のオンナなんでしょー」
「ちがいますよ。ここ、未成年のお客様は、立ち入り禁止なんですよ」
「質問に答えてないよー、おねーちゃーん」
目をあわさず、事務作業を続ける。
困ったような表情、弱々しい態度をみせたら負けだ。
なるべく機械的な言葉で、切り抜けることをこころみる。
私なんか、誰にも守ってもらえない。
「よくみると、かわいいじゃん?」
この、かわいいの意味。
これがどんな意味か、よくわかっている。
たとえば、千冬のような人には、絶対に投げかけられない言葉だ。
この場合のこの言葉には、みさげた悪意がこもっている。
人の誇りをそぐ言葉だ。
人の心を削ってゆく言葉だ。
そして、こんな言葉に、毅然と対抗できない己も情けない。
レジに向かい、無表情で仕事を続ける。この前のように、関係ない業者でもきてくれれば。お客でも訪問してくれれば。しかし、誰も来ない。こういうときにかぎって、電話の音で流れも切られない。
「どこがかわいいんだよ、千冬の女にしちゃブスだな」
「おい客が来てんだろ話聞けよブス」
「お客さんの眼をみてしゃべろうよー」
動じず仕事をつづけるあすかにしびれをきらした三人組は、コの字型になっているカウンターに、いきなり入り込んでくる。
「ちょっと!」
短く叫んだあすかは、レジを背にしたまま、追い込まれる形となる。
「でてってよ」
あすかの抵抗の言葉など、効果がなさそうだ。ニヤニヤとあすかを追い込み、あっというまに三人に囲まれる。身長はそうあすかと変わらないとはいえ、ぶよぶよと大きな体格は厄介だ。
ペン立てにはさみやカッターナイフはあるけれど、簡単に奪われてしまったらどうなるか。
こうなれば、べつに売上金くらいは奪われてもいい。
だけれど、このまましつこく居座られてしまえば。弱みでも握られ、脅されはじめてしまえば。舐めるようにあすかを見回す六つの眼が、吐き気を催すほど気持ち悪い。
この悪意がどこまで膨大になるか、まったくよめないまま、あすかは真っ青な顔であとずさる。目は怖くて見られない。相手の小汚い胸元あたりをじっとにらみつける。
「でもよ、ここは悪くないな?」
伸びてきた手が、胸元におかれようとしたものだから、あすかはそれをおもいきりはらいのけた。すると、両側から腕をつかまれて、あすかは、カウンターのうえに思い切り押し倒された。
「いやっ……!」
防犯カメラの死角だ。こうなるまえに、交番の巡査にでも、そして、千冬に、相談しておけばよかった。
「はな、して」
体にのびてくる手を必死で払おうとしても、強くおさえつけられていて、動けない。
「助けて!!」
口をふさがれようとした、そのとき。
自動ドアがあく音がした瞬間、床のタイルを、革靴が思い切り叩く音も響いた。
そして、あすかの腕をおさえていた男の横っ面に、一升瓶がたたき込まれた。液体はあふれでてこない。空瓶だ。
「俺の女になんか用かよ」
男が吹っ飛んだあと、強いコロンのかおりが漂う。今日は、ストレートではなくて髪の毛にウェーブがかかっている。
千冬だ。
あすかのもう片方の腕をつかんでいた男の頬に、千冬の白い拳が叩き込まれた。男の身体と一緒に、カウンターが、あえなくひっくりかえる。これは片づけが大変だ。あすかは、恐怖から解放されながら、そんな現実的なことも思う。
「なんか用かって聞いてんだよ」
「よ、用なんかねーよこんなブスに」
捨てぜりふをはきながら、あすかの上にのったままの男が、どさくさにまぎれてあすかの体を触ろうとする。
木刀でその男の額を突きながら、千冬が、おさえつけられていたあすかの手首をつかみ、思い切りひっぱりあげ、自身の背後へ、かばうように隠した。
「殺しちまうぞ」
冷たい声で怒声を発した千冬は、割れた一升瓶を男の背中にもう一発いれて、虫の息の男にとどめをさした。
もうひとりの髪の毛をつかみ、カウンターのなかから片手だけでひきずりだした。片手には一升瓶をつかんでいたが、千冬のもう片方の手には木刀。その木刀が、男の背中にふりおろされ、蛙がつぶれたような悲鳴があがった。
「ち、千冬さん、もう大丈夫だから」
あすかが千冬の腕をつかみ、必死でとめようとする。もどかしい顔であすかを見つめたあと、千冬は、感情と怒りを鞘におさめるように、木刀をつかんだ手を、ゆっくりとおろした。
「もって帰れよその汚ねーモン!」
泡を吹いて倒れたままの男の首根っこをつかみずるずる引きずる男。もうひとりの男も、這うように逃げ出した。
「二度とこいつとここに近づくんじゃねー」
千冬が厳しい声で一喝すると同時に、二台のバイクはよろよろと去っていった。
自動ドアが閉まると同時に、あすかが深くためいきをつく。
「ありがとう……。迷惑かけて……。すみません」
「あ?あやまんなよ」
一升瓶のかけらをひろいあつめて、空の段ボールのなかにまとめながら、千冬が、あすかの遠慮がちなことばを、厳しくとがめた。あすかは、自己嫌悪にさいなまれながら、がくがくふるえる体をおさえながら、言葉をつづける。
「あんなやつらのことも一人で解決できないとか、あたしの先がみえてますよね」
「デージョブか」
千冬があすかの黒髪を撫でた。
そのまま、きつくコロンがただよう千冬の胸元にあすかをそっとひきよせる。
「あすか。デージョブかよ?」
千冬の胸元に額をあずけたまま、あすかは、黙りこくって、何度もうなずいた。
「おめーぁキレーだぜ」
浅黒い肌。日焼け止めをぬるひまもない。ケアのゆきとどかない指。つまらない黒髪をのばしっぱなしだ。デブでもなければスレンダーでもない、ひょろっと高い身長と、胸だけ目立つ、つまらない体型。TシャツにGパン。
「どこが……。つまんないじょーだんやめてよ。ブスも、千冬さんに似合ってないのも、全部事実だし」
いくらでも、自分のよわさ、自分のみにくさを列挙できる。
それは、千冬にだけは、いわれたくない言葉だった。
この美しいひとに。
「キレーだ」
千冬の胸元に気づけばしなだれかかっていて。それがまた情けなくてあすかはその胸元からぱっとはなれて、千冬に背を向けた。
とめどなく悔し涙が流れる。
こいつなら、ちっとくれーからかっても、どーってことないだろ。
こんなやつのやすいからだ、へるもんじゃねーだろ。
そう品定めされたことが、そんな烙印をおされたことが、悔しいのだ。
オトコだろうがオンナだろうがそのどちらでもなかろうが、千冬をみくびる人間などいないだろう。
あすかは千冬が好きだった。
千冬のけだるさが、ラフな優しさが、その誇り高い力が、ねじふせるような美しさが、だれにも負けないプライドが、暴力のかわをかぶって凛とたつ姿が、大好きだった。
「おめーみてーな誇り高いオンナしらねーよ」
あすかより少しだけ背が高い千冬に、後ろからだきしめられる。
「汗くさいからやめたほーがいーよ」
がくがくふるえているあすかの体を、千冬がぎゅっとだきしめる。
「俺にさわられんのこわくねーだろ?」
「うん、全然こわくない。あたしが千冬さんを好きだからってだけじゃない気がする。どうして?」
会話の流れで、とんでもない本音を口にしてしまったあすか。そのひとことを、さらりとうけとめたあと、千冬は、腕を少し強くした。
「そこらのオトコより、おれぁよっぽどわかってんよ」
千冬は、この美しさを、どうもてあましていたのだろう。どうやって向き合ってきたのだろう。美しいひとは、どうやって美しくなるのだろう。傷ついたことのある人の優しさを、あすかは感じる。
「こっちむいてくれねー?」
「うん」
千冬の腕がゆるんだ。体の向きを変えて、千冬とあすかは見つめあう。千冬の腕が、あすかの体をそっと抱き止めたまま、間近で、ふたりはささやきあった。
「何かあったらよ、俺を呼べよ」
「頼りにしてもいい?」
「いいよ。いつでも行くぜ」
「ありがとう。千冬さんがいてくれたら、あたしもがんばれる」
あすかのかわいた唇に、千冬の美しい唇がちかづく。
あすかのほうから、千冬にしがみついた。
千冬がそっと背中に手をまわす。
かさなるだけのキスは、いつまでも続いた。
千冬が、あすかを抱き上げた。そのままあすかをカウンターの上に座らせると、ふたりは、同じ目線になる。
「今日はどうして、来てくれたの?」
「最近、顔見てなかったからよ」
「じゃあ、偶然だった?」
「おめーのまわりを、あーいうのがうろついてんのは知ってたからな」
「そっか、千冬さんが来てくんなかったら、どうなってただろ……」
千冬のきれいな顔があすかに近づくので、あすかはすこしだけ身をひいた。それを意に介さず、千冬はあすかの髪の毛を撫で続ける。
「最初から俺の名前だしたんだろ?なら、すぐ相談してほしかったんだけど」
「頼っちゃ悪いと思って……都合よく頼るとか……」
「頼れよ。何のためのおめーのオトコだよ」
「ほんとに困ったときは、また助けてって言うと思う」
「ああ、次あ、ぜってー呼べよ?ま、あれはもう来ねーと思うぜ」
「ありがと……千冬さんがいてくれてよかった」
冷房がきつくきいた店のなかで。汗と制汗剤とコロンのかおりがまざりあい、二人はもう一度キスをかわした。
「何かあったらすぐ言えよ。気が気じゃねーよ」
「うん」
「またメシいこーな」
「うん、一回しか行けてないね」
外にトラックがとまる音がするので、ふたりはあわてて離れた。やや動揺したようすの千冬が、なんだかかわいらしくて、あすかはくすくす笑った。
二人でカウンターを元にもどしながら、もう一度キスをかわいした。
「あすかちゃん、大学の推薦受かったって?」
「横国の経営の夜間だって」
「へえ、店やりながらか」
「ああ」
八尋の背後で風を感じている千冬の声が、少し跳ねている。この二人には、淡々とした、でも力強い未来が、きっとある。
八尋は知っている。
千冬の恋人は、ふつうの子だ。
そして、美しいひとだ。