龍也小説

凝着

週明け、朝7時台のラッシュ。もう、2本ほどずらせば楽に乗ることができるものを、なかなかそううまくはいかない。
毎朝のこととはいえ、気が滅入る。
葵は、意を決して乗り込んだ。

電車の床から足が浮きそうなほど前後から挟まれ、上を向く余裕も下を向く余裕もない。
周囲の人々に都合よく蹂躙される葵の身体は、ぐいぐいと扉付近に向かって押され続けたのち、学ランを着た学生の胸元に、音をたててぶつかり、そこでとまった。

「申し訳、ありません…!」
顔をあげたくても、背中から思い切りおしつぶされて、動けない。渾身の声で詫びをつたえるものの、その黒い胸元に、葵の身体はぴったりと密着してしまい、もはや離れることもできない。
一刻もはやく離れなければと思うものの、どうしたって動かない。動けば動くほど周囲に迷惑がかかる。

「おい」
いやに静かだが、自若たる獰猛さをおびた、低い低い声が、頭上からおちてくる。
密着しまったことを叱り飛ばされるのだろうか。
そういえば、おととい、初老の男性のイライラのはけ口にされている同い年くらいの女子生徒を見かけた。
嗚呼、自分もあんな目に。
どん底の一週間のはじまりかと、覚悟して見上げた葵。

瞳にとびこんできたのは、整った顔立ちに見慣れた傷跡。
朝一・セットしたてのつやつやのヘアスタイルに、
こちらを冷たくみおろすすこし険しい目つきが、疲労を物語る。

「榊先輩…!」

榊龍也の姿がそこに在った。

小さな声で、おはようございますとあいさつしたまま、葵は、あの龍也の胸元に大胆にしがみついていることを改めて自覚し、心の底からいたたまれない気分に陥った。

「すみません、動けなくて」
ぴとりとくっついていたが、いつしか、あろうことか龍也にしなだれかかるような体勢になっている。

「ご、ごめんなさい、すぐどきます」
といっても、葵は、大勢の人々の熱気と圧力で、龍也から離れられない。下手に動こうとすれば、龍也の視線よりよっぽど恐ろしい、見知らぬ人たちからの舌打ちがとぶ。

葵が胸のなかに飛び込んでくる前は、気難しさをあらわにしながら腕をくみ、扉そばの角に身体を預けていた龍也。

「もたれてろ」

葵に向かって、小声でひとことつぶやいた龍也は、長い左手をのばし、荷物棚の金属バーをつかんだあと、至極うっとおしそうに溜息をついた。

「ありがとう…ございます…」

首からみるみる赤くなり、耳まで真っ赤に染まった葵は、うつむいたまま、首を幾度も上下させ、お礼を言葉にする。

「変わってやってもいいんだが…、俺も動けねんだよ」
「い、いえ、このままで大丈夫です!」

何度か電車はとまるが、すべて反対側の扉が開く。そのたび、葵は龍也を不快にさせないようにすこしは離れて立ちたいと願うものの、限られた箱のなかには、出て行ったぶんだけ、いや、出て行った以上に人が詰め込まれ、密度は増すばかり。ますます龍也にくっついてしまう。
目だけちらりと動かして、龍也の表情をうかがうも、
「上目づかいで見るな」
とぴしゃりと叱られる。
「す、すみませんー、べつに、そういうつもりでは・・・」

間近にあるバーにすら、葵の手は届かない。
片手は通学鞄をつかんだまま人々の足が密集する、下部へ。
定期の入ったパスケースを人差し指にひっかけた葵の片手は、龍也の胸元にそっと添えたかたちとなる。
肘が奇妙におりまがったまま、動きやしない。

カーブにさしかかり、人の塊が、雪崩のように大きく動く予感がする。
葵も思わず目をつぶり、衝撃を覚悟した。
すさまじい人波による負荷が、小柄な葵を一気に押しつぶそうとしたとき、龍也の腕が、葵の身体にまわった。
葵の上半身は龍也の片腕でおおわれて、龍也は葵の細い身体をそっと抱きとめ、いとも簡単に支える。
背中から腕はまわり、大きな手で葵の頭を抱えた龍也によって、葵はしっかりと守られている。
龍也の逞しい腕にガードされ、葵の身体に、さほど衝撃は走らない。

「大丈夫か?」
片腕で葵を抱えたまま、龍也がささやく。
こくこくと、頭を上下させてうなずいたあと、葵は「先輩は?」と、小さな声でたずねる。
「俺か?俺ぁへーきだ」
「ありがとうございます…」
荷物棚をつかんでいた龍也の片手は、葵の背中からおり、腰付近におかれたまま。
口元がゆるみそうになったり、でも申し訳なさもあったり。どんな顔をしていいかわからない葵は、相変わらず顔だけ温度が高いまま、平静をよそおった表情で無意味に頭を振ってみたりする。


今日は、青空をやや薄鼠色が覆った程度の、いたってありふれた、とるにたらない天候だ。
曇りのち晴れ。地面の条件が悪いわけでも、極端に気温が低いわけでもない。
そんな日に、龍也が電車に乗っている。
龍也の目つきの厳しさは、起きたばかりの不機嫌・うっとおしいラッシュ・暑苦しい中くっついてくる葵だけが原因ではないだろう。

「はー……。毎朝毎朝これか」
「そうです。……先輩、今日は…?」
「あ?」
短い声で、くぎをさされる。

どこも怪我はなさそうだ。顔も、首も足も腕も、拳も。
だからこそ、煮え切らず、やりきれないものが、龍也のなかにたまっているのだろうか。
知らないふりをするのも、見えないふりをするのも簡単だ。
わかったふりも、わかったふりでそばにいるふりも、また簡単だろう。
多少は長い付き合いである。龍也の喜怒哀楽の、敏感な部分をうまく避けつつ、ていねいにやりとりを重ねる方法も心得ている。
龍也が発するシグナルさえ的確に受け取ることができれば、龍也の潔癖さに傷をおわせることなく、平穏で楽しい時間をつくることもできなくはない。

でも、龍也を好きで、好きなままそばにいるために身に着けた間合いや呼吸をかなぐりすてて、
そのままぶつかってみたらどうなるだろうか。
そのとき壊れてしまうものがこわくて、
でも、いつかそうしないとならない日がくることも、なんとなくわかってて。

先ほどのようにに、葵は、龍也の胸三寸に迫りかけたあと、力なく立ち去ることを繰り返し、ここまできた。

そのまま、葵はもう話せなくなった。

龍也の片腕は、まだ葵の身体に置かれたままである。


葵の若干汗がにじむ右手から、パスケースがすべりおちた。
龍也が、滑り落ちるパスケースを、あわてて片手でとめた。
「気ぃつけろ…」
うつむきかげんに、葵は黙ってうなずいた。
駅が近くなり、ふたりが密着するドア付近に、じわじわと人の塊が迫ってくる。
その圧により、葵はパスケースを受け取りたいが、手も動かせなくなる。
パスケースは龍也がおさえたままだ。

葵の降車駅にすべりこむ電車。
葵の学校の生徒や、大学生、会社員、様々な世代の人々が一度に乗り降りする駅。
雪崩のような波に乗せられ、葵も一気に車両の外に追い出される。

「忘れもんだ」
人の流れによって顕れた隙間を縫って、龍也が、一旦電車から降りた葵のもとへ、車両のなかからすっと腕をさしだした。
パスケースだ。
葵は、龍也の手に、自分の手をのばす。

指先が重なり合ったあと、葵の手は、龍也の手に、ぎゅっと握りしめられた。
そのままパスケースは、葵の手におさまる。

人の波におされて途切れたあと、扉はしまった。
葵は、龍也の横顔だけ確認できた。
ずいぶん余裕ができた車内で、龍也は腕を組んで目をとじた。

礼も伝えられないまま、電車は発車する。

立ち止まってはいられず、人の波に吸収されるがまま、葵も目的地へ向かうしかない。
汗ばんだ右手は、よけい汗がにじみはじめて、
あの人の乾いた手の感触を、どろどろと打ち消していく。

駅のかたいベンチに座り込みたい葵だが、始業時刻もちかい。
龍也は、葵にふれた手を腕のなかにしまいこみ、目を閉じたままでいる。

殺気だった人々の群れのなかで、少しだけ触れ合ったものは、そのまま、ゆっくりと、乾いていく。

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