龍也小説

くちどけみず

「わかばちゃん、ちょっと待ってて!あ、あの、先に帰ってて?」
並んでくっつき、きゃっきゃとあるいていた友人をその場においたまま、葵は裏道にかけこんだ。

伊勢佐木町の、裏。
大きな書店やショッピングモールの裏を縦横無尽につらぬいている、薄暗い路地。
いつも、あえてのぞかず、いささか早歩きで通り過ぎるような場所。

ふと、見てしまった。
すぐにわかった。
ごみため、吹き溜まりのような場所にすわりこみ、ぐったりと背中をコンクリートの壁に預けている龍也。

不意打ちをきっかけに、凄惨なリンチを受けたというよりは、
たぶんどこかで大人数を相手にして、そのまま、人気のない道を辿ってここを見つけて。
そして、回復のため、休んでいるのだろう。

そう思いたいけれど、傷ついた龍也をまのあたりにして、衝撃は甚大だった。

何十人単位で襲撃されたのではないだろうか。片目は完全に潰れて、額に裂傷がいくつもはしっている。精悍な顔のいたるところは青白く腫れ上がり、くちびるも裂けている。
底力を発揮するまでの、序盤のくらいかたの凄まじさも、異様なタフネスも。
全部この人をますます傷つけるだけ。

葵がどうとかではなくて、だれにも傷ついた姿を見られたくないだろう。
厳しいプライドに支えられている人。
このまま、知らないふりをして、わかばのもとに戻ればよかった。

考えに相反して、葵の体は、ほぼ気を失っている龍也のまえに跪く。
バッグの中から、ミネラルウォーターと、小さなポーチを取り出す。
でも、だからどうしろというのだろう。


龍也の片目がゆっくり開いた。

とたん、眉間に漆黒の影が落ちた後、凄まじい憤怒の形相。

龍也のどんな顔も、慣れているつもり、覚悟しているはずの葵も、
怖気づいてしまいそうな目だった。

でも葵は、踏みとどまるしかなかったのだ。
安易に、龍也のこころのふちに踏み込んだ自罰として。
龍也の視線の殺気にじっと耐え抜いたあと、たまらずへたりこんだ。

「何してやがる、こんなところで!」
感情に任せ叫びだすような怒鳴り声ではなかったが、激昂を滲ませた、猛獣のような声だ。

「そこ歩いてたら、榊先輩がおケガされてるのを、見てしまって」
もう龍也の顔は見られないまま、葵は正直に話す。

心配で...

葵がぽつりとつぶやくと、龍也が、フン…、と鼻で笑った。
そのまま龍也は、たばこをさがして、ポケットをごそごそとさぐる。

あわてて葵は顔をあげて、
「タ、タバコ吸わないでください…」
思わず両手で龍也の手を抑えた。

ばしっと激しい音で、葵の手は弾かれる。
暴力をふるった気など龍也にはない。
蚊などの害虫を避けるような何気ない手つきにすぎない。
しかし葵にとっては、激しい痛みとなって、いつまでも手元に残った。

龍也はすこしだけひっぱりだしたたばこを再びしまいこみ、
忌わしさたっぷりにため息をついた。
口元にこびりついた血の塊を払って、血液まじりの唾を吐く。

誰にも言ったりしません、ということばが、葵の喉から出かかったが、すんでのところでとまる。
なんて失礼な言葉を吐こうとしているのか。

「消毒液と絆創膏くらいなら、ありますが...」

全身で拒まれていることがわかる。
帰れ、立ち去れ。そんな声が聞こえてきた気がして、
そして、きっと最初から龍也が発していただろうそのシグナルに、
やっと気づいて。
葵は、自分の出過ぎたマネの情けなさに襲われる。何気取りだろう、と葵は涙を必死でこらえながら、自嘲気味に思い知った。

「あの、これ、どうぞ...」

水だけ渡して立ち去ろうと思った。
誇り高いこの人は、きっと受け取らないだろうけれど。

「ごめんなさい」
これだけははっきり伝えようと思って、ちょこんと頭もさげた。

水を龍也のそばにそっと置こうとしたとき。龍也の片手が、葵からペットボトルの水を強引に奪いとる。

「あ、それ、ぬるいですよ…」

バキッと封を切り、口をつける。口元から、水がだらりとこぼれて、血のあとをあらいながしてゆく。
龍也は喉を鳴らして思い切りのみほした。500mlのボトルはあっという間にからになった。

真っ赤な目で、水を飲み干す龍也の姿はをぼーっと見つめていた葵。
龍也は、ボトルをいい加減に投げ捨てた。

「ご、ごみはもってかえります…」

律儀にボトルをひろう葵。

刹那、その手首を思い切り掴み、龍也はおのれの方に、葵の小さな体をひきよせる。

「!?」

膝をついた葵の体を龍也が力任せに抱いた。
絞め上げるような腕の力。

長ランの下から、強い血のかおりがただよっている。
顔を背けたくなるほどの暴力のにおい。
そして、恐ろしいほどの腕力で、一気にしめあげられた。抱きしめるではなくて、しめあげるような厳しさだった。

「あっ...」
思わず声をもらし、折れそうになる葵の腕や肩。きしむような痛みがはしるうえ、抵抗しようにも動かせない。鎖で拘束されたような。荒縄できつく縛られたような。龍也のからだから、生々しい湿度がただよい、葵の皮膚に降りてくる。

耐えきれず呻く葵。

「黙ってろ」

龍也の熱い息の音がきこえる。
じゅっと、音をたてるかのように、血の匂いがますますきつくなる。
じんわり漂う汗の匂いがはっきりと薫る。
一生忘れられそうにない、龍也の匂い。

葵の華奢な背中を、龍也の大きな手がまさぐったあと、
前にはまわらず、さらにきつく抱きしめる。

龍也が、熱いため息をつく
耳元でそれを受けた葵は、頭も心も体も、何もかもが真っ白になったような心持に陥る。

龍也は、急に腕をほどき、葵の肩をどんと押した。
圧されたまま、地べたにすわりこむ葵を、もう見向きもしない。
何ごともなかったように立ち上がる龍也。ずば抜けてタフな回復力は、すでに龍也を獣に戻している。

「ダチが待ってんぞ」

もう葵にふれることはなかった。
わかばが待っている場所とは反対方向に、龍也は歩いていく。ふらつきもなく、しっかりとした足取りで。

汚い地面に座り込んだまま、葵は呆然自失のまま、立ち上がれない。声も出せない。
どれほど情けない顔をしているだろう。
口は半開きのまま、龍也の傷みが、腕と肩と背中にのこる。

薄暗く、じめっとした空気、治安もよろしくない通りだ。
表通りへの出口で立ち尽くしていたわかばが、あわてて迎えにくる。
「葵!はやく行こ?」
思い切りひっぱり葵をたちあがらせ、わかばは走り出す。

からっぽのペットボトルをつかんだまま。
葵は手を引かれるまま、もつれる足で駆け出した。
振り向いてみても、もういない。
次どんな顔で会ったらいいのかわからない。それはいつものことだけれど。
まともに走らない足で、ひきずられながら、表通りにたどりつく。
しっかりものの親友の小言を聞きながら、葵は、ペットボトルをぎゅっとにぎりしめた。つぶれないタイプのボトルは、葵の弱い握力をはじきかえし、平然としている。
わかばはまだ怒っている。手をつなぎながら歩き始める。
いくらわかばのまえでも、泣かないようにこらえている。
自分でまねいたことだから。
あの人を傷つけただろうから。
これくらいは覚悟するし、これくらいは耐えなければ。
わかばに手をひかれて、きつい思いやりの言葉をあびながら、葵は、龍也の傷みをわすれたくて、龍也からの痛みを忘れたくなくて、夕方の伊勢佐木町を、とぼとぼと歩き続けた。

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