龍也小説

ちょこれーと

葵は、寒空の下、地味な制服と地味なコートを着て、小さなアパートの二階。一番すみの部屋の前に立ち尽くしている。木造アパートの、古いドアの前。意を決してチャイムを一度だけ鳴らしてみたが、まだ帰宅していないのか、出てこない。
もしかしたら単車の維持費稼ぎのためのバイトか。または、さんざん遊んでからご帰宅か。
こういう記念日の龍也を独占する権利を正式にもつ女性が存在するということも、可能性の一つとしてもちろんあるわけで。

たったひとつの目的を胸に、榊龍也の部屋のまえに立ったままの葵の手には、シンプルな紙袋に入ったチョコレート。
わざとくしゃっとさせたクラフト紙で、落ち着いたトーンの包装をほどこされ、ブラウンのリボンが飾られている。

カカオたっぷりで、甘さがほとんどないとPOPに書いてあったから、
これならきっと大丈夫と買ったはいいが、
何の勝算もなくここまでやってきたことを、大変後悔している。

紙袋から、ギフト包装されたチョコレートをとりだす。
龍也の部屋の郵便ポストに、思い切って、チョコレートをつっこんでみた。

平たく開いたポストの入口に、チョコレートを半分までねじこんだところで、はやくも後悔が襲い掛かる。
見知らぬチョコレートが投函されてあれば、常識で考えて、警戒するであろう。気恥ずかしくてメッセージカードも書けやしなかったのだから。

肩を落としながら、チョコレートの包みをポストからとりだそうとする。
「あっ、あっ…、ぬ、抜けない…」
龍也の部屋の玄関の、小さな郵便ポストには、葵の用意したチョコレートは大きすぎた。
角がつかえて、ひきだそうにもひきだせなくなっている。

金属音をガチャガチャとたてながら、つぶそうとしてみたり、まげようとしてみたり、悪戦苦闘の半泣きでプレゼントであるはずのチョコレートを取り出そうとしていると、突如、背後に大きな気配を感じる。

「何してやがる…」

榊龍也のドスのきいた低音が、葵の折れそうな精神に、容赦なくとどめをさした。

180センチ台半ばの長身が、今日は倍以上に大きく、そしていかめしく見える。
見慣れたはずの傷跡も、黒と赤に染まった恐ろしい髪型も、
今日はひときわ、畏怖の気配が濃厚だ。

自転車置き場であるはずの場所にはきっと、帰ってきたばかりの龍也の大型バイクがとめられているはず。
そのおどろおどろしい排気音すら耳に入らなかった葵。どれだけ頭を白黒させていたのか、恥ずかしさで全身がいっぱいになる。まずはあいさつしなければ。何をしに来たのか伝えなければ。一番言いたいことを、きちんと話さなければ。榊先輩、と、なまえを呼びたいのに。

逡巡している葵をよそに、
「なんだこれ」
龍也が、郵便受けから、チョコレートの包みを力任せに引っ張った。グジャっという紙がつぶれるような音をたてて、あっさりと抜けたチョコレート。

端がくしゃくしゃになってしまった、先ほどまでシンプルで美しい包装をされていたチョコレートをつまんで、高々と掲げ、
それを龍也は冷たい目で一瞥した。

どうにでもなれという覚悟と、今すぐ走って逃げたい羞恥と、やらなければならないことがあるという捨て身の想い。
あまりに種類の違う胸懐で、葵の身体のなかはまたたくまに張り裂けそうになる。
龍也がどう出るか、目をしばたかせながらうかがいたいが、どうしても怖くて見上げられない葵。

「買ったんか?」
「え、えーと、手作りはですね、3回失敗しまして…」

ふっ、と、鼻で笑い飛ばす声がきこえた。
おそるおそる龍也のことを見上げてみると、不思議と穏やかに笑みをうかべている。

「できないわけじゃねーだろ?」
「普段のごはんと、お菓子は、勝手がちがいまして…」

もはやぼろぼろになってしまった包装のチョコレートを、いい加減に手にもったまま、龍也は自分の部屋の扉を開錠し、葵ひとりがはいれるほどのすきまを開けて、葵を招き入れた。

「あ、おじゃまします……」

ふたりしてあがったあと、葵の真横を、ひゅっと龍也の腕がとおり、ガチャンと落とされる錠。葵はその音をきつく意識したが、龍也が気にしたようすはない。

「榊先輩は、私以外にも、チョコレートをもらいましたか?」
「俺にへらへら近寄ってくる女はいねーよ。葵以外にな」

そんなわけはないだろうと思う葵。

「で、でも、同じ学校のおねえさんたちとか……。榊先輩は絶対おモテになる、はず……」

完全に無視をされている。

ぽいっと捨て置かれることも覚悟していたが、龍也の手によって、炬燵テーブルの上にそっと置かれる包み。くしゃくしゃになってしまった四隅が恥ずかしく、先ほどのみっともない行動に葵はためいきをつく。

「なんだ?俺の家は気に入らねーかよ」

龍也の低い声が、せまく静かな一室にひびく。

「……そうではなくて、包装が汚くなっちゃって……ごめんなさい」
「立ってねーですわれよ」
「はっ、はい。……炬燵にはいってもかまわないですか?」
「遠慮してんのかしてねーのかどっちだ」

その座椅子使っていーぞ。長ランをぬぎすてた龍也は、一旦玄関まで戻り、台所へ向かう。

寒空のした、うすぐらいアパートのすみで一時間ほどうろうろしていた葵はすっかり下半身が冷えている。龍也のことばに甘えることにした。

タートルネック一枚の姿になった龍也。かすかに香水がまざった龍也のにおいがふわりと漂ったあと、消えた。

「あ、あの、包みがぼろぼろ…」
「破いちまったらおなじだろ」

なんだこの地味な包み…とぼやく龍也。びりっとクラフト紙をやぶいて、リボンがぽろっとはずれていく。
ハデ好みの龍也の嗜好を思い出して、スミマセンと葵は縮こまった。

ゆっくり温まってくる体。ヒュンヒュン鳴るやかんの音に葵は恐縮して、またも、すみませんとつぶやく。

「言っとくが甘いもんはくえねーぞ」
「あの、甘くないそうですよ。マストブラザーズっていって...」

地味なクラフトの包み紙から一転、中からは、赤い幾何学模様と、緑地に碇の模様がほどこされたペーパーにくるまれた、シンプルで力強い厚みの板チョコレートが2枚出てくる。

ふーん。至極どうでもよさそうに鼻をならした龍也は、そのペーパーすらべりべりと破いた。
そして、そのまま齧りつく。
口に加えたまま、立ち上がり、ほうじ茶の入った急須と湯のみをもってくる。

丁寧だなあ……やっぱり育ち……。龍也の実家のことを思い出し、「ありがとうございます」と、ぺこりと頭をさげた。

「お前も食え」
「ご、ごめんなさい……やっぱりお口には……」
「ごめんじゃねえよ。ありがたいがこれ以上はむりだ」

龍也が、もう一枚のチョコレートを半分にわり、銀紙にのせて、葵のほうに寄せる。実はとても食べたかった葵。迷わず葵は口に放り込んだ。

「美味しいですね」

自分で買っておいて何を自画自賛しているのか。またも葵は情けなくなる。

「あめーぞこれ……」

龍也は律儀に食べながら、愚痴をこぼす

「あ、あの……」

電話の呼び出し音が大きな音で響くので、龍也は炬燵から出る。

現場バイトのシフトのことだろうか。細かく相談しているようだ。

葵はチョコレートをさらにひとつ齧り、茶を飲んだパワフルなカカオの風味が心地よくて、やっぱり甘みがしみてきて、頭が糖分でぼんやりとしてくる。
ふかふかとした、クッションみたいな感触の、豹柄の座椅子。もたれてみる。もっと角度はゆるい方がいい。一度思い切り折ったあと、葵好みの高さにセットしなおす。

紺色のハイソックスとひざ丈スカートだけの下半身が、足元からゆっくりあたたまっていく。

バレンタイン前の2週間は、とても疲れた。
親友に相談すると、私はいつでもお前の味方だと妙に包括的なことを前置きしてきた。そのあと、あれは手作りは嫌いなタイプだとアドバイスをくれた。その両方のアドバイスに何の意味があったのか。龍也の家にいて、炬燵に潜っていると、今考えるべきことだろうに、ただ目の前のことさえあればそれでいい気もしてしまう。
キットを購入して手作りしてみるも、なぜか失敗した。しかも3回。
そもそも甘いものは嫌いだろう。
輸入雑貨店で、かっこいいチョコレートをみつけて、贈ることとした。
学校に行くのは怖いなら、家に行くしかない。
単純だ。
単純なはずだった。




「……」
バカにしているのだろうかこのガキは。
バイト先からの電話が終わって戻ってみれば、座椅子の角度を勝手にかえて、ことりと眠りこんでいる。やや話が長くなったとはいえ、5分程度だ。そのあいだに、ここまで昏睡できるものであろうか。

龍也は、眠りこけている葵の肩からコートをはぎ取ったあと、ぐいっと引き抜いた。自分のチェスターコートをハンガーからむしりとり、かわりに葵のコートを吊るす。本当はベッドに寝かせてやったほうがいいが、それは、当人も驚愕するであろうし、自身も平静ではいられないだろう。

座椅子を平たくしてやり、炬燵布団を肩にかかるまでずらしてやる。

龍也のつめたい指が、葵の頬をゆっくりとたどった。顔だけ蒸気した残り香が、ゆっくり消えていくような温度の下がり方だった。浅い眠りではなく、ずいぶんふかく眠りこけている。うとうととリラックスして眠る顔。

おとなしいのか大胆なのか。龍也を怖がっているのか怖がっていないのか、甘えたいのか、甘えないようにがんばっているのか。
まっすぐぶつかってきたものだけを信じる龍也には、まだこの年下の少女のことがよめない。
ただわかるのは、この少女が、龍也から逃げないことだ。

か細いからだで、大きなはっきりした目で、龍也から逃げまいと、龍也を怖がってしまうおのれのこころから逃げまいと。懸命に自分の足で立っているのがわかる。

守ってほしいとのぞまれれば、こたえたいと思う。いつのまにかいつもそばにいる少女を。

顔を流れる黒髪をひとふさ、耳にかけてやる。黒々とした長いまつげがピクリと動く。龍也のひとさしゆびは、そのまま、まゆから目元をたどったあと、そっと離れる。

無防備な葵に、ゆっくりと黒い影がさす。葵の小さな口元から、安堵しきった寝息がもれ、龍也の口元をふわりとなでた。龍也はなんでもないように、眠る少女のもとをはなれた。



葵が眠り込んでいたのは40分ほどだった。

炬燵布団のすみをかかえこむようにしてすっかり寝ていた葵が、カーテンのすきまからさしこんできた西日を目元にかんじてゆっくりと覚醒する。

「わりぃ、起こしたか」
紫煙をくゆらせていた龍也が、たちあがり、カーテンのすきまをそっと閉ざした。
半目で、口も半開きのまま、寝起きの葵は、空の一点を見つめながら、ゆっくりと、眠っていた思考をめざめさせようとしている。

「……!?」

真顔でその変化を眺める龍也。そして、炬燵のテーブルをひっくりかえさんばかりの勢いで、葵がとびおきる。

龍也はたばこを吸いながら、表情を変えない。無言である。

「あ、あの……わたし……」
「いーんだぜべつに。俺はよ」
「す、すみません、すみません、あ、あの、もう帰ります……」
「おくっ」
「い、いいです!いいです、いいです、大丈夫です、本当に大丈夫です、大丈夫です。駅まで近いし」

炬燵からとびのいたあと、真っ青な顔で、謝罪のことばをちからなくくりかえしたあと、龍也の二言目まで耳にすると、ひごろおっとりと言葉を選んで話す葵にしてはじつにめずらしい早口で申し出を断った。

そのまま、逃げるように龍也の家を出て行こうとする葵。そのとき、台所のコーヒーや、茶葉、生活必需品が目に入った。なぜチョコレートだったのだろう。自分の欲望の事を考えるばかりで、なぜ、龍也のライフスタイルに想像力がおよばなかったのだろう。こういうものにすればよかった。なんだったら、単車関係の何かでもよかった。挙句寝るとは。爆睡してしまうとは。
後悔にうちのめされたところで、もう遅い。

「おい」

龍也の、実に冷静な声が、クールにひびいた。
葵は、劇画のようにびくりと肩をふるわせ、おそるおそる振り向く。

「コート忘れてんぞ」

片手にたばこをはさみながら、コートを突き出す龍也。ありがとうございます!と、ぴょこんと頭をさげて、龍也からコートをうけとりながら、その姿勢のまま器用に靴もはいた。かかとをふみつけているが、しったことではない。目もまともに合わせられないまま、コートをつかんだまま、葵は、龍也の部屋から、逃げた。
逃げてしまった。
こんな日に、最も伝えるべきことも伝えられず。

次会ったらどんな顔をすればいいか。
もう、チョコレートをあげたことを忘れてほしいとすら葵は願った。

次会ったらどんな顔をしてやろうかと思案しながら、龍也は葵の小さな背中を見送る。何かが進みそうで、何もすすまなかった、ただの冬の日。西日が直にさしこむ狭い部屋には、葵の香りがのこる。ぬるくなった茶をあおり、たばこの火を片手で消す。どハデな座椅子を自分仕様に戻し、すわりこみ、炬燵におさまる。体温があたたかくのこり、葵の香りがより濃く漂う。残されたあたたかさへのもやつきと、落ち着かなさと。それらをふりはらうように、龍也は、チョコレートを、もくもくと口に運んだ。

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