ホットアップルサイダー
ふかふかと厚い質感の陶器には、キャラクターのプリントがちらされている。しかし子供じみてはいなく、色彩がどこかあか抜けていて、大人っぽい。葵のお気に入りのマグカップ。湯気がほかほかとたちのぼり、深くておおきな飲み口には葵の顔が埋まりそうだ。
そのマグカップからは、シナモンとジンジャーの、やや個性のある香りがふわふわと漂う。
マグカップになみなみと満たされているのは、ホットアップルサイダー。
サイダーといっても、さわやかな炭酸飲料ではない。つよいシナモンの香味が特徴的な、アメリカ産の、体をあたためるのみものである。
粉末に熱いお湯を注いだあと、かきまぜてとかすだけの、簡単なのみものだけれど、おなかと下半身があたたまって、実にここちよい。
まだ注がれたばかりの熱湯が粉末をとろけさせ、ゆっくりとかおりがひろがり、それを、小さな口でひとくちずつ啜る。
その姿はこの上なく幸せそうで。
「そんなにうめーのかよ」
じゃっかんあきれたような低い声が、背後から葵の体のそこに響いてきた。
今日は、葵の部屋に龍也が訪れている。
「それにしてもよ」
胸やけをこらえるように、顔をしかめ、葵のかおりがつよくのこるベッドにすわりこみ、だらりと脚をなげだした龍也がぼやいた。
「葵の部屋のにおいは何なんだよ」
「お香もルームフレグランスも使ってません……」
「甘ったりー……」
龍也は、遠い眼でぼやきつづける。
「がんばってください」
ひとごとのように、葵はちゃっかりと返事した。
龍也には、ブラウンのマグカップに、酸味のきいたコーヒー。もちろんブラックで。自宅にあるむずかしい機械を駆使して、がんばって葵が淹れてみたのだ。
日頃は姉が使っているので、甘党の葵が使うことはめったにない。みようみまねで懸命にいれてはみたけれど、失敗してはいないだろうか。
龍也の顔をおそるおそる伺うが、とくに変化はない。成功もしてなければ失敗もしていないのだろう。
とりあえず、龍也を楽しませることはクリアしたかもしれない。
コーヒーおいしいですか。
そんなことをしつこくたずねる勇気はなくて、コーヒーを啜りつづける龍也を、葵はじっとみつめる。
「んだよ」
長い腕をのばし、ベッドサイドのテーブルにマグをおいた龍也が、葵を怪訝な眼でひとにらみした。
「あ、いえ、あの、なんでも」
ごまかすように大きなマグカップで顔をおおい、あたたかいホットアップルサイダーをひとくち飲んだ。
「かしてみろ」
葵が、ほがらかなためいきをつきながら口元から離し、テーブルにおいたマグカップを、龍也がうばった。龍也の大きな手に、それは軽々覆われた。
ひとくち、それをすすると、龍也の眉間に激しいしわがよる。
「これのどこがうめーんだ」
「シナモンの……。慣れてなかったら、アレですよね。私は、苦いコーヒーのほうが……」
だってお砂糖いれなきゃ……
「この変な味なんとかしろ」
「無茶なことを……」
はあ、と、ややオーヴァーにため息をつきながら、葵は、ベッドサイドのテーブルに置かれた龍也のマグをおもむろに手に取った。
「うーーーん、苦い」
葵はぼやきながら、ややぬるくなった龍也のコーヒーを少しだけ口に含み、のどをならして、懸命に、ごくんと飲み込んだ。
そして、ぎしりと音をたててベッドにのぼり、龍也の肩に手を起いた。
これから起こることを予期できず、龍也が眉間にしわをよせたあと、少しだけみがまえる。
その龍也に、葵はゆっくりと顔をちかづけた。
コーヒーにまみれたくちびるを、龍也のくちびるに、そっとかさねた。
一瞬ふれるだけ。
すぐにはなれた葵は、そのまま龍也にたずねる。
「これでシナモンの味消えました?」
軽くふれただけ。龍也の間近でささやいたまま、葵はそのまま、ほっそりとした腕を龍也の首もとにまきつけた。
龍也は黙りこくったまま、己の口元を親指でこすった。
「い、いやでしたか?でも私、これしかわからないです」
「それとってくれ」
きょとんとしたまま、龍也の首から腕をほどき、コーヒーがすこしだけのこったマグカップをてわたした。
マグカップを受けとった龍也は、残ったコーヒーをいっきにあおった。大きなマグには一滴ものこっていない。こぼれるもののないマグを、ベッドのうえになげだしたあと、目の前で、ことの動向をみまもりつづけている葵の頭をおもいきりひきよせた。
そのまま葵におもいきりくちづける。
「んーー!!!」
葵は、龍也の広い背中をばんばんとたたき、離れるように訴えるが、龍也のキスはますますふかくなっていく。
葵の口の端から垂れていく漆黒の液体は、唾液を含み、ぬるくなっている。とろりとたれて、あごをいろどった黒い液体。
龍也が、それを舌でべろりとぬぐった。
崩れ落ちそうになった葵が、涙目で龍也に訴える。
「にがいです・・・・・・」
へなへなとしぼんでしまいそうな葵は、恥ずかしさを打ち消すように、己ののみものをさがす。
「にがいー、シナモンシナモン」
マグカップをさぐろうとする葵の手をとめ、ぎゅっと抱き込み、龍也は、己の腕のなかにとらえた。
龍也の腕に強く抱かれると、葵の全身に、しびれが走る。胸だけではなく、全身が波打ちそうになる。
「あ、あの……」
よりつよくだきしめられる。苦いキス。口のはしにいまだのこるコーヒーのかおり。
「あ、あの、龍也先輩」
「んだよ」
「わたし、龍也先輩に、こうしてもらえることが、うれしいです」
恥ずかしいけど……
逡巡したあと、龍也の胸元になんだかんだ心地よさそうに埋まったまま、葵が、龍也の背中に腕をまわして、ぎゅっとしがみついてつぶやいた。
「龍也先輩の、苦いキスもすきです」
胸元に顔を埋めた葵の頭の上に、龍也はあごをのせた。
この部屋で、とてもたばこは吸えない。
甘いにおい。
コロコロ転がるぬいぐるみ。
グランドピアノにかかっている布。
よくわからない模様のポスター。
龍也の腕のなかからごそごそとはいだそうとしている葵が、頭をあげて、龍也にたずねた。
「先輩、たばこはすわないんですか?」
龍也の腕を、葵がマイペースにほどいて、そのまま龍也の隣に体育座りで寄り添った葵が、龍也の逡巡を察したように尋ねる。
「吸っても大丈夫ですよ?ほら、これとかに、灰を」
葵が、こまやかな飾りに彩られた小箱をどこからかとりだし、ぱかっとあける。小学生のころ読んだ小説に、ふつうの少女が、たばこを吸うおとなっぽい女友達のために、宝物箱を灰皿としてわたしていた。その、マネをしてみたのだ。
「いらねえ」
龍也が、やや乱暴なてつきで、その繊細な小箱を閉じた。
葵の部屋にいると、校内で味わっている殺気や不穏な空気、血のにおい。不吉な緊張感。
すべてが一時的にとけていく。
「そーですか?あの、気をつかわないでください。あ、でも、タバコ吸わないのは、いいこと・・・・・・」
長いシフォンスカートを脚にまきこみ、膝をかかえながら、ひとりごとのように語ったあと、葵は笑った。
「葵はいつもうれしそーなツラしてやがるな」
なかばあきれたように、龍也は葵の頭を撫でた。
「龍也先輩と、いっしょにいられることがうれしいからです」
たかがあたたかいのみものひとつで。
たかが、自分が与えてやった乱暴なキスひとつで。
ほかに何も与えていないのに。
龍也にとってどうでもよさそうなものをいつくしむように楽しみ、こころからの笑顔で龍也のそばにいる。
平和なこの部屋で、龍也は葵の肩をだき、もう一度、今度は丁寧に口づけた。
葵のくちびるのはしには、コーヒーと混ざって、かすかにシナモンの香りがのこっている。
この、変わった味ののみもの。甘いもの以外の好き嫌いは、さほどこだわりのない龍也だ。これも、のんでいくうちに、そのうち慣れるやもしれない。自分の恋人がおずおずと与えてきた幼いキスを、いつでも思い出す手がかりになるかもしれない。
「これどこで売ってんだ?」
葵が、花が咲くような笑顔になり、生活雑貨店の名前をあげた。
「今度買いに行きましょう」
ここにいると、甘さに守られている気分になる。甘い部屋。その部屋に似合った、レースのカーテン。そのカーテンで覆われた窓をひらくと、海が見渡せる。
龍也が、レースの向こう側の海をながめながら、ぼそりとひとりごちた。
「悪くねーな」
「・・・・・・?ああ、海ですか?」
でも、慣れますよ。夜は見えないし。
海に吸い寄せられている龍也の目は、どこかノスタルジックだ。
葵は、龍也のそのすがたを、海と交互にしばらくながめたあと、何かを心得たようにわらって、ほんの少しだけ龍也との距離を縮めて、ふたたび寄り添った。
龍也は、まだ海を見ている。
いつか、龍也は、だれかとこの海をみたのだろうか。
油臭い海ではなくて、この海。
その海は、夜の真っ黒な海だったのだろうか。
それとも、こんなに穏やかな昼の、凪いだ海であったのだろうか。
今、龍也と、海を見ていることが、いつか当たり前になるだろうか。
龍也が切なく思い出すのではなくて、
これからずっと、そのそばには葵がいられるだろうか。
海の見える丘で、ささやかなひとときをおだやかにすごしている。
龍也の頬をはしる消えない傷が、今日は透明色に見える。
「コーヒー、もう一杯?」
龍也を気遣う葵の言葉をきき、ぼんやりと海を眺めていた龍也が、視線を葵にもどした。
「気ぃ遣うな」
龍也のやわらかい言葉に、葵の口元もほころぶ。
「葵はいいんかよ」
「わたしはもう」
龍也が、やや熱を帯びた眼で葵を見つめたあと、所在なさげにうつむく葵の頬をとらえて、軽くキスをおくった。張り裂けそうなほど恥ずかしくなった葵は、抱えた膝に顔を埋めた。
「いやだったかよ」
「うれしすぎて、はずかしいです・・・・・・」
この部屋の、とろけそうな甘い匂いがますますつよくなる。そっと覆ったあと、きつく抱いたからだを、そのまま優しく横たわらせると、ベッドから色とりどりの粉がまいあがるように、甘くかおりたつ。レースのカーテンのすきまから、昼下がりの淡い日差しがさしこむ。
コーヒーよりもシナモンがかすかにのこる葵のくちもとを、龍也の舌がなめあげた。不思議な味の飲み物をのみほすように、龍也が葵を味わい始める。
ホットアップルサイダーのように、スパイシーであたたかい味が、いつまでも龍也のなかにのこって、なくならなければいいのに。
葵は、眩眩する意識のなかで、そんなことを想像しながら、龍也のたくましい肩に、しがみつき、眼を閉じた。
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