Jubilee


全国におよそ310店舗を展開するファストフード店の曇ったガラスから見えるのは、道ばたに転がる空きペットボトルに、色あせてゆくフライヤー。不法投棄のビニール傘。そして、そんな現実をものともせずに歩みゆく戸亜留市の人々の姿だ。

大通りに面した席は、関東の片隅のそんな荒んだ景色を楽しむことができる。
この席を長らくのあいだテーブルごと陣取っている少年ふたりに、近寄れるものは誰もいない。


都心までドアtoドアでたどり着く関東の一都市といえど、ゆっくりと朽ち果てていく有様もまた現実だ。
真昼を過ぎてもどこかこの街はいつも、黄昏どきのようにくすんでいる。

放置したままのアイスコーヒーに氷が溶けてゆく。
からっぽになったホットスナックの紙包装をそのままに、暗い色のサングラスから往来をぼんやりながめているのは、この街を彩る暴力の片鱗として確かにそこにいる男。

真志井雄彦だ。

あわい自然光を浴びる体は今日もブラックで決め込んでいる。

窓際の人気席は、座席が四つ用意されている。そのうち二席を大胆にせしめている少年は、休日の今日も真志井のそばを離れない。
ただしいつもと様子がちがうのは、ちいさな少年は、まるで拗ねるように突っ伏しているのだ。

彼の名前は伊東カムイ。


「カムイ」
「……」
「あーあ教科書折れちまってる。戻すぞ」
「……」
「カームーイーくん」
「……」
「おれソフトクリームくいてーわ。カムイは?くうか?」
「……」


ハンバーガーのパッケージごみに、一気に飲み干したドリンクカップ。
そんなものをすべてトレイの上に放置したまま、カムイという名前を与えられた少年はただテーブルに伏せている。顔の下に敷いた腕の中にあるのは教科書にノート辞書、そして問題集だ。

真志井は、ハイネックのシャツにかくれた首を遠慮なくつかむ。
少年は、すねたように首を振った。

彼をマイペースに放置した真志井が、テーブルに置いていたスマートフォンを持ち上げる。通知音が鳴ったのだ。カムイの痩せた肩もぴくりとふるえたけれど、それは見なかったことにするほかないだろう。

ロック画面にあらわれたアイコンは、真志井にとって随分なじみのものだ。

そのとき、くもったガラスが軽く叩かれる。
控えめな音につられて、メッセージアプリに気を取られていた真志井が顔をあげる。
カムイの肩が再びふるえたことも、見なかったこととする。

”今、着いたよ”

そのメッセージを読んだとき、ガラス越しに真志井のまえにあらわれたのは、メッセージの送り主の女の子であった。

鮮やかなブラウンヘアは軽く一巻きされていて、ざっくりとしたアランニットの下に、白いワンピースをレイヤードしている。
黒いレギンスがすんなりとした長さの足を覆う。
そして足下をニットソックスとレザースニーカーでまとめている。高いソールだ。身長は176センチほどに変わっているかもしれない。秋を先取りしたトラッドファッションで決めた彼女のことを、通りすがった若い少年がちらりとみやった。そんな様を見た真志井はゆびさきひとつで彼女を招く。彼女が素直なようすでうなずいた。
年中シンプルな装いでまとめる真志井と対照的に、彼女は季節に応じて色とりどりのすがたを真志井にみせてくれる。

唯一無二の顔立ちが優しくわらうと、くすんだ街まで光った気がした。



ロッテリア。
そんな看板を掲げた安価なファストフード店に駆け込んだ杏が、軽やかな足音をたてて、店の最奥までかけてくる。
その雄大な体躯を受け止めるにはまるっきり足りない椅子に身をあずけていた真志井が、彼女のことを振り向いた。サングラスに隠れた目元は、くっきりと澄んでいて静かだ。

「わりいな呼び出して」
「マーシー、連絡ありがと−、え、むしろいいの?私もおじゃまして」
「無理させちまったか?」
「全然だよ、今日何もなくてひまだったし。私も家で勉強やりにくかったの。カムイくんー……はー……」
「寝てるけど寝てねーんだよ。なあカムイ。杏に挨拶しなくていいのか」
「杏センパ……」
「いいよ寝てて。あれだよね、カムイの勉強みるって話だよね。じゃあ私、カムイくんの隣に座るね。まってて、私の分もかってくるね」


母からゆずりうけたエンダースキーマのバッグを真志井に預けて、杏が注文カウンターにはしる。中学生や高校生の所得などあってないようなものだから、ここは日頃若者たちで賑わっているはずだけれど、こどもたちに人気のファストフード店は休日にはめずらしくがらんとしていて、杏はほどなくしてトレイに三つの愛らしい洋菓子を載せて帰ってくる。
それだけでいいの。真志井がそう尋ねると、家でひるごはんたべたもんと返した彼女は、カムイと真志井がのぞんでいたものを用意していた。


「はい。ソフトクリーム。おいしそーだったから…安いし……!」
「いや、ちょ、なんで?おれらの話聞いてた?」
「聞こえなかったけど、前…の、前かな?マーシーと会ったときにずっとソフトクリームの話してた気がする」
「ありがとな。後ではらうよ。おれはくうぞカムイ。ソフトクリームだ」
「……」
「私のおごりだよ。ほら、前マーシーの番だった。今日は私の番」
「ちげーよ。おれだよ」
「いや私だから。てかカムイくん起きないね。じゃ私二個たべよ」
「くいます」


可愛い少年をがこうして心を閉ざしてしまったとき、その頑なな気持ちのカギの開け方を、杏は彼と共に過ごした中学時代の経験により熟知している。

カムイのそばのいすをひいた杏が、穏やかに笑う。そして彼へソフトクリームをさしだした。
素直に起き上がった少年がそれを顎を引いて黙礼をかわし、だまってうけとる。
簡素なプラスチックスプーンで間髪入れずクリームをすくいあげた彼が、眠気覚ましに甘いものを味わいはじめる。
眠気を目元いっぱいにやどしたカムイはやはり元気を失っていて、ソフトクリームを一心にむさぼりながら、敬虔に仕える男が愛する女の子へ、素直なあいさつをおくった。


「はよ、ございます……おいしーす、ありがとーございます」
「おはよう。おこしたね。まずたべよーよ、目がさめるよ」

甘やかすな。

椅子にふんぞりかえったまま、真志井はカムイの首根っこをつかみ、子犬をあやすように首を揉む。そしてそんな小言をつけたした。くすぐったそうに肩をすくめるカムイは、穏やかな笑みを浮かべている。

目覚めたカムイの手元にあるのは、実に汚い字がのたくっているノートに英語の教科書、そして問題集に、手垢よごれひとつない電子辞書だ。
真志井も杏も今のカムイと同時期には、電子辞書ひとつ壊してしまうほど勉強に励んでいたものだけれど、彼の手元にある勉強道具はどれもきれいなものだ。そして真志井の手元にも、予備校のテキストが積まれているが、そちらも手をつけられた気配はない。


「受験……。成績がのびないから勉強教えてって、マーシーからラインきたけど……」
「そーだ。家じゃやんねえ、ガッコでもやんねえ。おれが首根っこつかんで引っ張ってきた。んで、あきて寝たんだよ。このままじゃ鈴蘭もだめだ」
「集中できないんだねー。うーん、むずかしいね……。カムイ、国語と英語が嫌いだったよね」
「……」

真志井も杏も控えめな速度でソフトクリームを味わう。ラムネの味のクリームをのんびりと楽しみながら、カムイの現状を残酷に分析する年上の友人たちをよそに、カムイは甘いおやつを瞬く間に食べ尽くし、またもテキストの上に拗ねたようにつっぷした。


「美味しかった?よかったね。おいしいよね」
「おいしーす…ありがとーす……」
「こいつがカムイの成績」


カムイを挟んで座る真志井が、またもうたた寝を決め込んでしまったカムイの頭上で長い腕をのばし、横長の一枚の紙を杏によこしてみせる。
それは、直近のカムイの定期テストの総合成績だ。
順位は最下部に位置するわけではないけれど、下位であることに間違いはない。英語の得点が極端に欠けているからだ。とはいえ、平均点を上回っている科目もある。
成績表を冷静にみつめた杏は、楽観的な予測をたてた。


「……鈴蘭は、合格するんじゃない?百合南に変えるっていう手もあるけど。黒咲の自動車は…?」
「いーーや鈴蘭もむり。百合南はいきたくねぇんだと」
「んーでも平均は50点あるし。数学が69!すごいよ!あと1点で70!技術も成績いいね、さすがだね。数学はねー、私もニガテ。もし私も全然勉強しなかったら65くらいしか取れないかも。ここのばせば?」
「だめだ杏。カムイにやさしすぎる」
「じゃあ起こして勉強?」
「だーめ。かわいそうだろ」
「どっちがやさしすぎるんだろうね……」

カムイがごまかすように隠しているノートのなかには中学校の小テストの答案も挟まっていて、幼稚な字で書かれた英語は、難問の英作文もなんとかクリアし、60点にとどいている。もっとも英作文は、真志井が日夜カムイに暗記を強いて、たたき込んだ回答なのだけれど。カムイの肘の下からそれをむりやりひきずりだす。カムイがすこし腕をあげて、二人のアドバイスに耳を傾ける。

「やればできるじゃん。あ、ここ、まえ教えてたとこだね。憶えたんだね」
「…もーわすれました…」
「お、ま、え、な。おれがあんなに……」
「一回憶えたんだからまた思い出せるよ」

カムイのメッシュヘアを、真志井がわしわしと掻き撫でる。面接んときは黒くしろよ。いくら鈴蘭でもな。そう告げると、カムイは髪色と中身と何の関係があるのかと議論を提起したいものの、己の心の内を言葉にかえるためのちからを、自分自身はまだ持たないのだ。

勉強とはそのためにするのだ。

おれはそのために生きているのだ。

いつか真志井は、カムイにそうやっておしえてくれたことがある。

杏せんぱいもそーなんすか。

そう問われたとき、きょとんとした顔で尋ねるカムイに、真志井は苦笑いをかえすほかなかった。真志井の持つ高い知性と選び抜かれた言葉はまだ、杏をこころからしあわせにできないからだ。もっとも、杏に至ってはそんなことを思いもしないのだけれど。

「マーシーのほうは、予備校の順位すごかったね!」
「てっぺんじゃねえけどな。おまえは?」
「私?二学期中間は、これかなー。数学だけ80代だった」
「……あのガッコで3位。つーことは戸亜留市でも3位。このおねーさん3位だって。相変わらずですね。すげえわ」
「杏せんぱいすげーす…。てっぺんす」
「てっぺんじゃないってば。1位の子はすごいよ!慶應医学部志望だって。私はとてもじゃないけど無理なんだ」


ごねるように身を縮めて勉強から逃げ出すカムイをよそに、真志井と杏は、のんびりとした会話を重ね始めた。

こうして会うのは随分ひさしぶりかもしれない。

鈴蘭高校一年生。ラオウの暮らしを身を挺して守りながら、上級生と同級生の激しい内部抗争で心身をすりへらしつつ、仲間とともに充実した日々をすごす真志井のせいではない。

県下一の女子校生活に慣れることに、杏が少しの時間をかけていたからだ。



「……最近会えなかったな」
「うん。あの、だけど電話でいろいろ話聞いてくれたり、LINEで相談ばっかり、ごめんね。マーシーに頼ってばっかだったよ」
「あれは頼るとはいわねー。報告っつんだ。おれとオマエのあいだで欠かしちゃいけねーあれだよ」
「ありがとう……。でもマーシーはそんなに言ってくれなくない?あ、あの、もうほとんど大丈夫なんだ」
「おまえの顔見たらわかるよ。杏きょーも似合ってんなそれ」
「え!ほんとに!?マーシー、こういう服もすき?」
「おまえがえらぶもんがすき」
「が、がんばってコーデしたんだ。久々にマーシーと、カムイくんに会えるから。あ、いつもがんばってないわけじゃないんだけど」
「力ヌケてんのもかわいーけどそいつもかわいー。なんだそれどこの、ハイク?」
「あ、このレイヤードのワンピ?布の質感がハイクっぽいよね。でもね実は、……」


ソフトクリームは小さなカップにこんもりと盛り付けられていて、さわやかなラムネフレイバーだった。彼女自身のような味わいだ。苦手な勉強にうんざりといった思いでいっぱいのカムイの心を穏やかに満たした。

そして今、彼の頭上で行われている会話は、カムイの体をますます、甘くやさしく満たす。


「俺はさんで、何してんすか……」
「なにしてるんだろうねおれたちは」
「な、なにもしてないよ」
「俺はさんで、いちゃつくんすね……」
「いちゃつきません」
「してたじゃないすか」
せんぱいのふくにあってるっす。


再び痩身を起こしたカムイは、子猫のように、両目をこすっている。
その愛くるしさが可愛くてしかたないけれど、杏はどうにか、真志井に乱された彼の髪をなで回すことをこらえた。中学三年生だ。すっかりものごころのついた、一人の少年なのだ。


「ありがと−」
「杏せんぱい、すげーいーす。つか、もーいーんす、えいごなんか」
「おれとラオウと一緒のガッコいけねえぞ」
「……それは、いやっす……」
「離れても楽しいと思うんだけど。だって私たちも楽しいままでしょ。だけど、やっぱり一緒にいたいよね」
「っす」
「目標はかたいんだから。だから出来ないことばかりいうより、出来ることも大事にしたほうがいいんだよ」


杏は爽健美茶も買い求めていて、それをカムイに差し出す。
彼女の気遣いへ小さくお礼をつげたカムイは、すっきりとしたあじわいのお茶を楽しみながら、眠気覚ましがてらにたずねる。


「杏せんぱいはどやって勉強してんすか。マーシーさんは別格だからさんこーになりません……」
「マーシー別格にみえるでしょ。そう、別格。努力が別格なんだよ」
「おれはふつうだよ」
「もとから頭いいのに、もっと努力するからすごいんだよね。あ、私ね、入ったばっかの部活辞めたんだー。それをずっとマーシーに相談してて。結局辞めたの。マーシーやカムイの前で、恥ずかしいね、私。逃げちゃったんだ。勉強する時間も部活辞めたからとれたの。マーシーみたいに全部両立なんかできてないんだ。逃げた結果、時間ができただけ。だから…え、えっと、結局、時間たっぷり使ってやるだけ……かな……。」


高校に入学してからあっさりと問題にぶつかり、あっけなく躓いてしまった杏は何度もこうしてそんな自分のことを笑おうとするのだけれど、真志井とカムイは、ひどく誠実な瞳で、彼女のことを見つめている。

すべて彼女が自分で決めた選択であるということを理解するのは、彼らにおいてほかに存在しないからだ。


「ほら、や、辞めて、この人とも会えるようになったし……恥ずかしいし、情けないよね。みんなとはちがうよ。あれ、なんか話ずれてる。ごめんね」
「おれも中一んとき、秒でサッカー部辞めましたよ」
「なつかしーな、おれがしめたやつ」
「あれひどかったよね。三年生のひとたちが、カムイに嫉妬して、すごくいじめてて。だから、私がだいじにできるものなんて、限りがあるからねー。私なんか全然完璧じゃないから」


彼女が逃げたり怠けたりした様子など、すくなくとも真志井は一度だって見たことがなかった。すべて彼女が、投げ出さずに向き合い続けたゆえの結果だ。真志井が彼女のもどかしい語気をとがめようとしたとき。

彼女がひときわ澄みきった声で、カムイを勇気づけた。


「だ、だからカムイは、絶対に、全部大切にできるから!!」
「まおれは高校のベンキョはどーでもいんだけどよ、予備校のは徹夜してるな」
「マーシー、いつも2位か3位なんだよ。すごいよね」


1位がいつも、同じ人。あっちの地区の人だよ。
しめましょうそいつ。
しめたかったら勉強して鈴蘭行かないと。


杏とカムイが額を付き合わせてそんなことを語らう。
真志井は、しずしずとあじわい続けていたソフトクリームの最後を食みながら、姉弟のようなふたりと黙って見守り続ける。


「せんぱいたちもそーなんすね。なんでもできんだと思ってました。杏せんぱい、部活大変でしたね。いーんすよあんなの。べんきょもずっと出来てんし、せんぱい……」
「ありがとう。もう解決したんだ。大丈夫」
「おれは努力してねーけどこのおねーさんは努力してる」
「努力してないんだって!」
「いやみっす」
「ねー」

杏のほうへいそいそと椅子を寄せたカムイは、教科書や古ぼけたペンケースも彼女の方へこれみよがしに寄せてみせる。マーシーさんこえーんす。そんないやみを呟くことを、わすれずに。

真志井ひとりの前であればゆるされない所業も、杏がこの輪にくわわるだけですべてがゆるされる。それほど杏は、真志井の心を溶かす力をもっている。
鈴蘭高校に入学がかなえば、こんな悪ふざけにこんなじゃれ合いはゆるされないだろう。もっとも、あの鴉の学校のなかでの話だ。三人ともすべてわかっていて、穏やかなじゃれ合いが続くのだ。この時間をつづけるという夢を、三人のちからでどうにか実現させなければならない。


「杏センパイにゆわれたほーがやるきでます」
「いったなおまえ。杏ずっとせわしろ」
「いいよ。部活辞めて時間あるし。一からやりなおすのが近道だよ!だけど最短で行けるようにやろうね。マーシーは理数まとめてよ。私が文系やるから」
「いいぞ」
「それはおれの替え玉になってくれるってことですか」


真志井の大きな手は、ふざけることをやめないカムイの後頭部を容赦なくはたく。
かわいそうだからやめてあげて。杏のそんな声をよそに、その手はそのままカムイの愛くるしい首根っこをつかむ。


「そうじゃないだろ」
「ほら。またさんにんで安心して遊びたいでしょー。まあ今も遊んでるけどね…」
「あそびたいす」
「そーだ。終わったらここもこれるしどこでもいけるぞ。バイト代はいったらおごれるぞ」
「いや、いーすよそのバイト代は・・・・・・こーねつひとか。冬、マーシーさんち、さむいですし、」
「自分のことかんがえろ。気にすんじゃねえ」
「そうだよね、カムイくん、集中できないの、そこかも。自分以外の人のことばかり気を遣ってる。私のこともだよね?本当に自分のことだけ考えたらいいんだよ。で受験終わったら春、またここに来よ。この席すわろーよ、三人で」
「ロッテリアで合格いわいはしけてねぇか?」
「そんなことないとおもうけど。でもケンタッキーとかのほうがごうかかな!」
「ここがいいです」
「そーか、なんかこだわりあんのカムイ」

どこでもいーす。

勇敢な面持ちでシャープペンシルを取り上げたカムイのすがたに、兄貴分と姉貴分がふたりして、目をみはった。

そして整いきった口元からこぼれてくる言葉は、どうかこの声が濁って欲しくないといのりつづけたくなるほど、澄んだものだ。


「いーんすよ、センパイたちがいたら、どこでも」


もっとも、果敢に走り始めたシャープペンシルはあっけなくつっかえてしまう。
ここに注目してみて。
杏が指さすさきを、素直にうなずいて、大きな瞳で追いかける。
そして、少しこもった声は、ぽつりと本音をこぼした。


「おれ何くってもおなじだし、うまいもんとかわかんねーす。たのしーことも、けんかいがい、わかんねーし」
「鈴蘭に来い。教えてやるよ」
「次も、こやってすわりたいっす。ずっと弟でいてーす」
「それは、これからもずっとそうだよ。じゃあ次も、私が左で、マーシーが右でいい?」
「んな先のことゆってねぇで。やるぞ」


こうして、二人がかりでカムイを一人前にする作業は秋の間も粘り強く続き、やがて冬をすぎ、春を迎えた。真志井家のアパートのこたつに招かれ、ストーブと温熱にあたりながら続けた勉強は、どうにか」実を結んだ。鈴蘭高校に加えて黒咲工業高校の自動車工学科に合格したことはカムイ本人とて想定の外の出来事であったが、無事カムイは、彼自身の手で未来をつかんだ。春のはじめ、この廃れたファストフード店は相変わらずすいていて、三人は無事あのときすわった窓際の席を確保した。そして、同じソフトクリームを味わった。春のはじめに楽しむにはいささか清涼にすぎるものではあったけれど、それは、ずっとふたりの弟でいたい、カムイのそんな願いを確かに強く濃くかなえてくれる、魔法をひめたおやつだった。

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