You're The Top 1


ざっくりとした風合いのマフラーはオフホワイトのウールで織りなされていて、それは杏の少し浅黒い肌を健康にひきたてた。片手に提げているのはくたくたになった革のバッグで、母親から譲り受けて、もう二年が経過するしろものだ。

土曜日の夜半。

戸亜留市の片隅が、猥雑で若々しく、そして熟れた賑わいをみせる時間だ。

この街のこどもたちはまるで、すべて夜に生を受けたように生き抜く。歩道と車道の境が曖昧な幹線道路に、クラクションが鳴り響く。その威嚇をものともしない若者たちが、歩道いっぱいに広がって大声で笑い声をあげた。
少しうつむいた杏が、その熱気と釣り合わぬ初秋の風の冷たさを感じながら、若者たちのあいだを器用にぬけてゆく。
母親ゆずりか、身長にめぐまれた杏は人混みをなんなく裁いて颯爽と歩き抜けることがかなう。そのすんなりとのびた背筋は雑踏の中で些か視線を集めやすい。
8センチヒールのブーツも、自らを飾ることと洋服を愛する母親から譲り受けたものだ。つま先が足袋のような形に別れていることが特徴である。古いフランスのブランドのブーツは使い込むほどに杏の大きい足になじんだ。

このブーツを履けば、杏の恵まれた身長は、杏の恋人に、ますます迫る。

その青年は今日、杏のそばにいない。

本日彼は、敬愛する友人と、貴重な休日をともにしているからだ。

勿論それは杏も了承ずみで、杏はひとりの休日をどう過ごしたかといえば、同じ女子校の友人と一緒に有料の自習室で勉強に励んだ後、戸亜留市唯一の小さな映画館で、友人と肩をならべて映画を観た。

それは真志井の趣味ではない映画であった。そして杏がこよなく愛する、公開規模の小さな映画だ。

1970年代のアメリカの風を、杏はスクリーンから痛いほどにあじわった。若い男女がかわしあう恋いや約束は、いつの時代も同じかもしれないけれど、杏の知らない痛みも感じることができた。杏の経験の浅さではたった一度の鑑賞では理解のおよばぬ文化や風俗も散見されて、杏はますます異国文化への関心を深くした。杏は時々字幕を離れて、耳でただくだけた英語を味わった。痛みもあるのにどこかみずみずしい余韻があふれる気持ちを、真志井とは訪れたことのない可愛いカフェで女友達と一緒に味わうそんな時間もまた格別だった。
彼女は戸亜留市の北に帰って、杏は南に帰る。
夕刻、帰路につく杏は8センチヒールのブーツで汚いアスファルトを踏みしめて、マフラーに顔を埋めたまま人垣をぬってあるく。
そういえばここはつい10日前か、杏の恋人とそっと寄り添い合って、一緒に歩いた道だ。
もっとも、戸亜留市で若者たちが、ましてや若い恋人同士が出歩いて愉楽を得られる場所なんて限られている。関東のかたすみのありふれた都市のそこかしこに、気づけば彼とともにすごした記憶がきざまれている。
この街を彩る数々のフライヤーだってそうだ。杏のひとみに、一枚のフライヤーが目に入る。立ち止まって眺めてはいられない。杏の後ろから、若者たちが押し寄せるからだ。

杏の恋人は今日、彼の友人と、このフライヤーのイベントを楽しんでいるはずだ。

この街とSWORD地区の境目のエリアは、若者たちが集う街の奥の奥といった場所で、街の裏を特別探りたがる趣味のない杏は、縁のない場所だ。

真志井雄彦。

彼は今頃、親友の少年とともに、杏とは縁の遠い音楽の世界に浸かっているだろう。
彼の傍をついて離れない可愛い後輩は、大人である二人の時間を気遣って、同い年の仲間と過ごしていると聞いた。


「マーシー、楽しんでるかな……」


彼を思えばマフラーに埋めたくちびるから、そんな言葉がひとりでにこぼれる。
分厚いウールのなかにその言葉は吸い込まれた。
全長1メートル以上にもおよぶロングマフラーは、山形のニットブランドのもので、去年のクリスマスに母親から贈られたものだった。たっぷりに編まれたフリンジが小汚いアスファルトに触れかけていた。裾を取り上げて細い首にもう一度ざっくりと巻く。それは小さな輪郭をひきたてた。
マフラーをまけば、今日の朝杏の選んだニットの胸元からキツネのワンポイントワッペンがあらわれた。
ブラックのクロップド丈のニット分厚いとマフラーがあれば、冷たい風もしのげる。
この装いは、真志井のそばをあるくときよりすこしだけシンプルにすぎるかもしれない。

そういえば昨年のクリスマスに、杏は彼へ、このブランドの靴下を贈った。

その靴下は、真志井が酷使して止まない足下をこの一年、守り続けた。

四つ角の奥へいけば、この街の深いゾーンだ。
真志井や彼らの仲間達と同じ空気と同じ匂いをもった若者達が集い、彼らは週末をその場所で過ごす。
満たされた心持ちで夜を満喫する若者もいれば、満たされぬ想いを抱えて夜に逃げ込む若者もいるのだろう。
真志井と学び舎をともにする少年もいれば、西は鳳仙学園、東は竜胆、北は焚八商業高校に黒咲工業の生徒たちもあつまり、おとなびたスタイルに恵まれた彼らは一目には到底高校生には見えない。

杏はそこに縁はない。
今日はこのまま市営地下鉄で帰路につく算段だ。

その折、黄色いフライヤーが杏の足下にひっかかる。

タビを模したブーツにふれたそれは、真新しかった。

建物やフェンスの壁から剥がれ落ちたものではないとみえる。


「……」


マーメイドラインのコーデュロイスカートからブーツのトゥがのぞき、二つに割れたつまさきでパタパタとフライヤーがはためきつづける。

ロングスカートで隠れた膝をすんなりと折った杏が、靴先にひっかかったそれをひろいあげる。そしてのびやかに立ち上がり、フライヤーを掴んだまま、通りの傍に寄った。

すんなりとのびる背筋をうんとしなやかに張った彼女は、フライヤーの落とし主を探してあたりを見回す。見慣れた景色のなかで、やがて杏は、通りの真横、ビル沿いの植え込みにマイペースに座る少年を見つける。

その少年のととのった口元から、力の抜けていて、そして愛くるしい声が漏れた。


「あーーーーーーーー」
「あっ……」
「杏ちゃんだ」


杏の名前を短く呼んだ少年は、伸ばしっぱなしゆえに毛先がブラウンにそまっている髪を、今日はさっぱりと整えている。
杏よりずっと大きな瞳は、夜にしっかりと光り輝く。
ぱらぱらとこぼれ落ちる太い髪が、くっきりとした瞳をまばらに隠す。
そして杏よりずいぶんとぽってりとしたくちびるは、何も塗らずともアプリコットのような色にきらめく。
その男の子は、イタリアのストリートラグジュアリーブランドの古着に痩身をつつみ、通り沿いのビルの壁に、夜に見合ったけだるい様でもたれていた。

ビンゾーの趣深い瞳が杏のことを、アンニュイな様で、そしてまっすぐに見つめた。


「ビンゾーくん!」


杏のハスキーな声が、いつの日か彼に与えられた通り名を呼ぶ。

すると、長い前髪に隠れた野生動物のような瞳が、ホットミルクのようにあたたかくわらった。


「これ、ビンゾーくんの?私の足のとこにとんできたよ」
「いーや俺のではない。けど俺ももってた。とばしたのは、こいつだよ」


ビンゾー。その名は勿論二つ名に過ぎない。
杏が宮内浩三という名前の少年とはじめて巡り逢ったとき、どうしてか彼は杏にその名前で呼んでほしがった。

そしてビンゾーの丸く垢抜けぬ指先が、彼の隣を指さす。

痩身でありながら逞しい骨格も誇るビンゾーのそばに、壊れそうなほどほっそりとした女の子がたたずんでいることを、杏はそのとき、初めて悟った。

その女の子は、とびきり美しかった。


「あっ……」


ごめんなさい。
なぜだか杏がそんな言葉を紡ぎそうになった折、その美しい女の子は、杏とよく似たハスキーな声で、ビンゾーの本当の名を呼んだ。

それは、夜にまぎれこむようでいて、夜のなかで星のようにきらめく声だった。


「幸三ー?」


山猫のようなビンゾーのそばからあらわれた美しい女の子も、砂漠に生きる希少な子猫のように鋭く、そして、精巧なまでの美しさを誇っている。

ビンゾーとその女の子が並ぶと、まるで一縷の隙もないアートのようだ。
かすかに息を呑んだ杏の手から、ビンゾーがフライヤーをそっと抜き取る。
そしてそばにいる美しい女の子に、薄っぺらい紙を手渡した。


「杏ちゃんあんがと。はいこいつ。おまえ、このコに礼言えば?」
「そうだね、ありがとー!」


美しい女の子は存外素直な声音で杏へフランクに礼をつげて、小さく頭を下る。
あ、どういたしまして……。
おぼつかない声で礼に答えた杏も、すんなりとのびていた背筋を折って、生真面目に頭をさげた。

杏が頭をあげると、美しい女の子は、杏のことをまっすぐなまなざしで見つめた。
彼女の痩せた体躯は、173センチの杏がほんの少し見下ろすことになる上背だ。
切りっぱなしのボブが、子猫のような造形におそろしいほど釣り合っている。
アイラインでぐるりと囲まれた瞳は、けして大仰ではなく、精巧に彫られたような美しい顔を自然に引き立てた。
くちびるには、レッドブラウンのルージュが堂々と鎮座する。
子猫のように愛くるしい少女が、見知った顔の少年と見知らぬ顔の少女を見比べる。


「幸三、お友達……?」
「そうでーす。杏ちゃんはこいつ、いかねえの」
「うん。ビンゾーくんは?一緒だと思ってた……。あ、あの、ごめんなさい、お邪魔でしたよね!」
「邪魔じゃないよー!どうして?フライヤーが風で飛んじゃったの。持って帰ろって思ってたから、拾ってくれてありがとー!他のやつだと、踏んづけてそのままいっちゃうじゃない?えっ、ていうか幸三が女子と普通に喋ってる!!いつも幸三、オンナに逆ナンされても無視するのにねー。それにビンゾーってよぶからにはあっち側の友達?あなたが?そうは見えないんだけど……」


その問いかけに、うんともなんとも言いがたい声を漏らしながら悪戯めかして精悍な体を揺らし、言葉を選びあぐねるビンゾーをよそに、子猫のように美しい女の子は、マシンガンのように言葉を繰り出し始めた。
彫りの深い美貌からこぼれ落ちてくる言葉はさっぱりとした風情にみちていて、言葉がこぼれ落ちたあとに晴れた空のもとで気持ちよく乾いてゆくようだ。
そして、タイプの違う女の子たちはまず、お互いのすがたに見取れた。

ビンゾーのそばにいる少女はキャップをかぶり、チャコールのロングマフラーをひとまきし、モデルのような体をますます華奢にみせている。
クラッシュデニムは、ビンゾーの纏う古着と同一のブランドだ。
彼女はクロップド丈のニットのすそから、華奢な腰をこびのないさまでさらしていた。

分厚いマフラーとハイウエストスカートで痩せた腰を隠して防寒を選んだ杏とは対照的だ。

やがて整った容姿の少女ふたりは、お互いの胸元に視線をおくる。

不思議な偶然が、起こっていたのだ。

そんなふたりを、ビンゾー、そして幸三と呼ばれた男の子が見比べる。


「ニット、一緒だー!」
「おそろいですね!可愛いコーデですね!」


キツネのワンポイントワッペンがきらめくニットは、ふたりして同じものをえらんでいた。胸元は彼女の方が目立ち、体の薄さは杏のほうが目立つ。


「タメ語でいいよー!いいな、私はそっち系が似合わないの。バトナーのマフラー可愛いね!」
「私も、モードになりたかったんだけど、ラクなほうにいっちゃうんだ。デニム、すごく似合ってる。かわいいですね。マフラーもキツネなの?かわいいね」
「ここ出してたら、お腹いたくなるよー!!私漢方飲んでるもん!」


漢方!!彼女と語らうために少しだけ背中を曲げた杏が、その言葉に目を丸くする。するとビンゾーも、痩身を折りたたんで素直に笑った。

大丈夫なの?杏がそう気遣うと、慣れたよと言った彼女がそれを笑い飛ばした。タビ、私もヴィンテージの持ってるよ。やっと慣れてきたとこ。そんなことを女の子が呟くと、ビンゾーはこいつ慣れてないと彼女の秘密をばらしてみせる。


「女子すぐともだちになるのなー」
「幸三の友達?今まで会ったことなかった……。どこで幸三と会ったの?私はこの辺にたまってたら、幸三と知り合いになったんだ」
「そうなんだ!」
「しつこいナンパ断ったら、ずっと絡まれてたの。そのとき、幸三がたすけてくれて。週末ここきたら、幸三がいるから、今日もずっとしゃべってたの。でこのイベント途中から入れるから、いこうかって話してたとこ。ねー幸三」


ねー。
彼女の声は、媚びなくてハスキーだけれどどこかスウィートな、杏のもたぬ甘みを帯びた声だ。
それをビンゾーが真似てみせる。
そして可愛らしい小首をかしげた女の子のマネをして、ビンゾーも同じように鍛えられた首をかしげてみせた。

ビンゾーのスタイルも、鈴蘭高校で過ごす時とはずいぶん違ったものだ。分厚いアウターはハイデザインのものに変わり、どす黒い黒髪は、柔らかく洗われて、賢そうな額を清潔に隠し、はっきりとした大きな瞳をひきたてている。杏よりずいぶん大きく、まるい瞳をもっている。
そばにいる美しい女の子のように、ビンゾーも、まるでモデルのように垢抜けたすがたでこの黄昏の街に難なく溶け込む。仲間たちと時間をともにする時はまるでハリネズミのようなスタイルで周囲に畏怖と恐嚇をあたえ、つかみ所のない奇妙さも自在に醸し出してみせるけれど、杏ははじめからわかっていた。

ビンゾーという男の子はずいぶん艶やかで、そして、ずいぶんまっとうな人物だ。


「そうだったんだ、ビンゾーくんって優しい人だよね」
「そうなの!幸三といたらナンパよけになるしね!あなたは幸三とどういう知り合いなの?幸三はね、知り合いは多いの。だけどよく見たら、私以外の女友達ってすごーくすくないんだよ」
「すくない?いなくねえか?」
「じゃあ私はなんなのー!?だから気になるの。ね、あなたは、どういう友達?」


私は……。しなやかな手で携えていたエンダースキーマのバッグを、腕の間をすべらせて肘に引っかける。

そんな杏が言葉をえらびあぐねて、まごついたとき。


ビンゾーが、それは実にあっけなく、杏という少女の種明かしをした。


「杏ちゃんは、マーシーの彼女」


その折、あまりにも美しい女の子のつり目が、満月のようにまるくかわった。


「このコがそーだよ。杏ちゃんっつーの」
「ま、マーシーって言うだけで、みんなわかるの……?」
「わかるわかる。すっげえぞあいつは。このへん…いやもっと。もーな、マーシーはーー、ここらへん全ーーー部で、カオ。杏ちゃん夜であるかねえもんな。そういうのしらないよね」
「そうだったんだ……じゃ、じゃあマーシーでいいのかな……。あ、あの、そうなの。私は、マーシーと、お付き合いをしてて、それでビンゾーくんとも、高1のときに知り合って、友達になって……」
「そーともだち」
「ね、友達だね」
「そう、おれと杏ちゃん、ともだち。おまえとおれみたいなもんだよ」


……えっ、マーシーの!?!?

美しい女の子のぽってりとしたくちびるから、ハスキーな声で驚嘆の色が響いた。

ビンゾーは、まるい人差し指をいたずらめかして両耳にさす。そして整った顔を勿体ぶってゆがめてみせた。


「マーシーの!?!?」
「声がおおきいわー、おまえ……」
「マーシー!?!?マーシーの!?!?!?」


ビンゾーの持ち前の濃厚な目元が、優しくくずれた。

その瞳はココアのようなぬくもりでいっぱいに変わっている。

澄んだ声は杏のことを突き刺すことはなかった。だけれど、杏のしらないものを持つ女の子のものだと杏は抱いた。


「マーシーの……彼女……?あなたが……?」
「…そうなんです、私、マーシーと……付き合ってるの」

あなたが……。

呆然とそう呟く美しい女の子は、汚れたアスファルトの上に立ち尽くしている。

杏はふと、彼女にスポットライトが当たっているようだと感じた。

あなたが……。

美しい女の子のそんな声を味わったとき、いたずらめいた仕草をやがて辞めたビンゾーは、長い前髪の下で、情趣にあふれた瞳に慈しみを宿し、美しい女の子を見上げている。

「そっか……」


美しい女の子は、杏の持たぬ漆黒の髪を、真っ白の耳にかける。生まれ持ったブラウンヘアと浅黒い肌の杏は、その白雪のような美しさをどうしたって手に入れられない。


「あなた、だったんだ……」


そのとき、まっすぐだけれどミステリアスな瞳が、壊れそうにとろけた。

杏の澄んだ瞳はただ、彼女の神秘的なまなざしに浮かんだ一つの真実を、受け止めるしかなかった。

ビンゾーといえば、フライヤーの剥がれ落ちた痕跡だらけの古いビルの壁に痩身をあずけて、二人を見比べるかといえばそうでもなく、ただじっと濃厚な視線を足下に落とし、大きな口元に穏やかな笑みを滲ませつづけている。


そして、マーシー。

そんなキーワードはこの街の若者の関心をいたくひいてやまないようだ。

マーシー!?
マーシーきてんの!?
マーシーどこ!?

ビルとビルの間の路地から、建物の狭い階段から、そして路地の裏から、若者達がぞくぞくと顔をみせて、おのおのまるで同じ言葉をわめき立て始める。声音の多くは敬意や素直な関心を帯びているけれど、悪意のかけらをにぎしりめた者もいるかもしれない。

身を起こしたビンゾーが、呆れた声をあげた。


「げぇぇっぇーーー、おまえがでかいこえでマーシーマーシーいうからだろ」
「えっ、何これ、マーシーこんなに有名人なの…。私が来たからだよ!ここにいちゃだめだよね?」
「マーシーは大変だぜ。杏ちゃん、いこーぜ。おまえもいくぞ」
「わ、ほんと!!めんどくさい!!集まってきた!もういいや、このイベント。にげよっか」
「にげるぞー。いこうぜ杏ちゃんも」
「いこ!逃げよー」

小走りで駆け出すふたりのあとを、杏もあわてて追いかけた。人混みはますます膨大になり、8センチヒールの足下は少しおぼつかない。そのとき杏の手をとってくれたのは、子猫のように小さな手だった。

「手大きい!」
「そーなの、骨が太くてー。……ゆび、きれいだね」
「杏ちゃんも長くてきれいだよ。あ、杏ちゃんって呼んでイイ?」
「いいよ!呼んでくれてありがとう」
「女子はすぐともだちになる」
「女子じゃないよ、杏ちゃんだから、だよ。私が女友達多いわけじゃないの、幸三が一番知ってるじゃん!」


ねえ。

美しい女の子のスニーカーが、汚いアスファルトを蹴った。

ハイブランドのブーツを履いた杏がようやくこの歩行ペースに慣れたとき、女の子は杏にたずねる。


「杏ちゃんは、マーシーとこうやって、手、つなぐの?」
「……マーシーはね、手つなぐの、すきじゃないんだ」


そんなこと、知らなかった。

美しい女の子がぽつりとこぼせば、ビンゾーの濃密な目が彼女を見やった。

すみれのような色で飾られたネイルが、杏の手の甲に少しだけ食い込んだ。

ゆっくりと汗ばんでゆくその手を、杏はただ、握り返すほかなかった。

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