Night and day 19


そうして真志井雄彦は、杏の前から、姿を消した。


夏休み開けに実施された実力テストの結果は、わかりきったものであった。杏は期末考査に続いて一位を獲得した。つまり杏は真志井雄彦に再び勝利した。

真志井はそれを知らぬまま、学校の外へ消えた。


真志井の欠席が、およそ10日に及んだ日。

彼の所属クラスの担任教師は、業を煮やして、秋の風が吹き始めた放課後、杏に声をかけた。真志井を探し当てるキーパーソンは、まず、岬麻理央。二年の伊東カムイ。そしてこの女生徒だ。

アッシュグレイに染めた髪を白鳥のような首の後ろでまとめた杏が、自らの名前を呼ぶ声を聞きとめて、素直に振り向く。

一日を終えた彼女が纏うのは京華中学校の制服ではない。

ランニングウェアだ。

社会科教師に呼び止められた杏は、ランニングショーツからすんなりとのびた長い足を素直にグラウンドの上で止めた。ナイキのペガサスターボが、乾いた土をしっかりと踏みしめる。スリーブレスのランニングトップからのびる小麦色の肌に日焼け痕がないのは、持ち前のヘルシーなカラーの肌をこれ以上焼かないように、この夏ずっと日焼け止めを欠かさなかったからだ。それでも彼女の水をはじくような肌は、くすんだ空の下で小麦色にひかる。

いたって落ち着いた態度で振り返った杏は、凜とした背筋をすんなりとのばして、この三年のあいだ、随分見知った教師とまっすぐに向き合った。敵意もなければおびえもない杏はただ正直なようすで、教師を見つめた。杏のクラスの社会も担当している教師だ。真志井の担任教師は本題に入る前に、学業にくわえて、この時期に急遽食い込んだ予定をこなす杏のことを気遣った。杏もその言葉に、丁重な礼でこたえた。

杏は運動能力や芸術の才もさずかりながら、この三年間どの部活動にも所属しなかった杏は、自由の身ゆえ、こうして様々な場所に出入りする経験をかさねた。その集大成が、ランニングウェアすがたの理由だ。中学駅伝の県予選を勝ち抜くため、急遽杏は陸上競技部の助っ人として呼ばれたのだ。短距離や障害種目、跳躍種目もこなすけれど、杏が陸上競技において最も才覚を発揮したのは、長距離であった。任されたのはエース区間である。ヘルプを打診された杏がその要請を快諾したのは、およそ10日前のことであった。

真志井と理科準備室で別れた日の放課後だ。

そして真志井の長期欠席が始まった日だ。

さらに、真志井のあとに続くように、岬麻理央の欠席もおよそ7日に及んでいる。伊東カムイという男の子も、いつのまにか学校から姿をけしている。

真志井と岬が所属するクラスを受け持つ教師は、彼ら全員に日頃から理解をしめしている。コドモから見れば、大人にしてはずいぶんと物わかりのいい男性教師だ。そして、ひとりの大人として、こどもの心に寄り添う器をもつ教師だ。
真志井の逸る知性を認め、この三年間彼の力を伸ばすことに尽力した。もっとも真志井はおとなの力を必要としなかった。教師は彼の家庭事情も熟知している。けして裕福な育ちではない真志井に、中学生にはずいぶんと高度な書物を惜しみなく貸し与えることもあった。そんな人物すら、表情を曇らせている。
そして教師は、杏に、彼が今どこでどうしているか、尋ねてみせた。

杏は平静をくずさぬ表情で答えた。

「私も、わからないんです」

その言葉は真実であった。中年教師は、困ったように笑った。そして素直に諦めたようすできびすをかえし、グラウンドを去る。その小さな背中を見送る杏の表情は、相も変わらず、平静を保ち続ける。

真志井雄彦が申し分ない成績と全方位に渡る高い能力、そして何をやらせても誰をも黙らせる結果をたたき出す実力を誇りながら、県内トップ高校の推薦対象生徒一覧から外れるのは、これが理由であった。

真志井が、真志井の生きる過酷な世界へ旅立てば、彼はしばらく、杏が生きる世界に戻ってこない。

日焼け止めを長い手足にぬりこめていて、杏の全身に独特の薫りがまとわりついている。この香りが、いつか杏に何かを思い出させるのだろうか。

部室棟は昨年末に建て替えられて、いやにこじゃれた打ちっぱなしの建物に変わった。

そういえば、あのときも同じだった。

あの日真志井と約束した図書館も映画館も、真志井とともにおとずれたのは、あの約束からずいぶんあとのこととなった。

異国の血が混ざっているのかと見まちがうような杏の深い色の瞳が、ますます深く変わってゆく。

陸上部の顧問が、杏の名前を呼んだ。
陸上部のキャプテンは杏の旧知の女友達だ。彼女も杏のことを清々しい声で呼んでいる。
杏がまっすぐに前を向いた。

真志井がそばにいない。真志井がすがたを消した。真志井が、あの世界にしばらくのあいだ、消えてしまった。

そんなとき、杏のえらぶものは、ただひとつ。

今やるべきことを、やるだけだ。

真志井と真志井の選ぶものを信じると決めたのは杏自身のはずだ。

そう誓った杏の長い足が、グラウンドを勢いよく蹴った。



中学駅伝の予選会はその週末に行われた。
秋の風が夏の気配に戻ったその日、杏は県南のロードを、疾風のように駆け抜けた。海の近い町だ。戸亜留市には海がない。少し湿っていてそれでいて爽やかな香りを杏は思い切り吸い込んだ。戸亜留市から数十キロ離れた町でのレースだ。杏の母親は前日に急な会議が入り、応援にくることはかなわなかった。そのかわり母親の妹一家が沿道に駆けつけ、杏をずっと追いかけながら大きな声で声援を伝えてくれた。そして、特急で一時間かかる県南まで杏を追って支えにきてくれたのは、長い付き合いの友人グループに、杏がまともに話したこともない後輩たちで、いずれも女子生徒ばかりであった。その数は数十人にもおよび、杏は杏の預かり知らぬ場所で生まれていた杏への好意や敬意のことを、杏は今になって知った。杏はどうやら想定以上に慕われていて、そのどれも女の子たちからの敬意であった。
愛すべき男の子たちからの声がほしいかどうか、杏が#name自身に問えば、その答えは、この日感じた風のなかへ消えてゆく。
やるべきことをやるだけだ。
そう唱え続けると、杏の細い足に力がみなぎる。
自分自身の足で立った先に、答えはあるのだと杏は確信する。

杏は、エース区間で、区間新記録をたたき出した。ローカルニュースに少しだけ杏の姿が流れた。

杏の投入によって、京華中学は軽々と県代表の座を手にした。

その翌週、週末の全校集会で陸上部の長距離部門はそろって表彰を受けた。杏のあびた拍手はひときわ大きかった。

杏は、少しだけ霞む瞳で、ステージから広い体育館を眺め観る。今日もどこにも、3人の男の子たちのすがたは見当たらなかった。


杏の仕事はここまでだ。
杏は全国中学駅伝の参加は固辞した。それは自らで選び取った答えだった。これ以上は出過ぎた真似にすぎる。その場所で求められたことを遂行した後、自らの居場所にすみやかに戻る。杏はそんなことを繰り返して、三年間を満たされたものに変えた。そしてそんな杏のそばにはいつも、真志井がいた。真志井もまた、杏の杏らしい選択をいつも尊重していた。

真志井は依然、帰ってこない。

そしてなにより、杏が陸上競技部による拘束から解放されることを待ち望んでいたのは、同じクラスの友人たちだった。
杏が自由になった放課後、女の子たちは群れをなして帰路につく。
黄昏の街も、少女たちが束になっていれば無敵だ。

今日も伊東カムイは学校にいなかった。彼をずいぶんと気に入っている友人は、杏にそんな情報を教えてくれる。隣のクラスの目立つ少年ふたりは、言わずもがな今日も不在であった。杏の親友が何の連絡もないのかと尋ねると、杏は困ったようにわらってうなずいた。そんな杏の切ない眉間による影を見抜いた親友は、杏のそういうところが理解できないと正直に伝える。そして友人たちも一様にうなずいた。

メッセージアプリを開いては閉じることを繰り返した。それでも、真志井や岬や伊東がとった選択を尊重することにした。

そんなことを杏が語れば、友人たちは案の定といった気配をにじませた。聡明な少女には聡明な友人が集まるもので、こんな状況を案じたゆえ、彼女たちは、これまでずっと、真志井のことを信じなかったのだ。

当の杏は、流れるように会話の舵をとる。杏と真志井の事情に集中していた好奇をやんわりと分散させた。苦手科目の勉強方法に、アイドル候補生の投票結果、そして二つ隣のクラスに居る好きな人に、なぜか秋に設定されている修学旅行の計画。女の子たちの話題は尽きない。

学区の境目で友人たちと別れると、杏は一人の帰路をとることとなる。秋の風が吹いた昨日と違って今日は、杏の痩せた体をじっとりとした夏の気配がむしばむ。こめかみに丸い汗がうかんだ。澄んだ眼が少しかすんだ。長い足が少しもつれた。この夏杏の身長は170センチに達した。そのリーチは、陸上の長距離競技でもずいぶん有利にはたらいた。

一人で帰路をたどる杏の歩みが、少しずつ性急なものになる。

何より、いつであったか、杏の身長が167センチを越えた日、杏に不用意に声をかけてくる男たちは一掃された。

そして、杏は随分あとに、それはすべて真志井の手によるものだと知った。

鞄を抱えた杏が駆け出す。清々しく土を蹴った日の足と違って、その足取りは逸っていて、竦んでいる。

杏の澄んだ瞳がかすみ、広くて清らかな視界がくすむ。杏の長い足がもつれて、すこしつんのめったとき、杏の華奢な背中のすぐそこまで、すでに脅威は迫っていた。

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