You're The Top 16


中部地方を資本とする大型ドラッグストアは、山王と鬼邪地区の境目を間抜けに横断して建設された。都市の片隅にたたずむ黄昏の街は、自らの誇りを難なく払い下げて町は顔を失うかわりに機能だけを手に入れていく。

砂漠のように広大なパーキングエリアには、軽自動車やトラックがまるで大きなチョコレートボックスのなかのショコラのようにぽつりぽつりと点在している。試験場の駐車課題は難なくこなし、厳しい教官も杏の飲み込みのはやさに舌をまいたけれど、杏は自らの実力を過信しない慎重さも持っている。彼女は、四方に車がみあたらぬエリアをえらび、国産車はゆっくりと駐車をはじめた。

春のぬるい夜風は、いまだこの町の夜更けを支配している。この夜の気候がゆっくりと降下を辿っていなければ杏もアイドリングを選んだところだったが、清潔な車内は人工的な風で恋人のことをひやさなくて済む大気に満たされていた。月が送ってくれるやさしさによって、夜はふたりの少年を労ってくれる世界に変わっていた。


長い腕を助手席に添えた杏が、目視ひとつで駐車エリアを見定めた。真志井が少しだけ身をひく。

「あ、傷にぶつかっちゃった?ごめん、大丈夫?」
「いや。おれは助手席の気分を味わってるんだ」
「ああ、そうだよね。近いかも」
「杏は駐車もうまいな…。お袋も介護タクシー運転すんだけどよ、あれで運転なかなかあらっぽくてさ」
「この町の介護タクシーの運転すごいよねー!バック駐車?毎晩、なかやの駐車場の隅っこで親に練習させられたんだ…おかげでこれだよ」
「努力のたまものだったか」

これが肩抱くみたいっていうよねー。そんなかんじする?さっぱりとした語気で真志井に尋ねた杏は、中型SUV車を白線内に軽快におさめた。

「する。おれは杏に抱かれた気分だ」
「えっほんとに?私ずっとね、マーシーをそういう気分にさせたかったの!」
「そ、そーだったのか…」
「これからもドライブ行こうか」
「おまえのお母さんにおこられる」
「そう、そこなんだよねー」

ぬるくなった水をボトルのなかで上下させて、ペットボトルに冷気を行き渡らせる。真志井は傷む後頭部にそれをそっと当てた。エンジンが切られる。夜の大気がゆきわたった車内で杏が、短く告げた。

「じゃあ、マーシー」
「ん」
「手当。させてもらってもいい?今日は、ちゃんとしたほうがいいと思うんだよね」

もうすこし軽かったり、すぐに帰れてたら、マーシーのそういうのはね、みないふりするんだけど……。そう呟いて、コンソールを越えて真志井のそばへ少し近づいた彼女に、真志井は少しだけ身をひいた。杏の深い瞳にやどる光は、今夜牢として瞬き続けている。真志井のかすかな変化をさとった杏は、彼の選択を尊重しようとした。

「ん、手当はいい?じゃあ、車だして帰るけど」
「やだよ、かえんねえよ」

やって。

シートをさらに倒した真志井は、杏にすべてをさしだすように186センチの体躯から力をぬいた。真志井の緊張しきった身体から、エネルギーが抜かれる瞬間は、恋人の杏しか味わえぬ時間だ。真志井の願いを聞き入れてひとつうなずいた彼女は、まってねーと短く伝える。器用に身をひねった杏が長い腕を伸ばして、後部座席からオーガンジーのエコバッグを拾い上げた。後方座席でねむる幼い少年は、シートに上半身を倒して安心しきって休んでいる。

「杏に主導権あるの、珍しいな。俺らは対等のはずなのに」
「そうかなあ…」

カムイがしずかにやすみつづけるさまを確かめた杏が曖昧に答えると、夜が車のなかへ流れ込む。ぬるい夜の大気を断ち切るように、すっぱりときれた切り口のような香りがただようアルコールスプレーが噴かれて、杏の大きな手が消毒される。オーガンジーのバッグのなかを杏がさぐる。消毒液の清潔なかおりがただよった。手当といえど、黒いシャツの下の身体はみせてくれない。青黒く腫れた口元に、そっとコットンをよせると、真志井の厳しい眉間にすこししわがよった。ここを手当てすると、あとは頬にうまれたこすれたような傷を治す算段だ。


「…」
「マーシーずっと起きてたね」
「ぼーっとしてたよ。居心地いいからな」
「寝ててもよかったのに」
「おれがのんびり寝られるのはお前のまえだけだ。こいつがいるとむりだから」

杏に全てを任せた真志井があごをしゃくり、ミラーを見つめた。杏に与えられたブランケットを抱えた少年は、ライオンのこどもが居眠りをするように、静かに眠り込んでいる。赤黒い血で汚れたコットンをゆびさきに挟んだ杏は、少年の変化に目をとめた。

「わ、カムイの眼痛そう!さっきより腫れてない…?大丈夫かな、ひやしてあげようか…?」
「てめえでなんとかするよ」
「それもそうだけど。大丈夫かなあ…熱……」
「おれはてめえでなんとかできません」
「できるひとほど、そう言うよね」
「いいんだよカムイは。俺のをやれ」

はーい。
ずいぶん珍しい調子で甘える真志井が新鮮で、杏は器用な手当を施しつづける。そして真志井は、たった今自らの口から飛び出した不用意な言葉に、己らしくもなさと、そして後悔を抱いたところだ。

「……やれとかいったなおれ」
「マーシーが甘えてくれるのめずらしいよ」

あ、しみるよ。杏の予告どおり、真志井の乾いた皮膚に痛烈な感覚がはしる。それを合図に、すっかり手慣れたケアは終わった。彼女の施しは、真志井のくたびれきった魂を少しずつ磨き上げた。真志井は彼女のひんやりとした指に巻かせて素直に瞳をとじる。あっさりとあわいを越えたカムイのようにいきたいけれど、真志井の鋼のような意志は、それをゆるさない。

「痛そうだよね……慣れないよ、いつまでだっても」
「っ」
「ごめんね。はい、終わった。がまんしてくれてありがと。さ帰ろっか。カムイいるし」
「いや。それよりさ、おまえがこいつで現れるとさ」
「親のだけどね」
「またあれだよ。あのデマだ」
「だね、マーシーの彼女年上説。もう慣れたよー中学校のときはともかく。高校行ってからずーっとそれ」

おまえのことを勘違いしてんだと思うんだけどな。

荒野のように広い駐車場から、ハリアーは国道をゆったりと走り始めた。二人の高校生離れした感受性をひとつとして満たしてくれないつまらぬ街はやがて、三人が生きてきた学区へ入った。飽きるほど見た光景だ。そろそろドライブの終わりだ。

「あっというまだな。ここ通ればいいのか」
「こういう道があるなんて、私もしらなかった。ねえ、また山の向こうにいくの?ここを出て」
「問題は終わった。もういかないよ」
「もっと遠くにいくとき…帰れないとき。動けないとき。だれかに、助けてほしいとき」
「そうそう起きねえよ。おれらもすっかり落ち着きましたからね」
「もしも起こったらってこと。そういうとき、どこに連絡したらいいか、誰がたすけにくるか、もうわかったよね?」
「今までもしてただろ」
「だから!出来ることが増えたから…。ずっとマーシーが助けにきてくれたじゃない。だから、私が、」
「おまえの負担にならないなら」
「こうやって、すこしだけだけど、力を手に入れられたから。って親のだけど…」

ずっとドライブしてたいんだけど、やっぱカムイをこのままにするわけにはいかないから。

戸亜留市の北。昔ながらの住宅が集まる一画は、ラオウや杏、そして真志井が学び舎をともにした学区の片隅だ。住宅街を隔てるように走る国道をはさむと、向こう側は海老塚中学の学区となる。瀬田完介と山口孫六は、向こうの街の出身だ。

「カムイ」
「ん……」
「おはよう。着いたよ」

安心して寝てくれてありがとう。

ブランケットをマイペースにはらったカムイは、幼いライオンのこどものように大きな瞳をこすった。

「すげー安心しました。なんか真志井さん、すげーしゃべってませんでしたか」
「聞いてたのか」
「いやなんか夢で…真志井さんと…駒形さんが…サマソニ行ってる夢みました…おれは、なかまはずれでした…」
「正夢かもなそれ。さ、降りろカムイ」
「カムイ、そのときは、私とあそぼう」
「あそびます。杏せんぱいとはいつでもあそびてーんすよ。じゃあ真志井さんがなかまはずれすね」
「おれをなかまはずれにするな。さ、行けカムイ。明日熱出たら休めよ」

っす。

中型車の扉をマイペースに開いたカムイは、戸亜留市下町のアスファルトを薄汚れた革靴で叩く。ブラックの国産車が停まったのは、築年数50年にも及ぶ古い木造平屋の前だ。車は停まらず、手入れされていないシティサイクルがひとつ停まり、情緒のない外灯に照らされている。同じたたずまいの平屋が何軒も並び、周囲には独特の臭気がただよう。真志井のアパートより少し新しい程度の古い平屋もまた、地域から疎まれている人間たちが暮らしている。真志井はこの臭気にずいぶん肌がなじみ、杏もまた生まれたころから身近にあったものだった。
杏も真志井も窓をあけて、愛すべき後輩がこの一日を正しく締めくくるのか慎重に見守る。その折、勢いよく玄関が開き、カムイが少し身をひいた。少年の華奢な背中に、敵意かあるいは幼い自意識や拗ねといったもののかたまりか、そんなムードがよぎる。

周囲をかまわぬ甲高い声が夜のとばりのなかに響いた。

カムイ!!と少年の名を呼んだのは、少年の母親だ。古い平屋にカムイと母、そして年老いた祖母が暮らしている。悪態をつくか、ただいまと伝えるのか、カムイが迷いあぐねていたとき、カムイの母は息子の痩せた身体の向こう側に、めずらしいものをみつけた。異国の人気アイドルのような美貌を誇る母親は、お気に入りの少女を見つけた。23時をまわるというのにメイクを落としていない美しい女性は、息子を押しのけて、車のそばにかけよった。

「こんばんは、あの、カムイけがしてるんです、お風呂はいんないほうがいいかもー」
「杏ちゃん!免許とったの!?」
あれマーシーじゃん。何のってんの。早くおうちかえんな。

そして杏は、この女性にずいぶんとなつき、心を開いていた。世界的人気の韓国アイドルそっくりの顔だちはまるで16やそこらの息子をもつ母親には見えないが、フェイスラインにうまれたにきびをファンデーションで隠すようすや、10代のこどもといつまでも対等な様は、真志井にとってアンバランスだ。弟分の母親と真志井は気心がしれていて、美しい30代女性が叩く軽口に、真志井は困ったようにわらってみせた。そして彼女の語気に、杏に会えたことへの雀躍とともに、息子が今日も無事に手元へ戻ったことへのアンドも含まれていることが理解できる。この女は、真志井の恋人に、ファーストネームに気安い敬称をつけて呼ぶことを強いている。女同士かしましい会話を重ねるすがたの向こうで、カムイが複雑な顔で車を見守っていることがわかった。真志井が、視線をつかってカムイにもう一度つたえる。
明日熱出たら休めよ。
静かにうなずいたカムイは、母親を置いて自宅に戻った。


要領よく会話をきりあげた杏は、車を発進させる。

「カムイのママ、今日もリサそっくりだね。なんかリサって名前で働いてるとか…」
「やめたらしーぞ」
「そうだったんだ、知らなかったよ。じゃマーシーんちにいこうか。もう11時、おそくなっちゃったねー」
「いや」

ん?
SUV車はふたたび、黄昏の街を走りだす。

「遅くなってわるかった。けど、まだ流してほしいんだけど」
「わかった」
「明日は木曜だ」
「ねー。いいの、そんなことは」
「おまえといたいんだよ」
「ありがとう。私もいたいよー、マーシーといっしょにいると疲れないし」
「やべ」
「ん?やばい運転した!?」
「これからも、おまえに甘えちまいそうだ」
「それは嬉しいんだよ?だけどねー……これね、私のくるまじゃないからねー、そこだけネックなんだ…親も完全リモートじゃないし。都心まで通勤これでいくからね…」

満員電車が嫌いなんだったな。
けど都心の不動産にビタ一払いたくないから郊外にいるってこと。

長い足をくみあげた真志井が、ゆったりと倒したシートに、今一度大きな身をあずけた。杏の母親のそのこだわりが、今この時間を真志井につれてきてくれたわけだ。

「いいな、車。おまえとふたりだ」
「マーシー疲れない?」
「どうして。疲れないよ。おまえに任せっきりだ」
「お母さんはね、お父さんが生きてたとき、ドライブデートがすっごく苦痛だったんだって」
「デートなのに苦痛なのか……おまえのお母さんも、自分の足でどこかに生きたいのかもしれないな」
「マーシーはどう?ドライブ。苦痛じゃない?」
「おまえといるのにどうして。当分おれはこっち側だからなあ。いいよ、新鮮だ。おまえに任せきっていられる。けど任せっきりもなあ…」
「ずっとそっちありじゃん!その方が私、いいかもしれない。運転いやじゃないから、むしろすき」

おれクルマも単車もきょーみねーのよ。
ここにいるなら、車ナシでもなんとかなるからね。

マーシー、ハーレー乗ってそうだけどね。
車は山口孫六や瀬田完介が暮らす学区をゆったりと流す。ときおり、荒っぽい運転の小型車や、大型トラックとすれ違いながら、杏と真志井は夜をすすんでゆく。

「マーシーが落ち着くまで走るよって言いたかったんだけど、今日のマーシー、ずっと落ち着いてると思うから」
「おれらももう大人だからな。選んだケンカしかしないんだ」
「私がマーシーを助けにいくって思ってたんだけど、大丈夫だった」
「いや助かった。あるくつもりだったんだぜ」
「二人で60キロ歩くって、大冒険……青春っぽい!」
「だからおれは、まだおまえといたいだけだ」
「このままじゃ神奈川入っちゃう。別にいいんだけど…横浜…もっとまわって湘南…は遠すぎるから、端までいってこっちに帰ってこようか。あーあ、海がある街なら」
「おまえはいつもおれをおどろかせる」
「マーシーがどっかいっちゃうじゃん」

どうにかしてくれ。やりきれん。


映画で観た女性の頬には、真志井と同じ傷がついている。あの子も煙草を吸っていたことを思い出す。


「不安になるわけだよね」

いつのまにか空になったペットボトルを握った真志井が、杏のしずかな声に耳を傾ける。

「ひとつひとつつぶすの」

車から夜の音がする。トンネルをくぐった。オレンジ色の光につつまれて、杏のトキのような肌がいっそう輝いた。真志井は、彼女の整いきった横顔を見遣った。すんなりとのびた背筋に、高い鼻梁。

「よくわかんないけど、気づいたら前にすすんでる」

あの男のように、失いたくない。少なくとも、もしも失ったとき、真志井の傍には誰もいないだろう。誰かがいたとしても、あのドライバーの女性のように真志井を抱く腕は見つからないだろう。正しく傷ついたとき、真志井はすべてを失っているであろう。


おまえの背中が見えなくなるよ。

真志井の本当のこころは、今日もべつの言葉で顕れる。

「とめて」
「ん?」


ここ?何かあるの?ギアをひいた杏が、何の変哲もない住宅街の路肩に車をよせた。


助手席から長い腕がのびる。血と土の香りがする。暴力の匂いだ。杏のくらす川沿いのアッパーサイドの街で、ときおり車のアイドリング音が夜に響くことがある。真志井にそっと引き寄せられながら、あの車のなかではこんな時間が訪れているのだと、杏は、真志井にくちびるを塞がれながら、たった今悟った。
真志井はいつも杏に、真実を少しずつ教えてくれる。シートベルトがお互いの腰をしっかりと固定している。不自由な身体のまま抱き合った。そして、重なり合ったくちびるは、わずかに深くなったあと、離れた。


「……いこうか」
「ああ」
「……あれっキスするの一週間ぶり!?」
「10日ぶりだ。おれは正確にカウントしてるぞ。杏、じゃあ、お前の一番好きなところに連れてって」
「あのね…」

ハリアーは再び夜を走り出す。そろそろ時刻が日付をまたごうとするころだ。

「その答え知ってるでしょう」
「まあな」
「ないよ」

杏の澄んだ声が少しだけ据わった。
真志井とカムイはこの街を傷つけた。
杏はこの町に傷つけられる人間だった。

「私は、ない。この街には、ない。マーシーはライブハウスでしょ」
「そうでもないよ」
「あの子は広島のゴミ処理場だったね」

どうしてあの場所にいったんだろう。
杏と真志井は、あのとき、小さなこどものこころで、考えた。
今もその真実をつかむことはできない。


ふたりしておなじものをうしなっている。父だ。

生きのこった者は死んだ者のことを考え続ける。どんなかたちでも。それがずっと続く。

ぼくやきみはそうやって生きていかなくちゃいけない。
生きていかなくちゃ。

大丈夫。ぼくたちはきっと、大丈夫だ。

男の声が真志井の脳裏に響いてやまない。

「行く場所なんか持たないね」
「帰る場所があるだけ」


どうにかしてくれ。ああやりきれん
ぼくはもう47だ。仮に60まで生きるとなるとあと13年ある。
長いな。その13年をぼくはどう生きればいいんだ


「じゃ、私の好きな場所に帰ろ−」


真実というのは、それはどんなものでもそれほどおそろしくないの。

一番おそろしいのは、それを知らないで居ること

なんてつらいんだろう。
このぼくのつらさが、おまえにわかれば。


「はい。着いた!私の大好きな場所は、ここ、マーシーんち」
「このアパートが好きなのは世界でおまえだけだとおもうぞ……。大家がよろこぶわ……」
「じゃあね、私降りないから。迷惑になっちゃうから」
「おやすみ」
「キスはさっきしたからしない」
「冷たいよ杏」
「杏ちゃん!!」

あっ!

助手席の扉を真志井があまりに乱暴に閉めたからか、その音で起き出してきたのは、当の真志井の母親であったようだ。運転席にいる杏と戯れつづけようとしていた真志井を押しのけて、102号室から飛び出してきた母親は、国産車を運転している杏に駆け寄り、そして彼女をいたわった。


「雄彦なんかのために!!!いいのよー、こんな息子ほっといて」
「ためにってわけじゃないんですけど、そうなんです、免許とったんです。私のお母さんからきいてなかったですか?」
「きいてた!毎晩特訓させてるって。ねえ、杏ちゃん、ゆっくりでいいんだよ」

ずんぐりとした体型の真志井の母親は、愛らしいこぐまのようで、彼女の口からそんな優しい言葉がこぼれれが、杏がおずおずとうなずいてみせる。

「いいの、ゆっくりで」
「ゆっくり…」
「杏ちゃん足につかったらだめだからね!!本当にいつもおせわになって…うちのバカむすこが……」
「そうだよ、おれはバカなんだ」

雄彦!!
ごめんなさいお母さん。

支え合って生きる母と息子がたわむれる様を見守った杏が、少し性急な声で伝えた。

「何かあったら、言ってください」

真志井の広い背中にげんこつを与えた母親が、杏の幼い声に何もこたえず、静かに笑った。

「おくっっっ、てけねえよ」
「そうだよ、だからマーシーに迷惑かけることも減る。私は私の二番目に好きな場所に帰ります。私は真志井くんたちとちがって、根っこがインドアです。じぶんの家がすき」
「なあ、本当に気をつかうな。おれらなんか這ってでもどこにだっていくんだから」
「うん、そうなの。簡単なことができるようになっただけだね」

長い長い日々と
長い長い夜を生き抜きましょう。
運命が与える試練にも、ずっと耐えて。
そしてあの世で申し上げるの
あたしたちはずっと苦しみましたって。

「おやすみマーシー」
「おやすみ杏。ありがとな。来てくれて」

そしてようやくあたしたち
ほっとひといきをつくの。
そのときがきたらあたしたち
ゆっくりやすみましょうね。

真志井の恋人の運転するシリーズ最高級車が、あっけなく戸亜留川の向こうへ消えてゆく。あの車から降りた彼女はまた自分の足で歩き始める。真志井よりずっと彼方へと降り立ち、真志井の見えぬ光を見つめながら。


引用
光文社古典新訳文庫「ワーニャおじさん」
「ドライブ・マイ・カー インターナショナル版」


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