It's De-Lovely


1990年代に建設された木造アパートに今更防音も耐震も断熱もあったものではないけれど、随分洗濯していないシーツに長身を横たえて夢とうつつのあわいをさまよっている真志井雄彦の意識のなかへ忍び寄ってくる声は、今日に限って、酔っ払いや浮浪者のあげる奇声でもなければ、怒声や罵声、暴力の音でもなかった。ナックルでドアを叩く音でも、角材で壁を責める音でもない。

ただ静かに、この部屋のぬし、真志井雄彦の体をおもんばかる声が、意識のなかへそっと届いた。

そしてそれはどこか、真志井をよそに、自由にかたらう口ぶりで、爽やかな風のように彼を包もうとするその声は、真志井雄彦の鋭利な耳にはっきりとたどりついている。


「マーシーさん、大丈夫すかね。のどと熱がやばいっつってましたけど」
「うん……心配だね。私からのラインは、既読になってた。あと、返事も来てたんだ」
「おれのは・・・・・・未読無視すね。センパイのだけ見たんすね」
「私のも無視でよかったのにね。カムイくん、いっぱい荷物持ってくれてありがとー」
「すげー軽いすよ。こいつ先輩一人じゃむりでしたね」
「日用品と、ゴハンと、私のお母さんからの差し入れもあるし。あとガスコンロとボンベ。私だけじゃちょっと重かったね。マーシーの家のコンロ使うのわるいし。プロパンお金かかるって言ってたから」
うちは都市ガス。
おれんちは……しらねーす……。

部屋の外でまず、分厚いマスクで阻まれているのだろう、少しくぐもった声が響く。

そして、媚びぬアルトの、ハスキーな声が、慣れ親しんだ調子で言葉を重ねゆく。

木造建築の防音機能などあってなきようなものだ。
186センチの長身をどうにかおさめてくれる無印良品の足つきマットレスに身をしずめた真志井が、愛すべきふたつの声をまどろみのなかでたのしむ。

どうみたところで近寄ることも嫌悪してしまうであろうアパートの前で、みずみずしい声のもちぬしがふたり、マイペースな会話を続けている。

真志井雄彦が急におとずれた体調不良で鈴蘭高校を欠席し、そのまま家で臥せって、およそ3日がたつ。

心身も魂も生まれ持ったタフさを誇る。己の責任はすべて己でとることを信条とするラオウ一派の一員として、黄昏の国に君臨してやまぬ青年もまた、ひとりの人間、そしてひとりのこどもにすぎないのだ。

いわゆる体調不良という状態に陥ることだって、あの真志井とて起こりうることだ。

この具合の悪さは、おおよそ仲間内の誰かからもらったものだろう。

日頃幼いこどもたちに接しているラオウが知らずにウイルスを運ぶこともあるが、今回はそれではない。
孫六はかぜしらずだ。
今回に限ってカムイに瀬田完介、こどもたちを媒介としたものではない。
どこで何をしているのかわからないビンゾーがあるとき調子を落としたのもつかの間、ほんの一日でよみがえっていたことをおもいだす。
あれがきっかけかもしれない。そして少なくとも、真志井の恋人由来のものではない。
雲隠れするようにダウンし、一日で何事もなく復活し、あの鴉の飛ぶ黄昏の国へ戻るつもりだったが、風邪をこじらせたらしき症状は意外に長く続いた。

呼吸に問題も出て、後鼻漏は真志井の睡眠を阻み、大量の水分を取って睡眠をとることをくりかえしていれば、ようやく回復の出口が見えてきたところだ。

今朝は4時に目が覚めた。
ぱさついた黒髪を結わえて、季節外れのoofosのサンダルにつま先をつっこんで、アパートに隣接しているゴミ捨て場にどうにか可燃ゴミを捨てた記憶はある。
そして無意識で行った施錠も記憶に残っている。けして安全確認を怠っていないはずだ。モデル級の体躯を隅々まで侵すウイルスと戦いながら、ヘアゴムをむしりとり、黒髪をかきあげてベッドに倒れ込んだ。夜勤から帰ってきた母親が何か案じるような言葉をかけてくれた記憶はあるが、母親はばたばたと足音をたてて別の仕事に出かけた。そしてもう一度覚醒したとき時刻は朝の9時だったように思う。

充電コードにつないだスマートフォンをたぐりよせる。真志井の古いiPhoneには、見慣れたアイコンからのメッセージが次々と舞い込んでいた。

かさついた親指が画面をたどり、パスコードをたどる。この数字の羅列はなんともはずかしいしろもので、数字の正体は愛おしい後輩と、愛おしいあの子だけが知っている。ロックを解除して、メッセージアプリに見えたアイコンから選んだのは,仲間ではなかった。

真志井雄彦が、この世でただ一人だけ愛し続ける、たったひとりの女の子のなまえだった。

彼女に短い文章を送ったことは憶えている。
杏に甘えたのか、杏の優しさを拒んだのか、答えは夢のなかにきえてしまった。

けれど、この声を耳にする限り、どうやら今回の真志井は彼女を頼ることをえらんだようだ。

今日は日曜日だったはずだ。
再び泥のように眠った今、掃除を怠っている窓からこぼれおちてくる光は、白くてやさしいものだ。


昼さがりに、真志井を起こしたのは、真志井雄彦が確かに求めていた声だった。


先ほどから曖昧な夢ばかり見ている。10号室にひっきりなしに訪れていた借金取りが真志井の家めがけてやってくる夢だとか、あるいはもっと物騒な夢だ。


真志井の鈍い意識に淡く忍び込んできたその声が、どうか夢でなければいい。


自宅のまえで、扉に金属がぶつかるような音が聞こえたあと、ナイロン袋がすれるような音も漏れてくる。


「杏先輩、こいつ。マーシーさんちの合鍵す」
「ありがと。開けてもいいよね、ラインでそう言ってもらえたもんね」
「杏せんぱい、いい加減マーシーさんから合鍵もらわねぇと。そのほうが便利じゃないすか?」
「んー、調子に乗ってるみたいで……プライバシーだって…、一人の時間だってだいじだし」
「は?杏せんぱいがちょーしこかねーで、だれがこくんすか?それに一人の時間ねーとだめなのはおれらんなかだと孫六さんだけすよ。ビンゾーさんはなりてーとき勝手にひとりになるし。マーシーさんはひとりの時間なくても大丈夫なタイプっす」
「それに、こうやってカムイに預けたら、カムイくんにも会えるし」


おれんことくんづけでも呼び捨てでも、どっちでもいんすけどね・・・・・・。

この部屋のあるじと、カムイと共にこの部屋を訪れた女子高生がともに生きてきた時間は、恋人という名前がつく前の時間を含めればおよそ六年に及ぶはずだ。ふたりがお互いの傍にいることをゆるしあった日のことをカムイもよく憶えているけれど、あの日から二人はどこか、お互いを傷つけ合わまいと、お互いを守り抜きたいと、そんなことばかりに努力をそそぎ、真志井と杏とカムイとラオウがただ笑い合っていた日々より、すこしの距離が生まれた気がしてならない。
もどかしさも憶えど、カムイは、ふたりの知性と優しさを信じ続けて今に至る。

カムイから杏へ手渡された鍵は、むきだしのままだ。鈍くひかるそれをシリンダーにさしこみ、右に回した。
立て付けの悪い扉が情けない音をたてて、光を呼び込む。すると、臥せっている真志井に届く声がはっきりとしたものにかわった。


「そりゃおれも先輩とあそびてーし、あそべんのうれしーす…」
「うれしいー。私もだよ」
「鍵もらって、マーシーさんちでてきとーに寝てりゃいんすよ。それに、かぎ、俺が預かるより杏センパイが持っとくほーが都合がいいときがあるんす」
「そうなの?」
「そーす。後一個あるはずだから、もらってください。まけど、センパイ勝手にマーシーさん家くんのあぶねーか……マジでしらねーヤンキーきますからね」
「マーシーは、私をここに連れ込まないっていうよ」


そこまで喋るな。

すっきりとした瞳をとじたままの真志井は、無意識下で、媚びないアルトボイスの正直さへ鋭く突っ込んでみせる。


「……杏センパイ、マーシーさんにすげー連れ込まれてませんか?」
「そうだよね。んー、でも私の家にくるほうが多いかな」
「おれも、杏せんぱいんちいきてーす」
「おいでよ。荷物ここおこうか」


光が差し込んだ扉が、再び閉まった。


“体調悪いのにごめんね。何か持って行くよ”
“勝手にあけて入って。おれ寝てるから”

それ以上でもそれ以下でもないメッセージ通りに、杏はここへ弟分のカムイと訪れた。
申し訳程度の1DKの奥で、夢とうつつのあわいをさまよう青年はまだ、ベッドの上から動けない。

真志井の自宅に鍵を開けて忍び込んだのは、恋人の杏。
そして、二人の愛すべき後輩、伊東カムイであった。

荷物がぶつかりあう音がひびく。狭い玄関で引き締まった体躯のふたりがひしめきあって、靴が脱がれる。汚れた革靴に、使い古したサンダル。カムイはそのそばにかかとを潰したレザースニーカーをぬぎすてた。カムイに先をゆずった杏は、ハイカットのカーキ色のコンバースからしなやかなつまさきをぬき、すべてのくつのかかとをそろえた。


「マーシー……。大丈夫……?って寝てるよね。ちいさい声で言わないとね。お邪魔します」
「全部聞こえてると思いますよ。マーシーさんお邪魔します。だいじょーぶっすか」


細い廊下の片隅に荷物を置いたふたりがまずやるべきことがみつかった。

そこかしこに転がっている郵便物、ピザ店のチラシ、そしてコンビニ袋に衣料品店の紙袋。そういったものを次から次へと片付けることだ。築年数の古い物件ゆえ雑然としながらも、元来さっぱりと片付いている家だ。けれど家主の体調に応じても家も傷つく。

杏がコンビニの小さなナイロン袋をひろいあげると、カムイは廊下にほうられたままのチラシや郵便物の片付けに取りかかった。伊東家の家事は手伝わぬカムイも、ここへくる体がすんなりと動く。とはいえそばにいる彼女の挙動をマネしているにすぎない。母親や教師、尊敬できない異性に命令されても素直にカラダはうごかないが、彼女のそばにいれば、やるべきことがみえてくる。考えてみれば、杏がカムイが最も信用している女性だ。なんなら信頼できる女は、真志井の恋人ただひとりかもしれない。

ペットボトルのラベルをはがしている杏が、カムイを振り返って告げた。


「プラゴミここにまとめた。わ、カムイくんのおかげできれいになってる!」
「っす。これでいーすよね」
「ありがとう。紙ごみは……、この地区、紙袋に入れて捨ててもいいんだよね?ここにまとめよー」
「じゃおれ、チラシとはがき、分けます…ってそんなにないすけど」
「カムイくん仕事出来るね、すごい」


狭い廊下が片付いたところで、古ぼけたダイニングに二人は忍び入る。
そして、ダイニングの奥の部屋へ、杏よりさきに忍び込んだのはカムイだ。

リビングが南を向いていることが取り柄だ。
真昼の自然光のもとで、仰向けに横たわっていた真志井は、正直なすがたをさらしたまま可愛い後輩へ向けて軽く手をあげた。厚い体を包むのはラフな黒いTシャツで、ボトムはスポーツブランドのスウェットパンツだ。

「ッス。マーシーさん、大丈夫すか」
「よ。顔もあらってねーわおれ」
「気になんねぇすよ。お疲れ様です」
「おう。玄関鍵閉めたか」
「大丈夫っす。孫六さんがビョーイン予約してやろうかっつってましたけど、いらねーとおもいますっつっときました。多分マーシーさんのこれ、ビンゾーさんにもらっちまったんじゃないすか。あのひと、詫びいれるために何かするっつってましたよ。何すんだろ……?それと完介から栄養ドリンクもらいました。置いときますね。それと言いつけ通りラオウさんには言ってません。完介にも言うなっつってあります。バレないといいんすけどね。心配しますからね。んで、杏センパイと……」
「ん、完璧だ。ありがとなカムイ」

真志井が長身を起こそうと試みると、寝ててくださいと気遣ったカムイは、無印良品のベッドのそばに遠慮なく座り込み、長い足であぐらをかいた。真志井の母親が使っているだろう布団は、部屋のすみに小さくたたまれている。杏は、購入した食材に、差し入れの冷凍作り置きをせっせと冷蔵庫にしまいこみ、ダイニングテーブルの上にガスコンロをセットしている。

慣れた様子で働いている杏を振り返ったカムイは、ベッドの上の愛すべき男へ、懸念に満ちた目線を投げかけた。


(ほんとにおれもいっしょにきてよかったんすか)
(わかってんだろ?)
(まセンパイたちふたりにすっと、マーシーさんぜってーこーゆーときでも杏センパイに手だしますからね……。マーシーさんからゆわれなくてもきましたよ。孫六さんも言ってたんで。おまえもいけって。こーゆーときにそーゆーの、どっちのためにもなりませんからね)
(おまえな……いやおれが呼んだんだけどな)


目と目で会話するふたりをのぞきこむ杏が、それどうやってやるの?と尋ねる。カムイの濃密な瞳が杏を見つめる。けれど杏は、カムイが語ろうとしていることが分からないままだ。やがて、空気のこもった部屋にお湯の香りが漂いはじめた。換気したほうがいいんすかね。マーシーさん寒いすか?そう尋ねるカムイをよそに、身をおこした真志井が窓の鍵をはじいて、少しだけ隙間をあける。


「お話中だよね、ごめんね。マーシー起きて大丈夫?ねえ、すぐ昼ご飯つくるから食べて。ゴミ持って帰るから気にしなくていいよ。食べて薬飲んでまたやすんだらいいよ。あと私のお母さんと一緒に、一週間くらい困らないよーにいっぱいごはんつくったの。冷凍もしてるし、冷蔵庫入れとくね。あ、あとこの土鍋使うよー」
「んーーー」


献身的な言葉を重ねながら杏がダイニングテーブルの上にガスコンロを設置し、勝手知ったるようすで土鍋を載せている。これは真志井家の私物だ。湧いたお湯に白だしやみりんを加え、杏は手早く長ネギやにんじんを放り込む。キノコに油揚げもすべて自宅で用意してきたものだ。

何が完成するか悟った真志井雄彦は、腰をおろしていたベッドに、仰向けに倒れ込む。

そして、整った顔を大きな手で覆って、くぐもったこえでこぼす。


「あーーー……………たまんね……」


アッシュカラーのジャージーボトムにつつまれた長い足がカムイのもとまでのびてきて、カムイはそれをわざとらしくよける。

それは真志井雄彦の包み隠すところのない本音だ。
心から愛している女の子に、てきぱきとケアを施される。そのケアはすべて的確で、真志井の乾いた心身をみるみるうちに潤してゆく。


「いーすよね……杏せんぱい……。マーシーさんいーなあ……」


杏は今日も明るいカラーのセミロングヘアをさっぱりとまとめあげ、クロップドトップスから、削げたように痩せた腰がのぞく。棒のような足を、シオタのデニムが包み込む。飾らぬスタイルでも、さっぱりと垢抜けている。

ダイニングと寝室を分ける引き戸はいつも開け放たれていて、そこから彼女のすがたを覗いたカムイがどこかしみじみとした声で、真志井雄彦の万感のためいきに、共感を寄せた。

とはいえ狭い部屋であり、ダイニングテーブルに置いただけのイワタニの簡素なガスコンロで簡単な調理をつづける杏の耳には、二人の呟くどこかむずかゆいことばは杏のもとへ、しっかりととどいている。

砂糖と味噌を投入し、うどんを放り込み、麺と野菜がくっつくことのないようにゆっくりとかき混ぜた杏は、耳を染めながら照れから来る抵抗の声を告げた。


「やーめーて。べつによくないから!味噌煮込みうどんにした。簡単だし、ごみもでないから。もう出来るよ。マーシーそんなこと言うならすぐに起きられるよね?」
「おきれません」
「嘘だよ、今のは嘘。ね、カムイくん、マーシーはうそ言った」
「そーす、マーシーさん嘘つきす。あの、おれもくいてーす」
「カムイくん、そこに唐揚げとか、おひたしとかあるの。そっち全然食べていいよ。じゃあこのお皿に、カムイのも……」
「まじすか……。すげ、も、えんそくみてーすね。マーシーさんいつまでもそーしてんならおれ食います」
「マーシー、たまごおとす?」
「そいつ俺がやるわ」

ベッドサイドに放り投げていたヘアゴムは、いつか杏が忘れて帰ったものだ。枕の下からそれをさぐりあてた真志井が、長髪を後ろでかるく結わえた。一気に体を起こすと少しのめまいが起こった。カムイが慌ててしなやかな体躯に手を添えようとすると、真志井はそれに素直にあまえて、華奢な肩をかりる。そしてすぐそばの部屋のダイニングテーブルまで向かう。

テーブルの上におかれた卵は12個入りで、買い物もままならなかった日々をどうにか整えてくれるものだ。
白い卵をとりあげて、片手で鍋のへりにぶつける。熟した味噌と色とりどりの野菜で満たされた鍋に、お月様のようなたまごがおちる。カムイが真志井の器用な手先を、濃厚な目元でただ見守った。彼にとってマスクは皮膚のようなもので、カムイはようやくマスクを下げる。土鍋の蓋をして、二分ほど待てば、滋養にあふれた食事のできあがりだ。

「うまそ。杏。ありがとな」
「いいの。私マーシーに、これくらいしか出来ないよ。私たちもたべよー。勝手にそうじしてごめんね、マーシー」
「郵便物わけときましたよ。ひつよーなの、電気代のあれくれーでしたけど」
「ん、わり。うっっっま……」
「うまそーす……」
「皿かして。カムイもこんくれーくえるか」
「あざす……杏せんぱい、すげーうまいす……」
「よかった。火消すねー。コレ食べたらマーシー寝てね」


お母さんも忙しいんだよね?お母さんは大丈夫?自分の食事はほどほどに、少しだけ出たゴミを片付けながら、杏は懸念の言葉を止めない。年頃の少年たちは温かい食事を前にしては童心に返るほかなく、杏の心配をよそに、食事を取り合っている。衣に脂がすこししみでた唐揚げもそれはそれで美味で、そちらがそんな態度をとるのならとはらをきめた杏は、ヘアゴムでまとめられてあらわになった恋人の額に、冷たい手をそっと添えてみせる。


「マーシーさわるよ。熱……んーー、あついね……」
「そのまま。ずっとそのままでいてくれ」
「そうしたいけどねー」
「熱いの、くってるからすよ。おれもあついす」
「カムイくんは平熱だよ。マーシーが前飲んでた風邪薬買ってきたから、ちゃんと飲んでね」
「いーすねマーシーさん……。おれかぜひーても、親おれんこと放置っすよ」
「そういうとき私んち来たらいいよ。それかこやってマーシーの家。カムイくんのこともちゃんとやるから」
「……いーんすか……」
「だって私、カムイくんにもいっぱい迷惑かけてるし」
「おれに?いつすか?」
「今日もいっぱい荷物もってもらったし。いつも、助けてもらってるし」
「センパイそゆことマーシーさんにもゆってんすか」
「言ってる」

迷惑っていわないんすよ、それ。
カムイがそんな事実を指摘しようとしたとき、ずいぶんとまともな食事をとっていなかった真志井雄彦はあっというまに鍋のなかの栄養食をたいらげて、愛用の箸を少し大きな音をたてて置いた。
きのこのかたちの箸置きは杏が真志井家に贈ったものだ。
さんざん世話をやかれて、体に栄養を取り戻した真志井は、まったく己らしくないこの現実を今更恥じたのだ。


「いやちょっとまてよ、よくねえよ。なあ。おれなんかにんなことしなくていいんだよ、杏。いま昭和じゃないぞ。令和だぜ」
「それもそーすよね。おれはうらやましーんすけど……けどマーシーさん、普段こーゆーの、てめーでやるじゃないすか。たまには……」
「そう、そうだよ。昭和とかそういうことでもないってば。先月、私が具合わるかったとき、私にやってくれたよねマーシー。それをそのままお返しするだけ」
「杏先輩も体調悪いの長かったすよね。もう大丈夫そうですけど」
「これとだいたいおなじこと、マーシーもやってくれたんだよ。はいマーシー水と薬。このくすり効くけど副作用きついよ、そのままもう一回寝てて」


あらうくれーは俺がやるよ。
そう告げて、少し重みのある鍋を軽々と持ち上げた真志井を杏がとめれば、真志井はしばし、痩せ細った体のなかの、それでもやわらかな肌触りを味わう。そんな彼の思うままにさせながら杏は使い終わった道具や食器を奪おうとするけれど、かなわないままだ。

「マーシー髪括ってるの似合うよね」
「おれのこいつはおれん家じゃねーとみれねぇの」
「おれと杏せんぱいしかみれませんね」

杏と杏の母親の作った唐揚げや、日頃は手をつけないけれどなぜだか彼女の手製奈良食べることの出来る青菜の煮浸しなど、真志井のためにつくられた食事をあらかた平らげながら、カムイは素直な瞳で、愛すべきふたりをただ見守った。

滋養のある食事を久方ぶりに体内におくりこみ、ぬるいミネラルウォーターできつい薬をながしこめば、186センチの体にも、強力な作用が廻る。ウイルスとの最後の闘いをはじめた真志井は、ベッドに倒れ込むように横になり、やがてふたりのまえで、素直に夢とうつつのあいだをさまよいはじめた。緊張がくせとなっているからだは、心からの睡眠がとりづらい。真志井が心の底から休むのは、彼女の片付いた部屋で、杏をぎゅっと抱いて眠る日くらいのものだ。


「私もこのまえ、お母さんが海外出張行ってるときに、いろいろ重なって体調くずしたの」
「がんばりすぎっすよ、杏せんぱい。マーシーさんもそこは大概すけどね」
「そんなことないよー、五日学校行けなかった。妹の世話もして……妹もガマンしてて。結局あの子が私の携帯からマーシーにラインしたんだよ。助けてって」
「そうでしたね。いもーとさん、六歳すよね」
「できちゃうんだよね。それでマーシーがきてくれた」
「この唐揚げまじうまいす。こいつもうまいす。こんなぶどうくったことないす。で、怒ったっしょ、マーシーさん」
「うん」


真志井のためにつくった食事を少しだけ口に含んだ杏が、小さく呟いた。


「こわかったー……」
「ほんとに怒ってたんすね。あの人まじこえーけど、マーシーさんがこぇぇときって、意味あんじゃないすか」
「そうなの!ちゃんと、理由があるの。だけど、怒ったあと、ずーっと、優しくしてくれた」
「あのひと杏センパイに優しくできたんすね。よかったす。んで、あのひといつも、どんだけ杏センパイになんかやっても全然足りないっつってますよ」
「ほんとに!?それ、こっちのせりふなんだけど」
「いやー、ないっすね。ない。これ、おれの嘘じゃないすよ。まじす」

おれこんくれーにしときます。つか食っちまったけど。
そう告げたカムイが、ダイニングチェアから立ち上がる。
部屋はひととおり片付き、買い物に行く余裕もない真志井家のために持ち込んだ日用品も、カムイと真志井がだらりと語り合い食事をむさぼっているあいだに、杏がすべて適切な場所へ片付けたようだ。テーブルの上の食事を冷蔵庫にしまい込む程度の仕事しか出来ぬカムイが、それらを済ませたあと、短くつげる。

「じゃおれ、帰ります」
「あれ、マーシー起きるまでいないの?」
「いよーとおもったんすけど、やっぱ。あの、帰りだけ、遅くなったらぜってーおれよんでください。夕方だと大丈夫だと思うんすけど、遅くなったら送りますんで。やっぱおれ、」
「ありがとう……」
「はい、マーシーさんと杏せんぱい、ふたりにしてーっす」

見送らなくていいですよ。
そんな大人びた声を残したカムイは、大仰なマスクで華やかな顔を隠し、扉の向こうに消える。彼の持つ鍵が、この部屋の扉を真志井と杏のためにしっかりと閉ざす。そして黄昏の街に、しずかに溶け込んでゆくのだ。

ダイニングチェアに腰をおろしたままの杏は、見えなくなった彼に小さく手をふったあと、背後の寝室を振り返る。
あわいをさまよっていた真志井の意識は、薬のちからですっかり夢のなかへ取り込まれているようだ。

チェアからたちあがり、寝室に忍び入る。薄くあいていた窓を閉めて、錠をはじいた。

リフォームされた和室の畳は清潔だ。畳にかまわず置かれているマットレスのそばにそっと腰をおろして、スプリングに手を添えて、ただ恋人の名を呼ぶ。


「マーシー」
「……」
「大変だったね。もう大丈夫だから。起きたら治ってるよ」

半袖のTシャツからのびる腕はめぐまれた筋肉で覆われていて、野太い手首にブラウンのヘアゴムがおさまっている。

夏用毛布は、彼の腰程度のところで揺蕩っている。それを引き揚げた杏が、彼の厚い肩口まで覆った。
仰向けだと眠れない。そんなことを嘯く彼はいつも杏をぎゅっと抱いてシーツに横たわるけど、それはやはり真実で、窓辺を向いて静かに瞳をとじている。


身を乗り出した杏が、彼の聡明な額に手を添える。すっきりとした瞼は静かに閉じられ、分厚い肩はゆっくり上下している。
彼の熱は少しずつおさまっている。

出窓の傍には簡素なデスクがある。
パイン材のデスクチェアには、愛用のブラックデニムシャツが引っかけられている。そばの衣類カゴに突っ込まれているのも、愛用のカーディガンだ。サングラスは見当たらない。デスクの引き出しのなかだろう。参考書が雑然と積み上げられ、クローゼットとは名ばかりの押し入れのなかには、古書店で買い集めた文庫や本、そしてブルーレイディスクが厳選されておさめられている。その奥にはこれもまた選び抜かれた衣服もつめこまれていて、デスクの上には愛用のネックレス、そしてバングルとリングも転がっていた。それらに触れることはなぜだか今も昔もずっと出来ないままだった。

彼のためにあわてて用意した荷物だけで、杏が自分のために今日もって来た荷物はスマートフォンくらいだ。

シオタのデニムのポケットから、iPhoneを取り出す。
学習用の語学アプリを呼び出し、イヤホンをポケットから探し当てた。彼が夢のなかにいるあいだ、杏はただこの場所で、静かにそばにいることを選んだ。



「ん」
「あ、マーシー、おきた?」
「杏」
「ちょっとだけぬるくなったけどお茶あるよー。飲んで。この薬飲んだら二時間くらいで目が覚めるよね」
「うわ、熱さがってっし頭もいたくねえ……。げ、やべ俺シャワ−……汗くせーだろ、おれ」
「ん、気にならないけど…汗掻いたよね。あと少しだけシャワーは我慢したら?」
「そーすっか、あれ、カムイは?」
「二時間くらい前に帰ったよー。私が帰るとき、遅すぎたら送るっていってくれたけど、悪いから。あっ、あとね、ガスコンロ、私のお母さんがあげてって言ってた!6000円しなかったから大丈夫。だから帰り、荷物もないし。それとマーシー寝てる間、iPhone鳴ってなかったよ。しずかだった」


そうかー。
短く、そして幼い声でこぼした真志井雄彦は、長身を横たえたまま、枕にあずけていた頭をそのままに、大きな手で黒髪をかきあげた。

そして、彼は、深いため息をつく。

ベッドのそばに座り込み、スプリングのうえに腕を重ねて、そこに小さな顔を置いた杏は、真志井がひそやかに回復へ向かうすがたをしずかに見守っている。

「いいなあ」
「ん?うん、何が」
「優しくされんの」
「いいでしょ。こんなのじゃまだ足りてない。マーシーはもっと優しくされなきゃならない人なの。私から全然足りてないからこうなってるんだよ……。私もっと、」
「杏」
「うん」
「おれはさ、おまえにもらいすぎてるくれーなのよ」
「ううん……」
「ありがとな。あとキスすっか」
「さ、さらって言わないで、あ、まって、起きないで。私からいくから」

真志井のもとへ身をのりだした杏のブラウンヘアに、大きな手が添えられる。そのまま真志井へ呼ばれ、杏は乾いた唇へそっとくちびるをかさねる。お互いをおかさぬままのキスはそのまま、ただしずかに重なるだけのものとして続いた。

キスを終えた杏が、彼の額にもう一度手を添える。下がってるね!弾む声で伝えると、真志井が彼女の手にみずからの手を重ねた。

「はは。弱ってんな俺」
「カムイくんも、そういうマーシーに気を遣って帰ったのかな」
「おまえ弱ってたとき、オマエに何したっけおれ」
「……言わないで!あれから10日くらい、毎日ずーっと思い出して、ぼーっとしちゃった…治ってからも、ずっと……。私はあんなふうにマーシーのことおそわないからねー」
「はは。おまえにだけだわ。こんなの見せれんの。そうだぜ、カムイもだから帰ったんだよ」

ラオウん前では、見せらんねぇわ。


真志井がそう呟いたとき、杏の手が瞬時、彼の聡明な額から跳ねた。

真志井は杏の手に、じっくりと重みをかける。



きっと、大丈夫だとおもうよ。
岬くんにみせたって、きっと。



そんな言葉はどうしてか紡げなくて、杏はただ、重みを増した彼の手をとり、少し汗ばみ始めた手の甲にくちびるをすべらせた。

誰かを守ることしか知らない手に、夜明けの色のくちびるをすべらせた。

そんな杏のことを、真志井はすっきりとした瞳を丸くして見つめる。


「熱。大丈夫だよ」


真志井の大きな手を両手で包み込んだ杏が、眉根をさげて、少し切なくわらって告げた。


「ずっといるよーここに」
「ああ。帰りおくるわ」
「だめだよ。まだ完全になおってないんだから。私んち、ここから近いし」
「カムイ呼べ。とんでくるからあいつ」
「悪いから。ね、ずっといる。私、ずっとマーシーのそばにいる」
「知ってるよ。手。そのままにしてくれるか」
「そうする」

大丈夫だよ。杏がしきりに告げるそんな声はなぜだか真志井の堅牢な心をしめつけてやまなかった。そして杏の言葉は、真志井が少しばかりの不調から抜け出す、最後のよすがとなった。


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