You're The Top 15


漆黒の空がたとえこの身に押し迫ろうとも、俺たちはけして負けることはない。

六人のこどもたちは、そんな濃厚な絆で結ばれ続ける。

そして少年たちは、汚れた大気が星を覆い隠す工業地帯の空に、ひとつのおおきなひかりをみつけた。

昨夜は射手座の満月であった。

有りっ丈の整髪剤を使って撫でつけた硬質な黒髪をかきあげた青年が、深い夜空を見上げた。大きな男のそばにけなげに寄り添う男の子は、大男の濃密な仕草につられた。彼の瞳を追いかけて、少年はおおきなひかりにたどり着いた。少年はそれを、外灯によるものだと思っていた。戸亜留市では申し訳程度の防犯施策によってそこかしこで外灯が無粋な光を放っているからだ。その光はあの町に巣喰う汚泥のようなものを容赦なく照らしあげた。ひかりの源より大きな瞳を持つ少年は、このとき知った。都市の片隅にうっそうとした様で残る最後の自然と、ほんものの光が照らすときの、真の明るさを。

和菓子のようにまるまると肥った月は、マイペースな様で南の空へ向かっている。汚染された空に、こんぺいとうのようにちりばめられているはずの星は瞬かない。そのかわり、きつね色の月が煌々と、ふたりの少年を照らしあげる。


「みろ、あれ……って、カムイ、見てたか」


手癖のままにとりだそうとした紙たばこのパッケージをポケットのなかで握りしめたまま、大男は、旧知の後輩の名前を呼んだ。


「はい、真志井さん……。さっきすげーパンチの筋とか見えたんすよ。だから、何が明るいんだろって……おもってて……」
「なあ、おれも街灯だとおもってたわ」


この夜、少年たちは戸亜留市をあとにした。
そして出向いたのはSWORDという俗称で呼ばれる町の、そのまた奥地だ。
都市らしい賑わいを見せる山王地区を抜ける。
そして、行政から見捨てられた鬼邪地区の片隅を慎重に伺いながら通り過ぎた。
毒の花咲く国の子供たちがたどり着いたのは、天堂とよばれる山の裏の地区であった。

毒の花の国に生きるこどもたちの相手は、内側にいつ。鈴蘭は内戦の激しい国だ。敵は外ではないけれど、外と内がつながり、少年たちの守るものを脅かす争いが勃発することも、まま起こることである。このたびの抗争はそれに該当した。

そこから見える月はずいぶん立派だった。汚れた空気のなかで、どこか神々しいほどの光を放つ。月の光を浴びていることをしらぬ少年たちは、今日も鬼神のごとく戦い抜いた。

ラオウ一派。

そんな通称で呼ばれる誇り高き少年たち。

この夜に起こったことは彼らが考え抜き、選び抜いた、やるべきケンカであった。

想定通りの勝利を収めた少年たちは、はたと気づいた。

この傷だらけのすがたで、月が煌々と輝く時刻に、一体どう帰路につくのかと。

ビンゾーが手早くスマホを操作すると、彼の祖父が軽トラをあやつって登場した。

しかし、ビンゾーの祖父の軽トラが載せられるのはどう見積もったところで三人であった。

瀬田完介とビンゾーが荷台にのり、愛すべき頭領の岬と、用心棒の山口孫六が助手席に詰め込まれることで了承した。

そして残されたのは、いつものふたりだった。

真志井雄彦と、伊東カムイ。

傷だらけの男の子たちを月の光が照らす。少年たちは、あの町とつながる夜空を、どこか晴れ晴れとした様で見上げた。

真志井雄彦がつぶやけば、彼のそばにそっと控える伊東カムイも、ただじっと丸い月を見あげていた。

けんかに赴いたのち、おのおのがおのおのにマイペースに背をむけて夜をあとにするのもままある姿で、六人そろって肩で風きって帰路につくことだってある。けれどこの夜に残ったのは、真志井雄彦と伊東カムイ、二人だけとなった。ふたりはどちらともなく歩みをすすめ、のんびりと歩く。初夏の夜風が、傷だらけの顔に心地よくて、心地よさの理由は風だけではなくて、ふたりをやさしく照らす月の光のおかげでもあった。


「どやってかえります?」
「どーするかね」
「アプリ…。ここら、しゅーでんはやいんすよね。孫六さんはそれまでにおわるだろってっつってたけど…」
「ビンゾーとめるの大変だったなー……いやー今日は半分くれービンゾーをおさえてたぞ……」
「っすね。あ、バスあるみてー……けど時間どおりにくるんすかねー」
「タクシーだと……いやタクシー代……わかった、おれんち着くだろ、んでおれだけ降りてタンス貯金の家賃から…」
「だめすよそれは。そんなことするなら、歩きましょうか」

その結論は、やぶさかではない。
そしてそもそも、その選択肢を選ぶつもりであった。
ふたりでいれば、どこまでだって歩けるだろう。そんな無根拠な確信を抱くほど真志井は幼くなくて、カムイは幼いけれど、この夜の真志井は、些か強めの殴打を受けたからか冴え渡るはずの頭は月の光に取り込まれるようにすこしだけ輪郭がぼやけていた。

「チャリできたらよかったわ」
「……ま本気でゆってねえとして、この山チャリでのぼるほーがすごいすよ…。それができんのはビンゾーさんとラオウさんだけ…。そーいや、去年、おれらみんなで50キロ歩きましたよね、戸亜留市のむこーのむこーまでいったとき」

これほどのどかな会話にふけるときはたばこがつきものであるが、今は月の光のもと、たったふたりでおだやかに歩いているままだ。
そもそも、歩き煙草は真志井のポリシーに反する。

もっとも、このポリシーは真志井の中にあらかじめ備わっていたモラルではなかった。

真志井が、他者から授かり、他者から与えられた倫理だ。

「あったな、そういうこと」
「あれ以来。遠いとこでヤんの久しぶりですよね」
「んで着いたのはおれんちでもカムイんちでもなくて」
「そっすね、帰ったのは杏せんぱいん家でしたねー」
「もーな、あんとき川の向こうのおれんちまでもたなかったわ」
「ぜってーむりでした…」

未成年での喫煙はどうこう言わない。
だけど、歩き煙草は辞めた方がいい。
あなたが、傷つけなくていい人を傷つけてしまうのが、いやだから。

そう伝えてくれたのは、あの子だった。

真志井の恋人の、杏だった。

真志井は実に素直に、彼女の言葉に学んだ。彼女の与えてくれたモラルはいつも、真志井という大きな男を、人間のかたちに保った。

「風呂入るまで玄関にいろっていわれたな。杏のお母さんに」
「おれは怒られませんでしたよ。せんたくもしてくれました。真志井さんだけ…」
「最後はおれのもせんたくしてくれたぞ。ドラム式…いーなあ…」
「あれ壊れやすいらしいす。つか真志井さんのもってるふく、乾燥機いれたらだめなやつばっかじゃないすか」

ゆったりした足取りで起伏の多い道を支配する。すると、二人がたどり着いたのは、コンビニの前だ。

月は二人に寄り添うようについてくる。

カムイが先に足を止め、冷たい何かをのみたい、そして休息をとりながら何かを買って食べたい旨をうったえる。
もとよりそうするつもりであった真志井は、少年のそんなうったえをいい加減に聞き流しながら、いまだ明るい夜の光につられて、空を見上げた。

土埃とあしあとで汚れたスラックスから、iPhoneを取り出す。画面にひとつ、ひびが入っている。買い換える経済力などもとより持たない。

戸亜留市よりずっと深い夜空をもう一度見上げる。

そして大きな青年は、右手におさまる通信機器を空にかざした。整った顔が、機械の厳重な認証を解除する。

カメラアプリをタップしても、真志井の液晶にはぼんやりとした小さな光がしのびこんだだけだ。

「写真すか。おれも…」
「おれのiPhone古いんだよな……。カメラも終わってる。どやったらそれっぽくとれんだ。どれだ、こいつか。」
「えーと、ここ変えてって……。ここすかね、あ、こいつで撮れんじゃないすかね」


カムイの指示を素直に聞けば、真志井の古いiPhoneのなかに、大きな満月が切り取れた。そして幼い少年も、彼のそばで、美味しそうな惑星を機械のなかへ納める。カメラアプリで加工をくわえようとするけど、ありのままが一番だとわかった。真志井はそのまま、黄緑色のアイコンにふれる。

「ラインすか」
「そー。見せたいやつにな」
「おれもグループラインのほーにおくろーとおもってました。マーシーさんがおくるならいっすね。こいつ見てますかねー。勉強してますかね?」
「どうだろうね」

二人が想う女の子は、この山の向こうで、穏やかな夜を過ごしているだろう。

ほどなくしてiPhoneが特徴的な音をたてる。写真が一枚おくられた証だ。

すると、メッセージアプリが再び、音をたてる。あの子からの言葉が即時帰ってきたようだ。
カムイは画面に気を取られている真志井をおいて、コンビニエンスストアの明かりにすいこまれてゆく。店の前に立ち止まったままの真志井は、長い足でコンクリートを踏みしめながら明るい液晶をのぞきこみ、一新に文字を打つ。自由な左手が自身の口元にふれ、腫れはじめている患部をなでた。

そして、彼女から帰ってきたのは、月を慈しむ言葉でもなければ、挨拶でもなく、彼女らしくもなく真っ先に本題に切り込んでいた。


“外にいるの?”
“そうだよ。今日も悪いコトした”


フリック入力で手早く会話をすすめる真志井のざれごとを、どうやら今夜の恋人は、相手にしないようすだ。


“一人?ふたり?それとも、みんないるのかな”
“ふたり”


ふたりと伝えれば誰が傍に居るのか即座に察知する真志井の恋人は、さらに手早くたたみかけた。


"ファミマの色、うつってる。そこに、天堂南店って書いてる"


確かに、真志井が送った夜空の写真は、月の質感はリアルであるものの画面構成が甘く、画角の端に、コンビニの無粋な看板が忍び込んでいた。


"おまえもはやく寝"

そんな文字を打ったとき、iPhoneが彼のことを呼ぶ。
メッセージアプリの無料通話の着信音だ。
コンビニに入店していた少年は、有料のナイロン袋を提げて、まるでその着信音に呼ばれるように傅く先輩のそばに直ちに戻る。
異変なのか、それとも穏やかな変化なのか。マスクに隠れると、弟分の瞳は濃厚に変わる。
少年の濃厚な瞳は、真志井に届いた急な連絡のあるじをいとも簡単に察した。夜にとけこむような男の瞳が、蕩けはじめているからだ。

「でんわっすね」

その夜明けの色の瞳で見たままのことを言うちいさなこどもはさておいて、真志井はすぐに通話に入る。少年は賢い猫のように、大男のそばで、マイペースに飲食をはじめた。

液晶にふれた真志井が、この夜に、いとおしい声を迎える。

恋人の杏からの連絡だ。


「お疲れ」
「マーシー、お疲れー……!っていうか、ずいぶん遠くにいるんだね……」
「悪いコトはおまえの傍でやらないんだよ」
「もう遅いよ。そっち、交通も不便だよね?」
「さあな。いいんだよ、心配しなくて。めずらしいな、おりかえしてくるの」
「ね、迎えに行こうか」
「迎え?は?っここに?おまえがくるっつーこと?」
「うん、そう」


杏センパイにあえるんすか。
杏センパイ。
杏センパイとあそびてーす。

真志井のそばでホットスナックにありつく男の子は、あごの下にマスクをさげて、通話口から漏れ聞こえる澄み渡ったアルトボイスをシャワーのように浴びながら空腹を満たしている。こどもの味覚に合うあげものは少年のお腹を満たし、旧知の人物のあたたかく澄んだ声は、真志井だけでなくカムイの心をもみるみるうちにいっぱいにした。

ここぞと甘える後輩の声は放っておいて、真志井はそのまま会話をつづける。


「おれだっておまえに逢いたいさ。だけど今日は、遠すぎるよ。ヘンなこと言わずにおまえも月見して寝ろ」
「そのお月様が見えるファミマにいるんだよね?」
「なんか今日はこだわるな」

機械を挟んだ会話に、ほんのわずかの静寂が訪れた。
真志井が二の句を継ごうとしたとき。
真水のような声が、真志井から会話の主導をうばった。


「わかった。じゃあ……20分…くらい、待てる?」
「は?」
「そこにいて」
「へ?ここ?」
「待ってて。行くから。私が行くから、そこで、かならず待ってて。カムイもいるんだよね?ふたりで待ってて。絶対にそこから動かないでね?」

そして通話は、一方的にぷつりときれた。

杏と真志井が、この夜の道を慎重にさぐっている間、カムイは相も変わらず、チープな食料をむさぼっている。からあげをたいらげたカムイは日頃より好んで食べている銘柄のチョコレートのパッケージをむしりとり、大きな口で甘いおやつを食みはじめる。

「おれが杏センパイとあそんだのは……先々週す。けど、このまえ、3日くらい前すね、地下鉄入り口の裏のタリーズの前で見ましたよ。やっぱ目立つんすよね杏センパイ…。河田二高のヤツらがあのコみろよっつって、すげー杏センパイみてました。けど高嶺の花みてーすよ。っって真志井さん、ここでなんか買って呑んだあと、歩きましょう。つか歩いてるあいだに始発動きそうすね」
「だめだ」
「何がすか?あ、河二のやつらはおれと完介が一発にらんだらどっかいきましたよ。その後もいちおー杏せんぱいと杏せんぱいのダチ、見張っときました。だれも杏せんぱいにからんでませんでしたよ」
「そーかよくやったカムイ。つか杏が言ったんだ」
「何をですか」


ここで待てっつってた。

カムイは、真志井のそのことばを、少しだけ呆けたような顔で傾聴した。


「え、杏せんぱいが、おれら迎えに来てくれんすか。せんぱいのお母さんの運転つーことすね」
「杏は、つまり、そういうことを、言ってんだよな?」
「そーいやなんか前マーシーせんぱい鉄パイプで頭割られたとき、せんぱいのお母さんがおれら拾いにきてくれましたよね。じゃ、今日もそうしてくれんすかね。おれらべつに大けがじゃないすけど…げ、おれ口んなかきれちまってる…」
「…んーーー、ふつうに考えると、そういうことだわな」
「そーす。んじゃ待ってりゃいんじゃないんすか。あるきましょーっつったけど、おれじつは、あるくのめんどくさかったっす」
「それだけじゃない」
「なにがすか」
「なんかあいつに考えがある」
「そっすか……」

なんせ、ふたりとも、ずいぶん助かるのだ。カムイも真志井も、財布事情はいつだってすずしい。駅に到着し、改札に交通系ICカードをかざしたときに確かめた金額は、チャージを重ねなければどうしようもない残金であった。全てを杏と、杏の身内が解決してくれれば、それはどうしたって助かるのが本音である。
日頃、巧妙に杏に危険がおよぶのを避け、杏のその身はもとより彼女の優しい心すら巻き込まぬように慮ってやまぬ真志井だけれど、彼の分厚い心の底には、いつだって彼女がいて、いつだって彼女を求める。月のひかりのせいか、頭部や背中に多く浴びた暴力のせいか、真志井の冴え渡るはずの思考は停止し、ふたりは頼れる彼女に、頼れる異性の先輩に、ゆだねる準備ができた。
もつべきものは、太い親と太い家を持つ彼女だ。

血のにおいで狂いそうなアタマで、真志井らしくもないことを抱く。

ぼんやりとした頭を月の光がごまかす。

ともあれ、懐と体力を痛ませずに、無事にあの街に帰ることができる。
その安心感は二人の気を大きくして、真志井はコンビニにはいり、またたくまに食べ物を食べ尽くしたカムイもその背中について歩き、二人は懐事情をよそに必要以上に食料を買い込んだ。めでたく残金は0に近くなった。そして、不良少年らしい無遠慮なふるまいで、コンビニの前に居座る。コンビニにはひっきりなしに客が入店し、彼らはきまって真志井とカムイから目をそらした。店内のイートインスペースに居座らぬのは、彼らのモラルではなく、初夏の曖昧さが今夜選んだ暑さゆえだ。あっという間に1本飲み干し2本目の炭酸飲料を消費したカムイが、いささか得意げにつぶやいた。
真志井はといえば、冷たい水を頬の殴打痕にあてて、愛すべきこどものはずむテノールボイスに耳を傾ける。


「おれ、杏せんぱいのおかーさんに気に入られてんすよ」
「なんだそのマウントは」
「信用されてるんす。いつでも泊まっていいとか、おれはなんでもくっていーらしーす」

このツラか。このツラのおかげか。ある種特異なほどに濃密に整ったカムイの美貌は、一方で少年のコンプレックスの源だ。
心の底に浮かんだそんな言葉の言語化を、真志井はえらばない。
少年の誇り高さを守るためだ。
水をあおった真志井は彼のほっそりとした首元をつかみ、猫と遊ぶようにいじった。
そしてフライドポテトを食べて、袋菓子にふたりして手をつっこみ、大量のごみをコンビニのゴミ箱へつっこむ。

店員がちらりと少年たちのようすをうかがい、月の光が少しかげって、夜風がますますぬるくなり、真志井雄彦が、何本目かのたばこを終わらせたとき。

だだっぴろい駐車場に、一台の車がゆっくりとすべりこんでいた。

カラーは、この夜と一体化するようなプレシャスブラックパール。プラグインハイブリッド車である。

不良少年らしいスタイルで地べたにすわりこんでいたカムイがその見知った車をいち早くみつけ、ほっとした声でため息交じりにつぶやいた。

「あーーーーー帰れる」
「はやっ!」
「杏センパイのお母さん、ちゃんとあいさつしねーと…」
「アタマいー人間としゃべんの緊張するわ」
「鈴蘭にアタマいー人間いませんからね」
「そーだ。そういうことだ。久しぶり…………、だ……」
「……」
「……?」


そのとき。



この車は国産車のはずだ。


真志井がそう抱いたとき、彼の野太いゆびさきから、たばこがぽとりとコンクリートに落下した。

広い駐車場で華麗に切り返し、ゆっくりとバック駐車を試みる車のフロントガラスから見えた人影が思い描いていた数よりいささか少なかった。

それは頭部を木刀で殴打された真志井の見た、まぼろしであったのだろうか。

車が厳かに停車する。

すんなりとした腕が内側から扉を押した。

そのとき開いたのは、右側のドアであった。

バイカラーのニットポロから小麦色の腕がのぞき、そのしなやかな腕は今日も枝のように痩せている。

続いてドアからのぞいたのは、手入れの行き届いたチノパンだった。

オフホワイトのソックスも見えて、黒いバレーシューズが、軽やかにコンクリートを叩いた。

彼女は、オーガンジー素材のエコバッグを掴んでいる。買い物袋を模したデザインで、ブリジットタナカというブランドは確か真志井が彼女に教えたものだった。

背中までのびた栗色の髪を、彼女がかるく整えた。

そしてコンビニを振り返り、少しだけ、待ち人を探すような仕草をみせた。


「あっ!!」


小さく叫んだ彼女は、二人の少年たちを即座に見つけた。そして異国の少女のようなかおだちに、安堵したような笑みをにじませて、コンクリートを軽快に蹴った。


「マーシー!カムイ!」
「……?」
「…………」
「すぐ見つかったーー。よかった。おまたせ、マーシー、カムイ。カムイひさしぶりだねー」


栗色のロングヘアは、アイロンで媚びるように巻かぬともくるくるとカールしている。

伸びた髪を小麦色の耳にかけた少女は、ふたりが随分見知った女の子だ。

それは確かな事実である。

中型SUV車からアイドリング音は響かず、車は行儀良く駐車している。

カムイも真志井も、いまだ呆然とした思考に呑まれたままでいる。

モデルのような体躯をシンプルでマニッシュなコーディネイトで彩った少女は、小走りでふたりのそばに駆け寄ってきた。

車から降りてきたのは確かに彼女で、彼女の、女子生徒にしては大きな手に握られているのもどこからどうみても車のキーで、彼女は確かに、同い年の真志井の恋人であり、カムイの一つ上の先輩のはずだった。

中学時代からなじみの彼女は、県下唯一の公立女子校でトップの成績を誇る才媛であり、真志井の隣に寄りそうに足る少女であり、真志井とカムイと同じ高校生の世界に属している少女のはずだった。

あれは、確かに、高級クロスオーバーSUV車だ。

そして目の前にいるのは、たしかに、真志井の恋人で、カムイの中学時代からの先輩の、杏という女の子だ。

黒く塗り込められたカラーが特徴のシリーズ最高峰のグレードであるSUV車は、真志井とカムイと同じ世界で呼吸をしているはずの高校三年生の女の子に足る乗り物ではない。

真志井もカムイもいまだ、不可思議な現実を前にとまどっている。


「マーシー……。ああ、やっぱりケガ。そんなにひどくない…?これからわかる?まって、私も買い物するね。すぐに終わるから。1分で終わるよ!」


包帯に絆創膏、消毒液、ウェットティッシュ。
これだけでいいか。いつもよりひとりごとの多い彼女は、交通ICカードでキャッシュレス決済をすませて1分もかからぬようすで飛び出してきた。あわててて、救急箱もってこれなかったの。そうつぶやいた杏が、ポケットからとりだしたオーガンジー素材のエコバッグにつまった荷物を、月のあかりのもとにかざした。

真志井の指から、たばこが落ちたままだ。
カムイのマスクは、あごまで提げられたままだ。

「……」
「……」
「じゃ帰ろっかー。車乗って。もう10時。遅いね。あれ、どうしたの、あ、買い物まだ?」
「いや。終わった……」
「……」
「……」
「あ、お母さんはいないよー。安心して。お母さんが来ると、マーシーもカムイも気を遣っちゃうよね」
「……つか、杏せんぱい……」
「まさか、杏が……そんなこと……」

なにー?

二人を、有名国産メーカーの自信作のもとへ導こうとした杏が、振り返る。


「………無免、すか……せんぱいらしくないすよ……」


この夜の彼女からいつも以上に澄んだ気配が漂う。
それは、栗色の髪からただようシャンプーの、フランキンセンスの香りだけではない。

真志井とカムイが荒くれた暮らしを送っているあいだ、彼女はまたひとつ、歩みを前にすすめた。


「はい」


ブルックスブラザーズのチノパンツのポケットから、杏は一枚のカードをとりだす。

剥き出しのカードは、杏が一歩、大人への道を歩んだあかしだ。


「車の免許、とったんだ」


真志井と同い年の杏はまたひとつ、大人になったのだ。

またひとつ、真志井の先へ歩みを進めたのだ。

カムイと真志井は、思わず彼女の手元をのぞきこむ。

運転免許証の写真は、少しこわばった表情だけれど、彼女のあるがままの美しさをあますところなく切り取っている。


「マーシーもカムイも乗って。帰ろ、戸亜留市に」
「……」
「……」
「……い、いつすか?」
「先週とったばっか。初心者マーク見えなかったかな…。ほら、あれ」
「あ、あった……。おれらがいそがしかったから…」
「そうだよー。早く乗って。たちっぱなしで疲れるでしょー。マーシー?大丈夫?」
「大丈夫じゃねえよ」
「大丈夫じゃないの?あとでどこかで停めて手当するから、とりあえず乗って」

呆けた調子のまま、少年たちふたりはひとまず、なじみの少女の申し出に素直に従った。

杏が運転席に痩せた体をすべりこませれば、扉のロックはあき、真志井は助手席を迷い無く選ぶ。そしてカムイがすんなりと後部座席を選んだ。ゆったりとした座席は186センチの青年と、175センチの少年を静かに招き入れ、彼らを守った。

車内にただようのは、異国の寺院のように落ち着いた香りだ。安っぽい臭気はただよわない。灰皿もきれいにそうじされている。装飾ひとつないシンプルな車内だ。あるのは後部座席に置かれたブランケットとマクラメカバーのクッションだけだ。
車そのものは、彼らが随分見知ったものだ。


後部座席に痩身をあずけて、天井をぼんやりと見つめているのはカムイだ。

そして、少し窮屈なシートに長身を押し込め、シートベルトを引っ張った真志井がつぶやく。


「……」
「…まだ信じられねえわ」
「ミッションだよー」


キーが差し込まれてエンジンがかかったとき、カムイが深いためいきをつく。
彼が心を落ち着けたあかしだ。
そして美しい男の子は、真志井より早く、この車内になじんだ。


「チョコくっていーすか」


彼女がウインカーをだす。その問いと同時に国産車は、コンビニをあとにする。安全確認を器用にこなした少女は、ゆっくりと中型車を発進させ、実に穏やかなようすでハンドルを切った。彼女は県道を走ることをえらぶ。真志井は、ブラウンのコンソールに隔てられながら、暗い夜の道と、車をなんなく操っている彼女を、交互に見つめる。ミラー越しにカムイを見遣った杏が少年にたずねた。


「手あらった?」
「さっきトイレであらいました」
「じゃあいいよ」
「カスをこぼすなよカムイ。杏ちのクルマ、久々だな。助手席は初めてだ。」
「マーシーが遠慮するんだもん。カムイは二〇回くらい乗ったよね」
「は?」
「おれ歩いてたら杏せんぱいのおかーさんになんぱされんすよ」

ハリアー……。かっこいっすね。

トヨタ ハリアー。

外資コンサルファームで辣腕を振るう杏の母親が新車で購入したしろものである。車は走れればそれでいい。そんなポリシーのもと選ばれた車を、杏もこの夜、母の許可を得てここまで走らせた。杏の目的どおり、無事に少年たちを救ってくれたSUV車だ。

カムイが呼んだ名の車のなかに、中学から深い関係を築き続けてきた三人がおさまる。

しばしのあいだ、真志井とカムイは、彼女と国産車に守られ続ける。

たばこすってもいいよ。杏がそう恋人を気遣えば、さすがの真志井は、今夜はそれを遠慮した。

シートに長身をあずけた真志井が、お手上げといった語調で彼女にたずねる。


「杏サンさあ、まじでいつ……?」
「教習所行く時間なんかありましたか?ただでさえ受験ベンキョに…ボランティアっしょ、エーゴのやつ…予備校……ボランティアもラオウさんとこだけじゃないじゃないすか。学童の手伝いとか行ってんでしょ。忙しいすよねセンパイ」
「その辺セーブして、先月ずっと通ってた。教習所じゃないよ。直接試験場行って、何回も練習して、一発免許でとったんだ」
「……ああ、そうだ、おれら先月もけんかしてたわ」
「いろいろありすぎて覚えてないす…」
「ね。マーシーにも、カムイ人も、なかなか逢えなかったでしょう」

じゃあ、そのあいだ、私は何をしようかなって考えると……。

先月のけんかは、いささか深刻であった。
一派の人間たちの身辺をじっくり調べたうえの脅しも見せた。
杏と距離をとることが最上の選択であった。

この少女は、真志井が戦っている間、確かに前を向いて歩んでいく。


そして、真志井を置いて、大人になってゆくのだ。


「いくつかやりたいことはあるんだけどね。まずは免許が取れるんじゃないって思ったの。お母さんに相談して、効率よく一発行ってこいって」
「すげーすね……。ラオウさんも誕生日きたらすぐ免許とりにいきてえっつってましたけど、カネの問題でやっぱすぐにはむりっつってました。おれらんなかで杏センパイが一番でしたね」
「マーシーとカムイをね、こうやって迎えに行くのが夢だったの!早速かなっちゃった」
「どんな夢だよ…」
「だって夢だったんだもん。さくっとマーシーとカムイをピックアップしたかったの。それに岬くんちのことも手伝えたらなって思って。それがモチベーションだったね!」
「ラオウな……。あそこ車一台しかないんだ。あちこちつれてってやんのもな。あいつも遠慮するだろうけど、おまえが頼りになるかもしれねえな。やっぱアシがあったほうが便利みてーで。それにしても、おまえはすごいな……」

スムーズな運転だ。心地よい回転音がする。彼女のハンドルさばきも丁寧で、巧みだ。身の丈をこえるような運転を見せないけれど、交通の流れもきちんと読んでいる。真志井は、彼女の技術をただ感じ入った。

車内に飛び交う会話はやがて、穏やかなものへ変わってゆき、カムイはやがて、甘味を味わうことに飽きて、ぬるいお茶をひとくち飲んだあと、ゆめとうつつのあわいにたどりつく。

真志井は心地よいトルクの感触を助手席で味わう。シート倒していいか。杏にそうたずねれば、彼女が穏やかにうなずいた。足長いもんね。組めるくらい倒して。カムイはー、大丈夫だね。真志井があっさりとシートを倒し、長い足を組み上げて、小さなアタマの下で両手を組んだ。


桜が咲き乱れる季節に、杏はまっさきに誕生日をむかえる。

大人になる資格は、真志井より早く、すでに手にしていたのだ。


「うちの試験場の一発すげえ厳しいって聞くけど」
「仮免とったあと、お母さんにね……練習ずっと付き合ってもらった…教官より親の方が厳しいから全然ヘーキだったよ。手作りで仮免練習中って書いて。試験場のコースも必死で憶えたよー。もうコース表に書き込みまくった!なんとか取れたんだ。学科は大丈夫だったけどね。結局……教習所に行くのよりぎりぎり短い時間だったかなあ」
「そうだったか」


音楽を味わいながら運転することはまだ慣れていなくて、音の洪水をこよなく愛する真志井も今夜ばかりは杏の運転環境を察して、彼女のことを優先した。
杏はチノパンに忍ばせたリップ一本、スマートフォンと免許証、交通カード、オーガンジーのエコバッグに忍ばせた財布、そして車ひとつで、SUV車を駆って、少年たちを助けにきた。


「寝たね」
「な」

気づけば、後部座席が静まりかえっている。
山猫のように痩せた体を投げ出した少年は、マスクをいつのまにかむしりとり、アネモネのようなくちびるを正直にさらしたまま、穏やかに眠りについていた。


「話さないほうがいいかな。静かにしてようか」
「カムイはおきねーよ。おまえもしってるだろ」
「そうだったね」


夜とひとつになるような時間を杏はただひた走る。
ナビが暗い運転席のなかで煌々とひかる。
いつしか、月は見えなくなっている。

穏やかな運転だ。けれどまどろっこしくはない。

「20分できたように思えない。おまえは落ち着いてる」
「行きはね。帰りは、違うルートをとるから、50分くらいかかるかな。寝てていいよ」
「ああ」

静かに目をとじた真志井が、もう一度瞳をひらく。

そして、うっそうとした自然から、味気ない都市のかたすみへ変わりゆく景色をただ見つめた。


「……」
「……」
「どうぞおひとつ」


深い夜を一身に見つめてハンドルをさばいていた杏が、ちらりと真志井を見遣った。

真志井は、右の手にもっていたペットボトルの封を切り、ひとくちあおった。

ぬるくなった水でくちびるを湿らせた真志井は、長い足を組みかえる。

シートにゆったりを身をあずける。

そして、ふたたびぬれた唇を開いた。


「なんだかのむきがしないな」
「……」


信号がとまれと言っている。

その合図に従った杏が、彼の声に呼ばれた。


「あっ……」

杏が短くさけんだ。

「じゃ」
「じゃあウォッカに?」

杏の澄みきったアルトが、真志井の声にかぶせられた。


「だれにもぼくのきもちはわからない。夜も眠れない。悔しさと、怒りで」

真志井の家のテレビはいつまでも古くて、幼いころに聞いたテレビ画面の砂嵐のような音が聞こえた。ホワイトノイズ。真志井は静かなノイズを愛した。杏が運転する車の音も、それと同じだ。

コンソールに設けられたドリンクホルダーに、半分までに減ったペットボトルを放り込んだ真志井が、たたみかける。

「むざむざ時間をむだにした
その気になればぼくだって、なんでも手に入ったのに
この年になったらもうむりだ」
「おじさん つまんないわ、そんな話」


真志井が穏やかにわらう。

すると、杏も、たまらぬように噴き出した。


「ワーニャおじさん」
「覚えてるのはここまでだ」
「あれ、光文社版だったんだよね。私新潮のほう買っちゃって…」
「ドライブ・マイ・カーごっこ」
「マーシーのネタ振りにこたえられてた??」
「完璧だ」
「よかったーー、すぐに気づいたよ。だけどせりふの割り振りはちがうよね?家福役がマーシーで…奥さんが…私。逆だったかもね」

それは、昨年、公開されてすぐに、真志井と杏が一緒に鑑賞した映画だった。

ドライブ・マイ・カー。

真志井がおもむろに諳んじ始めた台詞も、劇中に登場するせりふそのままだった。

TOHOシネマズ戸亜留市西の、満員に近い座席の中で、ふたりはその映画を肩を寄せ合って鑑賞した。映画鑑賞は、中学一年生で友人となってからずっと、杏と真志井の共通の趣味だった。しかしその好みは、興味深いずれをみせていた。杏は穏やかな日本映画やポップなガールズムービー、女性の痛みを描いた欧米の映画に静かな質感のミニシアター映画、そしてティーンムービーを素直に愛した。そしてときおり、韓国のノワールの深い現実性と暴力にひきつけられた。
真志井は長い歴史を持つSFシリーズやヒーロー映画、そして古い映画をこよなく愛した。文藝と暴力のにおいのする映画も愛し、90年代のアメリカや英国映画のセンスと巧みな画面構成や脚本、そして音楽は、真志井という人間の人格の一部に深く食い込み、映画そのものが真志井雄彦という人間を作り上げるひとつのパーツとなった。韓国ノワール映画の良さを見抜いたのも二人しておなじだった。
好みのずれはときおり議論をよんだ。それもまた二人が分け合う幸福のひとつだった。
そして、精緻な脚本と澄んだ映像、細部までこだわり抜く日本映画を愛するのはふたりしておなじだった。
この映画の情報は公開前から掴んでいて、公開即日、デートで一緒に観ることは、すんなりと決まった。原作の小説家の作品群も、お互い小学生のころから好んで貪り読み、村上春樹の著作はふたりしてほとんど読破していたからだ。

案の定、映画は二人の琴線にふれ、また、刺激した琴線の場所も違っていた。

しずかで厳かな車そのもののような映画にくぎづけとなった杏がただただ魅せられたのは、口数の少ない女性ドライバーを演じた女優のするどくも懐の深い演技と彼女の唯一無二のたたずまいだった。あの女優が物語の枠組みの外から刺す冷たい目、そして彼女の雪のような心のなかの温かさを杏は抱きしめたいと思った。みさきという女性を、杏はただただ愛した。
真志井はそこかしこにひそむ暴力の気配と、深い傷をただちに読み取った。モチーフに選ばれている戯曲の難解な台詞を読み解くことに知性を使った。そして多国籍の言語の海に飛び込み、何の変哲もない街に育った経験をもとに、この映画における名声にこだわらぬキャスティングの妙味とチェーホフの戯曲との融合を見いだした。広島の昼の明るい光にその賢明な目をほそめて、線の細い若い俳優から引き出した暴力に本物の気配を悟り、何より、正しく傷つくことのできない家福という男の硬い魂に、確かな共感を寄せた。


「おまえ、なんだか以前の自分の信念を責めてでもいるようだね」
「覚えてるんじゃん!…………でも、悪いのは、信念じゃありません」
「悪いのは、おまえ自身です」
「……」


奇しくも、あの静謐で凄みある美しさを湛えていた女性ドライバーのように、真志井の頬に、めだたぬ傷が在る。

そしてそういえば、杏は思い出す。

あの女性ドライバーも、真志井雄彦のように、たばこをたしなんでいた。


「あのひとみたいに走れてるかな」
「ああ」

精悍な少年と美しい少女が繰り返す、日本映画のまねごとをよそに、山猫のような容姿を誇るこどもは後部座席で変わらず眠っている。


「じゃあマーシーが後部座席にいかなきゃ。それにハンドルがそっちだったね」
「いや、家福とみさきは、途中で隣り合っていただろ」
「ああ、そうだった……。この車は天井が開かないや。高槻が降りてから、家福は彼女のそばを選んでた。あっ、あのね、後ろの、ほら、そこにブランケットがあるの」
「カムイならほっといてもだいじょうぶだぞ」
「座席の前の……そう。そこ。カムイにかけてあげて」
「あまやかすとろくなことにならねー」

そんなうそぶきとはうらはらに、大きな体躯を器用にひねった真志井が、マリメッコのブランケットをとりあげて、175センチの長身を誇る少年のことを静かに守った。少年の大きな目が少しずつ腫れている。
ケガも傷も、あとから少年たちを追いかけてくる。
痛みは遅れてやってくる。
少年たちは、傷ついていたことを、ずいぶんあとになって知る。
こどもたちは、時間をかけて、己が傷ついていることを知る。

正しい傷つきかたをしらぬまま、真志井は大人になろうとしている。


「んー、明日熱出るだろうな」
「カムイ?」
「ここから家まであるくっつってたけど、おれが担いで帰る結果になっちまったかもしれねえ」
「歩く!?そうするつもりだったんだ……前もそれやり遂げちゃったよね。だけど今回は…?」
「ぶっ倒れてたかも。よかった。おまえがいて」

杏は、なめらかな運転と、少しだけ下がったまゆ、厚みのあるくちびるににじんだ静けさ、そして長いため息で、真志井のその言葉に返した。

清流のような彼女の心に浮かび上がった想いを、杏は、言葉ではなく、穏やかな運転で示した。


「お月様の写真おくってくれなかったら、マーシーとカムイがこんなことになってるなんて、わからなかったもん」
「一応言っておくけどな、おれらは勝ったぞ」
「それは顔をみたらわかったよ。じゃあ、こっちまで特急?それしかないもの」
「そうだよ、おまえよくこんなにはやくこられたな」
「つっきった。山越えてきたから。ナビですぐにわかった。さっきもいったけど今は普通のルートとってるからね」
「山走るのは、いくらクルマでもよ、杏が心配だ」
「そうなんだよねー、今はマーシーがいるから大丈夫。クルマがあってもね、同じなんだよねー…。このクルマだとみただけじゃわかんないけど」
「そうだよ。ドラレコ…は言わなくてもおまえのお母さんがつけてるか。おまえのお母さんの危機管理はすごいからな」
「オンナはね。舐められる。映画のあの人もそんなこと、言ってたね」

大きなトラックがハリアーを追い越した。杏がゆるく減速した。真志井が飲み物を取り上げて、切れた傷口を潤したあとに、のどをも潤す。杏が、そんな真志井のことを察して、すこし気遣わしげに恋人のことを見遣ったあと、前をむいてハンドルをあらためて握りなおした。山道はやがて住宅街に変わってゆく。街にすこし手を入れれば小京都といった演出もできなくはない町並みを誇る、関東の片隅の古い町だ。


「山を越えたよ。もう山王だね。ごはん大丈夫……?ってカムイこのままほっとけないか」
「おれらはさっきからあげとホットドッグくったからな。菓子もくいまくって腹いっぱいだわ。おまえはもちろん」
「うん、私もたべたよ。夏野菜の出し浸しつくった」
「なんだそれ、あとでレシピラインして」
「そうするー明日おくる」

食べたい。真志井はそんなことはねだらない。真志井はそのレシピをよりあたたかくアレンジして、今日のお礼に杏に振る舞うことに決めた。

「映画のなかで、彼女の運転は加速も減速もなめらかで重力を感じねえっつってたけど。おまえの運転もそうだ」
「初心者に褒めすぎだよ…。だけど、大事な人を乗せてるからね。ていうか大事な人しか乗せないから、気をつけてるの。当たり前のこと」

ああ。

短くつぶやく彼の声はおだやかだ。


あのひとは、それでみもちはいいのかい
そう。残念ながら
どうして残念ながらなんだ
それは、あの女の貞淑さが徹頭徹尾まやかしだからさ
そこにはレトリックがふんだんにある
が、ロジックはない


ロシアの戯曲の言葉は、真志井のくちびるからつむがれない。ここからは曖昧にしか覚えていないからだ。
杏もそれは同様だ。


けれど、隣り合って座って淡々と自らの傷を開示しあった家福とみさきのように、真志井と杏も、ただ押し黙ったまま、心の交換が続いているように思えた。



人生はうしなわれた
もう取り返しはつかない
そんなおもいが昼も夜も悪霊のようにとりついてはなれない
過去は何もなくすぎさった
それはどうでもいい。



あなたが愛だとか恋の話をされるとわたし、頭がぼうっとして、何の話をすればいいのか、わからないの



ふたりの成熟した心のなかで、台詞の応酬が終わるかのように、杏がおもむろにくちびるをひらいた。
この信号は長い。ギアを入れると同時に、杏がつぶやいた。


「私、みんなに守られてばかりでしょう」
「おまえを守るのはあたりまえだよ。おれらのやるべきことだ」
「これですこしでも、みんなを守ることができるかなあ…」
「おれらを?いいんだよおれらなんか。放っておかれても勝手に帰ってくる」
「今日はそうだったー?」
「むりでした。助けてくれてありがとうございます杏さん」
「うん。いつだってマーシーとカムイ…それに、みんなのことを迎えに行きたいんだけどね」
「孫六は禁止だ。完介なんか山みっつくれー越えられるぞ。ビンゾーはそれどころじゃない」
「だめだよ、孫六くんも完介くんもビンゾーくんも……。えっ、ていうかみんな山越えて帰ったの!?」
「なわけねーだろ。ビンゾーのじいちゃんの軽トラでな。俺らだけ残ったんだ」
「そうだったんだね。みんなもぶじでよかった…。それに、岬くんも。だけどこの車、親のだからなあ。車でみんなを迎えに行きたいけど、自分で車買いたいってほどの目標は、まだ持てないんだよね…」
「そこまでおまえにねだらないし甘えないよ。杏、おまえはもう充分もってるんだ。焦るな」
「…焦る…かあ……」

ごみごみとした山王の街を抜けて、鬼邪地区にさしかかったところで、杏は拾いドラッグストアの駐車場をみつけた。車はぽつりぽつりと停まっているだけだ。そしてミラー越しに、カムイの姿をとらえる。少年はぐったりと瞳をとじ、大きなブランケットにくるまっている。


「寝てるね」
「ああ。起きないやつだ」
「じゃあ…」

彼女が右方向にウインカーをだす様子を、真志井は、まどろみとうつつのあわいをただよう瞳で、ぼんやりと見つめた。

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