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肌触りのいいTEKLAのタオルにしみこんだ修道女というなまえの香りは、やはり真志井雄彦には甘すぎる。
春の鈍い光と重い日差しから瞳と精神を守るために雪の香りに巻かれることをえらんだ真志井は、その重厚な甘みに少しだけ辟易とした心持ちに陥った。レジャーシートに手の平を突く。そして雄大な体躯を軽々と起こした。土の匂いを適度に感じながらも、大きな身体を受け止めるシートは、手触りも柔らかく反発も適度で、素直に質のいい物だと真志井は抱いた。そのうち本格的なアウトドア趣味に手をつけてみるのも良いかもしれない。そんながらにもない夢がよぎるのも春のせいだろう。今日も今日とて恋人と同じ香りで決め込んだ真志井が、ブラックシャツの胸元のサングラスに手をやる。手首で空を切れば、古い寺にのこる香のようなかおりが真志井をつつんだ。やはり、春のぬくもりは、真志井雄彦の冷たい体に、さわる。

その折り、彼に、影がさした。

それは桜の大木がもたらす心地よい影ではなかった。

まるで絶滅危惧動物の山猫のような気配を、更に鋭くした気配だ。

愛すべき後輩。伊東カムイが真志井に迫る影であった。


「何だカムイ。気が済んだか。弁当くう?いいぞ」
「気ですか?すんでません。真志井さん、審判してください」
「はあ?」

精悍な顔にひっかけようとしたサングラスが、高い鼻のうえでずるりとずれた。
サングラスを再び胸元にしまいこみながら、シートの上にあぐらをかいた真志井が愛すべき後輩を見上げる。

すると真志井に、またもするどい影がだした。すんなりとのびる影の正体は、真志井の彼女の杏である。
眉間に不審さを滲ませた真志井が、サングラスがずれたまま恋人を見上げる。真志井がいとしい影の正体を確かめてみせれば、恋人の趣深い瞳に、厳しい険があらわれている。
杏は満月のようにあたたかくやさしい瞳を持っているはずなのに、今日は冥王星のように厳しい影がよぎる。そして、情趣あふれるひとみに宿るのは、闘志だ。異様なまでに熱を持った闘志である。

そして彼女は、白いカラーリングのラケットで、春の匂いのする大地をびしりと指した。

「ここね。ネットがあるっていう設定。ここにラインがあるってことにして?」

杏の知的な声音は、媚びない低音で、おっとりとした語り口でもなければ、知性を誇示する早口でもない。しかし、今の杏の声色は、はりねずみのように尖っている。そしてカムイは、プレイに集中するためにトレードマークの合皮マスクをむしりとり、シートの上に放り出したままだ。
杏のラケットが、水分をふくんだ土の上をゆっくりとつたってゆく。
整った顔を春の光のもとで正直にさらしたカムイが、海のように大きな瞳を険しくしたまま、杏のそれを追った。

「ラインがあるからなんだよ。シャトルがそこにあるぞ。早く拾って試合を続けろ」
「そう、ここに落ちたの。今の、アウトだったとおもうの。だけど、カムイはインってきかない」
「インすよ。おれはぎりぎりをねらいました。杏せんぱいがとれねぇぎりぎりのとこっす。杏せんぱいは、とれませんでした。だからインっつったらインす。このポイントは、おれのものです」
「カムイはそう主張するの。だけど私はアウトって確信してる。ここには主観しかない。公平性が足りないとおもう」
「はいはい」


真志井は186センチに及ぶ恵まれた体躯をあっさりと起こした。そして杏がクリスマスにおくったソックスにつつまれたつま先を革靴のなかへいい加減につっこんだ。雄大な体が大地を踏みしめるすがたを、ふたりの若者が厳しい瞳で見守った。
そして真志井は、青臭い匂いを放つ土の上へしゃがみこむ。サングラスをもう一度胸ポケットにもどして、黒目の大きな切れ長の瞳が、シャトルの落下した場所をつめたく見つめた。
真志井が地面をゆびさす。

「こーでこーだから…」


そうひとりごちる真志井は、シャトルの左側に、無骨な指先で、架空のラインを引いた。


「インだ」
「は???」
「は?じゃありません。杏、おまえらしくないぞ。このポイントはカムイのものだ。負けを認めろ」
「いや杏せんぱいの本性こんなかんじすよ」
「は????」
「……す、すいま、せん…」

杏という少女は、中学時分から高校二年の今に至るまで学年トップの成績を維持し、中学時代は真志井とテストの得点をあらそい続けてきた女だ。その他様々な技能をもち、才能に驕らずにそれらを伸ばしてゆくことを怠らなかった。
つまり、彼女の残してきたものは、負けず嫌いという性分なしでは成し得ない所業といえる。
そして今日は、日頃杏の心の奥底にそっとしまわれているそんな性分が、剥き出しとなっているようだ。
彼女のこんな熱は日頃は、杏の長身の痩身のなかに眠っている。
とどのつまり、如何に真志井が日頃、杏の個性を殺しているかということだ。

「カムイあやまるの?バドミントンで勝負をきめるんじゃないの?」
「き、きめますよ。これはタイマンすからね」
「ま、このポイントはおまえの負けだ杏。次からおれがカウントするからな」
「分かった。このポイントは、カムイのもの。それは認めるよ。じゃ、マーシー黙らせるくらいのプレイみせるから」
「真志井さん、杏センパイが彼女だからって…、贔屓しませんよね?」
「公平にね、マーシー。今、わたしはマーシーに、愛情じゃなくて、公平性をもとめてるの」


そうきっぱりと述べた杏は、目の前の敵しか見つめていない。


真志井がサングラスを身につける。


それを合図として、再び、闘いの火蓋は切って落とされた。

そんな彼女がその後見せたプレーは、全日本チャンピオンの女子選手のように高い精度のショットを誇り、なによりの特徴は高身長からくりだされる恐ろしいほどのバネであった。

そしてそんなバネをもつ彼女を前にしたカムイは、持ち前のスピードで杏のショットをくまなく拾った。真志井のアドバイスによって鍛えられた腕から放たれる鋭いスマッシュは、攻撃力が多彩で、ときには驚くほどの緩急すら存在していた。

やがて、真志井の公平なジャッジにより勝負はつく。

そしてカムイと杏は、質のいいキャンプシートの上に倒れ込んだ。ふたりの笑みは実に爽やかなもので、そこにはかけらの後悔もなかった。


「ドローですね…」
「ちがうよーーー、私の、負け!カムイは強い!!すごいね!」


三人に覆い被さるように咲く桜のあいだから、青空がのぞく。
大の字になってそれを見上げていた杏が、くるりと身を起こし、カムイのもとへいろいろと寄った。
カムイが大きな手を宙空へつきあげる。

フェアな闘いをやりきったふたりが、爽やかなハイタッチを交わした。

サングラスをかけた真志井が、恋人の健闘をたたえるために、TEKLAのタオルを手渡した。

「ん」
「タオル!ありがとー。あれ、私これ、バッグの中にいれたままじゃなかった?それにたばこくさい……。どうして?まあいいや。カムイはすごいね、なんでもできるね」
「せんぱいもまじ巧いすね……。バド部のサポートはいったとき結果どーでしたっけ」
「んー、去年か。今年はやらないよ。去年はインターハイまで押し込んだ。その先は、私はでてないから」
「杏はなあ、部活入ったらさっきの本性まるだしになるだろ」
「あれで後輩詰めるとなると…。それで部活やんないんすよね、杏センパイ」
「そう、そういうこと」

他、何の部活の助っ人でしたっけ。持参したペットボトルの封を切ったカムイが、ぬるくなった麦茶をあおりながら杏の言葉に耳をかたむける。バド、バスケー、陸上。テニスの、ソフトのほう。駅伝も、長距離も。駅伝が一番楽しかったかな?真志井はそんなふたりのそばで彼女たちの語り合う言葉に耳を傾けながら、クリアカップに注いだお茶を杏にさしだした。ありがとうと告げる杏に、カムイがどうして楽しかったんですか?とたずねる。私も、しょせん自分本位だからね。杏はそう言って、太陽のように笑った。


「なんかそゆとこ、真志井さんと似てんすよね」
「えー、どういうとこ?てかタオルがたばこのにおい…どうして…?」
「そーじゃねーのに自分本位とかいうとこだってよ。ちなみにおれは自分本位だ。でそろそろメシ食うのかくわねえのか、どっちだ」
「マーシーもそうじゃないじゃん。じゃそろそろごはん…!」

待って下さい。

杏がいそいそと保冷バッグのファスナーに指をかけたとき、それに待ったをかけたのは、カムイという名の少年だ。
どうやら、彼の瞳にやどった炎と内に芽生えた闘争心は、杏に勝利をおさめても、いまだやまないとみえる。

「マーシーさん、やりましょう」
「……」
「じゃあわたしがジャッジするよ−」

そのとき。

サングラスで瞳のひかりを隠した真志井が、静かな声をもらした。

「なあカムイ」

シートの上から立ち上がった真志井が、整った顔からサングラスをはぎとる。
まだシートの上にあぐらをかいたままのカムイを、冷たく見下ろした。

この声。
この目。
この冷気。

カムイがいつか、味わった瞳だ。カムイがいつか、味わった恐怖だ。


「おまえさあ」

落ち着いた声に、冷たい殺気がよぎる。
カムイが、ごくりと唾を飲み込む。
恋人の杏は、真剣なまなざしで、二人を見守り続ける。

「おれになら勝てるとおもったか」
「ス、スピードはおれのほうが!」
「杏」
「わかった。見守るよ」
「公平にな」


杏が差し出したラケットを、真志井がおごそかに受け取る。ニューバランスのスニーカーにつま先をつっこんだカムイが、静かに構えた。

革靴は、プレイに不利だ。


そう決め込んだカムイの見立ては実に甘かったことを、ものの数分後にカムイは思い知る。


真志井雄彦のプレイスタイルといえば、デンマークの王者ビクトル・アクセルセンか、マレーシアの生ける伝説リー・チョンウェイか。

杏は、公平なジャッジをくだしながら、恋人による実に冷酷で実に隙のないバドミントンを、その知的な瞳で、とくとあじわいつづけた。



「つっぇ……真志井さんつよすぎす…」
「マーシー、いつもこうだよね。本気だしたら無双しちゃう。スポーツやると、皆はどうなの?卓球とかバスケとか、みんなで行ってたよね?」
「俺らんなかですか?そーすね、競技で変わりますね…。バドはやったことねぇけど、このぶんだと真志井さんすね。前六人で卓球やったんすよ。ラオウさんがラケットこわしちまって…卓球は、完介でしたね」
「そうなんだ!」
「ボウリングは孫六だ。んでビンゾー。ここだけラオウが弱いな」
「ボウリング苦手なんだ…そういえば岬くんとボウリング行ったことなかった」
「そんときバスケもしましたよね?おれもバスケはそこそこなんすけど」
「そうだな、バスケも孫六だな。一番器用なのはあいつだ」

バッセンは?
おれっす。
みんなでスノボとか。
行けりゃいいんすけどねー。カネが……。
その内みんなで行きたいね。
スノボやって、おんせんにはいりましょう。
そうしたいねー!

幾らくらいかかるのかな?フットワークの軽い二人らしく、即座にスマートフォンをとりだして、検索を始める。そんな二人のそばで真志井がぼやいた。そのぼやきには、18歳の青年らしくない加齢臭がただよう。


「おれは、おれらしくねえことをやった。ようつうがさいはつしたぞ」
「ようつうすか…大丈夫すか」
「大丈夫?」
「うそだよ。あとおれは横乗り系は向いてねえ。おまえらが雪んなかいるあいだ温泉入って寝るぞ」
「そんなこといって。出来ちゃうくせに」
「じゃ次杏せんぱいとマーシーさんが試合しましょう」
「いやだね」
「私も、それはできないなー……。どうしてだろうね?」
「杏が本気になってくれねぇからな」
「……」

美しく整った顔付近にまとわりつく虫をいやがったカムイが、両手ではらいのける。

桜の大木の下のベストポジションは、真志井が持てる要領を発揮して、あっけなく獲得した場所だ。薄紅色の花びらが風にのって舞う。すると杏の長い髪にひらりと桜が忍び入った。すぐに違和感をさとった杏が、指先で髪のなかをさぐる。

「杏。そのままにしとけ」
「そーすね。きれいす、桜」
「そうだねー」

土の匂いがもう一度強く薫った気がした。春の風が三人をまいた。

三人は、同じことを抱いた。

この時間は、二度と戻らないと。

そしてきっといつだって逢える時間だと、抱いた。

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