You're The Top 12


使い込まれた革のバッグの中から真志井雄彦が勝手に抜き取ったTEKLAのタオルは、青年の鋼のような心身をひんやりと冷やす、雪のような香りを纏っていた。

春にはすこし、遠い香りだ。

真志井はそのタオルを、整った精悍な顔にかぶせる。

そして、急速に暖気をもたらした春のひかりを、タオルを頼りに、さえぎった。


冬の名残の冷気は、一昨日の金曜日に、戸亜留市からきれいさっぱりときえた。


そして、真志井の苦手な、春がやってきた。

なまぬるい大気が真志井に迫りくることも、ブラックシャツの下の分厚い体を汗ばませることも、土の中からぬるりと抜け出してきたような人間たちの浮かれたようすも、どれも真志井のにがてなものだ。

重たいあたたかさは、真志井の怜悧な知性と、ひどく相性が悪かった。

タオルで整った顔をかくした真志井は、長い腕を頭のうしろでくみ、タオルがくれた影と雪のような香りに埋もれた。

長い足はゆうゆうと組み上げられている。

真志井の体は大地に横たわっている。
彼の恵まれた体躯を受け止めてくれるのは、生暖かい土でもなければ、冷たいコンクリートでもなく、また、恋人の家のやわらかくぬくもりのあるベッドでもない。

いやに質のいいキャンプ用レジャーシートだ。

レジャーシートが土と若草のなまなましさから守ってくれていても、それでもシートからつたわる土の匂いと春の暖気をきらった真志井は、タオルの香りをもう一度吸い込んだ。精巧な香りは、真志井の精神を鎮めた。

このタオルの持ちぬしとおなじ香りを使って絆を結びあいながらも、真志井雄彦の知的好奇心は、さらなる香りの世界へ踏み出していた。
セルジュルタンスのラルリジューズ。
この香りは、バイト代をはたいて買い求めたものだ。
しかし、真志井雄彦はこの香りに、どこかきれいごとめいたものを感じた。

これは真に美しい心の持ち主が纏えば、きっと正しく香るはずだ。

そう抱いた真志井は、一度だけプッシュしたボトルを、どんなときでもそばにいてくれる恋人へぞんざいにおしつけた。

その日から、この香りは、彼女の愛用するミニタオルに含まされている。そして彼女が使うスカーフに、帆布のバッグにも優しく香りをしみこませている。

真志井は今日も、春の香りではなく、彼女に与えた香りを楽しんでいる。


そんな真志井の耳に先ほどから届く音がある。

小鳥のさえずりもたしかに聞こえる。

春の風が木々を揺らす音も、いわれてみれば耳元へとどく。

真志井に、春の花が影をおとす。シートに寝転がっている真志井がいる場所は、大きな木のそばだからだ。

こどもたちの金切り声も、家族連れののどかな噂話も、若者たちのさんざめく喜びのこえもとどく。

けれど。


さきほどから、真志井雄彦少年の耳をくすぐるのは、まるで空気を切り裂くような音だ。

そして、短い叫び声に、勝負を逃して叫んだり悔やんだりする、およそ真志井が苦手とする、どこか体育会系のかおりのする声音だ。


「……」

TEKLAと縫い付けられたタグに指をひっかけて、雪のような闇のなかから這い出す。
真志井の目は思わず細められる。
彼に、春のひかりがさしたからだ。

切れ長の瞳が光に慣れたとき、彼の耳を、愛くるしい声が突き刺した。


「杏先輩」


愛すべき後輩の声は、愛すべき女生徒の名を、覚悟のにじんだ声で呼んだ。


「何?カムイ」


愛すべき女生徒は、愛すべき後輩の名前を、それは据わった声音で呼んだ。


「本気できてください」
「…は?」
「な、なんすか」
「…本気の、つもりなんだけど?」

頭の下から腕を抜いた真志井は、長い腕をのばして、レジャーシートの上に転がっているものをさぐろうとする。
指にふれたのは文庫本だ。さきほどまで、対峙しあう少年と少女をよそに、春のひかりの下で読みふけっていたけれど、今ほしいものはこれではない。
長い腕をさらにのばす。
すると金属質の機器にかさついた指先が触れた。
剥き出しのiPhoneだ。

それをとりあげた真志井が、精悍な顔でロックを解除する。

そして、春の空にかざした。

狭い液晶に切り取られたのは、抜けるような青い空。

満開をすぐそこに迎える大きな桜。

そして。

「…」

桜色と緑色とブルーのなかで、まっすぐににらみ合っている、背の高い少女とあまりに美しい顔の少年である。

彼女たちは、柄の長いラケットを所持している。シャトルを握りしめているのは杏だ。

二人の遠くに桜がのぞんだ。

青い空に、少しだけ雲がちぎれた。

ポロニットを纏った杏が、シャトルをちいさくつまんだ。お互いの呼吸をみはからって、フォアハンドの構えから、タメをつくった。

鮮やかなデザインのシャツを着こなすカムイが、構えた。

真志井がシャッターを切る。

電子音とともに、二度とかえらぬ時間が、今年の春が、青春のひとかけらが、真志井の愛すべき時間が、真志井の愛するすべてのものが、iPhoneのなかにあざやかにきざまれた。


桜は今にも咲き乱れようとしている。
戸亜留市が誇れるものは数少ない。
此処はそのうちのひとつであり、戸亜留市の片隅、真志井や杏やカムイの暮らす町から電車で一駅、のんびりと歩けば30分でたどりつく自然公園だ。

老若男女不良かたぎ問わず、桜の季節は多くの市民が訪れる。


杏は、カムイに煽られるまま、小さなシャトルのコックを真下に向けて、実に器用なショートサービスを打つ。カムイはそのプッシュに負けず、果敢にレシーブにいどむ。


「動画とるぞ」
「っ、マーシー!容量!やばいんじゃないの!!」
「とってください、ジャッジにひつようです」

バドミントン部顔負けのレシーブを繰り返す二人が、のんびりとねころんだままiPhoneをかざし撮影にはげむ真志井に、次々に声をかけた。

ふたりの澄んだ瞳は相も変わらず、空気を切り裂くシャトルをにらんでいるままだ。

カムイと杏が挑み合っているのは、杏が自宅からもちだしてきたバドミントンである。

カムイも杏も高い運動能力を誇る。カムイのプレイスタイルと言えば、バドミントンの帝王の名を欲しいままにしながら不運に駆られ続けている若き日本チャンピオンの青年のごとき、清潔で迫力のあるものだ。そして杏のバドミントンは、ダブルスで日本に初の金メダルをもたらしたペアの後衛を担当する女子選手のごときするどさと知性にあふれたプレイスタイルである。


「…」

額に汗を光らせたふたりは、レジャーシートに寝転がる真志井をよそにスポーツマンシップ溢れるタイマンバトルに夢中だ。

やがて真志井は、iPhoneをレジャーシートの上に放った。
杏の愛用のバッグはレザーをリベットで止めて構築されたバッグで、使い込まれてあじわい深い風合いを放っている。荷物の少ない彼女らしくもなく、今日は、もう一つ大きなトートバッグを携えていた。そのなかにはクーラーバッグがしのばされている。そこにつまっているのは、こんな行事に似合ったごちそうの数々だ。


花見。

ピクニック。


そんな言葉は実に己らしくないが、真志井雄彦には今、たしかにそんな春が訪れていて、この春は確かに、真志井を幸福へみちびいている。



「先食うぞ」


そううそぶいてみせると、レジャーシートの上に大きな図体を転がしている真志井のそばで、コンバースのハイカットが華麗に土を蹴った。もはや真志井を一瞥もせぬ恋人は、真志井にかまわずに、戦い続けている。モデルのように長い足をつつむのはブラックのカットデニムだ。スポーツに励むにはふりなスタイルだが、それをものともせず、高い運動能力を誇る後輩と見事に渡り合っている。


「マーシーまぶしいならサングラスかければ?」

ポイントをカムイから奪い取った杏が、テクラのタオルに指先を伸ばそうとした真志井にそう告げる。
そういえば。
ブラックシャツの胸ポケットにサングラスをひっかけたままであったことを思い出す。

けれど今、それは必要なかった。

四月のひかりと、そばにいる少女と、少年と、春のにおいと、薄紅色の花々と。

春は苦手だったはずだった。
否、やはり春は苦手だ。

けれど、真志井のそばにいる少女と少年がもたらしてくれるものは、真志井の嫌っていたはずの春ではなかった。

彼女と彼がつくってくれる、愛おしい春だ。

杏とカムイがそばにいる春。

気恥ずかしいものだけれど、素直に認めたくないものだけれど、真志井はやはり、確かにそれを必要とし、そして、愛でていた。

ピクニック。花見。
そんな面はゆい気配のにじむ行事に、この真志井雄彦ともあろう男が素直に参加したわけは、数日前に遡る。





『完介が、完介のおやじさんと、おかーさんと、じーちゃんと、ばーちゃんと、ひーばーちゃんと、完介のいもーとと、いもーとのかれしとあすこに花見行くっつってました。ぴくにっくっす。自慢してきました。なんか予約の要るキャンプ場…』
『まって、完介くんの妹さんって10才とかじゃなかった?今5年生だよね?彼氏…?』
『いや9才すよ。小3でオトコいんすよ、しかも二人目っす』
『大人だね…』
『ぴくにっく…遠足みてーなもんすかね』
『楽しそうー……え、じゃあ、私たちもいこうか』
『そうなんすよ、それ言いたかったんす。せんぱいたちといきてーす』
『いつにする?』


次のにちよーとか。
いいね!どこにいく?
調べます…。

カムイがデニムのポケットからスマートフォンを取り出したとき、まるでこの日の外気のように冷たい声が響いた。


『待て』

ようやく会話に介入したのは真志井雄彦だ。

三月の下旬、寒波が戻り、冬があがいた。

そんな冷気から逃れるために、少年たちは今日も真志井の恋人のあたたかな家へ我が物顔でこもっている。杏の八畳の部屋もいいけれど、今日はあたたかいリビングで、杏の作ったクッキーを片っ端から消費したあと、座り心地のいい家具をそれぞれが陣取り、つもる話にふけっている。いくら暗くて広い世界を愛する不良少年といえ、冬が戻ってきた寒波には耐えられず、今日は室内でおだやかな休日を過ごしていた。

真志井は、イタリア製のロングソファに長身の体躯を投げ出している。ここは真志井の定位置だ。そしてこのたび杏の母親が買い求めたリーンロゼのトーゴには、伊東カムイが居座る。そしてブロイヤーのチェスカチェアに座ってココアを味わうのは杏だ。

杏とカムイが好き勝手に花見の計画をすすめるさまに、真志井雄彦は待ったをかけた。
けれどふたりは、聞く耳をもたずに、春の夢を語り続けている。


『どっかでなんかテイクアウトしますか?』
『買うのもいいけど私つくるよー、お弁当!』
『まて』
『すげーくいてーす…。おれはそゆのできないんで……モノとか持って行きます。あ!!おれのお袋の元カレが置いてったやつ、キャンプ趣味だったんすよ。趣味ばっかでお袋ほったらかしで別れたんすけど、そいつが置いてったキャンプシートあります。椅子もあったとおもうんで」
『本格的だね!あ、私、多分上の部屋の物置をあさったら、バドミントンがある』
『ふざけんな』
『バトミントンいーすね!じゃおれはウェットティッシュと、紙コップ用意しますね』
『まてっつってる』
『……』
『……マーシー、行くとはいってねえ……って言う?』
『いや。行くよ』

やったー!そう愛くるしく快哉をあげた杏が、キルト式のソファを占領するカムイに向かって片手をあげると、カムイも身を起こす。
大きな手によって、軽やかなハイタッチが行われた。

『マーシー来てくれるの!?うれしい』
『むりしなくていーすよ。おれと杏せんぱいだけでも…ラオウさんは施設で行くらしいです』
『そうだよマーシー、いやならむりしないで』
『ふざけんなとは思ってるぞ』
『おれ、孫六さんに借りあんすよ。このまえ、頼まれて、調べてたことあって。んで次は何でもカムイのゆーこときくってゆわれてんから、孫六さんはピクニックいきましょうっつったらくるとおもいます』
『それもいいね…マーシーがむりなら孫六くんさそって、あ、彼女も一緒に』
『あのひとはカムイーー!!っつっておれの背中を叩きます。杏せんぱいはそーゆうことしません』
『だから、いくわつっただろ。待てっつったのはあれだ。杏ひとりに弁当つくらせんのは、よくないだろ』
『えーいいのに。けど、じゃあ…私がおかずで』
『おれが主食つくるよ』

そして、春をまちわびる三人の話し合いはスムーズにすすんだ。
本格的なキャンプ場で三人の時間を過ごす夢は少し先延ばしにされて、今年の花見は、近場の公園を選んだ。

その選択は正解で、満開を迎える手前の桜は今、真志井雄彦の頭上に覆い被さっている。

どんな人間にも春は訪れる。

誰かのことを思いやってやまない少女にも、大きな瞳で冷たい青年を慕い続けるこどもにも、そして冬のような心を持った大きな男にも。

平等に、春は訪れた。

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