Night and day 18


シンプルなデザインのマグカップにくちづけていた杏の厚いくちびるは、カモミールの控えめのようでいて、実にたからかなあじわいに彩られる。モーヴなカラーのくちびるはハーブティーに濡らされると花のようなピンク色に変わった。

深い色をもつ瞳が、静かに伏せられる。
風のように長いまつげが、少女の目元に影を生んだ。

真志井雄彦は、反発の悪い保健室のベッドに長い両腕をつき、彼女のそばにマイペースに寄り添い続ける。
そして少年は、異性の親友の整った口元におだやかな笑みが滲むのを、確かに見つけた。

「落ち着いた気がする…」
「こいつだけで?すげえのな、お茶…。おれそーゆーの信じたことねぇけど」
「りょうほうだよ。マーシーがずっと隣にいてくれて、」
「こんなおまえをほっといて帰るやつなんかいるかー?」
「…マーシーがずっと私と話してくれて、ハーブティーがおいしいから、落ち着いたの。どっちかだけじゃないよ。ありがとう…」

おれだけじゃだめなのか……。

そう抱いた真志井雄彦少年の厚み在る心のなかに、また何かが芽生えた気がした。

カモミールの香りは、真志井少年の整った鼻梁をも、すがすがしく抜けた。

理不尽さは、聡明な頭のなかでまたたくまに整理した。感情のケリもついたはずだ。

だけれど真志井雄彦のなかに焦げた炭のようにくすぶりつづける何かを、穏やかにおさめてくれる気がした。

そばにいる異性の親友の力だけではない何かだ。

香りのちからだろうか。真志井は瞬時にそう悟った。生まれ持った聡明な頭脳は、時にこの世界を灰色に変えた。
真志井の目が濁りかけたとき、力業で瞳のいろを変えたのは、岬という少年であった。
世界には、真志井の知らぬものがまだ眠り続けている。
傍に居る少女が日々、それを教えてくれる。


「杏こういうの詳しいの?お茶…おれはテキトー。お袋のかわりに買い物行って、安い茶買ってくる」
「詳しくはないけど、すきかも。いいかおりもするし。いい香りのものは、すき。香水もすきなんだー…」
「ああ、香水ならおれもすきだ…。死んだオヤジのほうのじーちゃん…、って、もうじーちゃんも死んでんだけど、そーいうのすきで、ちょっとだけ家にある」
「そうなの?マーシーも…!?私ね、一回だけ友達に、香水が好きって話したことあるの。家にいろいろあるから、匂い楽しんでもらって。だけど、へんな匂い!っていわれた…。だから、それからあまり言わないようにしてた。マーシーもいっしょでうれしいなー…」
「ラオウもなんだこれ!!っていう…」
「ね、香水っておとなっぽいし、好きじゃない子だっているよね。だけどわかってくれる人もいるんだ…」
「最初はおれもそうだった。けどいろいろみてくと…」
「わかるよね!よかった、じゃあ、香水の話、マーシーとできるんだー」

うれしい……。
からのマグカップを大きな手でぎゅっと抱えた少女が、しみじみとした様子で呟いた。

彼女の澄み切ったアルトボイスを味わった真志井は、誰かを知りたいと思う気持ちと、己のことを誰かに知ってもらってもかまわないこと。

そのふたつを、まるでこの少女にゆるされたような心持ちに至った。


「そういえば、このまえ、クラスのみんなで私ん家に遊びに来たじゃん。もしも次も、みんなと一緒にマーシーが私ん家にくるとき……お母さんの香水のコレクションみる?」
「みる。つかまた全員で行かなきゃなんねーの?そーじゃなくて、ふつーにおれがおまえんち遊びにいくよ」

いいよー!
傷ついた心がやがて凪を取り戻し、前向きにおどりはじめる心のままに、杏がすんなりとのびた足をはずむように前後させれば、パイプベッドがぎしぎしとゆれた。真志井の質量のある体は落ち着き払ったままだけれど、厚い心の底にある澄みきった魂は、彼女同様はずんでいる。


「おまえがいねーと、こういう話、誰としたらいいんだよ」
「マーシーは友達もおおいじゃん!男の子も女の子も、ともだちいっぱいいるよね?」
「そうだけどさ。こーすいもだし……服とか…それに、映画と、本の話は…おまえしかできないよ」
「わ、私も、そう思ってる!!中学に入ってから出来たともだちはみんな、いろんなことを知ってるの。アイドルもテレビも、彼氏とか好きな人のこともなんでも詳しい!漫画もいっぱい貸してくれるし、私の知らないこと教えてくれる。だけど、マーシーと話してるときは…私……、そうなの、本も、映画も…今までこんな話、だれとも…」


ラオウはそういうの観るヒマねえし……。ちびのころの絵本以外、ほとんど本読んだことないんだってさ。それにえーがとかネトフリのドラマとか観てるやついても、あんま語れねーし。

訥々と訴える杏に続いて真志井もそうぼやいてみせる。すると、杏の澄んだ瞳が、ますますカラフルな色を帯びてゆく。
みるみるうちに元気を取り戻す少女をみていると、真志井の鉄の厚みを誇る心がやわらかくかわってゆく。

そして、真志井に弱さは訪れない。今日までそう信じてきたはずだった。

だけれど、彼女とすごすこんな時間を、壊されること。

彼女と過ごすこれからの時間を奪われること。


そうした行為に、「暴力」という名前がついていること。


それを真志井は、思い知った。

そしてそれが何よりの恐怖だと、それがなにより憎むべきことだと、真志井は今日、体の芯から、実感した。


「マーシーは最近何の本読んだの?」
「細雪。おまえがいってたやつ」
「…読んでくれたの…?」
「いやまだ最初のほーだぜ。なんか京都のいろんなとこに、桜見にいくとこまで。まだ最初だけどすげえわ。お前が教えてくんなきゃぜってぇ読まなかった。やっと文章に慣れたわ…谷崎読んでから国語の小テスト毎回満点になったぞ。すげえな。あんなもんがあるんだ…」
「……読んでくれてうれしい…。私はね、マーシーが教えてくれた豊饒の海を読んでる。春の雪、眠れないくらいどきどきした…。奔馬は難しかったけどなんとか読めた。今は暁の寺。急に舞台変わってびっくりしたー」
「……なんかさー、小学校のとき、中受するやつらがいたんだ。そいつらはこんなの全然読んでた。けどなんか違うなって。俺が言いたいのは、そうじゃねーよっておもってた。おれ、おまえと……。おまえと会えて……」

うん。マーシーと、会えて……。

マグカップをサイドテーブルに終えた杏が、少しうつむいたまま、もう一度小さくつぶやいた。


「マーシーと会えて、よかった」
「な、豊饒の海読みおわったら、真夏の死読んで。すげーから」
「それも気になってた…。じゃあ今月中に読むの目標にするー」
「一緒に図書館行こうぜ。戸亜留市の市立図書館もいいけど、県立のほうが蔵書多いぞ」

次の日曜日に一緒に図書館へいく約束も、その次の土曜日に映画を観に行く約束も、瞬く間に取り付けられる。
杏に生まれた不安や傷は、異性の親友の力強い体温と熱と、言葉を交わすほどにふたりで育ててゆける知性が埋めてゆく。


「けど音楽の話できるやつがいねえ!!」
「マーシーのすきな音楽は、大人っぽいよね。かっこいい。複雑で、不思議で……。私もマイブラと羊文学は好きだけど……。マーシーが教えてくれたジョイ・ディヴィジョン、お母さんのアップルミュージックで聴いてみたよ。だけどお母さんが…」
「なんて?」
「こんなの聴いてたら具合悪くなるから流すなって…。失礼でごめんねー…」


杏が正直な気持ちを吐露し、ばつのわるさをあらわにすると、真志井がお腹を抱えて、すがすがしく笑った。


「おとなには無理なんだよ!」
「ねー、おとなってわかんないよね」


ふたりして、ひとつため息をつく。

そして杏が、そばに寄り添ってくれる友人を見上げて、すこやかに告げた。

この少年のそばにいるのなら、自らも強くなければならない。

そう誓った杏が、心を振り絞って宣言した。


「話しててこんなに楽しいんんだもん。マーシーと、これからも友達でいたい」
「ならおれは、おまえが二度と傷つかないようにするよ」
「そ、それはマーシーがすることじゃない…。私がすることだよ。これからも、何かあったらちゃんと話したい。こんなことに負けたくないの」
「おれは、おまえから逃げなくてもいいのか…」
「逃げる?マーシーが?マーシーから一番遠い言葉じゃん。私が負けたくないだけなの……。何のちからもないのに」
「あるよ?おまえは、ちからを持ってる」
「マーシー、ありがとう……。もうこわくないよ。いっぱいしゃべってくれたから」
「結局解決したの先公な気ぃすんだけど…」
「あの体育の先生ね、私のことをみて、すぐにわかってくれたよ。厳しいけど分かってくれる先生だよね」
「あいつさあ、体育のときおれに真志井はもっと本気だせよとかゆってきてうぜえのによー…、今日はさ、なんかさ、オマエの気持ちはわかってるとかなんとか言ってくんだぜ」
「じゃあ、次の体育は本気だす?」
「だすかよ。だしたらラグビー部入れとかバレー部入れとかいわれんだよ。どっちもきょーみねーし」


今度は杏が、お腹を抱えて健やかに笑う。私も美術部か文芸部に入ろうかな…それか英語部。数々の運動部からスカウトされながら決断できないままでいる杏が、何の気なしにそうぼやく。不良少年といったアイデンティティをすでに確立する真志井や、雨の中でも部活動に打ち込む生徒たち。しかし杏は、恵まれた能力を誇りながら、これといった所属は持たない。幸い杏は、英語の能力を買われてスピーチコンテストへの参加をすすめられたり、ボランティア活動にふけったり、母親の仕事仲間に連れられてこの街では出逢えない大人や体験に出逢ったり、満たされた暮らしのなかにいて、特段の寄る辺のなさは感じないけれど、杏の根はまだこの場所で張られないままだ。

「おまえはラオウん家のバザーも手伝ってるし、忙しいだろ。ガッコの勉強だけじゃねーのこともやってんし……。部活強制じゃないんだしよ…」

少しいじけたような声でたしなめる真志井の本音は、彼女が心から望んでいるわけじゃないことで杏の時間が奪われて、真志井と過ごす時間が減ってはかなわないという一点にある。

「そうだよね。やりたいことは、自分で見つければいいよね。マーシーと遊びたいし!」
「杏、無理して笑ってるの」
「ちがうよ。マーシーと話してたら、私、笑えるんだよ」
「…殴られたりしてねえ?」
「大丈夫。抑え付けられたり、したけど…。あ、髪とか引っ張られた…痛かった。だけどもう痛いの治ってる」

きれいな髪。

思わず零れそうになった言葉を、真志井はどうにか飲み込んだ。

「ひとりぼっちだったら、ずっと怖いままだったかも。マーシーが戦い方を教えてくれた気がする」
「あとさ、おれとラオウだけじゃないから」
「ん?」
「おまえをだいじにするやつ。きっと世界は広いから。いろんなやつがいる」
「うん、そうだね……。いろんな人のこと、ちゃんと理解したい。傷ついたからって決めつけたらだめだよね」
「ちがうんだ、…ちがうんだよ、おまえを傷つけたやつをゆるせってことじゃないんだ。我慢しろなんていいたいわけじゃないんだ。けどきっと、男子でも女子でも、なんかそーゆーんじゃなくても、いろんなやつがいるから」
「うん」
「おまえはきっと、いろんなやつに愛されるから」
「……岬くんと、マーシーみたいに、なれるってこと?」
「おれらにならなくていい。おまえは、」

おまえは。

おまえは……。

あの日、その声に続く言葉は見つからなかった。

そして今も、真志井雄彦は、探し続けている。

そして今日まで杏のそばにずっとこの少年がいた。

まだカムイという男の子が、ふたりの間にいなかったころだ。



「あはは、忘れてたよー。そんなこともあったね」
「笑い事にできんのか?」
「あれから身長のびすぎたから、あの時着てた制服も、もうすてちゃったんだ。それに部室棟ももう、建て替えられたしね」
「思い出させるモンが消えてくれたっつーことな…」
「環境や自分が否応なく変わってくでしょ。そういうのが、私をここまで連れてきてくれるの。不思議だよね。人間って多分、前に進めるように出来てるんだと思う」
「それはおまえが、強いからだろ?」
「そうじゃないよ。わたしはまだ、そうなれてない。ああいうことを、私が笑い事にできるように……、マーシーがずっとそばにいてくれたんじゃん。マーシーがそうさせてくれたんだよね?私、マーシーと付き合い始めて、やっと気づいたんだ……」
「成功してんならいいんだけどなあ」
「私の力なんかじゃなかった。マーシーと、岬くんのおかげだった」
「おまえの力だよ。おまえがここまで歩いてきたんだろ」
「私はひとりじゃないってことだよ。ひとりでがんばったわけじゃないってこと。マーシーが、ずっと守っててくれた」
「あーあ」

ふたりの心をつなぐようにずっと握りしめ合っていた手が、やおら離れた。

杏が、大きな手と真志井を交互に見つめる。

真志井は、汗ばんだ手で、しっかりとした黒髪を、力強くかきあげた。

「おれが、言えなかったこと」
「…」
「おまえに告白したとき」
「あのとき…」
「あのとき、おまえに、どうしてもいえなかったこと。おまえが簡単にいっちまった」
「私がいやがることばってこれのことだったの?いやっていうか…。……ずっと考えてたの。やっぱりどうしても、そうとしかおもえなかった」

、あ、あの、守ってくれてたって言うのはね、

少し性急な声に変わった杏は、自らが選んだ言葉を言い換えた。真志井が使いあぐねていたことばを、不用意に選んだのかもしれない。杏の痩せた背中に汗が噴き出す。
冷房はつけられていないのに、この理科準備室はどこかひんやりとしている。真志井に寄り添いつづける杏は、少し身をおこして、彼のうつくしい横顔を見据えながら伝える。真志井はどこか熱を持って瞳で、宙空をまっすぐにみつめている。


「マーシーが私の味方でいてくれたっていう意味で言ったの」
「わかってる。大丈夫だ。おまえもだろ。俺らが何をしたって、おまえはずっと、信じてくれた。何があっても態度も変えなかった。逃げなかった。おれたちを裁かなかった。おまえはずっと、おれのことを見てくれてた」
「これからもずっとそうだよ。マーシーに返せることって、それだけだよ。私も、何があってもマーシーの味方でいるよ。っていうか、もうお昼休み終わるね。帰ろっか」
「あーおれ、まだいるわ」
「……うん」
「おまえは?」
「え、勿論もどるよ。数学頑張らなきゃいけないし、友だちも心配するしね」

冷たい床からすんなりと立ち上がった彼女は、迷うことなく扉へむかった。そして真志井がおろした錠を、ぱちんと上へはじき、理科準備室の扉を開放する。
杏が真志井を振り返る。大きな窓から夏の名残の風がしのびいって、清潔なレースのカーテンを大きく翻らせた。

「マーシー」
「ん?」
「やっぱり、そうすると思った」
「へ?」
「マーシー、今日、おひるごはんたべてないでしょ。マーシーがお昼たべないとき、いつもそーだもん」
「んー、うん、まあな」
「今も言ったよね、私、マーシーの味方でいる」

じゃあね、マーシー。また今度。
少しだけ熱の低い言葉でそうつたえて、杏は理科準備室の扉に手をかけた。

いい加減な様で座り込んだままの真志井は、その凜とした背中に、一言だけ残す。


「あとひとつあるぞ」
「……そう思っててもいい?」
「おまえのおもってるとおりだとおもうわ」


こんなとき真志井は、杏に会いに来る。

そしてしばらく、杏は、真志井に会えなくなる。


ひんやりとした準備室に真志井一人が残り、扉は静かに隔てられた。

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