Night and day 17


「あいつら、もうおまえに何もしないよ」
「私は、私はいい。そうじゃなくて、マーシーは?マーシーにも、何もしない…?」

真志井が拾い集めてくれたボタンを骨張った両手でぎゅっと握りしめた杏が、切羽詰まった気色を、澄んだ声ににじませて、大切な男友達に訴える。

穏やかな気配を浮かべたまなざしで二人を見守っていた岬が、雨を含んだ土の匂いが変わったことを察知した。
夕方の黄昏の空を見上げる。雨足は優しく変わり始めている。

「大丈夫だろ。せんこーきたし」
「だったらいいんだけど……、あっ、ボタンありがとう。あの、それと、ちゃんと言えてなかった。マーシー、岬くん、助けてくれて、ありがとう……」
「いやありがとうっつーか、全部おれのせいだろ…。んでラオウが来たから散っただけだ」
「おれじゃないぞ。マーシーが解決したんだ。杏、嫌な思いをしたな」
「私ひとりじゃ、何も出来ないよ。それにマーシーは、何も悪いこと、してないじゃん…」

ただ、堂々としてるだけ……。


杏がありのままの真志井を認めてみせる。真志井を見上げている杏が、そう告げると、真志井が答える。

「あー、そうか、それがよくねーのか」

すると、乱れた黒髪を照れくさそうにかきあげた真志井が、彼女のまっすぐに輝く瞳から、目をそらした。
傷ついたはずの女の子の瞳は、濁りひとつなくて、雨上がりのひかりのように澄みきっている。

「そうじゃない、マーシーが変える必要なんかない。それは、杏もだからな」

聡明で、まっすぐな性分で、どこか不器用なふたりのやりとりはいつまでも繰り返される予感がした。岬は、雨、弱くなってきたなあ。そんな穏やかな声を響かせて、お互いをいたわり合い、お互いを守り合い続ける真志井と杏のやりとりを、ひどく優しく、断ち切った。

「マーシーも杏も、何も悪くないんだ。雨も弱くなったぞ。いこう」
「そうだな、いつまでもこんなところいるのやだろ杏。おれは杏つれて保健室いくわ。ラオウわるいな、傘取ってさきいっててくれ」
「ああ、そうだな、じゃあおれは傘とってきて……今日はみんなでさきにかえってるよ。杏の友達にも言っておくよ」
「あ、わたしから連絡するよ」
「保健室いくぞ、杏」

うなずいた杏が、友人の背中に続く。

京華中学校の保健室には、様々な事情を抱えたこどもたちがたどり着く。

今回の真志井のような理由で傷ついた生徒はもちろん、杏のようないきさつで傷ついた生徒に、そして自らも周囲も騙してしまう生徒もいれば、この校舎に拒まれながらもどうにかここにはたどり着けた生徒もやってくる。そして何かから逃げたくてここへやってくる生徒。思春期の子供達のあらゆるものを受け容れる場所だ。

そんな場所を守る保健教諭は、小柄で優しい女性などといった人物ではなく、豪傑といえる女性だ。

真志井が顔をのぞかせると、一年生にしてこの場所の常連となっている真志井の顔をみつけた教諭は、おどけたような表情をまじえて、高い能力を持った不良少年を咎めた。

そして、聡明な不良少年の大きな背中のそばから、おずおずとした挙動であらわれたのは、異国の女の子のような顔を生まれ持った少女で、保健教諭は保健室に滅多に世話を掛けない女の子をみつけると、ひどくあたたかくわらった。

そして、杏を何も問い糾すことなく、杏を受け容れた。
教諭から放任という処置を受けた真志井は、保健室の棚を勝手知ったるようすでマイペースに漁り始める。

「真志井くんはこっち。自分でやれるよね。あなたは、こっちにおいで」

失礼しますと生真面目に告げた杏は、杏をそう労る保健教諭に導かれるままに、おだやかな部屋へ招かれる。
気ままな野生動物のように棚をさぐって救急箱を取り出す真志井は、じつに器用な手つきで誰にも頼らず自らの傷を癒やし始めた。
彼のとるプロセスを確かめたい気持ちをこらえた杏は、寄り添ってくれる保健教諭がまず尋ねてくれた言葉に、しっかりとうなずいた。

「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶです。あの、ボタンをつけたいんですけど、ソーイングセットはありますか?持ち歩いてたらよかった…。貸していただけますか」
「針とかはさみ持ち歩くの校則違反っつってただろ」
「え、あんなにちっちゃいのでも?」
「そうだよ、持ち歩いてないのがふつうだよ」

あるよ、はい。
細い肩や思春期の少女にしては大きくてうすい手の平が少し震えていることを見逃さない教諭は、まず杏へ裁縫道具を差し出す。

「それ終わったら、あなたにはハーブティーを淹れてあげるね」

保健教諭がそんな言葉で彼女を労ると、おれはそんなのもらったことないと真志井が戯れてみせた。

教諭と軽妙なやりとりを交わす真志井から離れて、裁縫セットを抱えた杏はカーテンで守られたベッドの上に座った。
カーテンがもたらす優しい影のなかで、杏はブレザーをそっと脱ぐ。そして、骨が張り出すように痩せている幼い体から、ブラウスを剥ぎ取った。
頼りない体をつつむキャミソール一枚という、無防備な姿にかわる。
春雨につつまれた夕暮れはこの学校に少しの寒気をもたらしていて、保健室もその寒気をしのぐため、ゆるやかな温かい風に包まれている。薄い胸をつつむブラトップキャミソール一枚でも杏の肌は暖気にやさしく守られている。

カーテンの外で、保健教諭が、真志井の少しだけ不器用な手当を尾も切り笑いとばしたあと、処置を変わった。
いいすよと邪険にする真志井をいともかんたんに丸め込み、どうやら真志井は大人しく手当を受けているようだ。

オフホワイトのブラキャミソール姿になった杏は、裁縫箱から針と糸をとりだして、真志井が集めてくれた小さなボタンをいそいそと縫い付けてゆく。ほっそりした指先が、器用に動く。こうした細かい仕事は、母親ではなくて祖母から学んだ。おかげで、家庭科や技術の授業で自分の不器用さに困り果てることも一度もなく、努力で身につけた器用さがおおいに役に立った。第一ボタンを難なく縫い付けた杏は、最も心臓に近い場所にボタンを縫う作業にとりかかる。細い親指と人差し指で玉結びをつくり、すくい上げるように縫い付けて、布とボタンの間にぐるぐると糸を巻き付けてゆく。真志井が拾い集めてくれたボタンをすべて縫い終わったとき。

親友の声が杏のことをさっぱりとした調子で呼んだ。


「杏」

その声と同時に、ベッドを守るカーテンレールが金属に勢いよく触れる音がひびく。

そして、布が一気にすれる音が聞こえた。

やさしい影につつまれていたベッドに、突如としてまぶしい光とはりのある声がさした。


「えっ!?マーシー!?」
「あっ……」
「こら!!!!真志井!!!」

杏何やってんのかなって……。

御託をこねる真志井をよそに、教諭の手によって、杏を守っていたカーテンはふたたび締められる。針でケガとかしてない?教諭がそう気遣えば、杏が慌てて大丈夫ですと伝えた。

ベッドに腰掛けて、作業の仕上げに集中していた杏は、たったいま起こったささやかな非常事態に、その回転のいいはずの頭が追いつくことを怠った。

そして数秒間の後、小麦色の肌に紅がさす。

「……」

ベッドに座っていた杏は、急に目の前にあらわれた真志井に、キャミソール一枚のすがたを見られてしまったわけだ。

うすっぺらい胸元をつかむ。
大きな瞳を白黒させた杏が、慌てて伝えた。

「ご、ごめんね、マーシー、い、今ボタンつけられた。シャツ着たよ!」

シャツを勢いよく羽織って、ボタンを性急なてつきで止めた杏が、うすいピンク色のカーテンを慌てて引いた。

そして、保健教諭にくどくどと叱られている真志井を慮る。

ブレザーをぎゅっと抱え込んだ杏が、乱れたブラウンヘアを必死で整えながら真志井を迎えた。

彼女に謝りなさい!!そんな言葉で真志井を叱る保健教諭から、真志井は拗ねた調子で目をそらした。

「…ごめ……」
「いいよ、何も見られてない!すぐだったし。あの、先生、マーシー怒らないで…。いいです、大丈夫。ブレザーのボタンつけるだけだから……」
「へえ、どうやってつけんの?おれ縫い物だけはできねーわ…」

あっけなくマイペースな仲にもどったふたりを、教諭はあきれたようにわらった。
彼女の表情に変化はなく、むしろ感情を素直に表せたことに安堵の様子すら滲んでいる。

そして、真志井にも出来ないことがあるのねえとからかう教諭が、杏のそばのサイドテーブルに、シンプルなマグカップを置いた。カモミールですか?と杏が尋ねれば、聡明な少女の名答に、教諭は笑ってうなずいた。

「落ち着くよ。のんで」

厚みのあるマグのなかに、ティーバッグが浸されている。そばにトレイもおかれた。今日は、3分たったら、ティーバッグをここにだしてねと杏に告げながら、ティーバッグトレイをゆびさした。

素直にうなずいた杏が、ありがとうございましたと生真面目に伝える。

お湯のなかで、ティーバッグがゆっくりと踊る。

カモミールの穏やかな香りが保健室にふわふわと漂った。かぎなれぬ香りに真志井は顔をしかめる。杏は、高い鼻からそれを吸い込んだ。

俺には?と真志井が戯れれば、味の分からない子には淹れないと平然と述べた。そして保健教諭は、真志井へ向けて、鍵の場所は知ってるよねと伝える。

どうやらこのまま二人が語らう時間を作ってくれるようだ。

六時をまわったころ、保健教諭はマイペースに仕事場を後にした。


ベッドに座ったまま、作業を再開させようとする杏のそばに、真志井もマイペースに腰を下ろした。

「縫い物、かんたん。これ縫ったら、お茶飲む。マーシーものんでいいよ」
「いいよ、なんか知らねー香りがする…。すげえ、器用だな、杏」
「細かい作業すきなの。マーシーはボタンとか…とんでない?つけるよ?」
「んー全然へーき。いて、こいつギツギツ。包帯。けどこーしたほーが治るのか?」
「すごいー、ちゃんと手当…。先生、やっぱりうまいね。そうだと思う。はやく、よくなるといいね…?」

彼女の手元でブレザーが器用に蘇ってゆく。
薄いブラウス一枚につつまれた杏の体は、ひどく頼りない。
その薄い体の儚さを思い知れば、真志井の分厚い心の底に、暗い炎が宿った。

できた。そう呟いた杏が、ブレザーをいそいそと着込む。

マグカップに浸されていたカモミールのティーバッグは、ゆっくりと花開き、穏やかな香りを放っていた。

カップをとりあげた杏が、いただきますと生真面目につぶやいて、ぽってりとしたくびちるをそっとカップに触れさせた。

そんな彼女の瞳が、ゆっくりと落ち着いてゆく。

おだやかな香りと、おだやかに変わってゆく彼女を見遣った真志井が、異性の親友のそばて、ぽつりとつぶやいた。

「カーテン開けてごめん」
「え!いいよ!何も見えてない、でしょ…?」
「さっきあんな目に遭ったのに」
「そ、それとは、べつ…。気にしないで」

マグカップを抱えた杏が、もう一度くちびるをカップにあてる。
そんな彼女の整いきった横顔をちらりと見遣った真志井が、少し微かな声で告げた。

「ラオウたよりになったろ」

ちいさな喉がこくりと動いて、心を静めてくれるお茶を飲み込んだ。
そして、深くうなずいてみせる。

「……施設の妹さんたちにも、こうしてるんだろうなっておもった」

マーシーものむ…?首をかしげた杏が友人を気遣う。
真志井はもう一度、首を横に振った。

「ずっと私のなまえをよんでくれて、マーシーを信じることが大事だって伝えてくれたの。岬くんのおかげで、私は、マーシーを信じることが出来た…」
「おれはラオウとちがうんだ」
「同じ人なんて、いないよ。みんなちがうよ」
「ラオウのほうが」
「人に上とか下とかないよ。マーシーが私にそう教えてくれたじゃん」
「だけど、おれ、こういうときなにしていいかわかんねえ」
「…私も、わからない……」


このとき、杏は、わからないことを素直に認めることこそ知性だと知った。真志井も直感的にそれを悟った。
この体験がなければ、もしかすると、学年で一番の成績を争い続けていたふたりに、尊大さが育ち、人の弱さを知らぬ不遜さが生まれていたかもしれない。


「けどラオウは、わかるんだな」
「すごいよね、岬くん」

最も、そんな人物に育ったところで、岬麻理央という男が、のびてゆく鼻をへし折ってくれただろう。

「マーシー、けがさせてごめんなさい。私のせいだよね」
「杏がそうやってあやまることが、正しいのか?」
「わからない……」

岬はけして杏に触れなかった。

杏がサイドテーブルにマグカップをおく。

胸元をおもわずつかみ痩せた体をすくめてうつむく。

真志井は、そんな彼女に不用意に触れることが、間違いであるということだけは、わかった。


「わからないの」
「なあ、杏」
「なに…」
「もう一回いうぞ。いやだったらわりいけど、もう一回言う。おれがやりかえしたら、おまえをまたいじめるっていわれたんだ」
「…」
「やりかえしたら、杏がどうなるかわかってるんだろうなっていわれたんだ」
「…」

杏の瞳に影がよぎり、おだやかさを取り戻そうとしていた少女がみるみるうちに傷ついてゆくことがわかる。けれど、これからも真志井が唯一無二の友人と友情と、そしてそれ以上の何かを結び続ける覚悟を持つために、避けてはとおれない選択であった。


「何をされるかは、わかるだろ?」

この子と出逢ってまだ数ヶ月だ。真志井が満たされなかった部分を満たしてくれる子で、真志井の知らない世界を教えてくれた子で、真志井を理解してくれる女の子だった。そんな少女の大きな瞳が、満月のように深い瞳に、刹那、雨が降ったような気がした。月が大きく滲んだ気がした。
そして彼女は溢れかけた感情を、懸命にこらえた。
真志井と対等であるなら、真志井という少年のそばにこれからもいることをのぞむなら、そうしなければならない。

それが、今の杏のだした答えだった。


「もう、わかっただろ」
「……わかった……。岬くんと、マーシーが、特別なんだってことも、わかったの」
「は?ラオウはそうだけど、おれはそうじゃないよ」
「マーシーが、私のことを、ちゃんと私として見てくれてることがわかった。それが、特別なんだってこと。マーシーだからそうなんだってことがわかったの。みんながそうじゃないってこと…」
「おれがか?おれがいることで、おまえを傷つけたのに?」


ラオウだったら、きっと、こんなことにならないのに。

あの男に挑む前の自分自身と、あの男に挑んだあとの自分自身は、明確に違う。真志井はそれを自覚している。きっと、岬という男を知らなかったころの己であれば、杏をもっと傷つけたはずだ。

真志井の声に、声にだして伝えることを選ばなかった言葉がしずむ。そのかわり、保健室の清潔なゆかに落とした視線に、その聡明な目元に、深い感情が滲む。

杏は、聡明な瞳をくもらせることなく、続けた。

「……私ね、ひとつだけわかってることがある」
「なに?」
「こんなことで、マーシーと友だちじゃなくなるのがいやってこと」


ベッドの傍のテーブルからマグカップをとりあげる。すこしぬるくなっているけれど、杏の幼い味覚にはちょうどいい塩梅だった。くちびるをカップにあてて、あたたかいカモミールティーを味わう。そんな親友を見守る真志井が、短く告げた。その語気には、幼いはにかみが滲む。


「おれだってそうだよ」
「ありがとう。私、マーシーと友だちでいることをやめたくない。だからこれからは、マーシーにまた迷惑かけないようにがんばりたいの」
「何をがんばるの?おまえはそのままでいいよ。おまえみたいな友達がいるから、学校が面白いんだよ」
「私も毎日、マーシーと話せて楽しいよ。カモミールティー美味しい…。のんでみる?」
「かもみーる……?」
「そう、お母さんがこういうのすきだから、私もちょっとわかる。かおりもいいよ」
「…?」


杏から手渡されたマグカップを、遠慮なく受け取る。
杏がくちづけていた場所と反対側をえらび、あれたくちびるが、多年草から濾された薬草茶を、そっと味わった。

整った眉根に不審なしわがよる。

誰よりも大好きな親友のそんな様を見つめた杏が、とびきり愛くるしい顔で、笑った。

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