You're The Top 11


「お帰り。送ってもらった?」
「うん。マーシー、門の前まで、来てくれた……。家見えてたのに、杏が家に入るまで見てるからって…」


この夜やり残したことを掴むために幼い足取りで飛び出していった13歳の杏は、コーラルピンクに彩られた頬を素直に蒸気させて、聡明な瞳をますます輝かせて帰ってきた。

ピンク色のストールを細い体から剥ぎ取って、ダッフルコートのトグルをゆっくりと外してゆく。薄っぺらい体からトラッドなコートを脱ぎ、適切な湿度に満たされた部屋の空気をオレンジいろの唇からひとつ吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

澄みきった瞳がまたひとつ、趣を憶えた。

娘のそんな変化を察知した母親が、アルバンギルメのサブレを艶やかな唇の中へ放り込んだ。


「ふーん」
合格。


そんな言葉はオーストリアの希少なナチュラルワインのなかにゆっくりと沈んでゆく。
杏の母親は、ワインとチョコレートに、iPadを開いて海外の作り込まれたコンテンツを原語であじわい、大人の爛れた夜を、ひとり満喫している。


「このサブレは美味しいなー。だけど今年のカンプリニはいまいちだったわ」
「そうー?私食べたけど美味しかったよ!」
「どれ?お酒のじゃないよね?」


ガナッシュ!そう答えた杏の、両親譲りの異国の女の子のような顔と、彼女らしいフラットな機嫌のよさのなかに、少しの大人びた気配がある。そんな彼女を迎えいれた母親は、タブレットで鑑賞していた海外ドラマを一時停止して、大人でいなければならなくて大人になりたがっている少女に語りかける。


「お母さんに初めて彼氏ができたのは、高1のとき。杏のほうが早かった?」
「……そういうこと伝えに行ったんじゃないんだー」
「そうだったの。んー、じゃあ、マーシーもそうだったってこと?」
「マーシーは、みんなに、こくはくされてたみたい…。だけど、付き合うって何するかわからんっていってたし、誰とも付き合ってないって言った」
「中一でそこ嘘ついたら怖いよね……。とにかくおかーさんは、同意年齢13歳には大反対。16でもおかしい。18にすべき。げ、メール…誰……?はーーーーーー今から仕事。あーーー全員殴りたい」


杏の母は、そんな物騒な言葉と引き換えに、杏が穏やかに不自由なく暮らせる環境を与えつづける。杏に当然のごとく身についた勤勉さや努力癖も、野蛮な言葉を吐きながらも杏の母親が日々学ぶことを辞めぬさまを、澄んだ瞳で見つめてきたからだ。温かい部屋に、身につけるのは質の高いもので、広い世界に日ごと生まれる新しい価値を、母親は日々杏に教えてくれる。
そんなものを手にしている自分ができること、やるべきことは何なのか。
同級生のこどもたちは嫌悪する大人びた香りに慣れ親しんでいる杏が、ウーマンという名前の香水の残り香をすいこむ。この香りが似合う日はいつくるのか。こんな香りが似合った日、杏のそばにはまだ、あの少年がいてくれるのだろうか。そして、杏も杏自身のかおりを見つけることが、できるのか。

杏は、乱雑な手つきでチョコレートの山を整理する母親に伝える。


「あっマーシーがね、杏のお母さんは厳しいけど筋が通ってるっていってた!」
「そぉーー、じゃあ今度マーシー連れて、アサコのパフェでも食べに行こうか?マーシーのママもよかったらいっしょに…」
「アサコー?マーシーあんなに大きいパフェたべないし、マーシーのお母さんも遠慮するんじゃないかなあ…。ていうか明日出勤?」
「ううん、在宅。起こさなくていいからね」
「じゃあ、あとで、お夜食つくるよ」
「こどもはそんなことしなくていいよ。けどチョコといっしょにカフェラテだけ淹れてくれる」
「そうする。……マーシーにもこういうことしたら、よろこんでくれるのかなー…」


ヘアクリップで栗色の髪をまとめなおした母親は、おもわず娘のことを振り向く。
杏のその疑問の答えは、明白だからだ。
まだ幼く、どこか自分を差し出しがちな娘を、大人になりきった母親はあきれたような瞳で見遣り、軽くため息をついた。


「やってみたら?失敗しないと前にすすめないからね。あー仕事仕事。てかなんで娘と恋愛トーク……。友だちとしなよ。まずお風呂はいんなさい。寒かったね」


タブレットとチョコレートを抱えた母親は、杏の小さな頭を撫でて、リビングを後にする。そして遠慮のない足音で、二階の仕事部屋へあがって行く。


「学校で友だちとしてるもん…」


杏は宝石箱のようなチョコレートボックスを開けて、ぽってりとしたくちびるのなかへ放り込む。いい加減にえらんだショコラは、トゥルビヨンバイヤンプリスのチョコレートで、ラム酒がふんだんに使われている。ひとくち味わうと、杏はその大人びた味わいのとりこになった。


「マーシーの下の名前呼んだの、明日もう一回謝ろ……」


入浴をすませ、母親のためのカフェラテを淹れたあと、杏はそのままリビングのソファで事切れた。

ショコラに含まれていたラム酒が、細いからだいっぱいに、ゆっくりとまわったからだ。

やり残したことはないはずなのに、杏のなかに、何か新しいものが生まれた気がする。この夜のすべては、ボンボンチョコレートがくれた夢のなかに消えた。

あどけない顔を上気させて、ボンボンに酔わされて幸福そうに眠る杏を見つけたのは、深夜仕事を終えて降りてきた母親だった。

大人っぽいチョコレートのせいで、杏はこの夜のことを、あまり憶えていない。



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「可愛いかったねー、杏ちゃん」

本当にいい子。お父さんに報告しないと……。

真志井雄彦が、大きな手に鷲づかみにして持ち帰ってきたチョコレートは、彼の心が波立つ様をうつしだすように、見苦しくつぶれていた。それを丁重にととのえた真志井の母親は、カーテンで半分にくぎった和室の母親専用スペースに置いている仏壇の前にいそいそと正座をする。

息子が純粋で愛らしい少女と可愛い時間を過ごしているあいだ入浴を済ませた母親や、ラフなスウェットに着替えて睡眠の準備は万端だ。そしてさっぱりと切った髪を清潔に清めた真志井の母が、やさしいチョコレートを仏壇のなかにそっと添えて、手をあわせた。

そして、雄彦にもあんなにいい子が…と、そんなことをもごもごと呟き、亡くなった父親に早合点の報告を行っている。

厚みのある体がら、父親の形見のジャケットを剥ぎ取った真志井は、そんな母に苦言を告げた。


「やめろよお袋…それに、べつに、まだ……」
「雄彦は好きに生きたらいいんだからね。お金のこともお母さんのことも気にしないで。スマホも2年になったら買うから。またせてごめんね」
「んーー…・・いいよ、ラオウもまだ持ってねーし……」
「だめだよ、杏ちゃんにこうやってめいわくがかかるでしょ。まりおくんにもね…」
「……杏さあ」
「ん?」
「ラオウに、チョコあげてねえっつってた」
「そうだったの」
「おれだけっつってた。杏が嘘つくわけねえから」


真志井は、この秋に声変わりをむかえたばかりだ。
あどけないテノールボイスが無垢な言葉を吐き出す。仏壇のなかに小さく置かれた遺影を見つめた母親は、そんな言葉にしずかに耳を傾ける。

すると一転、真志井は、思わぬことを口にする。


「……おれ杏にひどいこといった気する」
「雄・彦!!!!!!あんな子に!!??」
「おれのなまえ、よぶなっていった・・」
「あんたはもう!!!!!バカじゃないの!!!それにこんなにかわいいチョコもらって、ちゃんとお礼は言ったの!?!?」
「……あっ……」

真志井雄彦がこの夜に忘れた大きなものといえば、ひとまず、その言葉であった。

あの子の気持ちに、とどのつまり真志井は、何も応えていないのだ。


「言ってないの!?!?ありがとうって、ひとことも!?!?」


身長は152センチのこぐまのような体型の母親が、170センチを越えた思春期の息子に向かって果敢に非難の言葉をあびせる。

ジャケットをつかみ、ヴィンテージのジルサンダーのマフラーで整った顔の下半分を隠した真志井が、ばつの悪いさまで母親を振り向いた。


「……いってねぇわ」


雄彦!!!と叫ぶ女性の声は、借金取りに隠れてくらす101号室の住民にも、202号室に暮らす一人暮らしの男性にも、103号室で息を潜める青年にも、すべて筒抜けであろう。
そして真志井家に苦情はとどかないだろう。
真志井雄彦という存在は、どこかこのアパートの希望の星のようなものであるからだ。

そして、あれほどありがとうとごめんなさいが言える人間になれといったはずだ。そんなことを真志井にくどくどと伝える母親による長々とした説教がはじまったことをよそに、真志井は、マフラーに顔を埋めたまま小さくつぶやく。


「杏、もう嫌いかな、おれのこと」


その声を聡く聞きつけた母親は、自分の胸に手をあてて考えろと伝えながら、そら恐ろしいほど賢く生まれついた一人息子を叱り飛ばす。

少年の賢さは、大学で教鞭をとっていた祖父譲りのものだろう。この町で生きるには過ぎた聡明さを持って生まれた少年を、けしてその知性を驕らぬこどもに育てることが、大きな才覚をもつ息子を授かった母親の責務であるが、どうやらすでに途をあやまったのかもしれない。


「ま、でも、杏は、おれと友だちになれてよかったとかゆってたしな」


真志井雄彦という少年は利口で英明で、そしてどこまでもマイペースだ。
さらに、ひとりで育てた自信に溢れている。
その自信が、人を傷つけるものと化す可能性だってある。
驕り高ぶり、弱いモノを踏みにじることのないように。
知性と知識と能力を、大切な人と弱いものを守るために使えるように。
その聡明さが、他人を見下すさもしく安っぽい知性に変貌せぬように。
真志井を守るたった一人の人のそんな願いをよそに、冷たさとぬくもり、知性と熱、理性と感情、真志井はすべてを早くも自在に操りはじめている。


「杏ちゃんがむりしてそういうことを言えちゃう子なのは、雄彦も分かってるんじゃないの!?」
「杏はそんな嘘つかねーよ」
「とにかくあの子を傷つけないようにしなさい」
「傷つけないよーに……」


真志井の母が使い古したandoroidスマートフォンは、およそ5年もののしろものだ。動作のにぶい通信機器を差し出して、短髪に角を生やした母親は、杏ちゃんに電話!お礼!と叱り、杏に言い忘れたことを伝えるように念を押す。

マフラーを押し入れに放り込み、スウェットを一気に脱ぎ捨てる。インナーのTシャツ一枚になった真志井は、悠々とした足取りで浴室へ向かう。


「……いーわ。おれらは大丈夫」
「雄彦!!!」
「杏にはいつでも会えるしな」
「そうじゃないってこと、一番知ってるくせに…」


そうだ、杏ちゃんのママにお礼、それとさしいれもしなきゃ……。このまえ美味しいワインとおそうざいとパンをもらったから…。
起動の遅いスマートフォンのメッセージアプリに、真志井の母が不器用な手つきで文字を打ち始める。いつもなら真志井が手助けするところだけれど、少年は母を放って浴室へすべりこむ。真志井の母親が丁寧に磨き上げる鏡に、精悍な顔が映っている。何も変化はない。真志井はそう自負している。そう言い聞かせ続ける。

けれど真志井の幼い心が、たかぶりつづける。誰に想いを伝えられても、幼い心はびくともしなかったのに、あの子の可愛いすがたを見ると、この心はあっけなく昂ぶった。

やわらかい肌と優しい心をもつ、己には過ぎた女の子が、真志井のすぐそばに居る。

腕を掴めばあっけなくどこにても連れ去ってしまえる羽根のような軽さ。

真志井へ心を伝えることを諦めない強さ。

あの子はずっとそばにいてくれる。

あの子がずっとそばにいてくれないと、どうにもならない。

あの子がそばにいなければ、己はどうなるのか。


いずれにしろ、あの子を手にしないと、真志井はもう、どうにもならない。


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フランス資本のブランドのアイブロウペンシルで、眉をもう一度だけ軽く整えた。どうあがいてもこの女子中学生はヘルシーな魅力にあふれていて、杏が施したメイクはわずかなもので済んだ。ありのままの愛らしさがやっぱり彼女らしいからだ。

果実のような唇は、元気な相づちを打ち続けたものだから、幾度もリップを塗り直す羽目になった。杏のくちびるにぴたりと密着するマットなリップは、彼女の潤いきったくちびるにはフィットせず、杏は少しだけ焦りをみせながらも、彼女を飾る落とし所をみつけた。

「それで終わったよ」
「ホワイトデーは?」
「それはホワイトデーのときに話すよ。それでいいかな?」
「楽しみだな!また杏ちゃん家に来てもいい?」
「もちろんだよ」
「マーシーがひどいやつってことがわかった!」
「うーん、大袈裟に話しちゃったかも。そんなことないんだよ。……あなたは本当にかわいいね。ブルベ夏だね。透明感がある。私が使えない色が似合う。私は冬と秋なの。夏カラー全部だめ。だけど、今から彼に会いに行くの?」
「ううん。帰ってラオウにいちゃんと施設のせんせーたちに見せる」
「じゃあ、またメイクしに来てね。お菓子そろそろ冷えて固まったと思う。みんなにもあげてね」

メイク憶えた!
磨き抜かれた鏡をのぞきこむ彼女が、健やかな自信に溢れた声で、そう宣言する。すごいなあ。ますます可愛らしくなった少女を鏡越しに見つめる。鏡のなかで目が合った二人が、杏は穏やかに、少女はいっぱいにわらった。


「じゃあ杏ちゃん、中2のときは?」
「それは、また来年話すよ」
「来年かー、私の受験が終わってるかなあ」
「みんながあなたの味方だよ。それだけ忘れなかったら、なにがあっても大丈夫だからね」


母親も杏も使いこなせなかったアイシャドウやチークは、いくつか彼女のものとなった。岬という少年は遠慮や懸念をみせたけれど、杏はそれが彼女にひつようなものだと感じた。

その数日後、練習試合を見に来てほしいとせがまれた杏は、彼女の願い通り、懐かしい体育館へ出向いた。あの人だよ!と少女がゆびさした先には、まるでアイドルのように爽やかな少年がいた。真志井の仲間たちのなかで、誰に似ているかと言えば、ビンゾーをさっぱりと洗い上げればああなるだろう。その旨を少女に告げると、少女がお腹を抱えて笑い転げた。確かに、ときおり仲間たちと友にかすみの家にやってきて、施設に暮らす小さなこどもたちを両脇に抱えてあばれて遊び回るビンゾーは、鈴蘭のビンゾーそのもの言ったたたずまいである。
しかし、その一方で、校外に飛び出し、分厚いアウターをぬぎすて、はりねずみのような髪を丁寧に整えたビンゾーは、宮内幸三という一人の少年に変わり、その様は硬質な美しさを誇り、夜にとけこみ、小粋にこの町の夜を生きる。そんな華やかさに似たものをもつ男の子を、少女はうっとりと見つめ続けていた。杏がこの頃抱えていた愛情とはまた別の色味や熱をはらんでいる。彼、バスケ楽しそうだね。杏がそう告げると、少女はとびきり可愛い顔で笑った。彼女はこの世界のすべてを愛しているのだと知った。岬が、あの家が、彼女にそんな力を与えているのだと、知った。



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「どう転んでも幸せだと思うよー。結局化粧品もあげて、おしゃれをおぼえちゃった。岬くんも可愛いなって褒めてたしね。あっ……、ていうか、中1のときのバレンタインのこと、あのこに話しちゃったんだけど」
「んな懐かしいこと…一年のか。あったなあ、そーいや、おれらにも…」
「怒られない。よかったー」

真志井は、クッキー缶のふたの裏を灰皿にしている。ピースの先から灰を落とした真志井が、感慨に満ちた声で静かにつぶやいた。

「中一かあ」

スリランカ産の紅茶でのどを潤した杏も、ラグの上に腰を下ろしたまま、ソファの座面にそっと背中をあずけた。すると真志井の長い腕が、杏の華奢な肩にそっと添えられる。広い胸のなかに抱き寄せられた杏が、静かに目をとじて、その言葉にうなずいた。


「あのときのおまえは、可愛かったな」
「幼かったね…。あの頃の写真とか直視できないよ…なんたって服に着られてるから……マーシーはいつでもかっこいいけどね。あのころも、最初からマーシーはずっとかっこよかったの。私のあこがれだった」
「あこがれてたのはおれだよ。あのとき、アクネのマフラー巻いてたな。おぼえてるよ。おれアクネ縦タグのほうがすきだわ」
「バッグもそーだった。わー懐かしいね!思い出しちゃう。何もできなかった。コンビニのチョコひとつ。だけど、私たちは、あそこから始まったと思う」
「始まったのは、もっと前からだ。なあ、おれチョコもらって礼いえなかったんだぜ。おぼえてるか?」
「そうだっけ、てか私アポなしで突撃したよね……そっから問題あるよ…」


膝を抱えた杏が、くちびるのなかに残ったカカオの味わいを楽しみながら、瞳をとじて、あの夜のことをたどっていれば、杏を肩のなかに抱いたままの真志井が短く告げた。

「それと、おれ、うそついた」
「ん?何ー?」
「美味しかったってうそついたんだぜ。おれ、おまえからもらったやつ食えなかったわ。もったいなくてな」
「そうだったの」
「他のは全部テキトーにくったけどな。やっぱすっげえにきびできたわ…植物油脂のせいだぞ……今もあごにニキビあとがのこっちまってる」
「私がマーシーチョコ漬けにしたけどニキビできないでしょ!ぜんぶいい原料なの」
「はいはい。神棚にずっと置いてたんだよ。あのとき、お袋に大説教くらったわ。あー思い出した……。まだカムイがいなかったな」
「なつかしいな……。あっ、そういえば、あの子!私のことマーシーの女マーシーの女って…もーはずかしい…どこであんな言葉…誰かがわたしのことそう言ってるのかな?」
「いんじゃねーの、気にするなよ。あの子は、悪い言葉をつかったんだな」
「はずかしいことばだよ」
「おれはチョコにまみれてしぬわ」
「いきかえるよね、チョコを食べると」


栗色の繊細な髪を、真志井の煙草臭い指先が何度もたどる。
ひざを抱えた杏が、真志井の腕に素直に甘える。


「さて何を返すかね、おまえに」
「何も。いいの」
「こんだけもらっちまって」
「結局私たちのバレンタインって、私が私のためだけにやってるイベントだよ」
「おれは何かもらっても名前わすれるからな。それに、そういうおまえをみるのがおもしろいんだよ」
「それがプレゼントになってるー?ならいいけど」


さっき言ってたとこ行って、おれがおごるか?
いいよ、そういうの。いつもどおりにしようよ。

毎月、真志井と杏が、同一の決まった額をキャッシュレスアプリに入れる。
そしてカムイをのぞいて二人だけの逢瀬のときは、そこから支払う取り決めも、三年も付き合えばすっかり慣れたものだ。


「お返しなんていいんだよ。だってきょうは、もう私のための一日じゃん?マーシーのためにあるはずなのに」
「へんなテンションになってるおまえを鑑賞して楽しむ日だな」
「やっぱ私のための日じゃん。マーシーに付き合ってもらっただけだから、いいの。私ね、チョコがだいすきなんだけどね、ひとりで食べるよりマーシーといっしょにたべるチョコが、いちばんおいしいの」
「じゃホワイトデーも、もっとヘンなテンションになってるおまえを楽しむ日にするわ」
「私をそーさせるのはマーシーだけだし……毎日がそうだよ」

その折、大理石のテーブルの隅に置かれていたiPhoneが震える。杏のものだ。スマートフォンをとりあげた杏が、届いたメッセージを確認する。杏が面倒をみていたあの少女からのものだ。あわててメッセージを開けば、彼にはなんとかチョコレートを渡せてよろこんでもらえたという旨が書かれてある。

そして続けて、些か長い文章が書かれている。

杏とともに作ったお菓子は大変な評判をよび、なにより杏に教えられたとおりに飾って学校へ行けば、たちまち異性からの注目を浴びはじめた。そして、バスケ部の彼にチョコレートを渡した帰り、となりのクラスの少年に声をかけられ、いわゆる逆チョコなるものを手にしたという。たいそう顔がよく、大変好みのタイプなので、もうこの人と付き合うつもりだ。

そんな旨の、生命力と瞬発力、そして合理性にあふれた、いきのいいメッセージが到着したわけだ。当の杏はその切り替えのよさとあいた口がふさがらないけれど、やがて、整いきった顔に、澄んだ笑みを浮かべて、スマートフォンをソファに放り出した。


「……」
「言わなくてもわかるぞ。カムイはそこまでキャッチしてたわ。あのこは顔しかみえてねえとおもいますっつってた」
「私がわかったのは、私が何もしなくたって、みんな勝手に幸せになるってこと」
「ん、怒ってるの?杏」
「怒ってないよ。私ができることなんて、ほんのすこしだけってことだよ…」
「そうだよ、杏はおれをしあわせにしてればいいんだ」
「もーマーシー……。あのね、マーシー、私がほしいのはねー」
「ん?」
「私がほしいものは、マーシーの、時間。……何より贅沢なものだよ。誰も奪えないものだと思う。私だって奪えないよ」
「どいつこいつも、そんなもんがほしくておれにからむのか」
「そう」

そうなんだよ。

杏がしみじみとつぶやいたそんな言葉を聞き流した真志井の長い腕は、卓上にひろげられたチョコレートのなかから、もっともアルコール分が濃厚なものを選び出した。ロシアの女性ショコラティエによるチョコレートの、カシスの味わいをじっくりと楽しむ。

咥内にねとりとひろがる甘みと格闘しながら、真志井は少し遠い声で呟いた。


「おまえにやれてるのかねえ」
「もらいすぎなくらい、もらってる。私はいつでもマーシーがほしい」
「言うねー、きょうは」
「ちゃんと言えてる?伝えられてるよね?」
「言えなかったのはおれだったよ。杏。すきだ」
「私もすきだよ、マーシー。だいすき」

困ったようにわらった真志井が、杏の小さなあごに手をそえる。
うつくしい顔を軽くもちあげて、その荒野のような手は、杏のしっとりとした頬にそえられた。
杏が、趣深い大きな瞳をゆっくりと閉じる。

素直に真志井を迎え入れるくちびるは、やっぱり濃密なショコラそのものだ。


「おまえを見てると幸せだよ。ありがとうな、杏。ま、チョコのブランド全部忘れたんだけどな」
「来年またおしえるからいいよ」
「その次もな。その次も。ずっと。ずっとおまえだ」
「ん…」

モヘアのニットに包まれた腕のほうが、先に真志井を呼んだ。真志井の首筋を求めた杏が、みずから彼の胸の中にとびこむ。ぽってりとしたくちびるが長髪をかき分けて、真志井のくびすじをそっとすべった。杏のオーラリーのポロニットのなかに、ひんやりとした温度の大きな手がしのびこむ。大地のような手は、杏の纏うコットンのインナーをかき分ける。がさついた手がうすい皮膚をたどり、ノンワイヤーのランジェリーにしのぶ。オーガニックコットン地のさわり心地は極上だ。


「杏」
「ん?」
「おれのなまえよんで」
「…………雄彦……くん…?」
「……まだはやいか」
「大丈夫になったら言ってね。いつでも呼ぶよ」

ほっそりとした腰に大きな手が忍びよる。喉の奥でくぐもった声をあげた杏が、一度大きく息を吸い込んで、真志井のことを求めた。

雄彦。

耳元でいたずらにささやくと、杏の膝下に大きな手が差し込まれた。しなやかな体がやおら抱かれ、ソファの上にあっけなく投げ出される。
雲のようなソファがしずむ。
真志井の小指を飾っていたリングが性急にぬきとられ、大理石のテーブルの上で音をたてた。

ショコラの味がますます濃厚にかわってゆく。

その名前が、重厚な甘みの中に飲み込まれる。

誰も呼べないその名前が、真昼とチョコレートのまどろみのなかに、ゆっくりと、溶けていく。

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