Night and day 16


軽くまとめられていたロングヘアが乱暴に掴まれる。愛らしい顔を素直にゆがめた杏の口元を、煙草臭い大きな手がふさいだ。どのみち、杏の乾ききった喉とすくみ上がった心から、声や言葉など出てきやしない。雨に叩かれる暗い部屋に、フラッシュのような光がさしこんだ。これは杏を救う光ではない。組み敷かれて蹂躙されようとする杏に、スマートフォンがかざされたのだ。知識も知恵も倫理ももたぬ醜いこどもにはまだ過ぎた機器が、真志井雄彦を無理矢理うごかすおもちゃとしての杏を捕らえようとする。少年たちに捕まっていた腕を懸命に振りほどこうとしても、杏を押さえ込む力は幼く強大なものだった。

幼稚な力を孕んだ手が、まるで奪い取ったおもちゃを離さぬように、醜い力を発揮する。
この少女を押さえておけば、あの小生意気な後輩少年が思いのままになるはずだ。そんな浅ましくそれでいてあっぱれなほど的確な思い込みは、醜い手に恐ろしいほどの力をあたえる。少年の手は杏の薄い体を守るブレザーのえりもとを、力任せに捕まえた。厚みのあるブレザーが、左右にあっけなく引き裂かれる。すると三つのボタンが容易にはじけ飛び、ほこりっぽい部室の片隅に転がった。

杏の切ない喉の奥から張り上げられる悲鳴は、杏の口をふさぐがさついた手のなかへかきけされた。
杏のうすっぺらい胸を覆うブラウスに、少年の両の手が掛けられる。
目の詰まった生地は簡単に破れないかわりに、第一ボタンと第二ボタンがあっけなく吹っ飛び、シャツのあいだからオフホワイトのコットンのキャミソールがのぞいた。清潔なインナーはかろうじて杏のことを守り続ける。生真面目な丈のスカートが翻ると、少年たちが杏のことを卑しい言葉で囃し立てた。


そのとき、杏が求めていた光は、意外な早さで、差し込んだ。


立て付けの悪い扉が、力任せに蹴飛ばされて情けなく開く。

澄みきった瞳を恐怖に染めて、口をふさがれ声を奪われた杏が、組み敷かれたまま、光の入り口を向いた。

「……」
「杏!!!」
「………」


そう叫んだ声は、あの慣れ親しんだテノールではなかった。鋭いバリトンボイスだ。

杏の頼りない体の上から、少年たちが蜘蛛の子を散らすように次々と退いたのも、バリトンボイスの持ち主への畏怖と恐怖によるものだ。

杏を呼んだのは、岬麻理央の声だった。

そして、岬につづいた深い沈黙の持ち主が、少年の背中の奥から、ゆらりとあらわれた。

彼の表情は、慌てて身を起こした杏に、このときまだ確かめられなかった。暗い雨が光を隠していたせいだ。

「せんぱいたちさあ」

あるじを失った部室に飄々とした声が響く。この頃の真志井は、むしろ今と比べて随分冷ややかであった。厚い生地のブレザーは、杏の腕をがんじがらめに拘束していた。性急に身を起こし、はじかれてしまったボタンをかきあつめることもできず、杏は身をよじってブレザーを元に戻す。そして、左右に裂かれてしまったシャツの襟元をつかんで、薄っぺらい胸元をあわてて隠し、身をすくめる。

真志井が一歩歩みをすすめる。杏が、悠然とした様の男友達をおそるおそる見上げた。怯えきっている少女が微かに震えている。そんな様を、低い温度の瞳で見遣った真志井は、意志の強い瞳で、部室の隅に固まった少年たちを厳しく睨んだ。


「杏、大丈夫か」

押さえ込まれていた身は起こせたものの、いまだへたりこむように座り込んでいた杏にもとにたどり着いてくれたのは、岬だ。

真志井の手は杏には伸びず、岬の大きな手が杏に差し伸べられる。


「だ、大丈夫、ごめんなさい、あの」
「杏」

来てくれて、ありがとう。

岬の大きな手は杏の痩せた肩のそばまで伸びて止まった。彼女を守りながら、杏のからだに触れない。その気遣いをすぐに悟った杏が、せっぱつまった気配を澄みきった瞳に浮かべながら、ちいさく謝罪した。そして、杏が気にかけ続けるのは、大切な友人の選ぶ行動だ。杏のせいで、この少年の未来や行く道が傷つくことがあってはならない。そう抱いた杏が、真志井を止めようとしたとき、ブレザーを肩にひっかけてシャツのえりもとをつかんだまま座り込んでいる杏の目の前に、学ランに包まれた長い腕がのびた。真志井と杏を遮る腕は、ふたりのことを守ろうとしている。


「杏」
「マーシー……!」
「ラオウと外出てて」
「杏、こっちだ」

真志井が杏に告げた声は、どこか好戦的な気配をはらんでいた。澄んだ瞳にひときわ恐怖の気色を滲ませた杏に、岬がもう一度、言葉を伝える。

マーシー。

そう呼びたい。そう叫びたい気持ちをこらえた杏が、愛らしい瞳を伏せて、静かにうなずく。

岬に促されて立ち上がった杏は、岬の背中にそっと隠された。そして岬に連れられて、杏はこの暗い部屋から飛び出す。うらぶれた部室のなかには、真志井一人が残った。そして彼女がきっとそうするだろうことを、彼女が何より岬と真志井の意志を尊ぶだろうことを、岬も真志井も理解していた。彼女の聡明さと、何より少年たち二人を理解する心は、今もこれからも、幾度も彼らを救った。けして少年たちを傷つけなかった。

そのかわり、杏の繊細な心が傷つきつづけて、杏はいつだってそれを、心の奥底にそっと隠し続けた。


XXLサイズの学ランを脱ぎ杏を守ろうとしてくれる岬のやさしさにこれ以上甘えるわけにはいかない。そう誓った杏は汚れてしまったブレザーをいそいそと着込む。破られてしまったシャツもブレザーで無理にかくした。小刻みに震える体はそれでもごまかせない。雨は強く変わっている。グラウンドで部活動を強行していた生徒たちも、ひきあげたようだ。学校の片隅で起こった暴力に気づいたものは、幸いといっていいのか、見当たらない。

杏、濡れるぞ。
岬がそうつぶやき、聡明な女の子を、大きな体でそっと隠す。

みずからの薄い胸元をぎゅっと掴んだままの杏が、閉ざされた部室をそっと見つめて、あの扉の向こうでたったひとりで立ち向かう男の子のことを、いまだ案じ続けている。

「…マーシー、全部、ひとりで……私のせいだよ」
「杏、ちがうぞ。それより、けがはないか?」
「ない、ありがとう、大丈夫なの。わたしは、いいの……。こうしなきゃいけないのはわかるの。わたしが騒いでも、何もできないこともわかる、だけど、マーシー……」
「用事は全部マーシーがすませる」
「……」
「マーシーに、ラオウは何もするなっていわれたんだ」

だから、おれは出来ることをするよ。
岬の穏やかな言葉が、杏の小さな心とうすい胸を打ち続ける。
彼の選択を信じる杏の口から、心とうらはらの声がこぼれおちてくる。

「マーシー、けんかして停学になったりしない?私のせいだよ、全部。私がしっかりしてないから…」
「杏。そこまではやらないっていってたぞ」
「だけど、何があるか、わからない……あの先輩たち、ひどいことするかも……」
「杏……」

彼女のやわらかな声と言葉、自らの心身より大切な人を想って傷つく感受性は、岬や真志井のことを勇気づけ、そして彼らはときに彼女から学んだ。杏もまた、岬や真志井から学んだ。あふれそうな感情を、真志井はいつだって適切にコントロールしていた。心からこぼれてくる感じやすい気持ちを大切に集めて正しい言葉と感情に変えることを、杏は真志井から学んだ。岬の強い心と、誰かを守りたい気持ちを、杏はいつか手にしたかった。きっと今がその時なのだろう。大切な友人のそばで、杏は華奢な体の震えを止められないまま、ただじっと真志井と岬の選択を尊重し続けた。


「マーシー信じて待つぞ。そういうやつだろ?あいつはだれより頭がいい」
「……岬くんって、ふしぎ……」
「何がだ?」
「…おうちの子たちにもこうしてるの?」
「ああ、似てるかも知れないな」

雨が強くこの学校を叩く。防音などあってないものだろう部室棟から聞こえてくるはずのおとを、何もないものにしてしまうほどに強い。

「かすみの家にくる子はな、ひどい目にあった子もいるんだ」
「……」
「本当にひどい話しもきく。何度もいっしょに泣いたんだよ。おれは、いっしょに泣くことしかできなかった。だからできることをするよ」
「できること」
「ああ」
「……今の私には、これしか、できない……」
「杏」

部室棟は、体育教官室のそばだ。玉石混淆の公立中学の生徒を束ねる教師たちが揃っているわけで、やがて、雨で部活動が中断されて今日の仕事を終えた体育教師がすがたをあらわした。一年生の体育を受け持つ男性教師で、厳しくて降るまいが粗野だけれど、公平さも持っている人物だ。杏も岬も、能力容貌ともに学校内で否が応でも目立つものをもつ。運動能力にすぐれたふたりのことは体育教師も周知していて、教師は少しの異変が観られるふたりに、何をやっているのかと一言尋ねた。そして、大きな少年のそばにいる女の子は、清潔なブレザーをよごし、左足のソックスをくるぶしまでさげて、痩せた身をすくめ、豊かな栗色の髪をみだしている。よくみれば、首元のボタンが不自然にとんでいる。栗色の髪が校則違反でないことも、教師は熟知している。体育の授業態度もたたき出す記録も成績も申し分ない女子生徒に起こった異変を悟った教師はまたたくまに血相を変えた。そして、岬という少年が抱える事情は、京華中学の教師たちの間で情報共有されている。人を傷つけるような生徒でないことも、また、誰もが理解している。

杏の名字に敬称をつけ、彼女のことを呼んだ教師は、つとめて丁寧に、無事かどうか尋ねる。杏は、聡明な瞳にしっかりとした意志をにじませて、大丈夫ですと伝えた。

日頃高圧的だと感じていた教師は、どうやら心の機微を理解する人間であったようだ。杏が毅然とうなずく姿を見届けた教師は、部室棟の異変にも気づく。

そして、旧ソフトボール部室の扉を勢いよく蹴飛ばした。


真志井か。もういいからさがりなさい。

そんな力強い声が部室のなかから聞こえてきたとき、教師と入れ違いで部室から真志井があらわれた。

彼のすがたは、岬と真志井が想定していたとおりの姿で、杏を深く傷つける有様だった。

「あーあ」
「マーシー、ああ、大丈夫そうだな」
「まあな。意外とせんこー早く来た」
「マーシー……!」

伸ばしているといった黒髪は乱れて、口元に赤黒い擦り傷がうまれている。右目にもすでに青いあざが育ちはじめて、学ランは右脇に抱えられている。その学ランもほこりとあしあとだらけで、清潔な白いシャツの首元に、しぶきのような鮮血がにじみ、土埃や足跡、そして大きな血の跡も見えた。

雨はやまない。渡り廊下に斜めに雨が降り注ぐ。
学生服のスラックスにも、汚れが目立つ。
真志井が少しだけ足下をぐらつかせた。頭めがけて殴られたのだ。

駆け寄った杏が、大切な親友の大きな体を、そっと抱き留める。

シャツごしに、少女のあたたかい体温を感じた。その瞬間、真志井の大きな手が、杏の恐ろしいほど華奢な体を、力任せに押した。


この頃すでに、真志井は、杏のことを好きだった。

この感情に恋というなまえが授けられていることも、理解していた。

好きな女の子の温かい手に、傷ついたからだを素直に労られるには、真志井は、まだ、青かった。

「……ごめん」
「あんまやられてねえの。それだけだよ」
「やっぱり言われたのか」
「この手でくるとおもったわ」
「おまえの言うとおりだったよ。ここで暴れるとそうなるよな。あのセンコーはなかなかのタマだな」
「てきとーに大人使っときゃいいんだよ」
「マーシー、あの…」
「杏、我慢してくれたんだろ。ありがとうな」

百戦錬磨で、経験値も高い。一年生にして、彼ら特有の闘いの場の経験を積み重ねている。そんな彼らしか理解できない高度な会話だ。
岬と真志井は、杏の世界を守りながら、杏のそばにいてくれる。
杏は彼らにしかつたわらない言葉を、懸命に理解しようとこころみる。けれど、追いつかない部分だってある。これからも、岬と真志井のそばにいたい。彼らの重視するものを理解できないときだってあるけれど、けして逃げたくない。そして彼らが守ろうとするものを、杏も、大切にしていたい。そんな気持ちでちいさなこころをいっぱいにした杏が、振り絞るような声で、真志井にたずねる。


「マーシー、何があったの…」


腕組みをした岬が、困ったようなため息をつく。

そして真志井も深いためいきをついた。

かわいた唇からつむがれる言葉。

それは、確かに、杏のいたいけなからだとこころを、深く貫き続けるものだった。


「やりかえしたら、杏がどうなるかわかってんだろうなって言われた」
「……」
「おとなしくしてねーと、杏にまた手ぇだすぞって言うんだ。おまえが暴れたら、また杏を捕まえるっつーから。また杏をさらっちまうぞっつーから」
「……」

今度は、杏もこんなもんじゃすまねえぞっつったんだ。

つか、そうやって脅してくんのも、全部わかってた。


大きな手で、腫れ上がった口元をぐいと拭った真志井が、吐き捨てるように述べた。
呆然とした表情に変化してゆく杏を、岬が慎重に見守り続ける。そして、杏の壊れやすい心をそっと守るために伝える。

「杏。杏が悪いんじゃないからな。マーシーが悪いわけでもない。おまらふたりとも、悪くないよ」
「じゃあ俺のこと好きにしろって言ったんだ。好きなだけ俺をボコれっつってやった」
「……」
「そのかわり、ぜってぇ杏に、手ぇだすな。ボコられてやっから、もう杏に関わるなって言った」
「マーシー…」
「おれはどうなってもいい。ボコられてもいい。ダサくてかまわねえんだ。やられてもかまわねえ。負けたっていい。何されようと、何をいわれようと、どうだっていいよ。だけど、」

心からの言葉を淡々と紡ぎ続ける真志井が、スラックスのポケットをさぐる。

「杏だけはやめてくれっつった」

岬の眉がぴくりと動く。
その語気にはらむものは、真志井の弱さだった。
弱くやさしい真志井を、素直にさらけだしたことに岬は驚いた。


「二度と杏に関わるなっつった」


あった。ボタンだ。はい。

スラックスのポケットに忍ばされていたのは、杏のブレザーとシャツから引きちぎられたボタンだ。にぎりこぶしのなかに大切に納められたそれを、真志井は杏の眼前にずいと突き出した。


「杏に。
ラオウに。
ラオウの家族に。
おれの家族に。
杏のダチに」

しなやかな手をのばした杏が、真志井のこぶしに、自らの手をそっと添える。

汗ばんでしまった手が、真志井のこぶしをそっと包む。

腕組みをしたままの岬が、誰よりも強い男が、二人のえらぶ行動を、ただじっと見守り続けた。

やがて体育教官室に集まり始めたのは、生徒指導の教師に、上級生を管理する担任教師、そしてさらに腕っ節自慢の体育教師たちだ。

問題を大人たちに引き継いだ真志井は、あまりにも大人びたテノールで、しずかに語らい続ける。


「杏に」


雨がやむ。

雲間から、夕方のひかりがさす。

杏の美しい横顔が、オレンジ色のひかりに照らされる。
聡明な瞳が、真志井の言葉にはらむ心を一粒ずつひろいあげて、ますます冴え渡ってゆく。


「おれなんかどうなってもいいから」


整った口元にうまれた傷を力任せにぬぐうと、真志井の痛覚に鮮烈なものが走った。


「杏に、ぜってぇ手ぇだすな」

杏の小さな心が、真志井の目の前で、海のように深くなってゆく。
真志井の傷ついた命が、あたたかい海に満たされて行く。

雨があがる。
光がさす。
少女の栗色の髪は、いつのまにかほどけて、切ない背中一杯にひろがり、彼女を神々しく輝かせている。

岬は、確かに、そんな光景を、しかと目撃した。


「杏に、二度と手をだすな」


そう言ったんだ。

真志井という男の子が、ふりしぼるように伝えてくれる真実。

杏はその言葉を、ただまっすぐに、受け止め続けた。

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