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『学校にバレンタインのチョコレートを持ってきた子は、3年の先輩にシメられるらしい』

あの頃の杏は、理不尽や不合理な事象へ疑問を持つまっすぐな心も萌芽していたけれど、噂の出所も曖昧で誰が決めたかもわからぬ怪情報にあっけなく怯えてしまう幼さも残っていた。知性のバランスがいまだ曖昧であり、自分自身や芯といったものは、まだ弱さも見え隠れしていた。

そんな杏は、素直に奇妙な噂に戦慄した。

杏の2月14日の持ち物は校則の規定どおりであった。

しかしクラスメイトたちのバッグのなかにはいろとりどりのお菓子が詰め込まれていた。荒廃の名残がいまだきえぬ中学校でのびのびとすごす二年生や三年生も、恋の季節に浮かれていた。校内のあちこちで、愛くるしい花が咲いていた。


つまり、流れていた噂は、恋のライバルをだしぬくための、デマゴーグだったのだ。


杏が想っている男の子は、いつだって沢山の仲間たちに囲まれている。杏もそのなかのひとりだ。2月初めの席替えは、成績を度外視し、くじ引きで行われた。その結果杏の席は教室の最後尾、そして真志井雄彦の席は教卓の目の前を宛てられることとなった。二人の距離はすっかり離れてしまった。狭い教室が、13歳のこどもたちの広い世界だ。そんな真志井は、担任教師の申し訳程度の小言をよそに、たくさんのお菓子を獲得していた。

杏はあげないの?杏は幸い聡明な友人にめぐまれた。杏の迷いや惑いを大切にしてくれる友人にめぐまれ、杏もまた友人たちのそんな気持ちを大切にすることにつとめた。おそるおそるそう尋ねてくれた友人へ、穏やかな顔で笑った杏が、友人の気遣いに軽くうなずいた。そして友人たちは、勇気をだしてルールを破り、仲の良い男の子たちと楽しそうに語らっている。

怖がっていたのは杏だけだった。

真志井のしっかりとした質量は、いつも杏のそばにあるけれど、今日は彼が、とても遠い。

杏はこの日、ルールを守ることがすべてではない。自分の行動は自分で決めて責任を持つことこそ重要だ。
そんな答えを、みつけた。



「お母さん、このなかのひとつ、マーシーにあげてもいい?」

いいわけねぇだろ。

ラフな言葉使いで一人娘に釘をさしたのは、今日は一日在宅で仕事をしていた杏の母だ。杏に似た栗色の髪をゆいあげて、ハイブランドのルームウェアをこれ見よがしに纏っている。数少ない得意料理であるトマトチーズリゾットを夕食として娘に振る舞ったあと、痩せた体に次々にチョコレートを放り込み始めた。

杏が指さしたのは、母親が百貨店の催事を渡り歩いて買い集めてきたチョコレートの山である。
そのうえ、娘が適当に指さしたチョコレートはよりによってイヴァンヴァレンティンであったことを理由に、母親の語気は実に強かった。


「じゃあ、今から買ってくる…」


豊かにうねる栗色の髪を、瞬く間に憶えたヘアアイロンさばきで整えた杏は、長い足を包むデニムパンツに、トラッドなダッフルコートを纏っている。バトナーのニットは牧歌的なムードである代わり、彼女に年相応の愛らしさをもたらす。
夜も7時をまわったころ、かしこまった私服に着替えた少女は、フレンチブランドのトートバッグを携え、温かい家から出かける算段でいる。女子中学生には似合わぬ時間だ。


「今から−?うーん、ギリギリか。あのコの家近いもんね。8時までに帰りなさいよ。来年は事前に準備だよ」
「あのね、チョコ持って行ったらシメられるってうわさだったの。だけどみんな学校に持ってきてたんだ…」
「鵜呑みにしたのね……情報の取捨選択ができてないね」
「買ってくる…そのままわたす…。これだけは、やらないと後悔する気がするの」


清潔なアルトボイスに杏らしい意志の強さをにじませて、少女はきびきびとした足取りでリビングをあとにした。長い髪をまとめなおした母親が、ダイニングチェアに引っかけていたストールをとりあげて、あわてて彼女を追いかける。


「まって。寒いよ」


ピンク色の生地に、ピンクのタグ。圧縮ウールで織られた大きなストールが、杏のからだをやわらかく守った。
ロエベの香水が振り撒かれている。前衛的なデザインを誇る北欧ブランドの、シンプルな大きなストールは、この頃すでに身長が160に達していた杏の幼い体を、実に愛らしく演出した。アクネストゥディオス。そんなロゴがプリントされたタグが片隅に縫われているストールで痩身を飾った杏が、母親のことを、少しだけ不安な表情で見上げてみせる。すると庇護欲をいささか強めに煽るほどの愛らしさも見え隠れする。彼女のなかの自信はまだ、おずおずとしたスピードでしか育たない。


「我が子ながらかわいいわ。それ履いていいよ、あとバッグはこっちね」


母親の部屋からあふれた靴や鞄は、玄関のシューズボックスも侵食している。杏の母は、スタイリストの家のように小物があふれんばかりに並ぶ靴箱から、13歳の少女を飾る逸品を手早くセレクトした。杏は母親のスタイリングに、いっぱしに意見をしてみせる。


「いやだ、この足袋のやつ、足痛くなる。それとマーシーこれ知ってたよ。マルジェラ……」
「本気で履けとか言ってないよ。それにそこが信用ならんのよあの子は。中身はきっと35歳ね」
「マーシーそういうこと言われるのいやっていってた!!好きで大人なわけじゃないって…」
「あらごめん。そうだよね。杏もそうだもんね。せめてレペット。スニーカーはまとまりがなく見える」
「それは、そうおもう…。この鞄は重いし、私に合ってない気がする。おなじアクネのこっち借りるね!行ってきます…」

送ってもらいなよ。なんかあったら連絡してね。車で迎えに行くから。あとマーシーのお母さんによろしくね!私のママ友はあの人しかいないの!

電子たばこをとりだした母親がいい加減におくるエールに神妙にうなずいた杏が、寒い夜の町へとびだした。


彼はまだスマートフォンをもたない。
介護職の母親の一馬力の家計からぜいたくともいえる通信費を捻出することに苦心している。2年になったら買うつもりだと話していたけれど、真志井本人はああした機器に執着せず、情報や人とおなじモノをもっていないことに全く振り回されぬ肝もすでに持っていて、杏は真志井のそんな部分に憧れ続けている。

そして杏も、最新の通信機器を入手してまだ一ヶ月といったところだ。

アップル社の機器を手に入れて、より自由な情報を手にした生活をおくるためには、入学から続く定期考査で常に5番以内の成績を収め続けることが条件だった。

そして杏は、母親の与えた厳しいタスクを見事クリアした。ほんの数ヶ月前、クリスマスプレゼントとしてiPhoneminiを買ってもらったばかりだ。


つまり、やり残したことを遂げるために夜道に飛び出したところで、杏が思う少年にすみやかな連絡はとれない。
何の約束も取り付けていない彼のもとへ、この身ひとつで飛び込んでいくほかないのだ。川縁に建つコンビニは、こんな夜も人であふれている。ごったがえすコンビニの片隅にあったチョコレートの山のなかに、真志井が好みそうなデザインのパッケージがみつかった。ブルーとブラックの色味でデザインされた箱をつかんだ杏は、1000円でおつりの来るチョコレートを手に入れる。


事前に約束していればよかった。
勇気をだして、伝えていればよかった。
そう後悔しながらも、杏の目的地も目標もひとつだ。橋を渡って町の向こう側へでれば、杏の暮らす地区と様相は一変する。それでいて、其処も杏の慣れ親しんだ町だ。

ここに、杏の想う男の子は暮らしている。

杏のはやる足は、古いアパートの前にあっけなくたどりつく。黒く暮れ始める夜のなかに、アプリコットカラーのつややかなくちびるから、雪のような息が舞った。夕暮れのような色のチークで彩られた頬が淡く上気する。澄んだ瞳が、102という数字をまっすぐみつめた。

窓から光がこぼれている。
テレビ番組の音と、煮込み料理のほっとする香りが漂う。

古ぼけたチャイムに、ほそい人差し指を差し込んだ杏は、小さな部屋のなかに呼び鈴を鳴らすと同時に、アルトボイスを張り上げて礼儀正しい挨拶をおくった。


「こんばんは」


ほどなく廊下を叩く足音がひびき、扉が押される。杏がすこしだけあとずさった。
立て付けの悪い扉の向こうからあらわれたのはおだやかな風情の女性だ。小柄な体をフリース素材の黒いジャケットとシンプルなジャージーボトムが包んでいる。杏より小さな体の女性は、凜と立っている杏をみつけて、ひどくやさしく笑ってくれた。

真志井雄彦の母親だ。
高身長を誇り常日頃から隙のない装飾を絶やさぬ杏の母親と、すべてにおいて対照的だ。けれど杏と真志井の母親は、すでに親交を深めていた。


「杏ちゃんーーー!」
「こんばんは、夜分遅くに申し訳ありません。マーシー……じゃなくて、雄彦くん、は、いらっしゃいますか…?」


杏ちゃんだったらいつでもいいよー。
背筋を凜とのばしながら、整った顔に緊張の様相をみせる少女へ、いかにも母親然とした女性は、そう伝えて穏やかに笑った。

「雄彦!」

扉の奥を振り向いた母親が、暗く狭い廊下の奥にいるであろう少年にむかって、ハリのある声をあげた。
ほどなくして、杏の会いたかった男の子がすがたをみせる。

ちいさな母親の肩口から、精悍な顔がのぞく。

清潔なスウェットにシンプルなパンツ。伸びてきた髪を後ろで結うと、ひどくおとなびて見える。
飾らぬ姿でも、すでにこの頃、真志井雄彦は、堂々たる少年らしさを持っていた。


「杏…?」
「マーシー、あの、い、いきなりきてごめんね、話したいことと、わたしたいものが…」
「びびったけど、おれがスマホ持ってないのがわるいんだよ。わりぃ杏、ここデカい声だしてるとすげー隣にきこえるんだ…」
「ごめん、あ、じゃあ、もう、これだけ…」


杏ちゃん、落ち着いて。
真志井の母が、気持ちが逸って耳を真っ赤にそめた少女の心を、穏やかな声でそっと鎮めた。


「本当にお隣にきこえるの。ごめんね杏ちゃんこんな家でー。さむいなか雄彦に会いにきてくれてありがとう」
「そ、そんなことないです!いっぱい着てきたから…」


こ、こういうかんじー…。小さな顔をピンクのストールに埋めた杏が、体を覆うそれを得意げに指をさせば、真志井の母はますますやわらかくわらってくれて、杏が会いたかった男の子も、今日まで信頼と友愛を育て合ってきた異性の親友の素直で愛らしいすがたを、しばしまっすぐに見つめることとなった。


「ごめんなさい、遅い時間ですが、ましいくんと、雄彦くんと、ちょっとだけお話させてください」
「雄彦、少しだけ出てきたら?杏ちゃんごはんは?」
「食べました!あの、お食事時でしたよね、失礼しました」
「終わったとこなのー」
「いいにおいがします」


杏と母親が語らう合間をみて、狭く短い廊下を小走りに駆けた真志井は、広い和室をカーテンで区切って母親と分け合う自室の押し入れから、バブアーのジャケットと、古着屋で探し当てたドイツのブランドのマフラーをひっつかんだ。ジャケットは父親の形見だ。


「杏、行こうぜ」

礼儀正しく頭を下げ続ける杏の、ダッフルコート越しの腕を引っ張った真志井は、足早に夜の町へ消えてゆく。
真志井に軽々と引きずられた杏は、もういいよ、離してと真志井に伝えて、ようやく彼の隣を歩き始めた。

少女から、慣れぬ香水のかおりが漂う。真志井の母は香水とは無縁だ。真志井はこの香水がロエベのもの、その名もウーマンという香りであることを、この夜のずいぶん後に知った。清廉で大人っぽくて、そして複雑な香りを、真志井はけして嫌悪を抱かなかった。


「今日、杏と全然話せなかった」
「マーシー、みんなに囲まれてた!今日はとくににんきものだった!」
「いつも喋ってるやつと話せねえと、なんか変な気分だな」
「あの、いきなりごめんね、夜なのに。マーシーに、どうしても会いたかったんだ」
「おれもおまえと今日話せたらなっておもってたから。おまえさっさと帰っちまうしな」
「そうなの…。後悔してたんだ。ね、私、さっき、た、雄彦くんって、よんじゃったね」
「杏」
「ん?」
「その呼び方、やめてくれ」
「…勝手になまえ呼んじゃって、ごめんなさい。もう辞めるね。マーシーってよぶから…」

私も、下の名前が呼びやすい名前でしょう。
だけどそんなに仲良くない子に勝手に呼び捨てされたら、複雑な気持ちになっちゃうから。

真志井の申し出に素直に謝罪し、なめらかに言葉をつづける彼女の顔は、栗色のロングヘアで隠れている。落ち着いた声で語りながら、それでも隣を歩いてくれる真志井のことは見つめられなくて、早速失敗してしまった杏は、小さな心に、深い深い傷を負った。

そして当の真志井雄彦といえば、口から出た言葉は二度と戻らない。そんな事実を目の当たりにして、深い深い後悔にくれている。

自分自身にはやや勇ましすぎる名前を、大切な子に、おもむろによばれたこと。

いつか彼女に、このなまえを呼んで欲しかった、そんな願いが、突然かなってしまったこと。

そんな事実に、ただ動揺し、ただ照れをみせただけにすぎなかった。

そして真志井の太い心のなかに巣食っている少年らしい濃厚な自意識は、真志井自身に言い訳もゆるしてくれなければ、彼女に対してすなおな謝罪をつむぐこともできない。

こんな夜に、杏を傷つけてしまった。

ジャケットのポケットに大きな両手を突っ込んだ真志井が、冷涼な顔だちに感情を滲ませぬままうつむいていると、杏が話題をなめらかに切り替える。


「きょう、約束したらよかったな。いきなりだったのに付き合ってくれてありがとう」
「そうだなー、こんな遅くに。あぶないぞ…」
「だけどコンビニ大混雑だったよ!それにまだまだ人いるよ」
「そーだな…なんだこいつら……。じゃ公園でもいくか?」
「それがコンビニの前の公園も、川辺も、いっぱいひといたんだよ!なんかもう、学校の続きみたいだったの!すごくうるさいの。近くの家の人めーわくだとおもう」
「げーみんな考えることいっしょか。うちの中学のやつもいるな。加地屋のやつもいそうだ。揉めたくないわ」


じゃあ、歩きながら話そうぜ。ごめんね寒いのに。幾度も謝り続ける杏に、真志井は冷静な声で、いいよと伝えた。
帰宅は8時と母親に告げられている。ルールが全てではないことを今日理解した杏だけれど、守らなければならないルールだってある。いつまでもこの少年の時間を借りるわけにもいかない。杏は、真志井の傍を歩きながら、本題を素直に切り出した。


「いきなりなんだけど、バレンタインのチョコ。やっぱりマーシーにあげたくて。さっき買ったところで、簡単なものなの。受け取ってくれたらうれしいんだけど…」
「簡単なの?なんかリボンとかついてっけど」

ストールとおなじブランドのバッグから、杏がいそいそとチョコレートを取り出した瞬間。

真志井の大きな手が、杏からのバレンタインのおくりものを、ぞんざいな仕草でひったくる。

光沢のあるブルーの包装紙に包まれたチョコレートの箱に、ブラックのリボンがかかっている。何度も裏返したり、表面をまじまじと眺めたり、そんな仕草でチョコレートの箱を観察する真志井のあゆみは大股で、早くて、杏は小走りで彼のことを追いかけてゆく。

「簡単なのー……。コンビニで買ったの……。あのね私、マーシーに、もっとちゃんとしたのを送りたかった」
「けどこんなふうにつつまれてるぞ。すげーじゃん」
「あ、あのね、マーシー、バレンタインじゃん?ちょっとだけ話きいてもらってもいい?」
「ん、うん」
「だから、ちょっとだけゆっくり歩いてほしいんだけど、いい?」
「あ、ああ、わかった」

真志井が履いていたのはコンバースのハイカットで、ブラックのスニーカーが小汚いアスファルトをゆっくりと叩き始めた。杏のブラックのレペットが、ようやく真志井とおなじあゆみになる。

息を弾ませた杏が、マーシーと呼ぶ。

真志井はすでに身長が168センチまで育っていて、杏も160をこえたところだ。

心地よい距離を選んでくれる女の子のことを、真志井は、すっぱりときれたまぶたで、真剣に見遣った。

真志井をみあげた杏が続ける。


「あのね、マーシー、いつも、私と友だちでいてくれて、私の話をいつも聞いてくれて、数学も教えてくれて…私とたくさん喋ってくれて……、マーシーは思ったことをはっきり伝えてくれるのに、私がきずつくよーなことは、いわないの」

言っただろ、さっき。

真志井の分厚い心の中にそんな言葉が浮かんで消えた。


「マーシーがいるから、私、毎日、学校が楽しいの!」

杏のレペットがアスファルトを蹴って、細い体が真志井の前にまわりこむ。異国の女の子のように整えられた髪が、愛らしい顔を引き立てる。

真志井のそばにいることがいつしか当たりまえになった女の子が、小さな顔いっぱいにわらった。

チョコレートを掴んだままの真志井は、可愛い女の子がますます愛くるしく変わる瞬間を、ただまっすぐ見つめた。


「マーシー、ともだちでいてくれて、ありがとう!チョコは、今までのお礼!」


伝えられてよかったー……。

その言葉が、杏が真志井の歩みをとめてまで伝えたかったことの、すべてだった。


「?おまえ転校でもすんの?」
「え!!なんで!?」
「んな改まったことゆーから…」
「私、わかった」
「何が?」
「みんなこういうチャンスを使って、お礼をいってるんじゃないかなー」
「えっ?そういう日じゃなくね?」


えっ……
えっ……

杏の丸い瞳は満月のようにますます丸くなる。

そして。真志井の切れ味のするどい瞳に、途端に、こどもじみた隙がよぎった。

ふたりして、おなじ音色の驚きの声をあげた。
それでいて、孕む意味はそれぞれ異なっている。

杏からひったくったチョコレートをつかんだ真志井が、しぼりだすように尋ねた。


「……ほかのやつにはあげたの」


すると、しばし呆然とした様相をみせていた杏に、はたと生気が戻る。
澄みきった声が、夜の歩道に響き渡った。


「だれにも、あげてないよ」
「ラオウにも?」
「あげてない…」


マーシー、だけ……。

そーか。

ブルーのパッケージのチョコレートを壊れそうなほどに掴んだ真志井が、そうつぶやいて、荒れたくちびるをかみしめた。


「マーシーは、チョコをいっぱいもらってた…やっぱりみんな、マーシーのこと、」
「んー、今度遊ぼうとか…」
「……みんな、マーシーと……」
「あそぶか。そんなひまねーもん。んでお袋がすぐチョコ食えっつーからさ、食うとさ、ここ、もうニキビできてねえか?」
「ここ?あ、あのね、これは前からあったよ。大丈夫、すぐによくなるよ」
「おれのことよく見てるなあ、杏。そうか、すぐ影響でたりしないか」


杏の元に顔をよせて顎をゆびさす。確かにフェイスラインににきびが頻発しているが、これは以前から生まれていたものだ。
外灯や自動販売機のあかりのもとで、真志井の精悍な顔を確かめる。二人が育て続けてきた距離は、やはりふたりらしいものだった。

そして、杏から少しだけ離れた真志井が、うつむきがちな様子でこぼす。


「な、付き合うって、なにすんの」
「付き合う……?わかんない……。やっぱり、だれかに、いわれた……?」
「あー、うん。好きとかは、ゆわれてない。けどなんか……マーシー、ウチとつきあおーとか、いろんなやつにいわれた」
「……そうだったんだ……」
「けど全員に、うるせーよつきあわねーよっつった。わかんねーもん。なんで付き合うとかになるんだよ」


おれとおまえは、ちがうのか。
この時間はそうじゃないのか。
この時間に、この距離に、
おれとおまえに、どんな名前をつければいいのか。

分厚い手の平にじっとりと汗がにじみ、安っぽい包装紙のコーティングは少年の手の平の水分をはじく。


「……わ、私ね、」
「杏」
「……うん」
「おれも、おまえと」
「…」
「…ともだちになれて、よかった」
「…ありがとう!!」


ありがとうーー……。

本当に後悔をしなかったのか。
後悔が残るのか。
ほんとうののぞみは、何なのか。
ただ想い続けているだけでかまわないのか。

この時間は、いったい何なのか。

杏のちっぽけな心に、新しい風が吹き始める。


「…」
「…」
「杏、時間が、おそいだろ?」
「あ!ほんとだ、ちゃんと守らなきゃ。8時までっていわれてる。ちゃんと約束守らないと、これからもマーシーと遊べなくなるかもしれない」
「げ、最悪じゃん。すぐ帰ろうぜ。おまえのお母さん厳しいよな。だけど、ちゃんと筋がとおってる」
「そうなの。だから、そうするの。ばいばい……マーシー…………」
「おれが家までおくるよ」
「私ん家、もう見えてるのに?」
「そういうことじゃないよ」

おれんち、ばんめし大根と豚の角煮だった。杏は?リゾットとー、セロリと馬鈴薯としょうがのスープ!美味しかったよ。すげーな。杏がつくったの?ううん、お母さん。おれも親の手伝い、今日はできなかったわ。チョコくうのにいそがしかったからな。

そんな会話を重ねながら、真志井と杏は、閑静な住宅街の夜を歩く。
狭い路地から車が来ないか、真志井は慎重に注意を払う。運転の荒い地域だ。彼女に何かあっては示しがつかないからだ。

そのおり、真志井の大きな手の甲が、杏のやわらかな手にそっとふれた。ふたりの手はすぐに離れてゆく。

杏が少しだけうつむく。澄んだ瞳が少しだけ震えていた。

真志井は、汚染された空を見上げた。精悍なくちびるをしっかりと引き結んだまま、ひとつ瞬きをした。

欲しい物がすこしずつ見えてくる。幼い視界が、みるみるうちにクリアに変わる。

バッグをぎゅっとつかんだ杏は、足下のバレエシューズを見つめたままだ。

「マーシー」
「うん」
「……ありがとう」
「……うん」
「ありがとう……」
「……」

真志井がすっかり伝えそこねた言葉を、杏が幾度も伝えた。

心の奥底にしずんだたったひとつの言葉を、忘れたまま。

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