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「これは、イェオシュカラート」
「しらん」

プロレベルの仕様を誇る空気清浄機の加湿機能が、ホワイト基調の清潔なリビングに適切な湿度をもたらす。息を潜めるように駆動するエアコンの吐き出す暖気と高気密で高断熱な素材に守られた住宅が、刃物のように冷たい外界から、真志井雄彦と杏をおだやかに守る。気密や断熱などあったものではない木造住宅に暮らす真志井は、冬場あの家に杏を連れ込むことは、よほど真志井の精神が杏を求めているときをのぞき、避けている。晩秋から早春にかけて、杏の自宅がもはや真志井の第二の居場所で、今日のふたりといえば、は少し手狭な杏の自室ではなく、えらんだのは広いリビングだ。冷たい外の世界から繭のように温かい世界へ真志井はしばし隠遁をきめこんでいる。

この隠遁は、恋の味に満ちている。今日が、甘みで彩られた愛の日だからだ。

ふわふわの雲のようなソファに、186センチの長身を我が物顔でよこたえる。サングラスは、ソファの前のローテーブルのかたすみにほうられている。

杏の部屋から借りてきたのはエドワード・ホッパーの絵をモチーフとした短編集で、彼女の家に訪れたとき一篇ずつ読むのにちょうどよかった。しかし今、真志井の冴え渡る頭は、とこかとろけはじめている。


「ロシアのチョコです。女性のショコラティエだよ、かっこいいよね。どうしよ、ラズベリー……もきになるけど、ボロディーノパンにしよ。お、お、おいしい……」


カリモクケーススタディのコーヒーテーブルのうえにマイペースに突っ伏し、呪文のような言葉を唱え、世にも大人びた甘さを誇るお菓子の数々を次から次へ細いからだへ放り込んでは歓喜と昇天と陶酔の声をあげる恋人のせい、だけではない。

真志井の大きな体躯もときすでにおそく、チョコレートに侵されているからだ。

大理石のテーブルのうえには、杏と杏の母親が催事で買い込んだチョコレートが所狭しとならんでいる。

2月14日は昨日に終えた。真志井はアルバイトとどうしても外せなかったイベントにのぞみ、杏は杏で、杏をのぞむ人たちの願いを叶えるために、忙しない一日をすごした。

そして、2月15日。
休日の午後。

一日おくれのふたりきりのバレンタイン。

リビングにはコーヒーのあでやかな香りが充満し、この日をいろどるチョコレートの数々に華を添えている。
そしてチョコレートの山のなかでとろけているのは真志井ではなく、恋人の杏だ。モヘアのクロップド丈ポロニットはダスティピンクという難しいカラーだが彼女は難なく着こなす。そこからのぞく痩せた腰を、整った顔を分厚い書籍で半分隠した真志井は存分に鑑賞ずみだ。


「おいしいよーマーシー……!!」
「よかったですね杏さん」
「次のちょこにいきます。これがクリスティーヌ・フェルベール!アルザスでつくってるんだよ。フェルベールさんはね、ジャムのまじゅつしでー…」
「しるか」
「ジャムのまほうつかいなのに。ここはチョコじゃなくてコンフィチュールを買ったんだ。スコーンにコンフィチュールぬった。たべてみて」
「はあ?」


使い込まれた布のようになじみきった関係だ。真志井は、精巧な顔に、正直な感情をあらわにすることもいとわない。すっぱりときれた瞼に辟易といった気配を浮かべる。カリモクのテーブルのまえ、上質なラグの上にぺたりとすわりこんだ杏が、思わぬことを言って振り向いた様をとらえて、正直な声をあげた。
真志井を背にお菓子の山に集中していた杏が、唐突に彼氏のことを振り返った。杏はこんな日に合わせて、深いブラウンのメイクで、情趣深い目元をいろどっている。そしてぱっちりとひらいた澄んだ瞳で、何がおかしいのか。そんなことを訴えるように、真志井をみつめる。そして、ソファを真志井にうばわれたかわりにラグの上に座った彼女が、自らのそばをゆびさした。

気だるい様でうなずいた真志井が、分厚い本を放り出す。大きな体を起こし、彼女のそばに悠然とすわった。


「コーヒーもあるけど、まずはたべて」
「……ん、トマトか……バニラもあるだろ」
「すごい、やっぱり見抜いちゃうね。トマトのジャムなんだよ、そんなかんじしないよね」
「ふーん。やるな…」

真志井の口のなかから水分をうばいとるスコーンは杏の手作りで、真志井はこれひとつでもできばえのいい贈り物として充分事足りるのだけれど、天然大理石の上に広がったチョコレートはまだ、真志井のことをゆるしてくれない。



「次。これはーー、アトリエガトー!」
「しらねーよ」


ビスキュイ、お、お、お、い、しい……。

聡明さと落ち着きを誇る女の子は真志井に寄り添うに足るどこか冷ややかで知性に重きを置いた性分の持ち主かと思いきや、杏の等身大の心は、可愛いものやおもしろいものにときめく、実にシンプルで、実に年相応の、愛くるしいものにすぎない。真志井の知る彼女はしょせんこんな女の子だ。再び大理石に突っ伏した彼女の稚気に、成熟や瀟洒を掲げる真志井はほとほと付き合っていられない。

とはいえ、スラックスからとりだしたスマートフォンでSNSをのぞいてはみるものの、今日もソーシャルネットの世界で繰り広げられる時間の無駄でしかない情報合戦にエゴのぶつけあい、そんなもにもほとほと辟易している真志井は、わけのわからぬ世界に耽溺する愛すべき少女のもとへとどのつまり、帰ってくるほかないのだ。真志井は、アラビアのマグをとりあげる。落ち着いた温度のコーヒーを、そのままの色味のまま、味わった。


これは!

そんな彼氏をよそに、真志井の彼女は、バレンタインを満喫し続けている。


「モリヨシダ」
「にほんじんもいるのな」
「これは私のこのみじゃなくて、親のこのみ。食べたらころすっていわれてる」
「まさかおれんちのアパートの壁に落書きしたの…」
「ちがうとおもうよ。だからみるだけ。見た。はい、おわり」


渋谷にお店があるの。ね、マーシー、今度いこうよ。一度行ってみたいの。杏がそう提案すると、マグにくちびるをつけた真志井が、遠い。そう一蹴する。そうだけどー。次に真志井に紹介する赤いビロードケースに入ったチョコレートを手間に寄せた杏が、素直な声色で不平の意を表明した。


「んー、いくか」
「いっしょに行ってくれる?ありがとう」
「いくとこ決めてもらう方がおれは気楽だからな」
「楽しみ……!!で、私はこれがいちばんすきなの。ピッコロパスティッ…」
「しらねえわ」
「これも女性ショコラティエで、日本人なんだよ。しょーがないな、ましいくんにユミコサイムラのジャンドュイヤを食べさせてあげるよ。はい。口開けて」

日頃より何倍も幼い口調で真志井にじゃれる杏が、ビロード地のケースのなかから、ヨーロッパのメルヘンな家屋の屋根のような形のショコラをとりだした。まずひとつ、みずからの潤ったくちびるのなかへ放り込む。そして左手をそっと添えて、つまみあげたチョコレートを、そばで見守ってくれる恋人の荒れたくちびるのもとへ運んだ。


「おまえがくってるやつくれ」
「だめ。チョコでそれは、しゃれにならないので!」
「……」
「美味しいでしょうー」


素直に口を開けた真志井のからだのなかへ、とろけそうなショコラがおりてゆく。

杏の太鼓判に、真志井は、深々とうなずいた。

これぞ成熟。瀟洒。スタイリッシュ。センス。そんなものをすべて詰め込み固めたようなチョコレートのアダルトなあじわいに感服するほかない。

真志井も、杏のおかげで、ずいぶんと甘味に関する経験を積んだ。一定の境地に達した者にしか分からない味というものがあるのだろう。そんなことを抱きながら、乾燥した親指のさきでくちびるをぬぐった真志井が、彼女へたずねる。


「去年おれが食わされたのなんだっけ」
「ニコラ・ベルナルデとか、ダヴィドカピィとか。マーシーはさっきしらん!っていったけど、イオエシュカラートも食べてます」
「来年またおしえろ。もう全部忘れちまったわ」
「マーシーはやることが多いもん。チョコの情報はマーシーの邪魔だから、いったん忘れて。来年教える」
「俺が抱えるのは全部くそみてーな用事だよ。おまえのすきなモンのほーがだいじだ」
「そういうこといって…面倒なことに付き合ってくれてありがとう。ぎ、逆だよねふつうね、バレンタインってね。私ひとりでうきうきしてるよ。で、今のは全部私用をマーシーにもお裾分けしただけ。マーシーにあげるチョコ、今年はこれだよ」
「はいはい。どれですか杏ちゃん」
「これ!ほら」

あのブランド。杏が告げたのは、世界に誇るドメスティックブランドのなまえで、真志井がバイト代をはたいて集めるファッションアイテムのなかにも燦然と輝く。日本の誇るトップメゾンだ。
そして、そのブランドの理念に共感する女性パティシエが、ブランドの世界をチョコレートで表現した。

いわば、真志井と杏の好きなものと、ふたりがあこがれるもののコレボレーションである。

ブランドのデザイナーも女性である。杏はどうやら国際的に活躍する女性の歩みに関心が深いようで、結局のところ、今年のバレンタインでかきあつめてきたチョコレートもそうしたものがあつまった。


「げ、これネットで見たわ。大変だったんじゃねえのか。買えたの?」
「なんとか」
「そうか、ありがとな」
「えっと、私が買いたい物を買っただけだから!」

ひとつやるよ。

杏のぽってりとしたくちびるに、やにわにチョコレートが押し込められる。
ベーシックなガナッシュが、杏のくちびるを染め上げる。

真志井の無骨な指先を、杏のくちびるがすこしだけ食んだ。

チョコレートのいろにそまった舌が爪の先にすこしだけ触れた。

「もっとやって」

象牙のようないろの頬をわかりやすく染めた杏は、愛くるしい悪戯のことをすこしだけ後悔して、真志井の請願を断った。ふるふるとくびをふった杏は、真志井のゆびさきから奪い取ったチョコレートを、真っ赤な舌でとろけさせて、シンプルでハリのある味わいを楽しむ。そして真志井も、プレーンな色のショコラを取り上げて、くちびるのなかへぞんざいに投げ込んだ。


「んー、うまいけど、あの赤いハコの三角のやつのがいちばんだな。うっすらわかってきたわ」
「五年間私に食べさせられたから?」
「そういうことだよ。杏」
「チョコハラスメントしてごめんね−」
「なんでも経験だ。それとおれは、甘いものは嫌いなわけじゃないからな」


戸亜留市には様々な情報が飛び交う。そして、この季節に流れるフェイクニュースの定番がある。


真志井雄彦はあまいものがにがて
チョコレートをおくってもうけとってもらえない。


これは、二人を慮った後輩が意図的にばらまいたものだ。


「マーシー甘い物嫌い情報はカムイがわざと流したんだよね」
「だけど失敗だわ。スパイスだろ、調味料だろ、辛いものがいっぱいとどくんだ。全部駒形にやったよ」
「あ、一回だけお話したことある…カラーサングラスの…おしゃれなおにいさん…。お話ししたけどふつうのひとだったね」
「真志井もいいとこあるなっつって、持って帰ったわ。あいつは素直なんだ、根はな。そしてばかだ」


今年ももらったんだね…すごいなあ。
杏という女がいたところで、杏のことを巧妙に守り続けているかぎり、真志井のそばは空席だと勘違いする女性たちは後をたたない。
そんな真志井のバレンタインの戦果について、平然と、そしてさっぱりとそう呟く彼女に、真志井は尋ねる。


「カムイには?やったのか」
「私があげなくても、カムイくんももててるし。女子からもらうだろうし、もういいよねって思ってたの。だけどカムイくんが、先週かな。杏せんぱい、今年は何くれますかってラインしてきて」
「何様だカムイは。んであいつはたいしてもててねえぞ」
「そうなの?だから今年はホールのチョコケーキつくった」
「甘やかしすぎだ」
「今年で最後。もうカムイも16歳で、来年2年だよ。いつまでも私のことなんて気にしないよー」


さばさばとした風情で言ってのけた杏が、テーブルのそばに転がしていたiPhoneをとりあげる。

ぬるいコーヒーをもう一杯味わった真志井が、ソーサーにカップを置く。
そして、杏の華奢な肩にそっと腕をそえる。オーラリーのポロニットごしの肩口から、スマートフォンの波面をのぞきこんだ。

これがそう。杏がゆびさした液晶には、黒々てかてかと光り輝くケーキが映し出されている。

10000円くらいで売れよ。心からそう抱いた真志井が、異様なまでに力の入ったチョコレートケーキの写真をみつめてそう呟くと、杏がその言葉を笑い飛ばした。


「ないよ、しょせん素人。で、チョコケーキ届けに行って、カムイくんのお母さんが受け取ってくれたよ」
「そうか、元気そうだった?」
「うん、大丈夫そうだったよ。私のチョコいつも楽しみっていってくれたの。安心したよ。その夜カムイくんから連絡きて、一日でホール一個食べたって。完介くんも食べにきたみたい」


sacai。
そんな文字がプリントされたショコラをとりあげた真志井が、がさついたくちびるのなかに、もう一粒放り込んだ。分厚い胸のなかにとろけてゆくプラリネの複雑さを楽しむ教養はまだ身についていないけれど、真志井の血肉に否が応でも変わってゆくチョコレートを一生分味わっていれば、特段望んでもいない知識はたしかに真志井のなかに育ち続ける感触は、確かと言えば確かだ。


「孫六は」
「孫六くん付き合ってる人いるかもしれないじゃん…そんな、あげないよ」
「そうだ、よろしい。孫六は禁止だ」
「禁止されなくてもよけいなことしないよー。今年もいっぱいもらうんでしょ、孫六くん」
「あいつ、まんざらでもないんだぜ」
「そういうとこ、孫六くんらしいなー。優しい人だもん。ビンゾーくんにも今年はあげられてないよー。ビンゾーくんにはなかなか会えないしね、それでね、」
「ラオウんとこ?」
「そう!あのねー、」

かわいかったんだよ。

色とりどりのチョコレートと、暖かい部屋でのこんな時間は、杏が真志井雄彦と積み重ね続けた日々にもたらされた、ご褒美のようだ。
杏のさして巧みでもない話に耳を傾けてくれるとき、真志井は杏の口元にひときわ整った顔をよせる。

ラグのうえに座った杏はぴんと背筋をのばしていて、彼女のそばに腰をおろした真志井は大きな背中をソファの座面にあずけて、杏の肩をマイペースに抱いたままだ。

やがて杏が語らいはじめたことは、真志井が大切にするもうひとりの人間が守り続ける場所の、実に愛らしい話だった。

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