Night and day 15


戸亜留市は、黄昏の街だ。

昏い言い伝えを持つ男たちを幾人と育てあげ、この世の最果てへおくった。

光の道を選んだものもいれば、影に生き続けるものもいる。多くの少年たちは、暗い神話の言い伝えのなかにいる男たちの漆黒の背中をみつめ、ゆがんだ憧れを育てた。そんな少年たちの目は、日ごとに暗い色に変わった。そして世界は音をたててかわり、時間の流れはかつてよりずいぶん急速だ。ことに、新しい時代を生きるこどもたちを取り巻くものは、刻一刻と変化してゆく。昨日正しかったものが、今日は間違いに変わる。戸亜留市で伝説になった男たちが果たして正しかったのか、間違っているのか。

ただひとつの真実といえば、それを裁く権利など誰ももたぬということだ。

そして、世界の広さをあっけなく思い知らされる手段と情報が発達したこの時代においても、戸亜留市では黄昏の世界と昏い男たちに焦がれる少年たちが、この時代も後を絶たない。

あのころの荒廃からすこしずつ立ち直る戸亜留市の公立中学も、大人の望みどおりのこどもたちで構成されるはずがなかった。岬麻理央に真志井雄彦、そして杏が入学した中学も、相応に朽ちていた。やがて岬と真志井はこの学校を変えてゆくけれど、あのころ、まだこの場所は、どこにでもある荒野の果ての地でしかなかった。

岬と真志井の関係は、入学直後、またたくまに校内に知れ渡ることとなった。認める者も居れば、認めぬ者もいた。そしてそんなふたりの傍には、いつも杏がいて、彼女がけして好き好んで持って生まれたわけではない特徴的なすがたもまた、彼らを目立たせる一因であった。

岬麻理央は、誰をも圧倒した。
そして真志井雄彦のどこか超然とした様と揺るぎない知性は、洞を抱えてさまよい暴力のなんたるかさえ理解しようとしない不良少年たちの汚れきった芯をゆさぶり昏い心をますますくらくした。そんな不良少年たちのなかには、真志井という少年の心のやわらかさを見抜くものもいた。強さを見抜き、そして弱さも見抜いた。彼の弱さの正体は何なのか。それは、強い執着心を持って真志井を観察していれば、やがて掴めるものであった。

真志井を守り、真志井を真志井たらしめるものの数は、少なかったからだ。そして少年が心から守りたいと願っているものは、ほんのわずかであったからだ。

影がしのびよる町のかたすみに生まれたこどもたちは、人の弱さの攻め方も、人を傷つける方法もいっぱしに知っていた。

真志井が守るもののなかで、最も繊細で、最も壊しやすくて、彼をも傷つけることができるもの。

真志井を最も弱らせることができるもの。

それが何なのか。

それが、だれなのか。

おろかなこどもたちは、やがて、あっけなく見抜いた。

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建て替えの予算が市からなかなか降りない校舎は、暴力のあとが色濃く残る。つまり、ここで起こる暴力はうやむやになるということだ。

その日は、昼前から重苦しい空に雲がかかり、黄昏の街の色はますます濃くなっていた。
夕暮れになって雲は分厚かわり、まとまった雨を降らせた。これを見越して傘を持ってきていた生徒はおよそ半数ほどで、生徒たちは教室から空をみつめて、口々に無念の声をあげた。
それは、杏に真志井、岬も同様だった。六時間目の授業を終えて、部活動に属してない三人と彼らの友人たちは、このまま帰路につくはずであった。しかしこの天候を予測する情報を正しくキャッチして傘を持ってきていたのは真志井と杏をふくむ、わずかな生徒だけであった。岬と真志井の力が正しい方向に働いていたゆえ、クラスのまとまりは良好であった。男女の仲も心地よい関係を保っていた。けれどいつもいっしょに帰る仲間たちを雨から守るために、真志井と杏の持っている傘でまかなうには、いささか無理があった。備品室にそなえてある学校指定の傘を、人数ぶん持ってくることをじゃんけんによって決定するまえに、杏がその役割を、すすんで請け負った。杏のそんな性分は真志井の懸念のもとであった。おれもいっしょにいくぞと杏に伝える真志井の申し出を、杏は彼女らしく笑って遠慮した。



備品を備えている用務員室は、一年生の校舎から渡り廊下を歩き、体育館のそばをぐるりとまわった、この学校の影にある。色とりどりの傘をさして帰宅する生徒たちや、雨にもまけずグラウンドで野球やサッカーにいどむ生徒たちのすがたを見送りながら、杏は渡り廊下を軽快にわたった。すんなりとのびた足が、飛び石のような渡り廊下を軽く飛ぶと、生真面目な丈のスカートが軽く翻った。杏は生まれつき運動能力にもめぐまれて、バスケットボール部や陸上部の長距離部門、そしてバドミントン部から、熱心な勧誘を受けている。けれど春も深まり初夏にさしかかった今、杏はまだ決断をくだせていない。

少しうつむいた杏が渡り廊下をわたる。身長は160センチまでのびた。すんなりとのびる手足も、整った顔立ちも、校内ではこの頃すでにやや目立つ存在となっていた。

目的もなくいつまでも居残る少年たちはやはり不良と呼ばれる存在で、そんな彼らが、大人びたムードのなかにまだあどけなさがめだち、幼いアンバランスさも持つ杏を舐めるように見る。この視線に耐え、あらがい、受け流し、取るに足らないものだと振り捨てて歩ける勇気は、まだ杏に育っていなかった。不躾な視線は、杏の心にいつも曇天のような影をおとした。真志井や岬は、杏のことをいつも太陽のような明るさや月のような落ち着きで見つめてくれるからだ。

この不安を拭ってくれるのはいつだって、杏のそばにいてくれる異性の親友だ。杏は、彼に、真志井についてきてもらえばよかったと抱いた。そんな甘えが一瞬だけ杏のやわらかい心に去来した。そして彼に寄りかかった態度は、真志井と対等な関係をつくることを阻害することも、まだ13歳の杏は、幼いながらにすでに理解していた。

けれど、先ほどから杏をじろじろとみつめてやまぬ上級生たちの着崩した制服も、少年にしてはどこかたるんだ輪郭も、杏の繊細なこころに圧迫感をあたえてやまないものだ。
そのうえで、他者を、けして容貌で差別してはならない。杏のもつ倫理観はこんなときも働いた。
まずはやるべきことをすませるために、杏の足が少し早められる。体育教官室を通り過ぎ、杏は暴力事件で廃部となったラグビー部の部室そばにたどり着いた。備品室は、この一室さきだ。


申し訳程度の渡り廊下を渡る。繊細な糸のような雨は、戸亜留市の大気を斜めに切り裂き、杏の制服の袖を少しだけ濡らした。
校舎の影が、暗い部室棟にさらに昏い影を落とす。

黄昏が濃くなったとき、背後から、杏の名字が呼ばれた。

その声は、太く、いやによく通る。そして、杏の細やかな心をぬるりと掴むような声だ。杏の小さな肩がぴくりと震えたことも、声の持ち主につつぬけだ。あの異性の親友たちのように、何があっても動じず泰然自若のさまで構える自分自身でいたいのに、悲しいことにまだ今の杏にそれは叶えられない。杏の心は感じやすく、傷つきやすい。

杏の名字に敬称は添えられていたものの、慇懃無礼で、どこか粘り気がある。


ぴたりと立ち止まった杏が、すこしの逡巡を振り切って、勇気をかきあつめて振り向く。真志井だとこんなとききっと、堂々と振り返り、堂々と立ち向かってしまえるだろう。けれど杏は真志井ではない。杏は、清らかなアルトボイスで、こんにちはと呟く。杏は真志井のように頭を使うこともできず、礼儀正しい挨拶を交わすことしかできなかった。上級生に挨拶をしなければならない。そんな暗黙の了解を生真面目に守る。けれどこれは真志井のためでもあった。振り向いた杏が素直に立ち止まって、あらためて確かめてみれば、彼らは日頃真志井に絡む上級生たちだ。岬という大きな存在にあっけなく気圧され、のびやかだけれどまだ未発達の心身をもつ真志井という少年にだけ絡む上級生たちだ。最低限の礼儀を以て、真志井は彼らの悪意を器用に撥ねのけているけれど、迷惑していることも事実だ。きっぱりとした清潔な声は、少しだけ攻撃力も持っていた。凜とした仕草で最低限の礼儀を果たしあと、杏は目を伏せ、そのまま黙礼をひとつだけのこし、通りすぎようとこころみする。暗い雨が降り、部活に励む生徒たちは、グラウンドの片隅で起こる少しの異変より、スポーツに打ち込むばかりだ。校舎に残る生徒は少なくて、杏に起こる異常に気づいてくれる者はいない。

うつむいて通り抜けようとする杏のまえに、複数の少年たちがあっけなくまわりこむ。

こどもがたしなむべきでないものの香りがした。

不良と呼ばれる分類似属する最上級生たちは発達もずいぶんすぐれていて大人顔負けの体格を誇る。恵まれたものを暴力に簡単に転換してしまえるこどもたちだった。背丈に恵まれた杏をあっけなく隠してしまえるほどの体格のよさで、正直に怯えた杏のかるくまとめたロングヘアが、杏の背中でぴくりと揺れた。
素直に浮かんだ恐怖の気配は、杏が持って生まれた凜とした気配すら隠した。
そのあどけない儚さは、少年たちのおろかさに火をつけた。こんなとき決まってとんでくるのは、生まれ持った栗色の髪への揶揄や意地悪な指摘で、入学してすぐに準備した地毛証明書は、今、教室に置いてきた杏の鞄の中だ。果敢に立ち向かえる強さはまだ杏のなかに育たない。

戸亜留市の繁華街を歩いていれば少しだけ目立つ容姿を持つ杏は、どこかもてあそばれるような声もかけられる。立ちどまった杏に浴びせられる声は、今日もおなじだ。

その言葉は褒め言葉ではない。杏が幼い頃から幾度となくあびてきた、悪意、暴力、そして、杏を軽んじる言葉だ。
杏が友情をむすびあった少年たちはけして杏を、そんな言葉で傷つけなかった。

授かったものは堂々と誇ればいい。杏を一人で育ててくれる母はいつもそう言い聞かせてくれて、だから杏はいつだって、凜とのびた背筋をまげぬままだった。真志井も、杏のそんなところがすきだと伝えてくれた。だから今も杏は、恐怖にかられても、背筋をまっすぐのばしている。けれど情趣がこぼれるような瞳は切なく伏せられていて、そのアンバランスさはますます不良少年たちの悪意を刺激した。

「傘、取りに行きたいので。どいてくれませんか」

そんな声には礼儀と勇気と、そしてもろさがにじみ出す。

杏を囲む少年たちが、卑しい目配せをかわした。気に入らない後輩の鼻をあかすまたとない機会だからだ。

杏のブレザー越しの腕が引っ張られる。
30キロ足らずの体を奪い去ることなんて、少年たちにとってわけもないことだった。

こんなに簡単で美味しそうな体ひとつで、あの賢しい後輩をいたぶれる。

このやわらかそうな少女をいじめれば、聡明な少年は傷つく。

杏の体がいつのまにか追い込まれていたのは、暴力事件で廃部になったソフトボール部の部室そばだった。ここの鍵が壊れていることも、少年たちは熟知している。少年の荒れ果てた手が、ドアノブをひねった。杏のほっそりとした腕が、両側からつかみとられる。


杏のぽってりとしたくちびるから悲鳴が漏れる間もなく、杏のほっそりとした体は、あっけなく、暗い扉の向こうへ消えた。


「離してください!」

ソフトボール部の部室は、煙草のすいがらに、空き缶、そして読み古した漫画雑誌が所瀬間と散乱していて、机は逆さに転がり、椅子も乱暴に壊されている。およそ杏に似つかわしくない場所で、杏は、ひときわ体格の大きな少年たちに、両側から押さえ込まれる。杏の右腕をしっかりと絡め取られ、左腕はあらぬ方向へねじ曲げられる。美しく整った顔をゆがめると、杏の間近に迫る少年が見にくく嗤った。杏の右手を押さえている少年がぼやく。そーいや、あいつスマホ持ってねえぞ。しくったなー。そんな声を受けた少年は、杏の左腕をしっかりと捕まえたまま、杏のスカートの上から、ほっそりとした腿を器用にさぐった。杏が華奢な身をよじれば、上半身ごとあっけなく抱え込まれる。


「いや!!やめてください、」

スカートのポケットに忍ぶスマートフォンを布の上からさぐりあてたとき、杏の目の前に迫る少年が命じた。


おまえらのなかのだれでもいいから呼べよ。んで真志井ここにつれてこい。


甲高い声で命じられた言葉に、杏は毅然と首をふる。

聡明な光をけして諦めない瞳が、果敢にたずねた。

「どうして、真志井くんのこと…」


おまえいじめたら真志井が怒るもん。


真志井黙らせたいだけだよ。


その言葉を聞いたとき、光を握りしめることを諦めなかった杏の瞳が、ゆっくりと翳ってゆく。

まあいいや。

何かを放棄したような声で、少年たちが気だるく呟く。

杏の細い体を抱えていた腕が力をます。

身をよじることもできぬ杏の整いきった口もとを、煙草臭い手が乱雑に塞ぐ。

少年たちは、あっけなく手に入った愛らしい玩具をむさぼり始めた。

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