You're The Top 6


「マーシー、上に行くの?私の部屋?さむいよ…」

このおねえさんと、いちゃついてくる。

愛すべき弟分へそんなことをうそぶき、暖気がこもったリビングをあとにした真志井雄彦は、澄んだ声で真志井を案じる杏の切なく華奢な肩を大きな腕で抱き、コンパクトな住宅の二階へ続く階段を杏ごと大股で上ってゆく。
そして杏の自室の扉を我が物顔でやぶり、ワイドスイッチをはじいて緩やかなカーブを描くセードの中の白熱球をともした。すると8畳ほどの広さの部屋をやさしいひかりが守るように照らしあげる。杏の小さな城の中央に、マニフレックスのクイーンサイズのベッドが大きく広がっている。ホテルのベッドのように清潔なシーツのうえへ、真志井は、恋人の杏の長身をあっさり抱え上げて座らせる。

ここまで、杏のからだは、真志井雄彦のいいなりだった。

そして。

白いシーツの上に沈んだ杏の細い体を広い胸のなかへむやみにおさめてみたり。
杏の輝かんばかりの栗色の髪を、何かごまかすようになでてみたり。
杏の心の内を探ることをおろそかにしたまま、彼女を求めてみたり。


真志井雄彦は、そんな行動は選ばない。



173センチで身長がとまったようすの杏を軽々とベッドの真ん中へ座らせる。そして杏をここまで連れ去ってきた質量の大きな体が清潔なスプリングの縁に腰を下ろせば、ベッドは杏ごと深くしずんだ。真志井はおそろしいほど長い足を組み上げて、スプリングに、汚れた手をつく。

そして真志井は、杏の言葉を待ち始めた。


「エアコン、つけてないよ……マーシーがさむいよ?」


杏がちいさくぼやく。真志井雄彦は、難しい気持ちを抱え込んでいる杏のことを、ただ真っ直ぐに、見つめた。

大きなベッドの上に、モデルのような長身をしずめて、杏は座り込んだままだ。

彼女はいまだ情感あふれる瞳を伏せたまま、小さくつぶやいた。


「何するの……」
「杏に」
「…私に何するの……」
「杏」
「…マーシー、アイスノン要る?目が……」
「あとでいいよ」


絵画のように長いまつげが、ふたたび静かに伏せられた。
相応に思春期らしい揺らぎももつ杏の素肌は淡い照明のもとですこしだけ吹き出物が見えて、パウダーで薄い化粧をほどこし、人間らしい少しのアラを隠している。夕焼けのような色のリップカラーがはがれてモーヴなくちびるがのぞく。

杏が日頃のように、真志井をのことを朗らかな笑みで出迎えて、その手でそっと触れてくれていれば、真志井は杏がそのくちびるにかみつき、華奢な体を支配して、真っ白のシーツのうえに押しつけていただろう。

ベッドに放った杏のことを、真志井は一転、触れることはない。


そんな杏はまだ、濃厚な瞳を伏せて、静かに考えこんだままだ。

真志井は、第二の懸念を杏へ告げる。


「杏。体調わるいのか?」
「…それは、マーシーだね……」
「おまえにきいてる」
「そういうんじゃ、ないよ」
「よかった」

具合わりーのに無理させたのかと思ったわ。

杏の肩に思わずのびた手は、宙空でとまり、ごまかすようにベッドの上へ落ちた。柔らかい心のもちぬしで、そして杏のちいさな心は、何の変哲もなくただ真志井を慕うだけの部分だってもっている。彼女の其処を難なくつかみとり、この夜の違和感を雑に片付けることもわけはない。
傷つきうずく体をおさえて、真志井は彼女が抱え込んでしまったものの正体を、慎重にさぐる。

「マーシー……」

そのとき、杏が愛おしい名前を呼ぶ。

伏せていた瞳を、おそるおそるめぐらせて、杏の本心は真志井のもとへたどり着く。

奥二重まぶたにしのぶ紫のあざ。
すっぱりときれたまぶたの上は黄色く変色し、ブラックシャツを剥ぎ取れば大きな傷もみつかるだろう。傷を見せびらかさない男だ。けれどこの男は、杏にだけほんとうのすがたを見せてくれる。

今日だって、そんな真志井を正直にさらしてくれたにすぎなかった。

杏は、そんな真志井より、杏がここまで溜め込んだものに敗北してしまったのだ。


「……私、はずかしい…。マーシーたちが傷ついてるのに、そんなマーシーにこんな心配させた……」
「杏」

豊かな髪をしきりに耳にかける杏が、まっすぐ響く声にその名を呼ばれて、細い肩をぴくりとふるわせた。

「こっち見て、杏」
「……」
「おれは、杏のことを、都合よくつかっちまってるな」
「ち、ちがう、そういうので怒ってるんじゃない」
「やっぱ怒ってるのか」
「怒ってない」

言って。知りたいから。おまえの思ってること。

真志井はそうつぶやき、杏の心に溜まったものをひとつひとつ取り出してゆく。


「怒ってないんだけど……。機嫌悪く、みえたよね…?」
「そうじゃねえけど」
「……ううん。機嫌悪いってこういう状態だよ」

まだ彼女に触れない。

そう誓った真志井はベッドにかけられていたブランケットをつかみ取る。そんな恋人の行動を杏が窘める。杏は今日、至って普通の一日をおくった。つまり傷ついてなんかいない。傷ついているのは目の前の少年のはずだ。彼に正しいケアを施さねばならぬのに、杏はこうして、混乱に陥った自らの心にに呑まれ続ける。そんな自分から逃げ出すように、杏は真志井の行動を止めようと試みた。


「マーシーが使って…」
「おれはいいよ」

真志井のしずかな言葉とともに、ペンドルトンの鮮やかなブランケットが、杏の体を守り始めた。
彼の言葉におとなしくうなずいた杏が、小さく語り始める。


「私、マーシーから連絡もらって……、うまくいえないんだけど、気持ちの整理がすぐに、できなかったの」
「ああ。そういうことだったか」
「今日も、また……。だけど、マーシーが、こういうことするときって…」
「ケンカ?」
「……そう。マーシーは一度だって、むやみに人を傷つけたりしたことなんてないじゃん」
「そうでもねえぞ。俺の評価が過大すぎるよ」
「そんなことないよ。なのに、私……」
「わりーな、杏。おれは、おまえのきもちもしらずに」

私のきもち。
真志井に問い直すような、あるいは自らの心の内を確かめるような。
どちらの気配も滲ませた声で、杏は真志井の伝えてくれた言葉を繰り返す。

「おまえん家はタダでつかえる病院でもなんでもねーのに。おれは、おまえの感情も、体も、おまえの持ってるすげーもん全部、おれのすきにつかっちまってる」
「そんな、来てくれていいの。それにそんなこと、ないし!」
「おれは、おまえがいてくれんの当たり前っておもっちまってる」
「当たり前にいるよ。ずっと言ってきたじゃない」
「今までずっと、おまえの事情も顧みずにさあ、」
「事情?マーシーが傷ついてるときにゆーせんしなきゃいけない事情って、何…?そんなのある?」
「いや、あるよ……。いくらでもあるだろ、杏。冷静になってくれ」


マーシーにそのことばいわれると、情けなくなるね…。
いままで言ったことあったか?

傷ついた真志井を前にして、逸る気持ちをたしなめられる。
そんな幼い様を恥じた杏が、切なく痩せた肩をおとした。
そして杏は情けなく弱音をこぼした。
スプリングに手をついた真志井が、素直な様相をみせる彼女をのぞきこむ。

いった。

そう伝えた杏は、ベッドに放り出されていたタオルをとりあげる。清潔に織り上げられたタオルのなかに、とろけはじめたアイスノンがおさまっているのだ。


「アイスノン、ぬるくなってる。でも、ここ。ひやすね。痛かったよね」
「慣れたもんだよ。けどこうやっておまえを頼らなきゃやってらんねぇんだから。おれも本当は慣れてないんだろうよ」

真志井が素直にひとみをとじる。ひりひりする傷口と腫れにちょうどいいぬるさの保冷剤が、真志井のことを落ち着かせはじめた。


「言わなきゃいけないこと、言えてなかったよ」
「何を」
「マーシー」
「ああ」
「大丈夫……?」


真志井の患部にアイスノンを押し当てる杏の手に、真志井のがさついた手がかさなる。保湿の概念すら理解しない手は、荒れ果てた大地のようにむきだした。土のようにかざらぬ手のあたたかさを杏は確かに知っていた。このあたたかさに、杏をの持っているものを貪るような杜撰さなど存在しないはずなのに、杏はそれをこの度信じ切れなかった。

「ああ」
「マーシーたちが来るのがやだとかそういうことじゃないの……!そういうことじゃないの。そー思わせてたらごめん……。ただ…今までもずっと心配だったから、なんかそれが積み重なっちゃっただけで…」
「そりゃ重なるだろうよ……。おまえの性格だもんな。おれらどれだけおまえのこと振り回してきたんだ」
「そういうことじゃないよー…」
「おれらの世話させるためにおまえがいるんじゃないのに」
「…マーシーにそんなふうに思わせちゃう私が、だめだよ・・…」

だけど…。

杏がそう呟くと、こいつあんまいみねえかもと述べた真志井が、アイスノンをベッドの上に置いた。杏がどこか苦しそうに笑えば、真志井の腕が杏のもとに伸びる。

これが一番なおる。
そんな気障な言葉をつぶやいた真志井の胸の中で微かに笑って、恋人の分厚い胸に額をあてた杏が、少しくぐもった声でつぶやいた。汗と血の香りがつよくただよう。それを打ち消すように、沈香のような香りが強くかおった。ふたりをつなぐオードパルファンの香りだ。

杏が、真志井の腕のなかで、さっぱりと語らい始める。


「私がそんなこと、あっさり言える性格だったらよかったのに。今日は私も忙しいの!って。今日はだめ!!って。自分でやりなよ!!って。甘えるなって。私に、ケアばっかもとめんなって。私はそのためにいるわけ!?って。私はあんたたちのお世話係!?って。私はあんたたちのママじゃない!!って」
「そ、そ、そこでやめてくれるか杏……おれ死ぬから。おれはいま致死量の傷を負いました。はんせー……」
「今のは全部嘘だよ。私、そんなこと、いっっっっっかいも、思ったことない。それにぼろぼろになってるマーシーたちみて、そんなこと言うのはおかしいよ」
「うーーーん、そのほうがおかしいぞ」
「それにそんな扱い、マーシーにされたことない。何より、甘えてるのもケアばっかさせてるのも、私じゃん……」
「いやそんな扱いをしてるぞおれは……」
「二人が甘えてくれると、ほっとするの。甘えてくれてよかったっておもう。カムイとマーシーが、私のことわすれたら、もう、そのときが終わりだとおもうの。ここに戻ってこようって思わなくなったとき」
「……」
「それが、終わりのときだと思う」

こないよそんな日は。
杏の大仰が恐怖をしずめるため、真志井はつとめてフラットな声で、彼女をなだめた。けれど彼女はみずからが誤って歩もうとした道がどれほど愚かであったか、いまだ恐怖にかられている。


「私が終わりを来させようとした……私が間違ってた。私、怖い間違いした…」
「まちがってねえし、もしまちがったなら、おまえにそのみち往かせたのは俺だろー?けどなあ、杏。おまえは見た目だけだと、そういうこと言いそうだ」
「それ、ビンゾーくんにもいわれたことある。あ、孫六くんにもだ。杏ちゃんは見た目と中身がちょっとだけずれてるって」
「よく見てるなああいつらは」


だから、心配だって。ビンゾーくんにも孫六くんにもいわれた……。
心配かけすぎだね。
自らをわらうようにひとりごちた杏が、真志井の腕のなかで彼を見上げる。戦ったあとの熱を持つのは、仲間たちとておなじではないか。


「みんなは?岬くんは巻き込まなかったんでしょう…?完介くんもケガはない?孫六くんとビンゾーくんは……」
「まて杏。おれのまえにあいつらか」
「だいじな仲間じゃん。大丈夫だったの?」
「あいつらはかってにやるよ」
「よかった……。ねえ、私ね、マーシーからラインもらって、押しつぶされそうな気持ちになったの。大丈夫?っていうのもうそくさいくらい、苦しくて。それで、ふたりを、みると……思ったよりひどかったから」
「そうか?いつもこんなのだぞ」
「いつもだからじゃん」


いつもだから、私は、こうなったの……。

しぼりだすように嘆く彼女を、真志井が熱く抱きしめる。
もはや何の治療やケアも要らぬのは同然で、あとはこの寒い部屋でやることといえば、ただひとつだ。

この子自身を味わうことである。


「マーシー……」
「なーに杏ちゃん」
「ぶじで、よかった……」
「ぶじだよ。いつもそうだろ」
「ふたりにすぐに、大丈夫?って言えなかった。本当にごめんなさい」
「そうだっけか。伝わってるよ、おまえのきもち」
「ちゃんと言葉にしなきゃ……。今日もけっきょく、マーシーが私のことを分かろうとしてくれたよね」
「おまえとアプローチがちがうだけだよ」
「すぐに言えなくてごめん。自分のことばっかでごめんね…」
「それはおれだろう。おまえのこと、好きに使っちまってなあ。わるかったな」
「ちがうよ、自分でなんでも解決しちゃうじゃん。けんか。もめ事。やらないでなんかいわないよ。全部マーシーが自分で決めて、自分で責任とって選ぶことだもん。雑なことなんか、しないじゃん」

してます。
戯けるようにつぶやいて、自らを笑い飛ばす真志井の痛みを想像すると、杏の全身が軋むようだ。そんな彼女のひずみをすべて分かって、真志井は今一度杏を強く抱いた。


「私、ときどき、ほっとしてる」
「ん?」
「私をたよってくれて。他の人をたよらないで、私だけに、あまえてくれて」
「あたりまえだろ。他のだれにこんなこと頼むんだよ」
「けどこれじゃ、けがするのよろこんでるみたい」
「思い詰めるな」

杏が愛用するシャンプーは、普段使いの香水と同一のブランドだ。
フランキンセンスの香りが彼女の煌めく髪から優しく立ち上り真志井のことも守る。

「おれらには、おまえしかいないよ」
「私は何の力もないし、マーシーやカムイみたいに責任も覚悟もない。なのに、二人が傷ついてると、自分のことみたいにつらいの。そーいうの、傲慢だとおもう」
「俺らが持ってねえものを杏が持ってるんだよ。けどよかったわ」


いつまでも彼に甘えていてはいけない。みずからの役割を思い出した杏が、土と血液の臭気が漂うデニムシャツを両手でそっと押した。

「おまえにキレられたら、おれなんかひとたまりもねえわ」
「そんな……不機嫌になっちゃって、ごめんなさい。冷たくしてごめんなさい…」
「そうだ。そこだよ。杏がつめたかった……。杏ちゃんがつめたかったぞ……?おれと目ぇあわせねえ…。一番きつかったのが、あれだよ。『何マーシー』って……。『マーシー、何』……杏がひとことだけ。目もあわせねえし、俺から逃げて、『何?マーシー何?』って……」
「……ご、ごめんなさい……」
「おまえがつめたくなると、キくな……ぶっささった。ここらへんにな。だれに殴られるより痛ぇ」
「つめたくしてごめん……私、ひどい…。その場の感情で動いて……」
「おれのせいだよ。あたりまえだろ。おまえをなんだとおもってんだっつー話だよ。あれくらいですんでよかったんだ」



もう二度と冷たくしない。だってーーー、逆のことマーシーにされたら、わたしもーガッコもいけない……立ち直れない……。
冷たかったー……。杏ちゃんがつめてー……。つかいつもおれおまえにあんなかんじじゃねーか?
ちがうよー……。
会話はやがてかろやかなトーンにもどり、杏と真志井は、責任の所在を引き受け合おうと試みる。けれど痛み分けといった調子で、やがて真志井の乾いた口元から、まるでお手上げといった調子のすがすがしい声が響いた。

「あーあ」

乱れた黒髪をざっくりとかきあげた真志井が、くちもとに浮かび上がるあざとともに口角を、おだやかにあげた。
寒いよ、もう下に行こ。そうねだる杏をよそに、真志井は骨身にしみた様子で、呟いた。

「俺の弱点はおまえだなあ」

真志井がときおりうそぶくそんな言葉に、杏はもう慣れきったのかもしれない。
けしてそんなはずはない。杏は常々そう抱いている。情趣あふれる瞳はふたたび伏せられて、栗色の髪を何度も耳にかけ直す仕草をみせる杏は、小さな顔を力なく横にふった。

「おれをつぶすには、おまえをねらったらいいんだけど」
「……?マーシーの弱点は、岬くんとカムイくんじゃないの…?」
「そのどっちとも、獲られた場合は想定できてるからな」
「怖いこといわないで」
「おまえが一番的確に、おれをつぶせるっつーことだね」
「つぶれないよ、マーシーは」
「カムイに何かあってもあいつは切り抜けられる。おれもだ。ラオウもそうだよ。けどな、おまえだけはむりだ」

杏のベッドの上に、気づけば乾いた血痕と細かな土がこぼれおちている。

杏の細い肩からいつしか剥がれ落ちたブランケットをよそに、杏は、手入れの行き届いた指先で、そんなものにそっとふれた。



「マーシーは、そんなことがないように、戦ってるんだよね……」
「わかってくれるんだな。おまえに、もう二度とくるなっていわれんのかくごだったけど」
「言わないしそんなこと怖くて言えない!」
「覚悟なんかできないもんだなあ」
「……ね、誓ってもすぐに、くずれちゃう」
「杏。いつもありがとうな」
「私こそーほんとにごめんなさい……感情ぶつけちゃった…」
「いやぶつけられてない」
「そうなんだよね。ぶつけたほうがマシだった。何やってんのーいつもいつも!って。今日はやるけど次はだめだよって。はっきり言えたらよかった。私のやりかた、一番やっちゃだめなやりかただった・・」
「んなことねえけど。えっ次だめなの…」
「例え話!!つぎもきて!そのつぎも!マーシーたちにがくるとこは、此処なの。私…」
「そうだよ。杏だ」

清らかなシーツの上で、膝を左にくずした杏は、いまだベッドの縁に腰をおろしたままの真志井のもとへ、そっと身を寄せる。真志井の長い腕が杏を呼ぶ。素直に真志井に愛された杏が、彼の乾いた肌のうえへ、モーヴな色の潤ったくちびるを、そっとよせた。

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