You're The Top 5


真志井雄彦の情趣溢れる目元を飾るのは、アメリカのラグジュアリーブランドが最高峰の技術をこめて端正につくったアイウェアだ。質の高いブルーグレーのレンズに守られた冷涼な瞳が、スマートフォンの液晶へまっすぐに視線を落とした。ひびの入ったガラスカバーに保護されているディスプレイには、メッセージアプリのトークルームが表示されている。会話画面の背景は初期設定の味気ないデザインのまま据え置かれている。

真志井雄彦。
鈴蘭高校きってのキレ者がたった今開いているチャットルームは、一日置きあるいはどれほど間隔が開こうともおよそ三日おきにこまめに稼働する。会話の口火を切っているのはどちらであるか、正確にカウントを行って数値化すれば、意外な結果があらわれるだろう。確率の大きな方を占める冷たい瞳のもちぬしが、今し方トークルームにおくったメッセージを再度あらためる。


『カムイも連れてく。頼むわ、今日も』


真志井の所持するiPhoneminiのなかには、異性の連絡先も相応に詰まっており、不良界内外含め真志井をもとめる人間は多く、通信アプリが絶えず稼働するさまは、真志井の充実した人間関係を証明する。けれどひときわこまめに動くトークルームは限られていて、オンナ相手のやりとりは数少ない。
そして文字の向こう側で動く繊細な心根のことまで想像力が行き届く相手はたったひとりだけだ。

真志井の最も信頼する女性であり、恋人。杏である。

そんな杏へ、一時間前の真志井がおくったメッセージが、それだ。

メッセージを彼女が受け取った証である文字は、即時に出現した。

しかしその言葉をさいごに、トークルームに動きはない。

まめな性分の彼女からおくられてくるであろうと想定していたスタンプも、真志井を気遣う言葉も、届かない。

すべては静まりかえったままだ。


「……」


血痕と土埃でよごれたiPhoneの画面を見つめて、真志井はどこか悄然とした様をみせる。

そんな男の分厚い肩口からのぞくのは、孔雀のような頭である。今日もこの青年のそばには、愛くるしい男の子がついて歩く。

伊東カムイだ。

真志井さん、おれ右目しばらく腫れそーす。愛くるしさに凶暴さを隠した少年はそんなことをひとりごちて、乱れた髪を整えながら、スマートフォンのカメラアプリを鏡がわりに、みずからのケガの具合を確かめる。
真志井雄彦に伊東カムイ。鈴蘭高校に咲く力強い花のような少年たちは今日も生傷をこしらえていて、それは体の傷に相反して精神の充実度をしめす。真志井も伊東カムイも、彼らの心は随分満たされていた。一派の顔ぶれ全ての相違がまとまり、心からやるに値するケンカを行い、そして勝利したからだ。

さらには当然のごとく、岬麻理央と彼が守るものを、傷つけることなく、である。

そして相応に傷を負い、ブラックのデニムシャツや真志井の足の長さにぴったりと沿ったスラックスを土埃と血痕でそめあげ、絹のような黒髪を乱して青あざ、すりきず、奥二重のおくにひそむ紫の内出血、切り傷、そんなものを拵えた真志井は、けんかで傷ついた己たちふたりのケアと手当を愛すべき後輩のこともまとめて、傷を負った己たちの最後の始末をいつも通り頼むと杏へ要請し、杏を頼った。

そして真志井が頼れるたったひとりの女である杏から、いまだ承諾の返事はない。

彼女と心を分かち合う友人という時間を経て、やがて恋人となり、これまで杏と真志井が何度も交換し合ったメッセージにすぎないはずだ。幾度となくこのやりとりは繰り返されてきた。

送信したメッセージがいささかハイコンテクストにすぎただろうか。細やかな気遣いを誇る彼女は、返信の早さが彼女らしいい特徴だけれど、即座に開封されたメッセージは放置されている。


「……」
「……真志井さん?なんすか、まだ、だれか」
「いや」

やがて真志井の傍を誇らしげにあるいていた男の子も、尊敬する年輩者の少しの異変を悟る。

『カムイも、おれも、ケガしてる』


そこまで言葉を綴り、真志井のがさついた親指は液晶のうえでとまった。この行為はいわゆる歩きスマホと呼ばれる常識違反行為であるが、前方の安全確認とトラブル回避は、そばを歩く少年にしばし任せ、真志井は、分厚い心に少しだけひっかかる違和感の正体をさぐる。真志井のiPhoneは今も、押し黙ったままだ。



「真志井さん、今日ちっと、けがひでーすね……。おれがちゃんとしてねえからなんすけど。さっさと杏せんぱいにやってもらわねえと、痕が長くのこっちまうかも」
「そんなひどいのおれ。もともと麻痺してるけどな。鈴蘭きてもっと麻痺したわ」
「ちょっとだけすよ。おれらこんなこと頼れんの杏せんぱいだけっしょ」
「相手すげーいるとか思われちまってるけどな」
「鈴蘭来ても真志井さんはそーすねー。そう思わせてんのがすごいすけどね。そのほーが杏せんぱいにめーわくかかんねぇし」
「そうか、そうだよな」

少年心をくすぐるデザインのレザーマスクで小さな顔を覆うと、伊東カムイの濃厚な顔はすこし穏やかな人相にかわる。

それでもこぼれてしまいそうな大きな瞳に、疑問符がよぎるような素直な感情が浮かんだ。

相も変わらず、真志井の身辺情報はでたらめがとびかっている。杏と真志井は堂々と時間をともにしているはずだけれど、真志井を辿れば彼女に行き当たることを見抜く者はほぼ見当たらない。

つまりメッセージが途切れた理由は、何か彼女に危険が及んだだとか、そうした事情ではないだろう。


「真志井さん?早く杏せんぱいんちいきましょ。真志井さんのお母さんにいうのはわりーし、おれんちもだめすよ。やっぱ杏せんぱいしかいねえ」


誇らしい顔をした少年の革靴が、汚いアスファルトを足早に叩く。
黒い靴をよごした真志井も彼のはずむようなあゆみにあわせた。手癖のままに、スマートフォンをひとまずスラックスのポケットにしまい込む。


「つかおれ、はらへりました……。前杏せんぱいんちでくったあれ……ぺ、ぺ、ぺぺろん、ちーの……。あれくってから、おれ、どこのぱすたもくえなくなったんすよ。全部まずいんす」
「おまえがんなことゆーから……おれもくいたくなってきたわ……」
「つくってくれますよ、杏せんぱい」
「なんでおまえが自信満々なんだ?カムイくん」

真志井の手がカムイの細い首筋にのびてくる。豊かな髪を割って届く大きな手の冷たい感触をひさしぶりにあじわったカムイは抱く。


鈴蘭高校に入学して、真志井は変わった。


落ち着いた語気は、雪山のように温度を変えて、すぱっときれた瞳は冷たい息を吐くように静かになり、夏でも真志井のまわりだけ氷に覆われているようだ。けれど、こうして校外で傍を歩き、そしてあの女生徒の気配を感じれば、真志井はいつも、真志井雄彦に戻る。


「真志井さん、がっこではこゆことしねーのに」
「朝はしただろ」
「まいんち、朝だけっす。なんか、ちゅーぼーんとき戻ったみたいすね」
「おれはかわってないけどなー」
「どーすかね。そのへんは、杏センパイが一番わかってんじゃないすかね」


カムイが真志井の彼女のなまえをあげると、真志井の心の底に沈んでいたかすかな違和感が再び浮かび上がってくる。
何かをやりのこしているのではないか。
何かをわすれているのではないか。


「…」
「首いたいっすよ、真志井さん。はなしてください。つか、さみー…。ん、5時半すね。杏センパイにラインしたんすよね?返事きました?」
「いや」
「……そっすか。けど電気ついてますよ」


戸亜留市をぶち抜くように流れる川を隔てて、南側に住宅街がある。
この町は、真志井宅周辺のルール無用といった気配とはちがって、秩序が存在する。此処に、杏の暮らすコンパクトな自宅が建つ。カムイの指摘どおり、手前から望めるリビングの大きな出窓はカーテンが引かれ、そのすきまからあたたかい光が漏れている。

いまだ、真志井の分厚い心の内に、去来するものがある。

杏へ、何かを忘れてはいないか。

ポケットから古いiPhoneを取り出す。メッセージにまだ返事は届いていない。
清潔なファサードに、カムイと真志井が忍びいる。
彼女の母親の愛車、ハリアーは、見当たらない。
逡巡する真志井の思考と、真志井の分厚い体は、まるで一致しない。
寒い。
外気に触れて傷口が痛い。
温かい部屋で休みたい。
誰かのつくった食事をあじわいたい。

なにより。


あの子に会いたい。
あの子のうつくしい顔を見たい。
あの子の声が聞きたい。


そんな澄んだ本音は真志井の指をあやつり、違和感よりさきに、正直な行動を取らせた。

がさついた指先がインターフォンをしずめる。

するとたちまち、インターフォンの通話口から、こもった音がこぼれた。


「……はい」


通話口から漏れ聞こえてきたのは、たしかにあの子の、杏の声だった。

そして彼女と会話を始めたのは、真志井ではなく後輩の少年だ。

寒さとけがの痛みは、充実感とともにすでにあどけない少年へがまんの限界をももたらしている。
真志井以外の信頼出来る人に、遠慮なく甘えたい。
そんな欲求はカムイも同等に抱え込んでいた。


「杏センパイ、おれっす。おれと真志井さん……。あの、おれもいるけど、すみません」
「…………、うん、大丈夫だよ」

一回、切るね。


一連の短いやりとりを味わっていた真志井は、そばに立つ少年をみおろす。173センチメートル。杏と同等の身長だ。真志井が落ち着いた瞳で彼を見つめてみれば、少年は、きょとんとした風情で真志井を見上げる。
彼はインターフォン越しの彼女の声に、違和感を悟らなかったようだ。

やがて、品のいい足音が響く。
そしてミニマルなデザインの玄関扉のレバーハンドルが、真下に折れた。


「……」


Aesopのマラケッシュの香りが、少年たちふたりの嗅覚を淡く柔らかくくすぐる。
スパイシーで古い歴史を感じさせる香りのはずなのに、この少女が纏えば、このかおりはどこか、優しくかわった。
扉の隙間から、栗色の髪がのぞき、やがて少しうつむいた彼女があらわれた。

デザイン性にすぐれた制服姿だ。ブレザーはぬいでいて、ネイビーのすっきりとしたベストを身につけている。華奢な膝を少しのそかせた丈のスカートは清潔なムードを醸し出す。首元のリボンは取り払われている。中学時代から豊かに彼女を飾るロングヘアは、杏の柔らかな胸元まで降りている。


「……マーシー、カムイくん…」


小さな顔にくりぬいたように輝く杏の大きな瞳には、そのときすでに、影がよぎっていた。


「よ…ぉ、杏……」
「……」

杏が扉を大きく開き、ふたりを招き入れる。
玄関には暖気がこもっていて、カムイは寒かったっすとのんびりとした語気で杏につたえた。杏はその言葉に軽くうなずく。

杏は大きな瞳を伏せたまま、真志井のことを見上げない。
そして真正面にあるカムイの濃密な瞳をみつめた。
カムイがためらいなくマスクをはぎとり、スラックスのポケットに押し込んだ。
そのとき、カムイと杏の濃厚な瞳が混じり合う。カムイの口元に大きなあざがうまれていた。カムイが大きく瞬きをする。杏の曇った顔が一度うつむく。
飾れば飾るほど深くなり、生まれたてのすがたでも深い余韻を持つ目元が、みるみるうちに憂いを帯びた気配にかわる。


真志井の厚みのある心に、影がよぎる。

その影のなまえは、後悔だ。


「杏」


真志井の荒れたくちびるが、思いがけなく彼女を呼んだ。

杏は伏せていた瞳をおそるおそるめぐらせる。


「マーシー…」


杏の瞳がふたたび伏せられる。
二人をみやったカムイは一足先に彼女の家へ上がり込むため、革靴を脱ぎ捨てた。


「……」


真志井とくれば、彼女がてっきり美しく整った顔一杯に笑みを湛えて、温かい家へ、いつものとおり、あたたかく迎えてくれるときめこんでいた。

そのとき真志井雄彦は、そんな己の傲慢さを思い知った。

こんなとき、決まって、真志井の頭は冷静に働く。

清潔な玄関に雑多に置かれるのは、杏の母親が並べ立てたブーツの数々だ。フロントジップブーツはザ・ロウのもので、20万はくだらない。そして足先が二つに分かれたブーツは杏と兼用しているもので、真志井も幾度か見たことがあるしろものだ。そして裏地が赤のヒールに、ピットローファーは履き込まれたものだ。色とりどりのトップメゾンのシューズが無造作に転がされている。
そして靴の山のそばにきちんとそろえられているのは、杏の愛用するオレンジのコンバースのハイカットに、ブラウンのローファー。たった今杏がつまさきにひっかけているのはくすんだ紫が印象深いニューバランスのスニーカー。いずれも女性らしいフォルムだ。

つまり、見慣れぬ男物の靴は見当たらない。

杏に限ってそれは有り得ない。杏の曇った表情の理由は一体何か。真志井の決め込んだ第一の疑念は解決された。そしてこの期に及んでそんな疑念をよぎらせた真志井自身の魂の腐食具合など、深いため息をついたところで、磨かれることもごまかすこともかなわない。


「あっ、ごめんね。マーシー、カムイくん……。よかったら、あがって」
「外寒かったっすね、真志井さん。杏せんぱいんち廊下もあったかいすね」
「マーシーからラインもらったでしょ、すぐに暖房つけたの」
「まだ制服だったのか」
「そう。私も20分くらいまえに、帰ったところだったの」


杏はあくまで落ち着いた声音だ。

ちょーどよかったんすね。そう杏に告げて我が物顔でふたりを先導するカムイは、不良少年らしいしぐさがぬけぬまま、彼女の家のあたたかさをあじわいはじめた。

杏は、豊かなロングヘアを清潔な耳にかける。
杏はまだ、真志井のことを、まっすぐみつめてくれない。
うつむいたままの杏が真志井を促した。


「……どうしたの、マーシー、あがって」
「ああ」


うつむいたままの杏のそばで、真志井が汚れた革靴をぬぎすてる。
スカートをすくいあげた杏が身をかがめる。汚れきった靴をそっとそろえてくれた彼女の、ほっそりとした姿をちらりとみやったとき、真志井は、悔いと違和感をさらに強くした。


「ね」


背後から、澄んだアルトが真志井を呼ぶ。


「ん?」

かけたままのサングラスを額に押し上げる。そして杏のことを振り向いた。
肩越しの少女が、ようやく真志井のことを見上げた。
深く、聡明で、嘘のない瞳だ。整えられた眉根がせつなくよせられる。
真志井のしずかな瞳が、彼女を見遣った。彼の奥二重の隙間に浸食した紫のあざは、少しずつひろがってゆく。


「…さっきのライン、返事できなくて、ごめん」
「気にするなよ」
「……」

杏が再び、澄みきった瞳を伏せる。

真志井もカムイも素足のままで杏の家を我が物顔で闊歩するのはいつものことだ。一方で杏は北欧のデザイナーによるスリッパを履いている。滑り止めをほどこされたスリッパがそそくさと真志井を追い抜く。リビングにつづく扉をさきに開いて、真志井とカムイを迎えいれるためだ。リビングに入れば、先ほどまで曖昧なムードを漂わせていた杏が一転、テキパキとした行動を開始した。真志井は思わず、彼女の名を呼ぶ。


「おい、杏」
「何マーシー。すわってていいよ」
「……」
「あ、カムイくん、大丈夫…?ここは絆創膏はろうか。口もとは冷やす?歯は…」
「歯はどーにでもなりますね。口っつーか目……ひやしたいす。ばんそこ、コンビニで買おうと思ったんすけど、寒くて、すぐ杏せんぱいちいきたかったんす」
「そうだったんだね、まってね、アイスノンが要るね。清潔なタオルももってくる。あ、冷蔵庫のお水、のんでいいから。ちいさいペットボトルあったはずだよ」


我が物顔でダイニングの椅子を引き腰を下ろしたカムイは、加湿器による適切な水分と、あたたかい暖房の風をあびて、大きなため息をついた。
杏の性急な語気を注意深く確かめていた真志井のそばを、杏が駆け抜けてゆく。洗面所に積み上げてあるタオルを探しにゆく彼女の痩せた背中を、冷涼な瞳が見送る。


「疲れましたー……。あったけ。ねちまいそーす」
「なあカムイ」
「なんすか?」
「いや」

杏、ヘンじゃないか。


そんな言葉は真志井の太いのどのなかへ消えた。
前髪を押し上げていたサングラスを引きちぎるようにむしりとり、胸ポケットにおさめた。杏せんぱいんち、居心地いーすねえ。授業中に居眠りをするように、カムイはダイニングテーブルに突っ伏した。すると、整った顔じゅうに受けた傷のそこかしこが痛み、カムイは中でも痛み続ける瞳を片手でおさえた。


「っっって…。目、いたいっす……」
「水のむかカムイ」
「お願いします…」


やがてタオルを抱えた杏がパウダールームからリビングに舞い戻る。
慣れたようすで冷蔵庫をさぐり、両手にスペイン産のミネラルウォーターを手にして対面キッチンから戻る真志井と杏が瞬時交錯する。
ごめん。
小さくつぶやいた杏が、真志井の胸元からすみやかにはなれ、カウンターキッチンの奥に引っ込んだ。杏は冷蔵庫からアイスノンを探し当てる。そんな彼女の素っ気ない様を身長にみさだめる真志井は、やわらかい髪の奥の表情を想像しながら、ペットボトルの封をはじく。そしてカムイの細い肩を叩いて彼を起き上がらせる。派手な改造を施した短ランをぬがせながら、カムイの目元にそっとペットボトルをあてた。


「ごめんね、アイスノン、二つしかない。あとは凍らせてなかった…。足りるかな」
「大丈夫す。真志井さんはー…どーすか?」


おおぶりなアイスノンと、ケーキを購入したときについてきたほんのちいさな保冷剤。石のように凍り付いたそれを冷凍庫の底からとりだした杏が、うすい手の平にのせて四苦八苦しながらとりだす。そしてかき集めてきた清潔なタオルのなかで特別薄いものに忍ばせた。
ダイニングテーブルに手をついた真志井は、ヴィンテージのチェアにその質量の大きな体を預けることなく、ペットボトルの口をかじりながら、しずかな瞳で杏の手際いい様の観察を続ける。


「……」

ロングヘアをもう一度耳にかけた杏が、憂いをひめた瞳を伏せたまま、カウンター越しに腕をのばした。

「カムイ、とれる?」
「おれがやるよ」
「ん……」

聡明で趣深い瞳を真志井と合わせぬまま、杏はがさついた大きな手に、カムイの傷を癒やす冷たいものを手渡した。
それは受け取られた瞬間乱暴に放り投げられて、カムイの両手のなかに見事におさまる。大きな目元にタオルごしのアイスノンをあてたカムイが、気持ちいいす…と小さくつぶやいた。

そんなカムイを見届けた真志井は、恋人の名前を今一度、呼ぶ。


「杏」
「何マーシー。マーシーのもあるよ。大きい方。頬。ちゃんとやんなきゃ腫れるから」

どこか素っ気ない声に、機械的な応対。
しびれを切らした真志井が、今度は愛すべき後輩の名前を呼んだ。


「カムイ」

ひんやりとした声で呼ばれた少年は、慣れ親しんだその声色につられて、右目にアイスノンをあてたまま、整った顔をあげた。ちょうどミネラルウォーターの封を切ろうとしていたところだった。

真志井は、何かを決意したような表情だ。
こわばってもいなければ、外敵と戦うときの真志井の表情でもない。

真志井らしい知性を帯びた顔だ。


「待ってろカムイ」
「は?は、はい…」
「おれは今から、このおねえさんと、いちゃついてくる」
「は!?ま、マーシー!?!?」」
「は、はい…………?あ、はい!!!っていやあの、な、なにゆってんすか真志井さん、そ、それおれにいわなくても…、お、おれ、かえったほうがいーすかね…」
「まって、カムイ。いて。あったかいとこにいてね、ここにだよ。ソファのブランケットつかって。ソファでよこになってていいよ」
「杏いくぞ」

どこに!?
ここ私んちだけど!?それに寒いから外はヤだ…!

そう叫んだ杏は、胸元にアイスノンを抱えたまま、真志井のタフな腕にあっけなく抱かれる。
そして杏はあたたかいリビングから真志井の大きな体に引きずられてゆく。スカートからのびるすんなりとした足がもつれ、杏は真志井ごと、扉の向こうに消えた。

いとも簡単に真志井に連れ去られてゆく杏のすがたを、大きな瞳をこぼれおちんばかりにまるくしたカムイが呆然とみおくった。

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