You're The Top 4


岬麻理央が暮らす施設は、静かに眠り続けていた。

小声でおやすみと告げてくれた岬を、ふたりは言葉を遠慮して,柔らかに手を振りながら見送る。

杏と真志井は、大人びた気配を滲ませる顔を見合わせる。
そして、真志井雄彦はサングラスの奥のするどい瞼を、杏は彫りの深く思慮にみちた目元をおだやかにさげた。

岬の暮らす施設から、杏の家も真志井の家も、ほど近い。行政の注意のゆきとどかぬ戸亜留市の片隅の外灯が切れたままでも、今の杏にはぼんやりとした明かりよりずいぶん頼もしい人物がついている。杏の身につけるタビブーツの足取りは穏やかだ。それは真志井の革靴が、杏よりずっと穏やかな足取りを選んでいるからだ。



「さみ」
「昼は暑いのにねー」
「かせ」
「あ!マフラー!あのね、こういうことしてたらまた私のものがマーシーんちにいって、マーシーのものが私ん家にくるから。めちゃくちゃになっちゃうから」
「バトナーすげえ質いいな。おれはこーいうトラッドなの、マジでにあわねえけど」
「似合わなくないよ。こっち系着たらマーシーは別人になるよね。おしゃれな大学生みたいになる」
「孫六が腰抜かすわ。んで指さして笑うわ。んなコスプレしてやるわけないだろ」
「コスプレかあ、そうみえるかも」
「カムイがいきなりキレだす」
「真志井さんらしくない!!っていうね」

その折、真志井が、ノーカラージャケットの襟元をつかむ。合皮のジャケットはずるりと真志井の体を張って、ドメスティックブランドのジャケットの下からモックネックシャツに覆われた分厚いからだが顕わになった。

フェイクレザーのジャケットは煙草とイソップの香水と真志井自身の香りを纏っている。
ブラックのワントーンコーディネイトは、真志井をおとなに買える。

ジャケットの下からモックネックのカットソーがあらわれて、シンプルなゴールドのネックレスひとつで、恵まれた体の真志井を月のように輝かせた。

フェイクレザージャケットのゆくえを澄んだ瞳で追っていた杏は、思わぬ事態に目を白黒させる。

フェイクレザージャケットが、ブラックのニット一枚の杏の華奢な肩を守り始めたのだ。
強いたばこの香りが杏にもまとわりつき始める。

「え?ジャケット貸してくれるの?寒いんじゃない……?」
「あったかいぞ。おまえのまふらーぬすんだからな。そのせいでおまえがさむいだろ。ああ、こいつから、おまえの匂いがするよ」
「同じ香水なのにね。ジャケット……ありがとう……。ぴったり……じゃないね、ぶかぶかだ。肩に引っかけるだけにする。こっちからもマーシーの香りがするよ」
「ちゃんと着込めよ。じゃねえとおまえの匂い、のこらねえの」
「着ると返すの忘れるよ……」


持ち前の常識を総動員して歩き煙草を控えた真志井も、ノーカラージャケットの襟元にそっと手を添えてうつむく杏も、やがて少しだけ口をつぐんだ。

夜がますます冴えわたる。
本格的な冬を目前にした大気が、なおのこと澄んだ気がした。

そして、さきに口火を切ったのが杏だ。


「あのこ、すてきなこだった。ばったり会ったんだ。そしたら彼女のそばに、ビンゾーくんがいて。三人でお話してたところだったの」
「ああ、あいつ農大行きながらモデルやってんじゃなかったっけ。なんかそーだったよーな気が……。おれ名刺とかもらったことあるわ。なくしたけどな。おまえのよまねータイプの雑誌に出てる。よくしんねえけど。獣医になりたいっつってた気がするけど今はどうだかしんねえな」
「そうだったんだ…だからあんなにきれいだったんだ。そういうこと、全然ひけらかさなかったよ」
「そういうやつだから。そゆとこ、おまえと似てるわ」

似てるかなあ…。杏がちいさくつぶやいた声は、夜の中にとけてゆく。

これまでの杏のなかに見当たらなかった感情に、杏はまだ名前を付けることができない。それは確かにどこかすがすがしく、それでいて何かがのどにつっかえていてまだやり残したことがあるような、そんな不可思議な心持ちだ。杏の聡明な瞳は、傍にいる人と、杏と巡り逢ってくれた人、そのどれをも、粗末にせず、向き合おうとこころみる。

サングラスを下ろした真志井が、そんな杏の整った顔をおもむろにのぞきこんだ。
真志井のそばにいるときより、メイクはすこし濃厚に仕上がっている。もとより保湿された肌のおかげで、夜更けを迎えても、肌には真珠のような艶が目立ち、彫りの深い目元にはアフリカの大地の色が輝いている。


「わあ、いきなりのぞかないでー」
「大人っぽいツラしてら」
「ありがとう…そっとしておいてくれて」

杏のそれは、真志井の大好きな顔だ。彼女の整った美貌が、ますます深くなる。幼さや媚びとはほど遠い、知性のにじむ美しさを、真志井は好む。

「あいつなら大丈夫だよ。おれがどうとか言ってたのも随分まえの話だよ。ああ言っといていつも彼氏いるからな。けどすぐ別れて結局ビンゾーとつるんでるなあ…」
「あ、うん、そんな、もちろんだよ。大丈夫かななんて、えらそうなこと思わないよ」

少しだけあいていた杏との間に、冷たい風が吹く。その風を遮るように、真志井は今一度杏に寄り添った。


「おまえが不安なら、おれはなんでもするよ?」
「あっ、不安っていうのは、ちがうの」


そっか。
短く答えた真志井は、サングラスで深海のような瞳を隠した。

ちがうんだと…思う……。

革のバッグのハンドルをぎゅっと掴んだ杏がうつむいて呟く言葉を、真志井は軽くうなずいて耳にいれ、そして会話の舵をざっくりと切った。


「今ティモシーシャラメだろ?」
「えっ何!?いきなり…」
「推し」
「推し!?アイドルは詳しくないからなあ……。あ、推し俳優!?今はシャラメ推しじゃないよ。オールドガード見返してたらマティアス・スーナールツがすてきで……やっぱ最近は、マッツに戻る感じ……、あっ!私、ここの好みはコロコロ変わるから!今の話、忘れていいからね!!!」
「なんで俺の話するときより変なテンションになって耳が赤くなるんだ?んでおまえも推しとか言うのかよ……」
「いうよー?だ、だけどね、マ、マーシーは、その、マ、マッツより、かっこいいよ…!!」
「世界中のおんなに八つ裂きにされるから俺以外の前でそーいうこというな」

本当なのに。

そう告げる杏が少しうつむいたとき、伏せられた目のまえに、大きな手がさしだされた。

乾燥しきった手は、杏がいつだって求めているもので、この世で杏だけが求められるものだ。


「ん」
「……いやじゃ、ないの…?いいの…?」
「いつもはやんねえけど。だれもみてねえだろ」
「そうだよね、ありがと、マーシー。うれしいな、手つなげて」


めったにできないから。

杏のしっとりと保湿された手が、真志井の大きな手に届く。

ふたりはいつしか、汗ばみがちな手でお互いを温め合うことを微かにためらうほど、長い時間を重ねていた。時間は、ふたりを溶かしてゆく。聡明さを誠実に育てられているか、真志井も杏も、それぞれの意味合いで、自信を見失っている。

ハンドクリームでこまめに保湿された手が、がさついた手に控えめに重なった。

「マーシー、マッツよりかっこいいから」
「あのな…あいつでもそんなこといわねえわ」
「同年代より年上の人と気が合うんだよね、マーシー。やっぱり頭いいし、趣味が大人っぽいし」
「俺のオンナ年上説はうそです、ぜんぶうそ」
「あ、そういうつもりじゃなくて……。年上の人はやっぱり人生経験があるなあって思ったの。音楽の趣味合うんだね!あの音楽わかるんだ……かっこいいなあ、あの子も、マーシーも」
「かっこいいのは音楽やってるやつであって、それを好きなやつではない」

そこ勘違いしてるやつばっかだけどな。

平均身長よりずいぶん恵まれてしまった身の丈に、苦労せずともみなぎる質量、そして日増しに、必要な筋肉だけに覆われ分厚くなる体。それだけで大人になれるなんて、真志井はつゆほどもおもわない。

ましてやラオウという二つ名を持つ男のそばでともに時間を重ね続けていれば、みずからが大人であるという勘違いなど起こりうるはずがない。

真志井は、自らが、はりぼてのように思う。
こんな自分自身は、そもそも、夜の街でいい加減に、みしらぬ女とすれ違い続けているのがちょうどいいのかもしれない。

そばにいる女の子のみずみずしい心など、真志井には釣り合わないのかもしれない。

いつだって真摯な瞳で、ものごとや人と向き合い続けることを諦めない杏と、空洞ばかりがひましに大きくなる己と、果たして、魂の重さは同じなのだろうか。

そんなガラにもないことを思案していれば、杏が静かに口を開いた。


「あんなに素敵な子と友達だったんだ。マーシーの世界は、広いし……充実してる」
「友達はビンゾーのほうだろ。おれは、まあ、知ってるヤツ程度」
「ね、ビンゾーくんと楽しそうにしてた!私もお友達になれてうれしい」


あまりに魅惑的なあの子の姿に気を取られすぎている自分自身が、杏は実にはずかしくなる。問題はそこではないはずで、そしてそんな矮小な意識こそ醜くてしかたがないものだ。
果たして自分自身は、真志井にふさわしいのだろうか。

その回答は、彼に求めるものではない。
彼にすがって引きずり出すものではないのだ。

杏が努力を続けて、そうなるしかない。

それが、杏の出した答えだ。答えをだしたはずなのに、杏は、ただ静かにそばにいてくれるこの青年に、情けなく甘え続けている気がしてならない。

ただ真志井の手に添えられていただけの杏の手が、どこか強くなる。
この手がなくても独りで立てる自分自身にならないと、この男にふさわしくはないだろう。杏がひとりで決め込んでしまったがんじがらめな誓いはますます真志井と心の距離を遠ざける。


「こいつよこせ」
「だめだよー、私マフラー何個も持ってないもん。あげられないよ。これ、ユニセックスだけどね」
「アクネのがあんだろ。去年の初詣で使ってただろ」
「お母さんと兼用だから」
「返したくない」
「えー!?」
「嘘だよ。おまえんちいくまで貸してろ」
「忘れないようにしないと。このジャケットもね」


他に選択肢のないコーヒーチェーンで、ひとつの言葉もないまま、ただ向かい合い、ソファに身を沈めて、真志井が文庫本を手に取れば杏はスマートフォンに視線をおとし、杏が待ちに待っていた新刊書籍のページを繰れば、真志井は仲間たちとスマートフォンのメッセージアプリで会話のやりとりにふける。杏と真志井が重ねた時間が、小さな水の粒のように空気のなかにとけこんで、海の底にいるのにいくらでも呼吸ができるような時間は、いくらでもあった。

「……」

賃貸の部屋の壁が黄ばむことを気にする真志井は努めて外で喫煙にふける。そんな真志井のそばにそっと寄り添って、杏は、つまらない街の古いアパートのそとで、ただ押し黙ってたばこを吸っている彼のそばで、今聴きたい音楽を探し当てる。けむりは杏に届かない。たばこを彼女から遠ざけた真志井が、彼女のスマートフォンをのぞきこむ。やがて真志井の落とす視線をさとった杏が、真志井をみあげておだやかにわらう。言葉は必要としなかった。

だけれど今は、言葉を探さなければならない。

すると、杏の傍で、杏に合わせてその性急な足をのんびりと緩めてくれている真志井が、意外な言葉をこぼした。

「杏」
「ん?」
「ありがとうな」
「えっ」
「いつも」
「私、お礼いわれるようなことした!?何もしてなくない?」
「好き勝手やりすぎちまってる気がしてさ。それに、おれのありがとうがきけるのはおまえだけ。おれはありがとうとごめんなさいが言えない人間だからな」
「まずマーシーはごめんなさいって言わなきゃならないことを、しないよね?それとありがとうって毎日お母さんに言ってるの、私ずっと知ってる。それにどうして?マーシーが自分の人生をちゃんと生きてるだけじゃん。世界をどんどんひろげて、怖い事だって逃げない。抱えてることがいっぱいあるのに、全部自分の力で解決してる。なのに、私は…」
「それはおまえもだろ」
「私は、大人に近づけば近づくほど、そう生きられてないことがわかるんだ。マーシーや…マーシーたちみんな……それに、あの子とくらべて、私は……。」
「杏。こーしてやるよ」

そっと取られていただけの手が、杏の長い指にからめられる。無骨なかたちの指に驚いた杏が、真志井を素直にみあげた。

そんなに驚かせるほど、取り返しのつかないものがあるのか。
真志井のそんな思案をよそに、杏は素直に、真志井のめずらしい行動をかみしめているようすだ。


「久しぶりー……新鮮……こいびとつなぎってやつ…」
「めったにやんねえぞ。今更だけどな」
「六年いっしょにいるんだもん。知ってる」
「わるくないけどな」
「あのね、マーシー、私はずっとマーシーでいっぱいなの。さっきのあの子とも、ずっと、楽しかったけど、私、なんだかこわれそうになったのも、本当なんだ」


泣いたり、高ぶったりする資格なんて、杏にないだろう。
おれがそうじゃないとでも。
そんな言葉を心の底にしまい込んだ真志井は、杏が吐き出し始めた本音に、慎重に耳を傾ける。


「あのこ、いいこだった。私もがんばっていいこでいようって思った。いいこぶっただけなのかもしれない。いいこって思われたかっただけなのかも……。今までだって、ずっとそうだったんだと思う……」
「あいつも多分、同じ話をビンゾーにしてると思うぜ」
「……ううん。たぶん、あのこはもう。だけど私は…」
「杏」
「…」
「こいつがこたえだよ」


真志井が今一度、大きな手に力を込める。

野太い指が、杏の骨張った指をしっっかりととらえた。


「六年。おまえにしかやってねえわ。おまえがすげえんだもん。だからこうしたくなる」
「……マーシー…」
「こいつも、こいつも、こいつも。香水。マフラー。そいつ。俺のもってる全部の言葉。全部おまえにしかないものだ」
「……マーシーはずっと、そう伝えてくれてたのに。どうしてすぐに、私は、答えを見失っちゃうのかな……」
「おまえじゃなくても人間つーのは、んなにつよくできてねえのよ。だからおれも、おまえがどうしても必要なんだ」
「人間がっていう話じゃない。私自身のことだよ。私はすぐに、忘れちゃう……」

どんだけ勉強したって……

そう呟いた杏が、項垂れるようにうつむく。

これ以上この青年の何をほしがるというのか。

そして、この青年を満たしてくれる誰かこそ、そばにいるべきではないのか。しのびよるそんな声に耐え、振り払っているのは、杏だけではなく、真志井もふたりしておなじで、その事実をふたりして知らない。


「でおまえはどうなんだ」
「え、な、なに?」
「こいつだよ」
「マーシーが一番しってるよね!?私だれとも…」
「いーやカムイにもやった。なんならカムイをハグしたね、きみは」
「ぼろぼろだったから……それにカムイが鈴蘭に行ってから、もうやってないよ。もうカムイもすっかり大人だし。カムイくんって、あっという間に自分でなんでも出来るようになったよね。マーシーの背中を見てたからだよね」
「い、いや、自分でなんでもできてねえぞ…。ま、そういうふうにおまえにみせるのがうまくなったのかもしれないな。それに孫六にもだ。そうだよ、問題はここだ。おまえさぁ、孫六にやさしいよな?」
「孫六くんも、私の友達だし。あんなにケガしてる友達をほっとけっていうのは……。それに、マーシーの仲間で私の友達だからだよ。えっ私、完介くんにもビンゾーくんにも……岬くんにも、平等に…やさしく……」
「びょーどーすぎる」

首をかしげる杏は、真志井の提示した正解の手前で立ち止まっている。

真志井が伝える事実は、ただひとつ。
杏は、ちっぽけさじゃなくて、優しさゆえに苦しんでいるだけにすぎないという真実だ。


「みんなにやさしくするのは、友達だし、みんなだいじだから…」
「わかってる。だからみんな、おまえのことがだいじなんだよ」


ビンゾーもおまえのこと、ばらさなかっただろ。
それは、だいじだからっていうか、ビンゾーくんだからじゃないかな……。

誰かを大事にすることは慣れているけれど、それを受け取ることにいつまでも慣れぬ杏が、整った口もとから言い訳めいた声をいつまでもこぼしていれば、真志井がそれをすこしひんやりとさえぎった。


「おれはおまえとちがって、オマエ以外にやさしくねえからなあ」
「本当にやさしいひとほどそう言う気がするよ。わたしは、やさしくないのかもしれない。私は……マーシーのことを満たせる子が、うらやましかったんだ。私にできないことが出来る子が、私の持ってないものを持っている子が、うらやましかったんだ。そう。うらやましかっただけ」

白杖しちゃったー。みっともないな!

そう吐き出した杏の声は、やがてすがすがしくかわっていく。

「そう言えるところが、おまえって感じするわ」
「そうかな!はずかしいなー。マーシーにははずかしいところしか見せてないよ」

そもそも今日おまえなんであそこいたの。真志井がそう尋ねると、杏が素直に答える。今日はあの子といっしょに勉強したあと、あそんでたの。ほら、学校の友達。マーシーとも会ったでしょ。おれさあ、中坊のときからおまえの女友達に警戒されるの、どーしてだ?まおれの場合、おれ警戒するオンナのほーが信用できんだけどさあ……。

そんな軽快な会話をかわしていれば、杏が、今日味わった新鮮な光景を語り始めた。

「あ!あのね、そのときに、あのこが、マーシー!!??ってさけんだの」
「さ、さ、さけぶんじゃねえよ……。やめろ…やめてくれ……また来週末あそこにいる連中にまとわりつかれる……うぜえ……カムイ引っ張ってって盾にしよ…」
「そ、それはマーシーが自分でがんばるしかないのかも……。でね、あの子がマーシー!!??マーシーの!?!?って大声で名前呼んだの」
「呼ぶな!おれのなまえをだすな!」
「あ、あとのまつりだよ……。それに、そうなの、もういろんなところからいろんなひとが集まってきて……マーシー!?って。みんな、マーシーをさがしてた。みんなマーシーに会いたいって言ってた。ちらっと見えただけだけど、みんなすごく嬉しそうなカオしてるの。いろんなひとがいたよ!」
「おまえには、なにもなかったか?」
「うん、ビンゾーくんが助けてくれた!あのこといっしょに逃げたの」
「ビンゾーに貸しか。おまえに何もなかったならよかったよ」
「私のことがバレるまえに、ビンゾーくんが私たちを逃がしてくれたの」

カムイもよく来るの?
完介んちでゲームするほうが楽しいっつって、滅多にこねえわ。来週は連れてく。あいつを盾にする。
ごめん…私のせいだ……。


杏の手に指をからめることを味わいつくしているのは、いつしか真志井となっている。


「来週は賑やかそうだね……、みんな、マーシーといるのがしあわせなんだね」
「しあわせじゃなありません。他にやりたいことがないだけだろ。ろくでもないのもうようよしてるぞ。杏、ああいうところ来たいって思ったか?」
「オールはできないな。お酒も飲めないし。カムイとマーシーと私で泊まっても、一番に寝ちゃうの私じゃん。それに夜は寒いし!マーシーたち寒さに強すぎ!だけど、あのうれしそうだったひとたち、みんな、裏と表があるの?」
「それがふつうだ。おれもだよ。だけどビンゾーとかみてみろ。いつでもあのまんまだろ。心もからだも、全部つながってる」
「そうだね!」
「ラオウもだ。裏も表もないぞ。孫六もだ。カムイも、完介もそうだろ」

おれだけだ。

自嘲気味に笑う真志井をよそに、杏の真志井への強い信頼は揺らぐことがない。

そして、それが真志井をますます強く変えていく。


「マーシーは、すごく大きいよ」
「はは」
「私はずっと、こども。あのね、私もう気持ちの整理ついたから。私じゃ満たせないことも、経験も、マーシー、私じゃない、いろんな人と、たくさんして……。そうだ、マーシーはいつか、私に、やりたいことをやって行きたいところに行ってって言ってくれたでしょう。私もそうおもうの、私もう大丈夫。何も気にしないで」
「杏」
「ん?」
「あのときのことわすれたか」
「何を…」
「何があっても絶対おれのそばにいるって言ってくれただろ」

幼いにもほどがあった誓いが杏のちいさな心のなかへ蘇る。
何も知らなかったころの自分自身が迫る。
蒸し暑い夏の日。幼い心のまま誓った言葉は、杏を果たして強く変えたのか、それとも、
杏はあの言葉のとおり、ここまでまっすぐ歩めただろうか。


「……い、いる、よ……。いるんだけど…いるん、だけど……」
「それはそーとして、な、おまえ、おれがおまえのどこをすきかわかんねえっつったんだって?」
「ん、うん。つい零しちゃった。ビンゾーくんもだけど、あの子の前で、なんだか何でも話せちゃう気がしたんだ。はずかしいね。いい子ぶったって、私ってすぐにつまんない本性でちゃう。私今、また逃げようとしたね。はずかしいな。だけどそんな私も見てくれてありがとう」
「おれがおまえのどこをすきかわかんねえって?かなしいよ、おれは…」
「か、かなしませてごめんなさい…!!わ、私はね、カムイくんを盾にするつもりのマーシーもすきだから!」
「カムイさあ、最近さあ、こーいうの見抜くようになっちまってよ、御託捏ねてついてこねーのよ。けど来週は首根っこ掴んで引きずってくんだけどな」
「えっと、間違えて孫六くんの番号着拒してたマーシーもすきだし、自転車のかぎなくしたマーシーもすきだし、何回言ってもお母さんの使ってる化粧水のブランド憶えないマーシーも好きだし、」
「おれの黒歴史並べるな……。おれはさあ、杏」
「ん?」
「そうやって前を向くとこがすきだよ」
「そーなの、結局出来ることってそれだけなんだよね」

おれにはないところだ。

マーシーが見てるのはね、前じゃなくて、ここ。このへん。

からめられた指先。大きな手を握りしめた杏が、真志井の厚い肩に勢いよくぶつかるほどに寄り添って、自由な指先が、真っ黒の空を指さした。少し幼い振る舞いだ。

杏の大人びた指のさきに、細い月が見えた。

「ずっとむこうをみてる。私はずっと、それを追いかけてる」
「逆だ逆」
「そういえばビンゾーくん、げんきそうだったね。先月から会ってなかった気がする」
「昨日は左目つぶれてたんだけどな。一日でなおってるわ。うらやましいぞ…あの早さ…」
「そーだったんだ……。それとけっきょくマーシーは、ビンゾーくんに私のこと、だれにも言うなって言ってたの?」
「おまえのことを?いーや何にも。ウチの連中に、そんな命令したことねえわ。あいつらがそれぞれてめえで判断して決めてるよ」
「やっぱり……そうだったんだ……」
「正しい判断くだしてるだろ、どいつもこいつも」

杏の控えめな顎が上下する。
深い思慮を誇る瞳が静かに伏せられた。
自分自身が、知らない場所で誰かに守られている。
そんな事実を自覚したおもはゆさが、聡明な表情ににじみ出ていると見える。

「あいつらも、おまえがだいじだからなあ。おまえを守ってるつもりなんだよ」
「私も…だいじ。みんながだいじ。守る力なんて持ってないけど」
「おれは」
「マーシーがいちばんだいじ…」

ジャケットありがとう、もうあったかいから返すよ。マフラー、返して。じゃないと忘れちゃうと思う。杏のそんな要請にこたえた真志井は、素直に彼女の持ち物を返還する。質のいいアイテムはおのおのの体へもどり、突出したものを誇る二人のことを再び挽き立てはじめた。

「ん。マーシーの匂いだ」
「んーー……ヤニくせーな、おれのふくは……あ、おまえの香りがした」
「香水?今日強かったかも。私のマフラーは、たばこと、香水と、マーシーのにおい。だいじょうぶ。これがあったら、わすれない」
「わすれないでくれよ」
「うん。マーシーのそばにいるのが、私ってこと……」

まだ自信なさそーだなあ。まだひつようか?

そうつぶやいた真志井が、杏の手を引いて、からめられた指を闇夜に掲げてみせる。

「おれがこれをなかなかやらねえのは、照れくさいだけだよ」
「マーシー、クールとか冷たいとかいわれるじゃない。私、全然ぴんとこないの…。いつもマーシーは、ちゃんと伝えてくれる」
「おまえだけにな」

あと少しだけ。

だれからも愛されるあなたの、だれからも愛されるおまえのそばにいるちからを取り戻すまで、あとすこしだけ。

「おまえたばこすうやついや?」
「マーシーはべつ。あまいよね私って…」
「酒は?」
「マーシーはべつ。お酒だけは大人になってからのめばいいのにっておもってるけど。マーシーだけじゃなくて孫六くんもビンゾーくんもだよ。言ってもきかないけどね、みんな」
「なんだよ、ゆってねえじゃん」
「えー何を?」
「こっちの話」

そんな願いをこめた杏と真志井が、同時に、指に、ちからをこめて、灰色の街の夜の道をいつまでも歩き続けた。

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