Night and day 14


真志井雄彦の恋人杏が、竹のようにしなやかな背筋を凜とのばして味気ない事務椅子に腰をおろしてもなお、真志井雄彦の深い瞳は、彼方の星のような場所にある。
トップモデルのように恵まれた長さの足が宙空を自在に動き、かかとを踏み潰した上履きがひんやりとした床を叩いた。杏が足の行方を追いかける。事務椅子にしとやかな様で腰を下ろした杏は、真志井のとる行動を待った。

それは杏が求めているものと、おなじだと感じたからだ。

尊大なさまで机に腰を下ろしていた真志井が、理科準備室のひんやりとした床にその長い足をおろす。そして杏に大きな影を落としたとき、杏がゆっくりと顔をあげて、恋人のすがたを見上げた。そして、事務椅子に座ったままの杏のまえへ悠然とたちはだかる彼へ、かすみのような声で尋ねる。


「……マーシー、わたしが、すわったままだと…」
「キスがやりにくいにきまってんだろ」
「ご、ごめん、」
「じゃなくて。おれがだ。けどいいんだよ、これで」


壊れそうなほど小さな顔に、荒れ野のような手がそえられる。
真志井の大きな手ひとつでつかめてしまいそうな頭だ。それは果実のようにフォギーで、彼女をつくる小さな命が瑞々しく光るような肌で、真志井はこの夏、彼女の輝かんばかりのうつくしさは、彼女自身が繊細な努力で積み上げてきたものだと知った。
杏の夜明けの色の髪のなかへ、無骨な手がしのびこむ。
杏の左耳が真志井の荒廃した手にかくされて、開け放たれた窓からしのびいる声が瞬時、くぐもった。
汗ばみやすい手が、彼女の潤った肌をますます潤してゆく。膝の上にいた杏の手が、彼を求めてさまよう。そんな杏のすっきりとした大きな手が、半袖シャツからのびた精悍な腕に添えられたとき、真志井のかさついたくちびるが杏のもとへ、たどりついた。


「ん……」


夜の色の豊かな髪を、真志井は小さな頭ごとわしづかむ。

真志井に掴まれた杏は彼のがさついたくちびるを杏がそっと湿らせてゆく。

真志井は真夜中のような瞳をはっきりと凝らしたまま、そして杏は小刻みにふるえる瞼を不器用にとじたまま。杏のベスト越しの背中を強く抱き寄せて、杏が穏やかにしめらせてくれるくちびるを、真志井はやがてばくりと開いた。
杏のモーヴなカラーのくちびるを真志井がやおら、支配する。喉のおくから漏れる声は、真志井に鈍い火をつけた。細い腿をかくし、痩せた膝をあらわにするスカートのプリーツが、彼女の細い足の間にしずんでいる。腰に力をいれた彼女の眉間がぎゅっと寄せられたとき、真志井が大きく息を吸い込み、呼吸を行う器官という器官で有りっ丈の空気を吸い込みながら、それをまた、杏へおくった。真志井のくちびるしかしらぬ杏も、ふっくらとふくらむくちびるから小刻みに空気をとりこんで、ぬれた音をたてつづける真志井のくちびるに、けんめいにくらいつく。

ふたりのくちびるを透明色の糸がつないだとき、真志井が杏へあたえてくれた時間はおわった。

杏の背中を支え、右耳をかくすように押さえ込んでいた手はそのままだ。

真志井の腕に添えられていた杏の手は、ゆっくりと自らのひざのうえへ、落ちてゆく。


真志井の唾液の味は、少し素っ気ない。
無色透明の味だ。杏のくちびるにのこる真志井の味は、静かな惑星のようないろだけ残す。

そして杏のくちびるの味は、今日は香ばしいお茶のかおりだ。

深いキス。
真志井と杏をいつまでもつなぐキス。
杏がいまだ、慣れないキス。
真志井は、そんなものについて、まだ呆然としたままの杏に問いかける。


「……」
「ここまでやっちまうとどうだ?」
「…………全然、いやじゃない………すき……」

杏は、少しだけはしたなくひらいていた足をあわててとじる。細い腿のなかにプリーツを巻き込み、杏の深い部分を隠すくぼみが生まれた。は、歯磨きしてなかったよ!そんな牧歌的なことをつぶやいて羞恥をごまかす杏は、冷たい手の平で自らのすっきりとした両頬を覆う。無駄な肉のない顔を大きな手で覆って、情趣あふれる瞳をとじて、大きなため息をついた。

そしてひんやりとした気配のまま杏のことを見守り続けてくれる真志井にたずねる。

真志井に、呼吸と心と杏のなかからうまれるものを奪われ続けていた時間にのみこまれていたとき、些か気にかかったことを告げた。


「……マーシーおひるたべた?」
「食ってません」
「あれ、お母さん今日は……夜勤か……お弁当つくらなかったの?」
「んー、いい」
「……」

そうなんだ……。

両手で熱い頬を冷やし続ける杏が、真志井の大きな体から視線をそらし、逡巡と思索をくりかえる。
真志井がそんなことを執り行うとき。
真志井と過ごした三年間で、飛び抜けた知性を持つ彼独自のポリシーあるいは指針、そしてジンクスのような何かを、杏はいくつか読み解くことがかなった。杏の記憶のなかにちらばっている真志井に関する情報を、すこしずつひろいあつめてゆく。


「…っていうことは……」


聡明な恋人が真実にたどりつくまえに。

真志井が杏の痩せた腕をひいた。母親に連れられて出向く美容医療のおかげで、杏の全身には無駄なものひとつ見当たらない。白魚のような剥き出しの腕を掴んだ真志井が、杏のことを椅子から起こす。
事務椅子のキャスターがはずみで転がり、使い込まれた椅子はそのまますべり、厳重に施錠された扉にぶつかった。

清潔な性分の理科教師のおかげか、防滑性ビニル床は磨き抜かれて、清いままだ。杏を抱き込んだ真志井は、事務机の片隅にそのまま身をひそめ、杏のこともちからまかせに引きずり込む。

「マーシー、何……?」
「おれら背がたけーもん。立ったままいちゃついてると向かいの校舎から見えるぞ。下のテニスコートからも丸見えだ」
「それは、そうなんだけど」

その折、昼食を終えた生徒たちが、金切り声にちかい叫び声をあげて、理科準備室の前を走り抜けてゆく。杏がかすかに身を縮めたとき、真志井は杏をますます深く抱いた。

「…なんだか、また、私を逃げられないようにしてる気がする……」
「また?そんなことないだろ。おれはおまえにいつも逃げ道をつくってるぞ」
「こんなことしなくても逃げないよ」
「おれといちゃつきたくないの」
「いちゃつきたい……。学校でこういうことするの、なんだか映画みたい…。それと逃げ道つくってるっていったけど、最初はそうじゃなかった。ほら、わたしが告白したとき」
「告白したのはおれからだろ?」
「私みたいなものだよ」
「おれだ」

ま、まって、マーシーの隣に座るんじゃ、だめ?ちょっとだけ窮屈なの。

そう訴えた杏はたしかに、長い足を投げ出して悠然とくつろぐ真志井の胸のなかで170センチに迫る長身をおりたたみ、恵まれた手足を窮屈に縮め、真志井の思うままに拘束されたままだ。

杏の訴えをゆるした真志井が、少しだけ杏に、逃げ道を与えた。杏は真志井の広い胸のなかから這い出す。
もちろん杏は、この理科準備室から逃げ出すはずもなく、事務机の死角に身をよせた真志井の大きな体のそばにいそいそとうつり、ぎゅっと膝を抱えて、真志井の傍に寄り添った。真志井と杏の愛用する香水は、そろそろ香りの終わりを迎えて、沈香のような残り香だけ残してゆく。そんなとき、真志井の厚い体からいつも彼自身の冷たくつよいあこりがあらわれて、杏の薄い体からいつも、甘く淡い香りが薫った。
いつだって、真志井のそばが、杏の居場所だった。


「じゃあ、ふたりともってことで。でね、あのカラオケって、ソファが後ろのかべにくっついてるし、テーブルもそうじゃん。私マーシーに、ソファの奥のほうに押し込まれて……私にくっついてすわって、マーシーなんか、もう、足こうやって」


こうして二人でそっとくっついて語らっている時間には紙巻き煙草があってほしいものだが、あいにくここは校内で、杏をたばこの香りで蒔くわけにもいかなかった。

杏の訴えを、ケケと笑った真志井が、皮肉な調子で聞き流した。


「テーブルに…。長い足おいて!逃げ道ふさがれてた。私あのとき、これ、逃げれないじゃん……って思ったの。マーシーがすごくくっついてきたし。友だちだったころ、あんなにくっついたことなかったじゃん。今もそうしてるー…」
「おれから逃げたかったのか」
「逃げたくなんてない。それにあのビル治安わるいからー、逃げたってもっと怖いことおこるけど!」
「そうだよ。おまえをもう二度と彼処に連れていかねーぞ」
「うん。……だから!あのシチュエーション、今思い返すと、怖い!」
「そーだよなあ、おれはでけえしな。こわいよな」
「マーシー自身がこわいわけじゃない。だけど、雰囲気作りは怖かった!」
「はいはい。ごめんなさい杏さん」

ゆるす。

少し戯けた口調で杏が返せば、真志井も実に愉快なさまで、笑った。
ひんやりとしたビニール床に投げ出した長い足を持て余す真志井が、今になって苦情を述べ始めた杏に、今一度念を押す。


「怖いのやだろ?」
「……マーシーのやることって、いつも私を、いっぱいにする……。怖いのも、すきかもしれない…」
「へーえ、そりゃ俺に好都合だな」
「マーシーに都合がいいんじゃない。わかってるでしょ?それは、私に都合のいい、すきなんだとおもう…。私に都合のいい事実を、マーシーがつくってくれてるんでしょう?マーシーのとなりにいると、わかってきたの」
「おまえのそういうの簡単にかなえてやれるぞ」
「このままじゃそういうマーシーに甘えきっちゃうよー……」


なんでだよ。あまえろよ。
マーシーは最近、私にあんま甘えてないね。

杏がそう指摘すると、真志井が杏に、実に素直なさまで頭をあずけた。

そして杏も、彼の厚い肩にそっと身を預ける。

軽く結っている黒髪が杏の頬にふれた。杏の夜明けの髪が、彼の肩のうえに流れ落ちた。杏が深い瞳をとじるさまを、さっくりときれた瞼をもつ真志井は、大きな黒目を凝らしたまま彼女を見守り続ける。杏の栗色の髪は、光があつまるような色だった。今は、月にしか見えない夜を集めたような色だ。杏のくちびるは、色を真志井に奪われて、濡れたような色のままひかっている。そんなくちびるが、おだやかな言葉を与えた。


「いつでもこうしていいよ」
「おまえもな。そーいや、学校での距離感、今朝くらいで大丈夫か?」
「も、もちろん!えー気を遣ってくれたの……。ありがとう……私こそ、不自然だったり…マーシーにめーわくかかったりしてないかな?」
「んー、ま、若干遠いね、杏さんが」
「遠すぎたかな。体育祭の準備のときも、ほとんど話さなかったもんね」
「おまえがさ」


真志井の手が杏をよぶ。ぎゅっとひざを抱えて、腿のなかにプリーツスカートを巻き込み、ちいさな膝の上で両手を組んでいた杏も、真志井に請われるまま、彼を求めた。

真志井の分厚い手と、杏のしなやかな手がそっと重なり、汗ばむことをかまわず、どちらともなく長い指をからめあった。


「すこーしだけな」
「わかった?」
「さびしそうだ」
「だとしたらそれは私の問題…マーシーじゃなくてね」
「無理しないでくれよ。まちょっとずつおれらのこと、噂になってくだろうな」
「体育祭の準備でばれたんじゃないかなあ」
「あそーなの?」
「でも、もう秋と冬だけだからね」
「そこなんだよなあ。大丈夫か、べつに」
「そう思う」


テストできた?杏が真志井にそう問えば、真志井は簡潔に答えた。楽勝。そんな声を聞いた杏も彼の声音に同調する。学校きっての知性派不良少年と、学校きっての才媛。そんなふたりは、関係の変化を言い訳にすることなく、この夏も地道な努力をおこたらなかった。真志井はマイペースなまま夏を楽しみ、杏は、夏らしい大きな行事を真志井とともにすることは、来年のたのしみとして彼方へ置いた。簡単だったよね。杏がそう正直な所感をこぼすと、オマエに勝てるかなと真志井がわらった。その笑みは満たされ切った笑みだった。


「けど、学校でこんなにマーシーとくっつけてる……」
「だから鍵しめてんだろ。この時間があのコたちにバレるかどうかは、おれのせいじゃねえぞ。おまえの問題な」
「そ、そうだけど!?……そういうとこほんっとうにマーシーらしいーー…!」
「だろ。おれはだれにもばれないぞ」
「私は友だちにバレると思う。ここ、耳とか、あかいし。なおらないよ…」
「そうか、おれがおまえをこう変えちまうから、おれはおまえのダチにしねっていわれんのか」
「変わってる……?」
「頭いいやつと察しいいやつなら気づくだろうな。おまえが変わっていくと不安なんだろーよ」
「それは、きもちがわかる」
「ならおまえが友だち安心させてやれ。それとおれん家の壁に絶対マーシー殺スって描くなっつっておいて」
「とにかく、みんながマーシーのことひどくいわないように言っとくから!」

面白いからいいよ。
真志井がすべてをゆるすように、幼く笑う。杏も、整ったまゆを下げて、困ったように微笑んだ。小さな顔にそうして刻まれる笑顔は、真志井がこよなく愛したものだった。彼女のどこかが変わったって、彼女は彼女自身のままだ。そんな事実を捕まえておきたくて、真志井はそばに寄り添ってくれる女の子に、もう一度告げた。



「にあうな」
「ありがとう……」
「かわいい」
「うー……」
「うーて何よ。杏キレエだわ」

顔が…耳が、赤いの、なおらなくなる……。
真志井の短い言葉を浴びるたび、かたちのいい耳に、尖った鼻梁のさき、そして目元に、果実のような頬をそめる杏が、みずからにおこる変化を懸命にコントロールしようとこころみても、いつだってこの少年が上手だ。

夜明けの色の髪は、象牙のような肌を思いがけなく引き立てて、彼女のコンプレックスの小麦色の肌を青白く変えている。
華奢な足は、黄昏の街から逃げ出すことなく、毎日誠実に歩み続ける。そんな彼女がこうして身も心も磨かれてゆくことを、そばで見守る権利を手にしたこと。

真志井はときおりそれを、絵空事のように惟う。彼女のやわらかなこころと幼いからだを独占する権利が狭い世界のなかで真志井の手のなかに転がり込んだこと。それは決められていた運命ともいえる。そして真志井がこの手で掴んだことともいえる。そして今、狭く幼い世界のなかで、真志井が、最も権力を持つ立場にあるからともいえるだろう。杏を奪われる前に、真志井が奪い取ったのかもしれない。


「上がいなくてよかったわ。おまえ上にもさんざん……」
「上…?ん?上級生ってこと?」
「いやなおもいさせられたろ。妙なもてかたもしてたけどさ」
「待ってよ、そんなにもててないよ、もっともててた子いっぱいいるじゃん……。それに、そうだったかなー……。あ!あった、都合よくわすれてたー……」


女子の先輩はいい人ばっかだったけどね。トラブルもなかったなー。だけど……。

そう呟きながら、あえかな記憶をたぐり寄せた杏の、真志井と絡め合っていた指が、少しだけ強さを帯びる。
そして、熱を持つ。
真志井は、まるで真志井を呼ぶように力の入った杏の手を悟り、真志井も杏のことを今一度、ぎゅっと握りしめた。

真志井の手はいつも杏の味方だった。

この優しく大きな手が誰かを討ち、誰かを降伏させるちからをもつこと。

そんな事実を、この三年間で、杏は深く知ることとなった。

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