Night and day 13


真志井の恋人杏の生まれ持った特徴のひとついえば、太陽のもとで燃えるようなブラウンヘアであった。一度も染めたことのない髪は生まれつきの栗色だ。飾らぬ髪であるあかしを、幼少時代の杏の写真を添えて作成される地毛証明書が保証していた。そして、整った顔だちをいろどる軽やかな髪質も同様だ。幼い頃から異国の少女のように柔らかく跳ねる髪も杏の持ち前のものであった。

そんな杏の様相は、夏の気配が失せる様子もない9月1日、些か変化を見せた。

京華中学校の校長が女性に替わったのは杏が入学する2年前のことだった。気鋭の女性校長は、肩より長い髪をもつ生徒はヘアゴムで髪を束ねなければならぬといった校則をはじめ、古い因習をいくつか取り払った。関東の片隅のくすんだ都市にの公立校にはびこる悪習全てを焼き払うことはかなわなかったものの、生徒たちは少しの自由も手にした。

よってこの三年間、杏の華奢な背中に、くるりと巻いた茶色の髪が踊り続けていた。ブラウンヘアは時に、自在なアレンジで彼女をかざった。そんな杏の栗色の髪は、同性の生徒からの共感を集めて、多くの異性の生徒にとって、いささか輝きが強すぎた。

そんな杏の湛えるヘルシーなムードが、このたび一新された。

栗色だったはずの髪は、夜明けのような色に変わっている。
そのカラーリングは杏の恋人真志井雄彦の漆黒の髪とひと味違う暗さだ。

そして、半袖ブラウスの上にベストをかさねた杏の痩せた背中には、まっすぐの髪が降りている。

みずみずしい毛先だけあえてのこしたカールが、かつての杏の名残だ。

新学期直前に出向いた都心の美容室で、受験と生まれ持った髪色の兼ね合いを相談すると、くすみがかったすこしスモーキーな髪色を提案された。髪の色を変えることにそもそも抵抗はなかった。かえって、杏には新しいチャレンジのように感じられた。かくして杏のことを変えた透けるような暗い髪色は、杏の生まれ持った小麦色の肌に透明度をもたらした。

かくして杏が、夏休みのあいだに伸びきった豊かなロングヘアをオリーブグレージュに染めて、生まれ持った巻き毛をストレートパーマで整えて新学期の教室にあらわれたとき、京華中学校の三年が集う校舎に、さざなみのようなざわめきが起こった。
夏休みあけの生徒を出迎える教師も一様に、京華中学校きっての才媛が選択した素直な変化に目を細めた。

おなじクラスの女子生徒がつぎつぎに杏に挨拶をかわす。2年次に教室をともにした友人たちも矢継ぎ早に杏を囲む。友人たちと近況を伝え合っていれば、やがて杏は生徒たちの群れの奥に、頭ひとつ大きな少年を見つけた。
真志井だ。
半袖のシャツごしの背中は、杏が手に入れたはずのそれだれど、少しだけ遠くに感じられた。

夏休みの間断続的に行われていた体育祭の準備や登校日での情報交換、そして日々たえず稼働するSNSで、杏と真志井の関係の進展は、校内に徐々に浸透する事実となっていた。おめでとう。そんな声も杏にたえず送られた。

真志井の濃密な黒髪も肩口までのび、今日もジェルでしっかりと固められている。
真志井という少年には、明朗なムードと急速に大人になろうとする冷気、相反する気質ふたつがつきまとう。けれど思春期のこどもたちの強い熱と愛情は真志井の明るさと賢さを求め、真志井の性分も遺憾なく求められるとおりに発揮される。今日も朝から、彼の周りにも生徒たちが集ってやまない。

杏はそんな彼の後ろ姿を少しだけ見遣る。そして友人たちとの久方ぶりの対話にふけった。杏を囲む友人たちは矢継ぎ早に入れ替わる。この学年の風通しがいいのは、間違いなく岬と真志井の功績だ。争いや諍いのない世界に恵まれた少年少女たちは久しぶりの友人たちとの再会で忙しい。そんな平穏で賑やかな人混みをぬって杏の傍に現れたのもまた、付き合いの長い友人であった。

爽やかな風がふき、媚びのない香りがただよう。

岬麻理央だ。


「杏」
「岬くん、おはよう」
「誰かわかんなかったぞって言いたいけどなあ。杏だってすぐにわかったぞ!」
「そうだよー、髪のいろが変わったって」
「変わらないな、杏は。綺麗な色だなー。黒?青にも見えるな。マーシーには見せたのか?」
「今日はまだマーシーと話してないんだ。ほら、マーシー…彼処でみんなと……あ、いっちゃった」
「おれらもいこうぜ。それにしても暑いなー」
「ねー、暑いね!」

体育祭の準備、全然行けなくて悪いことしたなあ。そんなことを真面目にぼやく岬の優しい心を、杏は穏やかな語気で宥めた。そしてマイペースで作為のない岬の快活な話に相づちをうちながら、生徒が行き交う階段を一段ずつ足を運ぶ。岬が歩めば、道がひとりでにうまれる。すれちがうクラスメイトたちと笑顔で声をかわす岬が杏と、そして親友のことを、ことほいだ。

「それにしても」
「うん」
「おまえらふたりが、やっと付き合ったなあ」
「岬くんにあらためていわれるとはずかしいねー……。夏休みにも話したね!」

通学バッグを肩にかけた杏は、そばを歩く心優しい少年を見上げて、静かにわらった。




新学期前。
駅裏の予備校で模試を受けた杏を迎えていっしょに向かった先は、ラオウの暮らす施設だ。真志井の母から持たされた差し入れの数々とともに、杏の手元にも欧州の空港で手に入る紙袋がある。

「お母さんがもっていけって」
「チョコ…。チョコってあれだろ、むずかしーんだろ、ややこしーんだろ…」
「大人っぽい味なの、おいしいんだよ。夏にはちょっと重いけどね。これはね、個人輸入じゃなきゃ買えないんだよ!お土産で買ってきてもらうしかないんだ!」
「おまえそういうのすきね…」
「岬くんとこの子たちがたべるかどーかはわかんないんだけど、職員さんが食べたらいいとおもうし。職員さん、前こういうのすきってお話してた!おいしいんだよ!!マーシーのお母さんにもあげたでしょ?たべてた?」
「一粒ずつっつってた。おれは…甘いのわかんねーけど、ベンキョーしとくか」
「えーしなくていいよ。ややこしいし、なんかミーハーな世界なんだよね。だから私がすきなんだけどね…」
「おまえがそこまで舞い上がってんのめずらしーし」

真志井のような醒めた気配は纏わぬものの、杏が賑やかだとか騒がしいだとかそういった形容にふさわしい女の子かといえば、そうではない。
彼女もまた、落ち着いたまなざしをたたえた少女だ。
しかしそんな杏を高揚させるものは知っておきたい。そんなことを抱いた真志井が、やがてかすみの家というなまえの施設にたどりつく。そして、スマートフォンを操作する。ほどなくして草が生い茂る古い施設の入り口から姿を見せたのは、シンプルなファストファッションに身を包んだ背の高い少年だった。


「ああ、ふたりできてくれたのか」

岬麻理央。

痩身のすべてをかざらずとも、むきだしの姿であざやかに輝くうつくしい少年が、夏のまぶしいひかりのもとで、破顔した。


「岬くん、これ、お母さんが出張で外国行ってて、おみやげ。冷蔵庫にいれてちょっとずつ食べて。あとマーシーもいろいろ持ってきてる」
「ラオウここでかまわねえぞ。今日もいそがしいんだろ」
「杏。ありがとう。そうだ、杏。ふたり、やっと付き合ったんだってなあ」
「すぐラインしたわ。ラオウに」
「うん、そう聞いた。はずかしいのとうれしいのと、両方。そうなの、私、マーシーと…」
「ああ。よかった。おれはこれからも杏と友達だ。マーシーともな」

杏と付き合うよ。
杏と真志井が想いを確かめ合った夜、岬のもとに、そんな簡潔なメッセージがとどいた。
短いけれど確かな愛情と決意のこもったメッセージを読んだ岬麻理央という少年は、よかったな!!おめでとう!と爽やかな祝福を与えた。

マーシーをよろしくな。岬がそんな口ぶりで杏を言祝ぐと、杏は遠慮を繰り返し、真志井は艶やかな黒髪をかき上げながら、目をそらす。ざっくりときれた瞼によぎる気配は確かに慈しみがにじんでいる。
真志井と岬と杏のあいだに流れる時間は、相変わらず、森林の奥の湖のように安らいだものであった。


杏が髪を染めたのは、あの後すぐだ。

岬と別れて、彼と真志井の隣のクラスが杏の居場所だ。
教室の最後方がクラストップの成績を誇る杏に与えられた席で、杏の席の前にすわるのは、杏が校内また校外で常に行動をともにする、杏の親友である。彼女は真志井や岬の迫力や畏怖をものともしない性分の生徒だ。彼女は、学校を跋扈する不良少年たち、少し気難しい女の子たち、思春期の幼いこどもたちのつくる社会をパワフルに切り開く女の子で、杏と少し違った気性のもちぬしで、杏はそんな親友にいつも支えられ救われていた。彼女もまた整った顔立ちの少女で、杏と違った個性を誇る。成績も杏の次点につく彼女が、杏をはじけるような笑みで迎えた。彼女にあいさつをかわした杏は、本音を彼女だけに伝えた。

「髪、暗くしてみたの……。変かな?」

暗い夜の色に変わった髪は杏の印象を作り替えてしまった気がする。痛みのある視線は感じないものの、すこしの居心地の悪さは生まれた。いつも杏のそばにいてくれる親友に、そんな心のうちをこっそりと打ち明ける。すると親友はみんなすぐに慣れるよと伝えてくれた。彼女は、まるで真志井自身から、そして真志井の大人ぶった様から杏を守るように、敵視する。やがて杏のもとに沢山の友人が集う。HRが終われば、1限と2限授業をつぶして実力テストが行われる。そして新学期早々厳しい授業に突入する。話題はやがて、変化をみせた杏よりテストと休みのあいだの勉強成果にうつった。


夏休みの成果をためすテストを終えれば、移動教室で、杏は隣のクラスの前を通る。ロングストレートヘアで整った顔を隠した杏は、大きな窓から見える隣の様相を伺うことはない。杏の少しの選択のミスで、真志井に迷惑がかかるかもしれないからだ。開け放たれた窓から、こどもたちの生命力に満ちた声が聞こえる。そのなかから真志井の声を見つけることは、わけのないことだった。けれど杏は、杏を囲む友人たちの声に耳を澄ませた。理科の授業を終えれば午前の拘束から解放された生徒たちが、校舎に溢れている。自分だけの個性をまだみつけることができないおさないこどもたちのなかから、一足先に大人になろうとしている少年を見つけることなんて、わけがなかった。今日はまだ彼の瞳をみつめていない。頭ひとつ大きな深い黒髪がこどもたちに囲まれている姿を、教科書とノートを抱えた杏はただじっと見つめた。



二学期開始一週間のみ弁当持参を義務づけられて、自分で作った昼食を終えた杏は、友人たちに囲まれて、ミニアイロンで友人の髪を巻きながら、英語のワークを開いている親友に勉強方法のアドバイスを送る。そんな器用な休みを過ごす杏の元へ飛び込んできたのはいとおしい声だった。


「よぉ」
「あっ…」

少し声がうわずった杏は、大胆に教室に乗り込み、杏のそばで立ち止まり、教育椅子の背もたれに手をあずけた少年をみあげて、それでも友人の髪を器用に巻き続けている。

杏が彼のなまえを呼ぶよりさきに、親友がその男へ、手厳しい声をおくった。


「マーシー禁止!」
「なんだよ俺禁止って…」

杏の恋人、真志井雄彦。
真志井は杏の友人たちとも、気の置けぬ友だち関係だ。異性の友人からの厳しいじゃれあいも受け止めてみせる。

「禁止じゃないよ、マーシー、どうしたの?」

杏のそんな声をよそに、マーシー、何の用だよと親友は悪態をついてみせる。杏の机のまわりにあつまった女友達も、一様に声をそろえて真志井雄彦に抗議を行った。隣のクラスの生徒が教室に侵入したこと、そして杏とすんなり付き合わなかったこと、どうにも大人びているにもほどがある男が本当に杏をだいじにできるのか、彼女たちは口々に真志井へ遠慮ない言葉をあびせる。耳に人差し指を突っ込んだ真志井が、整った顔をわざとゆがめながら、彼女たちへ告げた。


「杏かりるぞ」
「ここで話せ!」
「おまえらがじゃまするからだろ?」

杏は、恋人と友人たちのじゃれあいを眺めながら、フランクで遠慮のない有様に、あきれたような笑みを零した。友だちに施しているヘアアレンジがそろそろできあがるころだ。コードレスヘアアイロンで友達のヘアスタイルを仕上げた杏は、真志井へ、少し性急に告げた。


「ま、まってね」
「先行くわ。ラインみて」
「そうする」


ごめんね、杏!飾らないセミロングヘアを、杏の手によってアレンジされて、愛くるしく変わった友人が、杏の目の前で両手を合わせて頭をさげた。全然大丈夫だよ。杏は爽やかな声でそう告げる。最初からラインしたらいいのに!一方で親友はそんな言葉で、憎まれ口を辞めることはない。彼女なりに杏を守ろうとしている。杏ちゃんに会いたかったんだよ。どこかうっとりした口調で真志井の背中を見送った友人もいる。スカートのポケットからiPhoneを取り出す。ロック画面には一通の通知が届いていた。

「私がちゃんとライン見てないから、さきに言いに来たんだと思う。行ってくるね」

そう告げた杏は、友人たちにうっとりと見送られながら騒がしい教室を飛び出した。



「理科準備室」

そんなメッセージを確かめた杏は、階段二階分足早に駆けて、真志井に呼ばれた場所へたどりつく。古くさいノブに手をかけて、重い扉をひく。冷気はこもらず、そのかわり夏の終わりの爽やかな風が通っている。背の高い少年が窓枠に手をかけて、くすんだ街の景色を眺めていた。


「マーシー、待ったよね」
「閉めて」
「鍵?いいの?」
「いいんだよ。午後から理科の授業ねえし」
「いいのかなー?」
「じゃまされたくねえんだよ。はやく」

真志井の声に従った杏が、レトロな錠を縦にはじき、この部屋を密室に変えた。

スマートフォンを握った杏が、わずかな間だけ立ち尽くす。
そんな彼女のことを振り向いた真志井が、窓のそばまで恋人を手招きした。素直にうなずいた杏が、狭い部屋をよこぎり、デスクと事務椅子の間をぬって、真志井のそばへ駆け寄った。


「マーシー……?どうしたの?」
「おまえこそ」
「ん?あ、カムイくん」
「カムイはいいよ」
「ジュース飲んでるね。暑いもんね」
「ほんとだな。こっち気づくかな。なあ、杏。髪どうした」
「ん?あ、気にしてくれてたんだ…」


開け放たれた窓はそのままに、真志井は窓辺から離れる。

そして、理科の教師が使うデスクに、行儀悪く腰を下ろした。デスクは清潔に片付いていて真志井が好き勝手に使うことに造作はない。

杏は真志井のそんなどこか高圧的な仕草をとがめることもなく、彼の傍に寄り添うことを選択した。杏は生真面目に事務椅子を引いて、実に礼儀に満ちた仕草で腰をおろす。

杏は、尊大なしぐさで机に座った真志井を、素直に見上げる。

そして真志井の切れ長の瞳は、真面目な気配で杏を見つめる。

事務椅子にちょこんと座ってみせれば、体格の大きな真志井を、見上げるようなさまとなる。

杏も、また彼の誠実な瞳を、まっすぐに見つめ返した。


「…ヘンかな?」
「へんじゃねえよ。きれいだ」
「ありがとう。あのね、髪のことだけど、私は誰かに染めろって言われたから暗くしたんじゃないよ?私がそうしようとおもったんだ。髪の色変えてみようって思ったの」
「そーだったか。そめろっつって強要されたのかとおもったわ」
「ちがうよ。本当だよ。マーシー、心配してくれてたんだね……。それでちゃんと話す時間作ってくれたんだ。そうだよねー、心配しちゃうよね。マーシーに言わずに染めちゃったからね」
「なんでも俺に許可取る必要なんかないよ」
「褒めてくれてありがとー。私も、マーシーが急に何か変えたら心配しちゃうかもしれないし。気持ちがわかったかも」
「髪なんだけどよ、窓のほーから見たらオリーブなんだけどさ、こーみると黒いなあ……。んで、朝見たときは、ブルーグレーに見えた。すげーわ。似合うよ」
「ありがとう……。あのね、だけどね」

机に大胆に腰を下ろし、長い足を組み上げる。そんな尊大な様の真志井は、わずかに語気尾を変えて、澄みきった顔色に少しの影をおとした杏を気遣って、穏やかな声でたずねた。

「どうした?」
「ときどき視線が痛い…かなあ……。みんなに見られてた気がする」
「だろうなあ。随分印象が違うからな」
「別にもう、みんな、私になれてるでしょ。私がでかいのも茶髪なのも。見られちゃうのは久しぶり。こういうの、167センチ越えてから、ずっとなかったの」
「へえ、そこら辺が境目なんだな」
「そう。いやな絡まれ方することもなくなった。だけど…」
「どうした。誰かに絡まれたか?どいつだ。他校のやつか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと視線が痛いね。だからヘンなのかなって思ってたの」
「大丈夫ならいいわ。けど隠すなよ。なんかあったらすぐ言ってくれ」

カムイでもラオウでもいいから。
幾度となく杏に伝えてくれる言葉を、真志井は今一度彼女に伝えた。
細い足をきちんとそろえて、事務椅子のサイドをぎゅっとつかんだ杏は、異国の少女のような顔を素直に崩して、とびきりの顔で笑って、ひどくすなおに、うなずいた。

「ありがと、マーシー。マーシーも髪、少しのびたね?」

聡明な少女の賢さはますますきわだち、暗い髪は、真志井の彼女の優しさを、愈々浮かび上がらせた。夜の色の髪は、彼女が育ててきた生命力をすこし鎮めたかわりに、彼女に、たおやかさを生んだ。

杏の尋ねた言葉にこたえぬ真志井は、彼女をまっすぐにみつめてやまない。

少し首をかしげた杏は、そのまま真志井のつくる時間を、尊ぶ。
真志井の思慮と、真志井がめぐらす観照をただ、尊重し、まもりつづける。


愛すべき少女を見つめた真志井は、抱く。

髪の色を変えようと、空気を含んでいつも跳ねていた髪が静かなものにかわろうと、彼女自身が変わることはない。

けれど、何かが露わになった気配を、真志井は見いだしてやまないのだ。

彼女は変わらない。

けれど、杏は、変わった。

変わった彼女に、変わらない彼女に見当たるものは、けして、隙ではない。

庇護欲をあおるような、抜け落ちた知性もない。

けれど、杏が秘めた、繊細さ。
そして、人間として当たり前にもつ弱さ。
彼女の守る大切なものを慎重にさがしあてて、一突きすれば、あっけなくこわれてしまいそうな華奢な心根。

オリーブとブルーと黒が混ざり合った壮麗な髪色は、彼女がひめていたそんなものを、どこからかさがしあててきた。

彼女の切なさと弱さを見つけてしまった。

それは真志井だけが見つけていたはずのものだった。


りりしいのに、壊しやすい。


杏のそんな、真実のすがたが、まるで露わになってしまったようだ。

これはすべて真志井だけが隠し持っていればよかったものだった。

杏の壊れやすい華奢な心は、真志井だけが知っているものだった。

真志井だけが守りたいものだった。


「おまえがいやがることばをいうぞ」
「えっ、何だろ、想像つかない…」
「・・・・やっぱやめとくわ」
「……マーシーがそういうなら、それを尊重する」

少し遅かったかもしれない。

真志井はなぜだか、そんな心持ちに至った。

彼女が変わってゆくことを制御することなんて出来ない。そんな資格も持たない。真志井の知性はそれをあらかじめ理解していたはずなのに、真志井に生まれたのは、確かに、わずかな後悔であった。


「気になるのも、本音だけど…」
「杏キレエだ。すげーキレエ」
「ありがとう……ほ、ほんとに不安だったの!やりすぎたかなっておもってた。そんなにじろじろみられたわけじゃないけど、いつもよりみられてたから。だけどマーシーがそう言ってくれたら、もう安心した。マーシーがわかってくれたら、もういい。髪さわってもいいよー!ちょっと乱れてるけど」
「うん」

夜の色の髪に、長い腕をのばす。事務椅子を引いた杏が、キャスターをあやつって少しだけ真志井のそばに寄る。真志井の大きな手は杏のもとへのびた。静かな夜のような髪をかき分けて、湖のような頬に忍び寄った。聡明な瞳を二度瞬かせた杏は、真志井の手と、指と、彼のまっすぐな瞳が語る声を聞く。声のない声をききあてて、真志井の心の底にたどりつく。艶やかなくちびるに、柔らかな笑みがにじみ、聡明な瞳は静かにとじられた。真志井は小さな頬に手を添えて、夜の色の髪をもつ女の子に、そっと寄り添った。

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