Night and day 12


「このソファなんつったっけ」
「マレンコだよ」


仕切りが取り払われたリビングダイニングは、コンパクトな住宅にすがすがしい開放感をもたらす。一面に敷かれた白いフローリングを、シーリングライトが穏やかに包み込んでいる。
南に向いた大きな窓はブラインドが降りていて、真志井雄彦はいつの日かこのアイデアを築数十年におよぶ自宅木造アパートにも取り入れたいと抱きながらも、それは実行に至っていない。

杏の体のなかで穏やかでいてくれる恋人のずいぶん凪いだ表情を確かめた彼女は、本音を口にする。

「このソファ、マーシーは気に入ってるみたいだけど、掃除のとき動かさなきゃいけないのー…。お母さん掃除しないし。私がしなきゃいけないんだよ!?だから下にくっついてないソファのほうがいいの」

杏のそんな小言を味わっている真志井雄彦のヒマラヤの山のように雄大な体は、雲のように愛くるしいフォルムのソファに横たえられている。

しかし、漆黒の髪がしずめられているのは、モールドウレタンの反発にすぐれたシートの上ではない。

真志井の小さな頭がしずんでいるのは、さらに柔らかいしろものだ。

涼感あふれるジャージーボトムに包まれた、杏の柔らかな腿の上である。

杏は今、洗練されたプロダクトデザインを誇るソファにしなやかな体を鎮めて、細い腿の上で、ずっと好きだった少年の小さな頭を静かに受け止めている。

所謂、膝枕といった行為だ。

丸い雲が三つ連なるようなソファはイタリアのデザイナーの手によるもので、杏の母親が自らの財力と実力をなかば顕示する如く手に入れたものだ。このソファは雲のようなルックスから一転、著しい弾力を誇る。長身の二人の体も難なく受け容れてくれる包容力をもつソファだ。

夏休みのあいだに180センチに到達した真志井の長身がゆったりおさまってあまりあるソファは、明日出張から帰ってくる母親の目をぬすみ、今は杏と、真志井のものだ。

爪をきっちり切り落とした清潔なつまさきはソックスに包まれることはなくむき出しだ。モデルのように長い足の先は肘掛けに行儀悪くあずけられている。冗談に思えるほど長い足を組み上げた真志井はダイニングから続くリビングの天井をみあげた。オレンジ色のライトは澄んだ瞳にやさしい。そんな真志井の体をそっと守る杏が、椿のように芯のある黒髪に、しなやかな指先を差し込む。

「たけえんだろうな」
「三ケタはいかない……かな。けど二ケタだったと思う」
「何ヶ月バイトしたらいいんだ……」
「……あの、言いにくいんだけど…ほら、ふたり、さっき、あっちのあの椅子に座ってあそんでたでしょ。ダイニングの」
「?おれらがあれに座るの、今に始まったことじゃないだろ。カムイとか椅子から落ちてひっくり返してたよーな気がすんだけど……」
「今まで言いにくかったけど、実はあっちのほうが、価値は……。あれ、ヴィンテージだから」

っつーことは壊したらカムイに請求いくっつーこと?

とりたてて顔色を変えぬ真志井がそう冗談めかしてみせると、杏は真顔で整った顔を左右にふった。

「ううん。お母さんは、カムイはゆるすっていってた」
「なんでおまえのお母さんおれんこと胡散臭がってんのにカムイはゆるすんだ?」
「カムイくんだからだよ。カムイが卒業するまでカムイのやったことの責任は雄彦くんがとるべきって言ってたから、マーシーだよ」
「……きつくいっとくわ…」
「じょーだんだよ、お母さんが言ってることも全部冗談。マーシー、いつでも来てね。カムイもだよ。あれいつでも使って」

長い黒髪を垂らしたままマイペースな様をあらわにする真志井が纏うのは、使い込んだTシャツで、杏を置いてカムイと岬、そして真志井で出かけたロックフェスで買い求めたものだ。そんな夏の記憶はなおざりな洗濯でごわついてゆく生地のように遠い彼方へ消え去り、真志井は、快適な冷風と心地よい腿の柔らかさを味わいながら、杏と戯れ続ける。

「今日いちんち、おまえにカムイの世話させちまったな」
「ちがうよ、もう全然違うってば。世話なんかしてないよ。むしろ私の話を、カムイに聞いてもらったんだよ。カムイくん、なんでも聴いてくれるもん」
「ならいいんだけどさ。勉強できたか?できなかっただろ」
「マーシーとカムイと一日いっしょに過ごしたくらいで落ちる高校なんて、最初から行くいみないよ」


杏のもとに舞い戻ってきた真志井の髪は、しっかりとジェルで固められていた日中から一転、さっぱりと清められて深い手触りに変わっていた。
そして高品質のドライヤーで手早く乾燥をほどこされ、ヘアゴムでかるく結われている。
そして真志井の装いといえば、日中に選んでいたブラックスタイルから、きっとそのまま寝床へ潜り込めるであろうラフなアイテムに変わっていた。

気の置けないスタイルでお互いの家を行き来できるのは同じ学区内に暮らす二人が親友同士であったころからの習慣であり、特権であった。

やがて杏への想いを確信した真志井も、真志井にずっと恋をしていた杏も、いつしかお互いの心と体を侵さぬ一線を引いた。
それぞれの心を尊びながら、心の底で想いだけを育んでいたけれど、愛情を交換することゆるしあった今、ふたたび、ありのままのすがたで時間を重ね合える二人に戻ることがかなった。

真志井のアパート前に転がっている古い自転車を飛ばせばものの二分で杏のもとにたどり着けるが、幼い自意識は、革靴で小汚いアスファルトを蹴ることを選び、杏のもとへ夜の道を悠々と歩んできた。
真志井は、少しだけぐずりながら夜の街にとどまりたがるカムイの心を丁重に取り扱いながら、少年をあるべき家に帰した。そして当の真志井も、夜勤のために母親が家を空けているアパートに戻り、行事に友人付き合いに趣味に、そして後輩に彼女に、あらゆることをやり尽くした一日の汚れと疲れを古い浴室の水流の強いシャワーでさっぱりとあらいながした。

そして、やはりこの日最後に、真志井雄彦は、あの子に会いたかった。

すこしさびしそうだったあの子に会ってやらなければと思った。

けれど、とどのつまり、真志井が杏に会いたいだけであった。喪失を強く感じたのは真志井のほうであったかもしれない。そんな本音をすがすがしく認めるには、真志井はまだ幼かった。

時間はもう日付をまたぐ手前だった。
もう一度鳴ったインターフォンにみちびかれた杏は、それがだれの手によるものか分かっていたけれど、生来の慎重さで、インターフォン越しの姿を確かめた。そして杏は玄関へ走り、恋人となった少年を出迎えた。

扉の隙間から、厚い体をすべりこませた真志井は、ハスキーな声でみずからの名を呼ぶ彼女の薄い肩に手を置き、革靴を乱暴にぬぎすてて、ふたたび我が物顔で彼女の自宅へあがりこむ。

そして彼女のしっとりとした頬に手を添えて伝える。

「なんでおまえをひとりにできるとおもうんだよ」
「カムイくんとマーシーが帰っちゃってさびしかったのばれてた?」
「ああ。おまえはさびしがりや」
「マーシーに隠し事なんかできないね。どっちかひとりだとそうでもないんだけど、三人で遊んだあとはいつもさびしかった」
「俺はカムイ帰すとほっとするけどな……。それとカレー、カレーもう一杯くう…カムイのやろー全部食いやがって」
「カムイに作ったんだからね…?それに一杯だけ残ってるから。ね、カムイは…?大丈夫かな」
「あーあいつは大丈夫だよ」
「よかった」
「おれ。おれの心配は」
「ねー、長い一日だったよね!マーシーお疲れ様……」


疲れた…。


杏の切ない肩に額をあずけた真志井の声は、途方もなく素直であった。彼の広い背中をそっと撫でた杏にできることは、もう一度お疲れ様と伝えることと、大きな体のなかに、杏の作った出汁カレーの最後の一杯があっさりと飲み込まれていった。

実にこじゃれていて実におだやかな食事で満たされた真志井は、大きな体をひきずって、イタリアのデザイナーのプロダクトの上に投げ出される。雲の上にいるようなソファを真志井はこよなく好んだ。

そしてそんな真志井に膝を貸すことを提案したのは、杏のほうだった。

真志井も素直に、杏の好意に甘えた。



「マーシーって、甘えるの下手だとおもってたの。マーシーがお母さんに迷惑かけてるところなんか一回も見たことないし…いつも誰かに何かをしてあげてるから」
「ん?親に迷惑はかけてるぞ。不良稼業だ。その分なあ。色々やんねえと…」
「うん。だから、マーシーが私に、疲れたって言ってくれてよかった。こんな膝でよかったら、私のことだって、いつだってマーシーに貸すよ」
「おれはオマエの様子見て甘えてるから。オマエから奪おうなんて思わねえよ」
「奪われたりなんか…」
「そーいやカムイ機嫌よさそーだったぞ。おまえのメシのおかげだよ」
「今までがっつり系ばっか食べさせてたけど、ああいうごはんをたべさせたほうがいいのかなあ……」

べんきょーになる……。
そう呟いた杏が、清潔な黒髪を何度もたどりながら、伊東カムイという男の子のために何が出来るか、思案にふける。すずしい目元に少しだけつまらない気配を滲ませながら真志井は彼女をたしなめる。

「カムイの話終わり」
「終わり?そうだよね、無事おうち帰ったもんね。それとー、マーシーはちゃんと疲れたっていったのに、私はさみしいってマーシーに言ってもらったね…。はずかしいけど、ちゃんと伝えなきゃ…」
「まだいたいバレてるわな…おれだけにな。今までもそうだっただろ」
「そうー。そうなの!ねえ、マーシーシャワーあびてきたの?髪さらさらだね」
「おまえのお母さんがおれのかーちゃんのたんじょーびにくれたドライヤーのおかげだ…すげえなレプロナイザー……」
「あれね、お母さんが絶対あげたいって言ってたの」

マーシーが髪のばすならあったほうがいいって。そう伝える杏の母親は、真志井の母親の一回り年下で、杏と真志井がお互いの自宅を行き来すればおのずと親同士も顔を合わせることとなり、母子家庭という同一の事情ゆえお互いへの理解を深めることに時間はかからなかった。杏の母親は聡明な娘を女で一つで育てる忙しさと引き換えに、行き届かぬことも多い。そんなときに真志井の母が、二人分の面倒を執り行うこともあった。いわゆる仕事に全振りといった様相を見せる杏の母親にくらべて、料理の腕をはじめ家事全般、真志井の母親のほうがずっと上手だ。高級なドライヤーは真志井の母親のために贈ったもので、遠慮した真志井の母が何度か突き返したものの、今となっては真志井の家に欠かせないしろものだ。

カムイも勝手に使ってるわ。真志井がそうぼやくと、杏が媚びない様で笑い転げる。さっきカムイの話終わりっていったのに。杏が笑って伝えると、真志井も穏やかに笑みをにじませた。

「このソファ貸して。ねるよおれ」
「泊まってってくれるの?ソファも充分寝れちゃうけど、私の部屋のベッドで寝ていいよー。二階あがってて。私そのあいだに、お風呂に入ってくるから」
「んー、多分おれオマエが出てきたら寝てるわ…」


我が物顔で杏の部屋へ続く階段をのぼるすがたを見送るのも、慣れた光景だった。母親が不在の日にこの家にカムイと真志井と杏で過ごすのは、けしてめずらしいことじゃなかったからだ。いつものことにすぎないからだ。真志井と寄り添っても変化のないからだを熱いお湯で洗い流し、熱い風でロングヘアをざっくりとかわかす。少しだけ涼しい夏の汗は一気に引いてゆく。お湯で洗われた杏の顔は、より濃厚に変わる。持ち前の深い顔だちは、いつもと変わらない。スマートフォンを掴んだ杏は、艶やかなブラウンヘアをざっくりとまとめて、乾いた肌のまま自室へもどる。手の中のiPhoneには学び舎を共にする女友達たちから、連絡が相次いでいる。メッセージアプリを開いて手早く言葉を返し、おやすみの挨拶をおくる。そして自室の扉を開くと、杏の好む温度に合わせた冷気がたちこめ、ダブルサイズのベッドに投げ出されているのは180センチに及ぶ長身で、穏やかに整った顔はますますおだやかで、切れ長の瞳がしずかにとじられている。


「マーシー」


ベッドサイドに放り出されたのは、ぼろぼろのiPhoneに、文庫本だ。それは真志井が杏の本棚から選んだ本で、杏が中一のころ、背伸びして読了したサリンジャーの短編集だ。ライ麦畑でつかまえてを手垢がつくほど読み返した真志井だけれど、他の作品はまだ手を出していなかった。その文庫本も、枕元に放り出されて、真志井は整った顔を枕にあずけ、マイペースな様で身をなげだし、ゆめとうつつのあわいをさまよっている。そんな恋人の無防備な姿を見遣った杏が、静かにつぶやく。


「おやすみー」
「ねてねえよ」
「知ってた。あかり、これでだいじょうぶ?まって、私もすぐマーシーの傍にいく。そのまえにスキンケア…」

きれながの眼を薄くあけた真志井が、彼女の切ない背中を見つめた。ビッグサイズのTシャツと、トラックパンツ姿という媚びぬ様だ。シンプルな部屋着は、彼女のイノセントでこびのない輝きをますます際立たせる。
真志井が横たわる清潔なシーツに、異国の街の香りと、ハーブのような香りがしみこんでいる。杏の愛用するボディクリームの香りだ。その香りを味わった真志井が静かにつぶやいた。

「カムイはここで何回も寝たよなー……」
「何回になるかなあ、憶えてる……?半分くらいけんかでボロボロで…もう半分は泊まりにきて寝ちゃって?……あと熱だしたこともあったよね?」
「あったあった。家だとやすめねえからな、あいつも」
「すきに使ってくれるほーが私もらくなの。マーシーもだからね?」
「おれは絶対に、それができなかった」
「……よかったのにー……」
「おまえにゆるしてもらえるまでな」
「えー!付き合ってないときも、ずっとゆるしてたつもりだけど?」
「許すってやつじゃねえよ?」
「んー、言いたいことは、わかる、けど…赦すってことでしょ?」
「んなことよりよ、終わっただろ。はやく」
「まってよ、全然終わってないよ、そんな簡単じゃないの」


どれ

やおら身を起こした真志井が、テーブルの上にこまごまと置かれた基礎化粧品をのぞきこむ。ヘアバンドで前髪をあげて聡明な額をあらわにした杏が、いきなり真横にあらわれた恋人の整った顔を鏡越しにあじわい、あどけない胸のなかをはずませた。


「わ!ちかい!何?気になる?これがブースター…」
「何語…?なあ髪がいいにおいする」
「んー、ヘアクリーム……。ブースターは、えーごだよ。これが先行乳液。これが化粧水。レチノールはまだ早いっていわれてる。あんたは色黒なんだから日焼け止めがだいじってお母さんが。だから年中美白美容液なんだ。全然効果ないんだけどね……。で、このアイケアだけはやれって。ここにぬるの。そのあと、この美容液いれてー、クリームでおわり。パックはー、今日は長くなるからやめた。あと、イソップのボディローション塗るの」
「なんでこんなにやんの?元がいいんだからそのままでいーだろ」
「元!?私より元がいい子、いっぱいいるじゃん……。もしも私のどこかにいいところがあるとしたら、毎日これをやってるからだよ」

はーー。

杏のベッドにもたれた真志井が、ガラステーブルの上に並べられたボトルを見遣ってお手上げと言った調子で述べた

「これも努力ってやつな」
「そう、それ。努力なんていってるうちはまだまだなんだけど」
「べんきょーになりました」

これも真志井のまだ知らなかった杏のすがただ。カムイや真志井のまえでありのままのすがたをいつも見せてくれたと抱いていたけれど、どうやらそれは杏のほんの一部にすぎなかったとみえる。杏が杏であるために、彼女は様々な積み重ねを経てここまで来ている。ステンレスのかごにつめられた化粧品を流し見た真志井は、マニフレックスのベッドの上に我が物顔で舞い戻り、枕元のiPhoneを宙空に掲げて、メッセージアプリを開く。クラスメイトからのメッセージがいくつか届くが手つかずのままで、母親から明日の帰宅時間が伝えられている。


まって、ボディクリームぬるから。少し性急な声でそう語る杏に、いいよゆっくりでと伝えた真志井は、ベッドに仰向けでよこたわったまま、母親へスタンプをひとつ送信した。そんな真志井の鼻先を、様々な香りがくすぐりはじめる。夏の間で杏の艶やかな髪はずいぶん伸びた。ロングヘアのみずみずしい毛先からやさしく薫ったのはジャスミンで、シーツから異国のバザールの香りが漂い、たった今届いたのは、ゼラニウムか。真志井の乾いた心をしずめてくれるような香りだ。


おわったよ。空気に触れている肌という肌を保湿しきった杏が、いそいそと真志井のそばにもぐりこむ。薄い夏用ケットのなかに、しなやかな体躯を誇る二人がおさまった。
真志井の腕のなかへ、杏は素直にたどりつく。ごわついたTシャツに額をあずける。長い髪ごと杏を抱く真志井が、深い声でつぶやいた。



「…いーにおいするわ…おまえのいーにおいの元これなのな…。つかおれとカムイとおまえでオールしたとき、こゆことやってたか?やってなくね?」
「ぐだぐだのときもあったよね。けどふたりの見てないところでやってましたー……。今はありのまま見せられるよ」
「そーか。おまえの努力に敬意を表するよ。あーあ、オマエのこと、こーやって抱いて寝れる日がくるなんてなー」
「…来ないって思ってた……?」
「そりゃ俺でもおもうよ。おまえ野球部のキャプテンといっしょに帰るしよ」
「蒸し返さないでー…」
「おまえが芯がつぇぇのも意志がつぇーのもしってるけどよ、それだけじゃ勝てないものもあっただろ?」
「……そう……。私が今こうやって無事に、マーシーのそばにいられるの……いろいろ運が良かっただけ…。自分の力だけなんかじゃない。それにぜんぶ、岬くんと、マーシーのおかげ…ありがとう、マーシー……」
「ああ、んなつもりで言ったんじゃねえよ。おまえが誰かにかっさらわれるまえにこーできてよかったっつーいみだ。おまえは?」
「かっさらわれないよ……。私は…必ずこういう日がくるって気持ちでいたときもあったし……こうならなくていい、このままでいいやっておもって、先に進むのを怖がってた気持ちもあったし…」


進んでよかっただろ?
よかった。よかったよーー……

消え入りそうな声が、真志井の胸のなかでくぐもったようにひびく。この夜の先の道を果たしてどう選び取るか。それは杏の寝入りの早さによって決定したようだ。


「マーシー……」
「おまえにそうよばれるのすきだ」
「そう?じゃあいっぱいよぶね……。ねー、ねむいよー…。マーシーは?疲れてるんでしょう」
「おれ睡眠みじけえもん。仮眠取ったらなんとかなる。おまえ風呂のあいだ寝てたから」
「そうなの…じゃあ、起きてていいよ……明日、私5時おきで勉強するから…」
「やっぱ勉強じゃましちまったな。わり」
「じゃまなんかじゃないの。だけど、マーシーとちがって、私はやらなきゃバカになっちゃうの。だからねます。おやすみ…」

おやすみ。あ、本読んでていいよ、私そこのライトついててもねれるから。


そう呟いた杏がマーシーの腕のなかで、あっけなく事切れた。枕元に放ってあるフラニーとゾーイーを読むかどうか、それは真志井がこれから決める。


「……」

この子から、何も奪わないと誓ったばかりだ。厚い胸のなかにおさまった杏のことを今一度かき抱き、トラックパンツに包まれた長い足を絡めとることは、奪うとはいわないだろう。その折、真志井のスマートフォンがシンプルな通知音で彼を呼ぶ。通信機器をとりあげれば、そこには二人の愛すべき後輩からのメッセージが届いている。

「真志井さんちいっていいすか……って、いいわけねえだろ。寝ろ。独りで寝る練習させねえとなあ」

ねろ。ねたら明日がくるから。

伊東カムイという少年に、彼がこの願いを理解してくれるようにと祈りをこめて、手短にメッセージを送る。
あの少年をひとりにさせたかわりに、真志井の精悍な腕のなかに、一人で夜を乗り越えることを我慢していた少女が眠っている。

真志井が守らなければならないもの、真志井が抱きたいものは、両手では抱えきれないほど、あふれている。

どの夜を選んでも、真志井雄彦の分厚いこころは少しだけ傷つき、そして少しだけ癒える。

その折、真志井の喉のおくに、腕のなかでねむる子がつくってくれたスパイシーでいて穏やかなあじわいが蘇る。儚いのにいつまでも温めてくれる味だった。

ただひとりしか守れなかった夜、ぼんやりとした明かりのなかで、到底奪えない子の穏やかな寝顔を見つめる。このうつくしい顔を見つめると真志井は思い知る。

みずからの弱さを。
自らのつよさを。

自らの優しさを信じていいことを、真志井雄彦は、思い知る。

拍手

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