Night and day 11


外灯に照らされたモダンなファサードを越えた真志井が、長い指先をインターフォンに押しつけた。
築浅のコンパクトな住宅に響いているだろう音を想像しながら、空っぽの車庫をちらりとみやる。いつもこの場所に停まっているハリアーは、今日、成田空港の駐車場にあるのだろう。そして真志井は、頑丈な扉に向き直る。

真志井の恋人の暮らすコンパクトな住宅の扉は無垢の木でできあがっていて、真志井好みの無骨な把手は彼女の母親がオーダーしたものだという。独特の長さが特徴的だ。すると、セキュリティの行き届いた扉の向こうから軽やかな足音が聞こえた。そして、デザインにすぐれた長い把手が右側に折れた。
飾り気のないゆびさきがドアを押さえる。

おもたい扉からのぞいたのは、あらいざらしの整った顔だった。
真志井が長い時間をかけて見つめ、見守り、大切にしてきた、愛すべき女の子の正直なすがただった。
彼女は、飾り気のないすはだをさらして、あどけなくわらった。

真志井に届いたのは同じマラケッシュの街のかおりではなくて、さっぱりとしたお湯のかおりだ。


「マーシー!」
「よ杏。おれを置いてメシくったな」
「まだあるってば。マーシーお疲れさま。まだ外明るいねー、今日すずしいよね、入って」
「おまえのお母さん、あさって帰ってくんだっけ」
「そうだよー、プチ一人暮らしも終わりだよ。マーシーその服、大人っぽい。似合うね」
「いつものやつだよ。たばこくせえだろ、今日はおれのじゃないからな。おまえのお母さんいない間なんかあったらすぐいえよ。カムイも使えるぞ」
「ありがとー、大丈夫だったよ。ね、ライブは?」
「やめた。音わりーし。んでメシ、どこもまずそーでさあ……」


杏が招く扉の隙間へ、逞しい体を遠慮なく滑り込ませた真志井は、清潔な玄関に起きている愛くるしい異変を知る。

深いレッドのハイカットのコンバースのそばに、履きつぶしたニューバランスのグレーのスニーカーが転がっている。いくらなんでも手入れを怠りすぎだろう。しっかりと固めていた前髪を長い指先でかきあげた真志井雄彦は、小汚いスニーカーを見つけて、あきれと慈愛の滲んだため息をついた。靴どんだけあらってねぇのよあいつ。真志井がそうこぼすと、杏も彼に似た顔でため息をこぼして笑った。


「それはおなかすいたよね」
「で、おまえのがくいたいって思った」
「う、うれしいな……マーシーにそんなこと言ってもらえるなんて。そんなにたいしたものじゃないんだけど。簡単だった」
「次おれなんかつくるわ」
「いいね、交代でやるの。だけどまたマーシーが食べたいときは私がつくるし、私が疲れたときはマーシーにたよっちゃうかもしれないし、ぐだぐだでいいと思うの」
「そーかー……」


ぐだぐだでいーのか。
いいんだよ。ちゃんと決めなくても。大丈夫、私たちなら。

オレンジ色の淡い照明に照らされる真志井の青白い肌には、傷一つ見当たらない。
それを確信した杏が心をなで下ろして、恋人となった少年をあらためて自宅へ招いた。
清潔なソックスに包まれた大きな足は28センチに及ぶ。ラグに足先を乗せた真志井が、恋人を見下ろしてたずねる。たずねたのは、小汚いスニーカーのあるじのことだ。
濃い黄昏の広がるうらぶれた街から、彼女と彼女の家族をしっかりと守り抜く家は、真志井が突っ切ってきた夜の始まりの街とはまるで正反対のムードを誇る。窓が多く明るい空間だ。夏の夕暮れの光すら適度に最高し、温かい光にみちている。高い吹き抜けも圧巻で、真志井はここから空を見上げるのがすきだけれど、あいにく夜は空を隠している。


「でカムイは?」
「ん?元気かどうかってこと?」
「俺からばっくれよーとしてるかどうかだよ」
「あーあ、バレてる……」

こういうかんじ。

廊下からすぐにつながるリビングの扉を開くと、木製の大きなスプーンをくわえたカムイは相変わらずダイニングチェアに我が物顔で居座っていて、器を抱えた少年は、真志井をみつけて大きな瞳をわざとらしく瞬かせた。


「あ」
「カームーイーくーん。何やってんの」
「真志井さん、これおれがぜんぶくうんで。おれが。マーシーさん、あっちに、いっぱいぽてちもちょこもありますよ、すきでしょ、夏ポテト」

あっちっす、あっち。

星のように大きな瞳を素直に瞬かせたカムイは、薬味をたっぷりとのせたスプーンをハート型の口のなかへつっこみ、出汁カレーと薬味のマリアージュを味わいながら、真志井を遠ざけてみせる。杏のつくったごはんをすべて独り占めする算段はどうやら本気のようだ。

イルマリタピオヴァーラのヴィンテージチェアは杏の母親の好みで、その家具の価値をしらぬ少年は、遠慮なく椅子をひいて腰を下ろし、真志井雄彦の無慈悲な手はカムイの首筋にのびた。

「マーシーさんは、すじ、すじが、」
「おまえ…先月憶えたばっかのことばをもうつかうのか」
「すじが、とおってません」
「何の筋だよ」
「マーシーも、何も食べてないんだって。だけどこれはカムイにつくったものだし。確かにカムイのいうとおり、筋はとおってないけど、マーシーにもあげよーよ」


このカレー、あったかいのより冷たいのにかけたほうがおいしいと思うの。そうしてもいい?
なんでもいいよ。カムイ、こーゆーの食えるようになったのか。
杏の気遣いにあまえた真志井は、アメリカ家具のテーブルに肘をつき、優しい味わいのカレーをかきこみ、目上の人間に大胆に反抗をみせ背を向けた男の子の華奢な首筋をいたぶったあと、豊かな髪の毛に指をさしこんだ。


「こうしてやる」
「今日セットが、せっと、髪の、うまくいったんすよ」
「やめてあげて、マーシー」
「あと五時間で今日終わるぞ」
「杏センパイはこんなことしませんでした」
「カムイいじめるなら、あげないよ」


杏がそう苦言を呈すると、真志井の獰猛な手は、あっけなくカムイを解放した。


…やめましたね……。
これがマーシーに効くね。
対面キッチンからじゃれあうカムイと杏に、うるせえと一言つげた真志井は、乱暴に椅子を引き、キッチンへまわった。


みょうがやしその妙味を生まれて初めて知ったカムイは、杏のスマートフォンのロックを我が物顔で解除し、料理のもととなったレシピをさぐりあてる真志井を、すなおなまなざしでじっと見つめる。使い込んだようなムードを湛えるアメリカ製のテーブルに、麦茶の注がれたピッチャーが鎮座し、水滴が輪をつくる。

整った顔のまえまでスマートフォンを掲げた真志井が、いやにしゃれたレシピを眺めた。

「こいつな」
「そう、このレシピ」
「出汁ってどの出汁」
「あ、もう、そこは簡単に、これでとった」

すげ。いい香り。
ねー。

はい、マーシーの。
冷たいごはんに出汁が乗せられて、杏が薬味を添えようとしたところ、その点に関して自分量にこだわった真志井は彼女の手をとめて、カムイよりさらに大胆に盛り付けた。
真志井雄彦の忠臣そして懐刀として一年半を生き抜いたカムイは、口ぶりや態度とはうらはらに、真志井が完璧な盛り付けをみせた器に手をさしだした。兄貴分に仕える弟分として、敬虔なはたらきをみせ、カムイの王が再び玉座につくまえに配膳してみせる。ふたりとおそろいの木製のスプーンを我が物顔で掴んだ真志井は、アンティークのチェアへ戻る。そして少年らしい仕草でおだやかな味わいのカレーをかきこみはじめた。


「うま」
「ね、すごいよねこのレシピ」
「うまいすよね、杏センパイすげー」
「レシピがすごいの、カムイは4杯食べたよね」
「5……」
「杏は?」
「私はもう食べたからいいや。これ出汁とカレー粉以外にめんつゆいれただけだよ」
「結局めんつゆがすべてか…」
「マーシー、めんつゆ否定派だったよね。だけどめんつゆは、すごいよ」

それと柴漬けか……。
おれ、こーゆーの食ったことなかった。けどすげーうまいんすね


生ゴミもほぼ発生せず、調理器具の後始末も実に気楽なもので、杏はこのレシピを夏のレパートリーとすることに決めた。厳しい母親も満足してくれる味だろう。母親仕込みの手際のよさでキッチンを片付けていると、ヴィンテージ家具を気ままに利用している少年たちの会話はやがて、込み入ったものと変わる。

カムイと真志井が、杏の前で、彼らの世界について語り合うことはめったにない。

つまり、このところ二人の周りで起こる出来事は、彼らにとって特別であったということだろう。


「今日あれでしょ、あいつと会ったんすか?」
「あいつじゃねえだろ?さんをつけなさい」
「そっか、そーゆーかんじに、なるんすね…」
「孫六、さんって、よべばいいんすか」
「ま、おまえがそう呼ぶのはずっと先のことだろうよ」


無尽蔵の食欲をほこる体のなかに瞬く間に静かな味わいの食事を放り込んだ男の子たちは、杏をさしおいて、どこか愉悦に満ちた会話にふけっている。この夏、彼らはどうやら、あたらしい宝物を見つけたようだ。

そんな少年たちがきれいにたべつくした器に杏がそっと手をのばすと、カムイがばつの悪い顔をみせ、真志井は短く伝えた。


「洗うよ」
「食洗機ー。このレシピほとんど食器遣わないし。大丈夫だよ、ありがとう。あっ、しゃべってるのに食洗機うるさいよね。あとにしようかな」
「うるさくないす」

手伝ってからそーゆーことはいえ。
真志井の長い腕がテーブルごしにカムイの首筋にのびる。
笑いをこらえたカムイが、実のところは非常に心地いいそれを抜け目ないようすで味わった。そして食洗機の轟音が、杏と彼らを隔てた。


「いやか、カムイは」
「……」
「まだだよ。おれらのなかにはいるのはな」
「そうなんすね…なら」
「すぐじゃないから。だけど、慣れろ」
「……」
「おれとおまえだけじゃないことに、慣れろ。いつかそれが必要になる」
「……」

洗濯してこよ。
それとなくひとりごちた杏は、使い古したタオルでしなやかな指先をぬぐって、リビングをあとにして、丁重な仕草で扉をしめた。賃貸アパートの扉を乱雑にしめる真志井の仕草と実に対照的だ。


「……せんぱいはできたかのじょっす」
「ほめたつもりか、それは」
「ほめたんすけど」
「ほめたのか。それはほめことばじゃないからな。それと杏にごちそうさまっつったか。礼はいったのか」
「せんぱい、いいって…」
「いえよ」
「言います………けど、むずかしいすね……今の、だめなんすね。おもったことを、ゆったんですけど」
「そのうちわかるよ。あの男とライン交換したぞーー。まあまあしぶられたけどな」
「……」
「カムイも登録するか?」

わがままな調子で首を振ったカムイは、静けさを感じる味付けが不可思議な感覚で胸のなかを満たしてゆく余韻を、今一度味わい続ける。
大量に買い込んだジャンクなお菓子も、今は必要としなかった。しばらく、そんな味は必要がないだろう。カムイのためにつくられたおだやかな味を味わうなんて、随分久しぶりのことだった。


「必要になったときにしたらいいよ」
「……そういう日が、くるんすね」
「おまえはどうだ、ずっとおれらだけでいいか?」
「クラスにもダチいるし、マーシーさんそつぎょうしたら、おれが…ココのてっぺん……」
「それは知ってるよ。おれたちのことだ」
「マーシーさん、こ、そ……」
「おれは歓迎だよ。ラオウを守れるならな」


その折、リビングと廊下を隔てる扉がフランクな仕草で引かれる。
カムイと真志井が音につられて扉を向けば、杏がさっぱりとした顔をのぞかせる。


「時間かかるなら、わたし上で勉強しようかな?」
「おわった。いて、杏」
「そうしていいの?」
「カムイ、今日はかえんなさい」
「そっすね、そうします。あの、杏せんぱい、ごちそーさま、でした」
「簡単だもん。ていうか私から誘ったしね。私こそ食べてくれてありがとうね」
「ごっそさん。じゃ、おれもいこ」
「マーシー、ほんとにカレー食べにきただけだね」
「やすくてうめーとこねえんからさあ……杏だけだよ…」
「ないすねー……杏センパイしかいません」
「ま、まあこれは、そこのドラストの隅にあった薬味と、カレー粉…ねぎ、冷凍してたごはんだけだからね…やすいよね、お、おいしかったかな、それはレシピがすごいだけだから」

おまえだよ。
杏せんぱいすよ。

ふたりの少年のまっすぐなまなざしに気圧された杏が、茶色い髪をいそいそと耳にかけながら、おずおずとうなずいた。


ちっぽけな心の隅っこで、ちいさなころの杏が、小さく泣いている。杏はこころのなかにすむ小さな女のことを手懐けて、向き合って、その子を愛しながらここまで育ってきた。杏のなかにすむ小さな女の子、つまり杏自身が、さっぱりとした風情で帰ってゆく男の子たち二人を見送りながら、さびしいと泣いている。
大丈夫だよ。
そんな言葉は彼ら二人じゃなくて、杏はみずからへおくる。
大丈夫。
もう一度そんな言葉をとなえた杏は、さっぱりと片付いた玄関まで、愛する男の子たち二人を見送って、軽やかに手を振った。

食洗機はいつのまにかとまっていて、彼らが使い終えた食器を棚へ戻していると、ダイニングテーブルのうえで、iPhoneが鳴った。
メッセージアプリの通知音だ。


「ん…」

乾燥した手で機器をとりあげると、それは、先ほど別れたばかりの恋人からのメッセージであった。

カムイと真志井で、彼らのこれから、そして彼らに起こった変化について長い話をするのだろうと早合点していたけれど、ものの15分程度で、杏へメッセージが送られてきた。


"帰る。"
"うん、お疲れ様。今日一日大変だったよね!おやすみ"
"じゃなくてさ"


「何がだろ…」

飴色のヴィンテージテーブルの上から、むき出しの通信機器を取り上げた杏は、数分後その言葉の真意を知ることとなる。

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